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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第9話 椿の花を置いた人

 古い封筒は、帳場の明かりの下で、時間そのもののように沈黙していた。


 椿屋の女将、佐伯ふみは、それにすぐ触れることができなかった。


 帳場の格子窓の向こうでは、雨上がりの温泉街がしんと濡れている。軒先から落ちる雫の音が、ぽたり、ぽたりと聞こえた。


 その音の間に、椿の香りが混じっていた。


 濃い。


 まるで、誰かが見えない手で香りだけを帳場に置いていったようだった。


『沙織さんへ』


 封筒の表に書かれた文字は、かすれている。


 けれど、ふみには分かった。


 宗一の字だった。


 不器用で、まっすぐで、少し右上がりになる癖のある字。


 椿屋の板場で、注文書や仕込み表に何度も見た字。


 そしてその下に、小さく別の筆跡で添えられている。


『渡せなかった手紙』


 その一文が、ふみの胸を強く押した。


「……どうして、今」


 声は、自分でも驚くほど小さかった。


 ふみは封筒を手に取ろうとして、指を止める。


 これは、自分が開けていいものではない。


 沙織宛てだ。


 けれど、帳場に置かれていた。


 誰が。


 いつ。


 何のために。


 階段の奥で床板が鳴った。


 ふみは顔を上げる。


 仲居の美奈が、廊下の向こうに立っていた。


 若い顔に、明らかな怯えが浮かんでいる。


「女将さん……?」


「美奈さん。あなた、今ここに来た?」


「いえ、私は……お客様のお布団を確認していて」


 美奈の声は震えていた。


 ふみは封筒を見た。


 美奈の目も、そこへ吸い寄せられる。


「それ……」


「知っているの?」


 ふみが尋ねると、美奈は慌てて首を振った。


「知りません。私、そんなの……」


 言いながら、視線が泳いだ。


 ふみは長年、人を迎え、人を送り、帳場に立ってきた。


 嘘そのものを見抜けるわけではない。


 けれど、言葉と表情がずれる瞬間は分かる。


 今の美奈は、何かを知っている。


 少なくとも、何かに心当たりがある。


「美奈さん」


 ふみが静かに呼ぶと、美奈はびくりと肩を揺らした。


「はい」


「あなた、何か私に言うことはない?」


 美奈は唇を噛んだ。


 雨上がりの静けさが、帳場に落ちる。


 そのとき、玄関の引き戸が控えめに叩かれた。


 ふみははっとして顔を向ける。


「こんな時間に……」


 戸を開けると、そこに立っていたのは湯守透真だった。


 傘を持ち、濡れた石畳の匂いをまとっている。


「こんばんは」


「透真くん……」


 ふみは思わず安堵した。


 高校生に頼るようなことではない。


 それは分かっている。


 分かっているのに、今この瞬間、彼が来たことに救われた気がした。


「遅くにすみません。椿の匂いが、湯守屋のほうまで流れてきたので」


 相変わらず、理由が普通ではない。


 けれど今は、その普通ではなさがありがたかった。


 透真の視線が、帳場の上の封筒に止まる。


 彼の表情が、わずかに変わった。


「それは」


「今、帳場に置かれていたの」


「誰が置いたかは?」


「分からないわ」


 美奈が廊下の奥で小さく身じろぎした。


 透真はちらりとそちらを見る。


 それだけで、美奈は目を伏せた。


「朝比奈さんは?」


「お部屋よ。沙織さんと一緒にいると思う」


「呼ばないほうがいいですね」


「ええ。今はまだ」


 ふみは封筒を見つめた。


「これは、沙織さん宛てのものだから」


「開けていないんですね」


「開けられないわ」


「正しいと思います」


 透真はそう言うと、封筒に触れない距離まで近づいた。


 顔を近づけすぎるでもなく、ただ静かに空気を確かめるように立つ。


 ふみはその様子を見ながら、湯守の血だと思った。


 千鶴の孫。


 あの女将と同じように、必要なところだけを見て、踏み込みすぎない顔をしている。


 しばらくして、透真が言った。


「椿油。古い紙。煙草。あと、静屋の奥にあった匂いと似ています」


「静屋……お静さん?」


「はい」


 ふみの表情が重くなる。


