第15話 署名のあとに、一口
出張の確認書は、一枚ではなかった。
勤務する区画と、してよい仕事。体調を崩した時の連絡先。滞在中の休日。帰る便が変更になった場合の扱い。
俺は一度、紙の束を揃えた。
「備考欄が広いだけじゃ済まないですね」
部長は、だから先に読めと言っただろう、と答えた。
半年かけた訓練の割に、最後は会社の机で紙を読むのだと思った。だが、ここを読まずに向こうへ行くのも怖い。
「現地で、人手が足りなかったら」
「連絡と記録の業務は調整する。運航や医療まで引き受けろ、という意味ではない」
「できないものは、できないと?」
「できるものまで断れとは言っていない」
なかなか、都合のいい答えだけはもらえなかった。
医療側から残っていた二つの確認は、別の日に終えている。その結果も含めて最終評価へ回す。今日の署名だけで、搭乗許可が出るわけではない。
俺はそこへ小さく線を引いた。
会社命令で候補になったことと、この条件を自分で読んで受けることは、少し違う。
分からない欄が二つあった。部長も一つはその場で答えられず、受け入れ先へ確認を出した。
俺たちは、返事が来るまで昼飯を食べた。
午後、追加の説明を読んだ。帰還が延びた時も、休みをなかったことにはしない。その連絡を、俺から地上の連絡先へしてよい範囲も確認した。
もう一度、表紙へ戻る。
俺は、自分の名前を書いた。
字はいつも通り少し右へ傾いた。宇宙向けの署名を練習しておけばよかった、とは思わなかった。
いつもの字でいい。
この紙を読んだのは、いつもの俺だった。
◇
帰り道で、数日分の食事を買った。
出発直前に全部買い込むと、食べ残す。冷蔵庫の奥に、賞味期限を見失ったものも残したくなかった。
一つだけ、見覚えのない容器があった。
蓋を開ける勇気はなく、片付けた。
宇宙へ行く前に、台所で勇気を使い切る必要はない。
マコから連絡が来た。
『今、話せる?』
電話をかけると、向こうで紙をめくる音がした。
「会社の確認書、出したよ」と俺は言った。
「そっか」
「そっちは?」
「自分の業務の評価が、もう一個。終わってから」
俺が名前を書いても、マコの返事まで決まるわけではない。その余白を、勝手に埋めずにいられた。
「お前、会社の書類でも腹減ったって顔する?」
「顔までは、電話じゃ見えないだろ」
「今、口がちょっと開いてる」
俺は口を閉じた。
向こうでマコが笑った。長年の付き合いというのは、あまり便利でない時もある。
電話を切り、確認書の控えを机へ置いた。
決めたら怖くなくなるものだと思っていた。
冷蔵庫の音がやけに大きい部屋で、俺は夕飯を温めた。怖いままでも、腹は減るらしかった。
◇
美緒と入った店は、駅の裏の小さな定食屋だった。
「私も、現地担当の準備を進めることにしました」
味噌汁の蓋を取ってから、美緒が言った。
「怖くない?」
「怖いです。説明を聞いて、少し違う種類になりましたけど」
どんな種類、と聞くか迷った。彼女は、身体を固定した姿勢で作業する時、自分の手をいつも通り使えるか気になる、と自分から話した。
「料理する時の?」
「それもです」
それ以上は続かなかった。
俺は自分の検査の話をした。握る強さを測る時、張り切って二回目の方が悪かった話だ。
美緒が小さく笑う。その拍子に、袖口が卓上の水へ寄った。
反射的に手を伸ばしかけて、止めた。
「袖、濡れそう」
彼女は自分で腕を引いた。
「ありがとうございます」
少ししてから、美緒が箸を置いた。
「触る時は、先に言ってもらえると助かります」
「分かった」
俺が聞かなかったことまで、彼女に説明してもらう必要はない。
美緒は箸を取り直し、一口食べた。それから、揚げ物の衣が思ったより薄いですね、と言った。
話を戻していいのだと分かった。
俺も一口食べた。
「俺は、このくらいが好きだな」
「私もです」
その短い一致が、署名した書類より身近に感じた。
店を出る時、美緒が席を立つのを見て、俺は先回りして手を出さなかった。それでも、駅まで歩く距離は来た時より近く感じた。




