第17話 行き先は、窓の外
出発の朝、指定された本人確認書類を出した。
写真には、見慣れた四十歳の俺がいる。今朝の俺より、少しだけよく眠れた顔だった。
担当者が名前と生年月日を確かめる。俺も声に出して答えた。
最終連絡には、三人とも担当範囲の訓練と最終評価を終え、搭乗許可を得たとある。
その一文を、待合室でもう一度読んだ。
今日は、三人ともここから先へ行ける。そう思って二人を見ると、美緒も顔を上げた。
出発が十週間延びた分、怖がる時間まで伸びたと思っていた。でも、最後の朝に何を持つか迷わず済むくらいには、準備が進んでいた。
美緒は鞄の留め具を確かめ、マコは預けた荷物の番号を見ている。
俺も自分の番号を見た。ほかの二人を見ているだけで、確認した気になるのは危ない。
「会社から?」
美緒が俺のスマートフォンを見た。
「地上側で受け入れの一覧を確認したって。今度は、俺抜きで」
「こちらも、最後の引き継ぎを受け取ったそうです」
彼女の画面にも短い返事があった。
俺たちがいなくなる場所で、もう仕事が動き始めている。
マコが立った。
「呼ばれたぞ」
俺はスマートフォンをしまった。
部長からの最後の連絡は、頑張れではなかった。
『着いたら、まず休め。仕事は指示された時間からだ』
出張先が宇宙になっても、勤怠の話からは逃げられない。
俺は笑って、二人についていった。
◇
座席へ身体を収めると、留め具の金具が冷たかった。
搭乗許可まで来たのに、機内の音が大きくなると、やっぱり怖い。
俺が触っていいものは、何か月もかけて習った範囲だけだ。前の席には運航を担当する人がいて、俺の不安で操縦席が空くわけではない。
手の届く場所を確かめ、背中をつけた。
美緒が俺の方を見た。頷くと、彼女も頷いた。
マコは向こうの席で、声を出さずに口を動かした。
たぶん、飯、と言った。
帰ったら食べる約束を思い出し、俺は一度長く息を吐いた。
身体が押される。
怖さを面白い感想へ変える余裕はなかった。声の指示を聞き、自分の状態を返す。それで精いっぱいだった。
いつの間にか、身体の押され方が変わった。
運航担当から声がかかり、許可された範囲で窓を見られるようになった。
俺は首を回した。
青いものがあった。
写真で何度も見たはずなのに、最初は地球だという言葉が出てこなかった。
丸い縁の向こうは暗い。雲が薄く重なり、その下に、地図とは違う広さで陸がある。
俺たちは、ちゃんと地球を離れた。
誰かに報告するためではなく、自分に分からせるために、俺は頭の中でそう言った。
「……見えてます?」
美緒の声がした。
「見えてる」
返事をしてから、彼女の目も窓に向いていると気づいた。
これだけのものを、二人とも見えているのか確かめたかったらしい。
俺は窓から目を離せなかった。
四十年間の住所が、あの青いところの中にある。
もう、出張届の備考欄を広げただけの話ではなかった。
◇
到着して最初に困ったのは、鞄の持ち方だった。
床へ置いたつもりの荷物が、思ったところに留まらない。
固定する場所を教えてもらい、身体を進める。訓練で見た手すりが、今は本物の壁に付いていた。
マコが先に曲がり、美緒が後からついてくる。三人とも慌てないようにしていて、そのせいでひどくぎこちない。
「テレビなら、ここは格好よく入るところだよな」
俺が言うと、マコは肩を揺らした。
「テレビじゃなくてよかったな」
笑うと姿勢が少しずれた。俺は笑いを止め、手すりを持ち直した。
区画の入口で、担当者が名札を確かめた。
「ようこそ。まず、今夜の食事を確認しましょう」
宇宙へ来た最初の案内が飯であることに、俺はかなり安心した。
食品の受け取り場所と、今日の休息の時間を聞く。持っていく袋は全部同じ棚にあるわけではないらしい。
食堂側の端末に、見慣れた品目名が並んでいた。
美緒が、一つだけ指で辿る。
「ありました」
彼女が開発に関わった食品だった。
俺たちより前から、あれはここで食べられていたのだ。
マコは受け取り用の控えを見て、小さく頷いた。俺は鞄にしまった手帳の場所を確かめる。
窓の外に地球がある。手元には食品の一覧がある。
両方とも本物だった。
その一覧の下の方に、名前ではなく短いコードで指定された受け取り先があった。
地上で見たものと同じ表記だ。
俺は一度だけ、その行を見直した。
遠かった食卓のそばまで来たのかもしれない。
今夜はまず、自分たちの飯を食べる。
誰の食事があのコードの向こうにあるのかは、まだ知らなかった。