「やはり、あの人なの」


「手紙については、可能性が高いです」


「花は?」


 透真は少しだけ美奈を見る。


「まだ断定できません」


 美奈の肩が、目に見えてこわばった。


 ふみは、それを見逃せなかった。


 透真は続ける。


「今夜、見張ったほうがいいと思います」


「見張る?」


「花を置く人間がいるなら、また動く可能性があります。手紙が出たことで、今夜は特に」


 ふみは迷った。


 高校生にそんなことを頼んでいいはずがない。


 けれど、警察を呼ぶようなことでもない。呼べば椿屋の噂は決定的に広がる。客は離れる。宿は、もう耐えられないかもしれない。


 ふみは自分が嫌になった。


 宿を守ることを考えるあまり、判断が鈍っている。


 透真は、その迷いを見て取ったように言った。


「危ないことはしません。誰かがいたら、声をかけるだけです」


「でも」


「それでも心配なら、僕の祖母に連絡してください。たぶん怒られますが」


「私が?」


「僕が」


 ふみは思わず笑いそうになった。


 こんな時なのに。


「千鶴さんに怒られるのは、少し怖いわね」


「僕も怖いです」


 透真が真顔で言うので、ふみは今度こそ小さく笑った。


 廊下の奥で、美奈が唇を噛んでいた。


 その夜、朝比奈澪は部屋で母と向き合っていた。


 雨は上がったが、窓の外の椿はまだ濡れている。


 沙織は布団の上に座り、膝に薄い毛布をかけていた。顔色は悪くない。けれど、疲れているのは分かった。


「澪」


「うん」


「さっきの話、続きは明日にしましょう」


 沙織が静かに言った。


 澪は少しだけ迷って、うなずいた。


「分かった」


 言いたいことは、まだ山ほどある。


 宗一のこと。


 手紙のこと。


 この町に来た本当の理由。


 でも、母が今、ようやく話し始めようとしていることも分かる。


 無理にこじ開けたら、また何かが壊れる気がした。


「ただ、一つだけ聞いていい?」


「何?」


「お母さんは、この町に来たこと、後悔してる?」


 沙織は少し驚いた顔をした。


 それから、窓の外を見た。


 濡れた椿。


 湯気。


 古い旅館の静けさ。


「していないわ」


「本当に?」


「ええ。怖いこともあるし、あなたに心配もかけてしまったけれど……来なければ、もっと後悔していたと思う」


 澪は、少しだけ胸の奥がほどけるのを感じた。


「そっか」


「澪は?」


「え?」


「この町に来たこと、嫌?」


 澪はすぐには答えられなかった。


 学校を変わった。


 知らない町に来た。


 夜中に椿の花が湯船に浮かぶ旅館に泊まっている。


 普通に考えれば、嫌なことだらけだ。


 でも。


 芽衣がいる。


 杏がいる。


 蓮の軽口がある。


 そして、湯守透真がいる。


 面倒くさくて、妙に正確で、時々とても静かに優しい、あの変な男子が。


「まだ分かんない」


 澪は正直に言った。


「でも、全部嫌ってわけじゃない」


 沙織は少し安心したように笑った。


「そう」


 その時、廊下の向こうで微かな足音がした。


 澪は顔を上げる。


 沙織も気づいた。


 椿の香りが、ふっと濃くなる。


 澪の背中に緊張が走った。


「お母さん、部屋にいて」


「澪?」


「ちょっとだけ見てくる」


「待ちなさい」


 沙織が止めるより早く、澪は立ち上がった。


 部屋の障子を少し開ける。


 廊下は薄暗い。


 非常灯の淡い緑が、古い床板に滲んでいる。


 浴場へ続く角の向こうで、何かが動いたように見えた。


 人影。


 澪は息を殺した。


 その瞬間、横から小さな声がした。


「朝比奈さん」


 澪は飛び上がりそうになった。


 振り返ると、廊下の反対側に透真が立っていた。


「な、何でいるの」


「見張り」


「見張りって」


「声が大きい」


「あ、ごめん」


 澪は慌てて声を落とす。


「女将さんに許可は取ってるの?」


「取ってる」


「私には?」


「今、取る。来る?」


「来る」


「即答は危ない」


「置いていかれるほうが怖い」


 透真は一瞬考えた。


「分かった。でも、僕より前に出ない」


「分かった」


「大きな音を立てない」


「分かった」


「怖くなったら戻る」


「分かったってば」


