第16話 いつもの席の、最終日
延期期間が八週目に入った頃、俺と美緒の席は、ほかの人でも使えるようになっていた。
美緒は必要な訓練と担当業務の評価を一つずつ終えていた。まだ足りない項目が出るたび予定を直し、ようやく医療側の最終確認へ進むところだ。
俺も資格の更新を済ませた。修了したから一生有効、というものではなかった。
昼休み、部長が俺の社員証を見た。
「次にここへ来る時、席を間違えるなよ」
「戻ったら、まず場所を聞きます」
「今も、聞いていいんだぞ」
二人で笑った。俺たちの業務は地上担当へ引き継ぎ、残る二週間は最終評価と搭乗前の準備に充てる。
今日で会社を辞めるわけではない。それでも、この机へ毎朝来る生活には、一度区切りがつく。
美緒は机を拭き、引き出しの端に残ったクリップを取った。
「何か忘れた気がします」
「残して困るものは、だいたい片付いたと思う」
「相沢さんの感想待ちが、一つ」
最後の試食品が、まだ冷蔵庫にあるらしかった。
俺たちは仕事を増やすためではなく、それを食べるために試食室へ向かった。
◇
土曜日、マコと衣料品店へ入った。
荷物の上限があるので、何着も買うつもりはなかった。洗い替えに使える服を、一つずつ見る。
マコは、肩の落ちる上着を持ち上げた。裾は長く、背中や腰の線も出にくそうだった。
「こういうの、今のと同じだな」
「同じ方が落ち着く」
「せっかくだから変えるのかと思った」
「変えたいところと、変えたくないところがある」
鏡の前で、マコが上着を身体へ当てる。服の隙間から見える手首が細い。
そこを意識した自分に気づいて、俺は鏡から目を逸らした。マコは何も言わず、ハンガーを戻した。
「業務の評価、終わったよ。同じ便で準備、進める」
「うん」
「荷物は、自分の分だからな」
マコは照れたように笑い、俺が持っていたハンガーを取った。
一緒に行くことと、俺の分まで持つことは別らしかった。
店を出る前、マコが俺の襟を直そうとして手を止めた。
「直していい?」
「いいよ」
指が首の近くへ来た。布だけをつまんだはずなのに、俺は少し顎を上げた。
「向こうでも、呼び方はそのまま?」
マコが聞いた。
「マコはマコだろ」
俺が答えると、指が止まった。
「……そっか」
声が柔らかかった。何がそんなに嬉しかったのか、聞けば分かったのかもしれない。
俺はまだ、その質問を服の襟と一緒に整えることができなかった。
◇
夕方、鞄を開いて荷物を並べた。
着替え。充電器。指定された書類。搭乗前の宿泊に使うもの。
宇宙へ持っていく荷物は別に確認を受ける。全部を今日の鞄へ詰めればいいわけではなかった。
引き出しから筆箱を出す。
出張鞄には、いつものシャープペンシルを入れた。
芯を直したやつだ。消しゴムは短い。あと十年使えるかは分からないが、今回の出張なら問題ない。
一通だけ、追加の連絡が来た。
名前のない食事の感想を送ってきた窓口から、次の評価便でも同じ香りの食品を希望するという。
俺は地上側の担当へ転送し、美緒にも、返事の窓口はつながっていると知らせた。
『ありがとうございます。楽しみにしてくれてるんですね』
彼女の返事を読んでから画面を閉じた。
どんな人が待っているのか、まだ知らない。
宇宙へ行く準備をしても、世界の分からないことが全部片付くわけではないらしかった。
寝る前に、玄関へ靴を揃えた。
マコと選んだ靴は、半年以上使った分だけ足に馴染んでいる。紐の片方に小さな傷があった。
知らない場所でも、馴染んだ靴から始める。
それくらいでいい。
布団へ入ると、美緒から短い連絡が来た。
『明日、施設で。おやすみなさい』
俺も同じ言葉を返した。
寝つけるか心配だったのに、途中から何を考えていたか覚えていない。普通の一日は、普通に眠って終わった。




