第19話 出勤先に、空がない
出勤すると、最初にパスワードの変更を求められた。
宇宙へ来て初めての業務が、それだった。
「長いのを考えたのに、記号が一個足りない」
「地上で考えてきたんですか」と美緒が聞いた。
「少しでも仕事のできる男に見せたくて」
「今の説明は、しない方がよかったな」
マコが隣で、自分の認証をさっさと終えた。
現地の窓口は笹倉さんという人だった。
俺たちが受け持つ食品評価の連絡と、施設側との調整をする。
「地上の資料、読めました。読むのは読めたんですが」
画面に出た一覧へ、俺は身を乗り出した。
一つの品目に、似た名前の欄が二つある。
片方は地上の出荷単位、もう片方はここで使う食事単位だった。
数字だけ見ると、半分が行方不明になっている。
「これ、箱を開けた後の数です。元の箱数が残ったままだと、足りなく見えます」
説明すると、笹倉さんは欄を隠さず、二つを並べた。
俺は担当と更新時刻を追記した。
地上へ聞き直す箇所も、分けて残す。
何かを救ったというほどではない。
ただ、午後に来る人が、同じところで困らなくなる。
美緒は評価区画の担当者に呼ばれた。
マコには受け渡し記録の照合が待っている。
三人で隣の席に座り続ける仕事ではなかった。
「昼、間に合ったら連絡する」とマコが言った。
俺は頷いた。
美緒にも、後で、と言う。
二人が別の方向へ消えると、急に見知らぬ職場らしくなった。
窓はなく、壁に避難経路と本日の作業予定が貼ってある。
俺は自分の名前の下にある仕事から始めた。
◇
美緒の区画へ行くには、ハッチを二つ抜けて作業区画へ戻る。
足で踏ん張らずに固定具へ身体を収める手順を、もう一度やった。
慣れた気になった頃が危ない、と地上で何度も言われたことを思い出す。
作業台は囲いのある形だった。
細かいものが外へ流れないよう、手元で回収できる。
美緒が見ていたのは、食品そのものではなく空の試験用袋だった。
縁に付けた模擬の粒が、開けた拍子に一つ動く。
美緒が止めた。
粒は囲いの中で回収された。
机も俺も汚れなかった。
それでも、彼女の顔は少し硬くなった。
「地上の試験だと、この角度では残っていたんです」
「今は離れたね」
「はい」
俺も同じ袋を使ってみた。
開く方向へ引きすぎて、持つ指を一度ずらした。
うまくいかなかった、とだけ言うと、美緒が手元を見たまま待った。
「右の指が滑った。開けようとして、袋を自分の方へ寄せた。そこで角度が変わった」
「そこ、もう一回だけ。ゆっくりでいいので」
彼女は失敗の数を減らすより、俺が何をしたか知りたいらしかった。
次は、失敗する瞬間が自分でも分かった。
終えて外すと、肩が凝っていた。
美緒が手帳を閉じる。
「持ってきてよかったです」
「この袋?」
「相沢さんの、引っかかるところを」
褒められたのか微妙だったが、彼女が記録した欄には、俺の失敗の隣に修正案ができていた。
持ってきた四十年分の中に、不器用さまで入っていた。
それも今のところ、荷物扱いされずに済んでいる。
◇
帰りの通路で、美緒が飲み物を買った。
地上なら仕事の後に自販機へ寄るだけの話だ。
ここでは、飲み終えた容器をどこへ返すかまで最初に確かめる。
二人で窓の横の椅子に座った。
「初日、お疲れさまでした」
彼女が容器を少し上げた。
俺も同じことをした。
窓の外は、さっき見た時と違う色だった。
地球の明るい部分が端へ寄り、夜の縁が見える。
美緒はすぐには話さなかった。
俺も飲み物を飲んで待った。
仕事なら何があったか聞くところだが、勤務はもう終わっている。
「さっき、少し残念そうでしたよね」と彼女が言った。
「俺?」
「私です」
自分の表情を、俺へ確かめているらしい。
「少し。でも、試験を止めてからは、考えてる顔だった」
美緒は容器のふたを指で辿った。
「宇宙へ持ってきたら、もっと良くできました、って言いたかったんです」
「初日で全部良かったら、残りの仕事がなくなるな」
「それは、嬉しいですけど」
二人で笑った。
美緒の肩が少し下がった。
作業中には見ない、小さな疲れ方だった。
「相沢さんと来られて、よかったです」
俺は容器を持ち直した。
さっきの失敗の続きだ、と考えれば、普通に返事ができる。
でも、彼女はもう袋の方を見ていない。
「俺も」
それだけ言った。
美緒は笑わず、俺の目を見て、はい、と答えた。
返却口へ向かう途中、二人とも手すりを辿るのが少し遅くなった。