「返事が雑になると危ない」


「今それ言う?」


 澪は小声で怒った。


 けれど、そのやり取りで少しだけ心拍が落ち着いた。


 二人は廊下の隅に身を寄せ、浴場へ続く角を見張った。


 古い旅館の夜は、音が多い。


 雨上がりの水滴が軒先から落ちる音。


 湯の流れる音。


 柱が小さく鳴る音。


 遠くで誰かが戸を閉める音。


 そして、足音。


 かすかに、確かに、浴場のほうへ向かう足音があった。


 澪は、透真の袖を掴みかけて、寸前で止めた。


 それでも透真は気づいたらしい。


 小さく言う。


「大丈夫」


「根拠は?」


「僕がいる」


 澪は思わず横を見た。


 暗がりのせいで表情はよく見えない。


 でも、透真が言ったあとに少しだけ気まずそうに視線を逸らしたのは分かった。


「今の、ちょっと格好つけた?」


「忘れて」


「記録しておく」


「それは困る」


 こんな時に笑いそうになった。


 けれど、次の瞬間、浴場の前に人影が現れた。


 小柄な影。


 手には何かを持っている。


 赤い。


 椿の花だった。


 人影は周囲を確認し、女湯の暖簾の前で立ち止まる。


 澪は息を呑んだ。


 透真が一歩前に出る。


「こんばんは」


 人影がびくりと震えた。


 手から椿の花が一輪、床に落ちる。


 非常灯の光に照らされた顔は、仲居の美奈だった。


「美奈さん……」


 澪の声がこぼれた。


 美奈は顔を真っ青にしていた。


 髪は少し乱れ、仕事用の着物の上に羽織をかけている。手には、まだ数輪の椿が握られていた。雨上がりの中庭から摘んできたのだろう。花びらには水滴がついていた。


「ち、違うんです」


 美奈は震える声で言った。


「違うんです、私……」


 透真は花を見た。


「中庭の椿ですね」


 美奈の目に涙が浮かんだ。


「ごめんなさい」


 それは、誰に向けた謝罪なのか分からなかった。


 廊下の奥から、ふみが駆けつけてきた。


「美奈さん」


 その声は厳しかった。


 けれど、怒鳴ることはできない声でもあった。


 美奈はその場に膝をついた。


 手の中の椿が、床に落ちる。


 赤い花が、夜の廊下に散らばった。


「ごめんなさい、女将さん……私、私……」


 ふみは立ち尽くした。


 澪は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 美奈が花を置いていた。


 母を怖がらせた。


 椿屋を騒がせた。


 学校で噂になり、澪は好奇の視線にさらされた。


 怒りが、自然に湧いた。


「何で」


 澪は言った。


 自分でも驚くほど低い声だった。


「何でこんなことしたんですか」


 美奈は顔を上げられなかった。


「ごめんなさい」


「謝るだけじゃ分かりません」


「澪ちゃん」


 ふみが止めるように名前を呼ぶ。


 でも、澪は止まれなかった。


「うちの母、怖がってたんです。体調だってよくないのに。何で、そんなこと」


 美奈は泣きながら首を振った。


「怖がらせるつもりじゃ……」


「怖がるに決まってるじゃないですか!」


 声が廊下に響いた。


 自分でも大きすぎたと思った。


 けれど、引っ込められなかった。


 美奈は肩を震わせていた。


 透真が静かに言った。


「場所を変えましょう。客が起きます」


 その言葉で、ふみがはっとした。


「そうね。美奈さん、立てる?」


 美奈はうなずいたが、立てなかった。


 ふみが支えようとする前に、澪は一歩近づいた。


 一瞬、ためらう。


 でも、手を貸した。


 怒っている。


 許せない。


 それでも、美奈の手は冷たく震えていた。


 その震えを無視することはできなかった。


 四人は、帳場奥の小さな応接間に移動した。


 ふみが明かりをつける。


 古いテーブルを挟んで、美奈は椅子に座った。


 澪はその向かいに立っていたが、透真に「座ったほうがいい」と言われて、渋々腰を下ろした。


 ふみは立ったまま、美奈を見ている。


「美奈さん」


 声は静かだった。


「話して」


 美奈は膝の上で手を握りしめた。


 しばらく、言葉が出てこなかった。


 やがて、途切れ途切れに話し始めた。


「辞めたかったんです」


 ふみの顔が揺れた。


