第9話 手
翌朝。
教室へ入ると、澪はもう席にいた。
真帆と話していた澪が、悠真に気づいて手を上げる。
「おはよ」
「おはよう」
悠真も返して、自分の席へ向かった。
昨日までと何も変わらない。
鞄を置き、椅子を引く。
付き合った翌日というものに、もう少し何かあるのかと思っていた。
何があると思っていたのかは、自分でも分からない。
「普通だな」
隣の席から颯太が言った。
悠真は振り向く。
「何が」
「お前ら」
颯太が澪の方を顎で示す。
「何を期待してたんだよ」
「もっとこう、目が合っただけで黙るとか」
「しないだろ」
颯太は机に肘をついた。
「じゃあ昨日と何が変わったの?」
悠真は少し考える。
「知らない」
「付き合って一日目の答えがそれでいいの?」
「一日目だから知らないんだろ」
颯太も少し考えた。
「それもそうか」
「納得するんだ」
「筋は通ってる」
そんなところだけ素直だった。
◇
放課後。
悠真と澪は、いつもの道を駅へ向かっていた。
昨日までと同じように並んで歩く。
話していることも大して変わらない。
購買に新しく入ったパンが微妙だったとか、次の数学は小テストがあるとか。
昼休みに颯太が牛乳を二本飲んでいた話になったところで、澪が言った。
「牛乳って二本いる?」
「知らない。本人に聞けよ」
「佐倉の友達でしょ」
「高梨も普通に話してるじゃん」
澪は少し考えた。
「でも、牛乳を二本飲む理由まで聞けるほど仲良くない」
「俺も聞きたくないよ」
澪が笑った。
「じゃあ誰も分かんないじゃん」
「颯太だけ分かってればいいだろ」
付き合ったからといって、会話まで急に変わるわけではないらしい。
その方が、悠真には楽だった。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
歩いている時。
信号を待っている時。
会話が途切れた時。
悠真は何度か、隣にある澪の手を見た。
見るたびに、何事もなかったように前を向く。
昨日までは気にしたこともなかった。
同じ手なのに、付き合ったというだけで急に扱いが分からなくなる。
我ながら面倒だった。
駅が近づくにつれて、人が増えてきた。
駅前の横断歩道には、いつもより多くの人が信号待ちをしている。
澪が辺りを見回した。
「今日多くない?」
「なんかあったのかな」
「知らない」
信号が青になる。
人の流れが一斉に動き出した。
悠真と澪も歩き出す。
前から来た人を避けた拍子に、二人の間へ別の人が入り込んだ。
悠真が少し先へ出る。
その時、制服の袖を引かれた。
振り返る。
澪が悠真の袖をつかんでいた。
「何?」
「はぐれそうだった」
「まだ見えてるだろ」
「見えてても間に人入るじゃん」
澪は袖を離さない。
歩くたびに、右腕だけ少し後ろへ引かれる。
悠真は二度ほどそのまま歩いた。
「これ歩きづらい」
澪が袖を見た。
「じゃあ離す?」
指が緩む。
悠真はその手を見る。
「いや」
澪が顔を上げる。
「どっち」
「袖じゃなければいい」
悠真は右手を少し開いた。
それで意味は伝わったらしい。
澪は一度その手を見てから、何も言わずに取った。
手のひらが触れる。
悠真は前を向いた。
握り方が分からない。
ただ重ねているだけだと、そのうち離れそうだった。
少しだけ指に力を入れる。
すると、澪も同じくらいの力で握り返した。
澪がつないだ手を見た。
「これなら歩きやすい?」
「さっきよりは」
「そっか」
それ以上、澪は何も言わなかった。
悠真も言わなかった。
横断歩道を渡り切る。
人の流れがばらけていく。
もう、はぐれるほどではない。
悠真はそれに気づいていた。
たぶん澪も気づいている。
それでも、手はそのままだった。
少し歩いてから、澪が口を開いた。
「佐倉」
「何」
「さっきまで何の話してたっけ」
悠真は少し考える。
「牛乳」
「ああ」
「颯太が二本飲んでた話」
澪が前を向く。
「どうでもいいね」
「最初からどうでもよかっただろ」
「確かに」
澪が笑う。
悠真も笑った。
その間も、手は離れなかった。
駅が見えてきたところで、澪がつないだ手を少し持ち上げた。
「これ、いつまで?」
悠真も手を見る。
「駅まででよくない?」
澪が前を見る。
「……近いね」
「何が」
「駅」
悠真も前を見る。
確かに、もう改札の屋根が見えている。
「そうだな」
それから二人とも、少しだけ歩くのが遅くなった。