「椿屋を?」


「はい」


「どうして言ってくれなかったの」


「言えませんでした」


 美奈は泣いていた。


「女将さんにはお世話になりました。母が倒れた時も、休ませてくれて。私、ここで働かせてもらって、本当に助かって。だから、辞めたいなんて、言えなくて」


 ふみは何も言えなかった。


 美奈の声は続く。


「でも、給料も遅れてて……家にもお金入れないといけなくて。町の外のホテルから声をかけてもらって。そっちは寮もあって、給料もちゃんと出るって」


 ふみの顔が白くなった。


 澪は、言葉を失った。


 椿屋が苦しいことは分かっていた。


 でも、そこで働く人の生活まで、想像できていなかった。


「言えばよかったじゃないですか」


 澪が言うと、美奈は涙を拭った。


「言えなかったんです。私が裏切るみたいで」


「だから、幽霊騒ぎを起こしたんですか」


 美奈はうつむいた。


「最初は、本当に一輪だけでした」


「最初?」


「廊下に、花びらを落としました。椿屋には昔から幽霊の話があるから……噂になれば、お客さんが減って、宿が閉まるかもしれないって」


 ふみが息を詰める。


 美奈は震えながら続けた。


「宿が閉まれば、私が辞める理由を作らなくて済むと思ったんです。女将さんに、私から辞めたいって言わなくて済むと思って」


「そんな」


 ふみの声は、怒りよりも悲しみに近かった。


「そんな理由で、宿を……」


「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」


 美奈は何度も頭を下げた。


 澪は怒っていた。


 けれど、その怒りの形が少し変わっていた。


 美奈は悪い。


 それは間違いない。


 母を怖がらせたことも、椿屋を傷つけたことも、許されることではない。


 でも、美奈の涙の中には、ただの悪意ではないものがあった。


 追い詰められた人間の、弱さ。


 その弱さが、澪には少しだけ苦しかった。


 ふみは椅子に座った。


 急に力が抜けたようだった。


「私が、言わせなかったのね」


「違います、女将さん。私が勝手に」


「違わないわ」


 ふみは小さく首を振った。


「椿屋を守ることばかり考えて、働いてくれる人のことを見ているつもりで、見えていなかった」


「女将さん……」


「でも」


 ふみは顔を上げた。


 その目には、女将としての厳しさが戻っていた。


「だからといって、お客様を怖がらせていい理由にはならないわ」


 美奈は泣きながらうなずいた。


「はい」


「沙織さんにも、澪ちゃんにも、謝らなくてはいけない」


「はい」


 美奈は澪のほうを向いた。


 椅子から立ち上がろうとして、うまく立てず、座ったまま深く頭を下げた。


「本当に、ごめんなさい。お母様を怖がらせるつもりじゃありませんでした。でも、結果的に怖がらせました。ごめんなさい」


 澪は、すぐには返事ができなかった。


 許します、とは言えない。


 でも、謝られても困ります、とも言えない。


 だから正直に言った。


「今は、まだ怒ってます」


 美奈はうなずいた。


「はい」


「でも、謝ってくれたことは……聞きました」


 それが精一杯だった。


 美奈はまた泣いた。


 透真はここまで、ほとんど口を挟まなかった。


 けれど、そこで静かに言った。


「椿油は、あなたじゃないですね」


 美奈が顔を上げた。


「え?」


「浴場の鏡台にあった椿油の小瓶。帳場に置かれた手紙。あれは美奈さんではない」


 ふみも澪も、透真を見る。


 美奈は涙で濡れた顔のまま、何度も首を振った。


「違います。私じゃありません。私がしたのは、椿の花を置いたことだけです」


「最初の椿の香りも?」


 透真が聞く。


 美奈は唇を震わせた。


「それも……違います」


 部屋の空気が変わった。


 澪は息を呑む。


「どういうことですか」


 美奈は、ふみを見た。


 それから、透真を見て、最後に澪を見た。


「最初に椿の匂いを出したのは、私じゃありません」


「じゃあ誰が」


「分かりません。ただ……」


「ただ?」


 美奈は震える声で言った。


「私、真似したんです」


 ふみが眉を寄せる。


「真似?」


「最初に、浴場の前から椿油の匂いがした夜があって……それで、椿屋の幽霊の噂を思い出しました。これを利用すれば、って」


 美奈は自分の言葉に耐えられないように顔を伏せる。


「だから、私が始めたんじゃないんです。私が、真似したんです」


 澪は椅子の背を握りしめた。


 では、椿油を置いた人物はまだ別にいる。


 宗一の手紙を帳場に置いた人物も。


 美奈の告白で終わると思ったものは、終わらなかった。


 むしろ、もっと奥に何かがあると分かってしまった。


 透真は静かに言った。


「花を置いた人と、椿油を残した人は別人です」


「やっぱり……」


 澪の声はかすれていた。


 ふみは封筒を見た。


 帳場から持ってきた古い手紙は、テーブルの上に置かれている。


 沙織宛て。


 渡せなかった手紙。


 椿油の香り。


 お静の店の匂い。


 線は、また別の場所へ続いている。


 透真は、封筒に視線を落とした。


「明日、お静さんに聞きます」


 ふみが小さく言う。


「私も行くべきかしら」


「たぶん、行かないほうがいいです」


「なぜ?」


「女将さんがいると、お静さんは女将さん向けの顔をすると思います」


 ふみは苦笑した。


「嫌なことを言うのね」


「よく言われます」


「でも、正しいのかもしれない」


 澪はテーブルの上の椿を見た。


 美奈が持っていた花は、皿の上に集められている。


 赤くて、濡れていて、静かだった。


 さっきまで怖かった花が、今はただ悲しく見えた。


 人を怖がらせた花。


 辞めたいと言えなかった人が置いた花。


 そして、誰かが渡せなかった手紙を呼び寄せた花。


 澪は小さく息を吸った。


「湯守くん」


「何」


「お静さんのところ、私も行く」


「そのつもりだった」


「止めないんだ」


「止めても来ると思った」


「よく分かってるね」


「観察した」


「そこは友達だからって言ってよ」


 言ってから、澪は少しだけ恥ずかしくなった。


 透真も、ほんの一瞬黙った。


 それから、目をそらして言った。


「……友達、だから」


 澪は思わず笑った。


 こんな時なのに。


 胸の奥が少しだけ温かくなった。


「今の、だいぶ言わされてた」


「言わせたのは君だ」


「でも言った」


「認識が更新された」


 美奈が涙を拭きながら、少しだけ不思議そうに二人を見ていた。


 ふみも、疲れた顔でありながら、わずかに表情を緩めた。


 夜の椿屋は、まだ椿の香りに包まれている。


 けれど、ほんの少しだけ、空気が動いた気がした。


 その晩、澪は部屋に戻り、母にすべてを話した。


 美奈が花を置いていたこと。


 けれど椿油と手紙は別人らしいこと。


 美奈が謝っていたこと。


 沙織は静かに聞いていた。


 怒るでもなく、驚くでもなく、ただ少し悲しそうに。


「そう」


「お母さん、怖かったよね」


「怖かったわ。でも……」


「でも?」


「椿の花そのものが怖かったわけじゃないの」


 沙織は窓の外を見た。


「怖かったのは、忘れたつもりでいたものが、急に目の前に戻ってきたこと」


 澪は何も言えなかった。


 母の言葉の意味が、少しずつ分かり始めている。


 まだ全部ではない。


 でも、前よりは。


 沙織は澪を見る。


「美奈さんを、すぐに許せとは言わないわ」


「うん」


「でも、謝る場所があるうちに謝れる人は、まだ戻れるのかもしれない」


「……お母さんも?」


 沙織は小さく息を吸った。


 そして、少しだけ笑った。


「そうね」


 雨上がりの夜、椿屋の廊下に水の匂いが残っている。


 その奥に、椿油の香りがまだ薄く漂っていた。


 花を置いた人は分かった。


 だが、手紙を置いた人はまだ分からない。


 澪は布団に入っても、しばらく眠れなかった。


 テーブルの上の古い封筒。


 宗一の字。


 渡せなかった手紙。


 その向こうにいるのは、幽霊ではない。


 きっと、生きている誰かの未練だ。


 そう思うと、湯守千鶴の言葉が思い出された。


 幽霊より厄介なのは、生きてる人間の未練。


 澪は暗い天井を見つめた。


 温泉街は、昔の恋を忘れない。


 そして今夜、その昔の恋が、また一つ形を変えて現れた。

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