第8話 温泉街は、昔の恋を忘れない
雨は、昼過ぎから本降りになった。
山あいの温泉町に降る雨は、都会の雨より音が近い。
屋根を打つ音。側溝を流れる音。石畳の上ではねる音。旅館の軒先からぽたりぽたりと落ちる雫の音。
そのすべてが、椿屋の二階の部屋まで染み込んでくるようだった。
朝比奈澪は、机の前に座ったまま、ずっと母のバッグを見ていた。
布製の淡い灰色のバッグ。
薬の袋と診察券が入っている。
そして、その奥に、古い封筒がある。
今は見えない。
母がきちんと口を閉じて、机の端に寄せてしまったからだ。
でも、澪はもう知っている。
そこに椿の押し花が挟まった封筒があることを。
そこに、母が隠している過去があることを。
母は布団の上で上体を起こし、窓の外を眺めていた。
雨に濡れた中庭の椿が、薄暗い空の下で赤く沈んでいる。
花は綺麗なのに、澪には少し怖く見えた。
「お母さん」
澪が呼ぶと、沙織はゆっくり振り返った。
「なあに?」
いつもの優しい声。
でも今の澪には、その優しさが少しだけ苦しかった。
「聞いてもいい?」
「……何を?」
母はもう分かっている。
その顔を見れば、分かった。
澪は膝の上で手を握った。
「宗一さんって、誰?」
雨の音が、部屋の中で大きくなった気がした。
沙織はすぐには答えなかった。
ただ、視線を少しだけ落とした。
澪は続ける。
「寝言で言ってた。ごめんなさい、宗一さんって。あと、手紙。バッグの中の古い封筒。椿屋の板場からの手紙なんでしょ?」
「澪」
「私には関係ないって言ったよね」
沙織の顔が痛そうに歪んだ。
それでも澪は止まれなかった。
昨日からずっと、胸の奥に溜まっていたものがあった。母を責めたいわけではない。傷つけたいわけでもない。ただ、自分だけが何も知らされていないことが、どうしてもつらかった。
「関係ないの? 本当に? お母さんがこの町に来た理由にも、椿屋に泊まってる理由にも、あの椿の花にも、関係ないの?」
「関係ないわけじゃないわ」
沙織は静かに言った。
その声は、いつもの母より少し低かった。
「でも、あなたにどう話せばいいか分からなかったの」
「それって、言いたくなかったってこと?」
「違う」
「じゃあ何?」
澪の声が、思ったより強く出た。
沙織は困ったように笑おうとした。
けれど、笑えなかった。
「宗一さんは、昔、椿屋にいた人よ」
「板前さん?」
「ええ」
「お母さんと、どういう関係だったの」
沙織は目を閉じた。
その沈黙が、答えに近かった。
澪は胸の奥がざわりとした。
「……好きだったの?」
言ってから、喉が熱くなった。
娘が母に聞く言葉ではないのかもしれない。
でも、聞かずにはいられなかった。
沙織はゆっくり目を開けた。
窓の外の椿を見ている。
「若いころの話よ」
「答えになってない」
「そうね」
「お父さんじゃない人だよね」
「そうね」
淡々と認められたことが、澪には少しショックだった。
何を期待していたのかは分からない。
誤解だと言ってほしかったのか。
ただの知人だと笑ってほしかったのか。
それとも、全部を正直に話してほしかったのか。
自分でも分からない。
「お父さんは知ってるの?」
澪が聞くと、沙織は少しだけ首を横に振った。
「詳しくは知らないわ」
「じゃあ、隠してたの?」
「隠していた、ということになるのかもしれないわね」
「何それ」
澪は立ち上がった。
椅子が小さく音を立てた。
「私には関係ない。お父さんにも詳しく言ってない。なのに、この町に来て、椿屋に泊まって、宗一さんの名前を寝言で呼んでる。お母さんは、何をしに来たの?」
「澪」
「宗一さんに会いに来たの?」
言った瞬間、沙織の顔がはっきり変わった。
驚きではない。
悲しみだった。
「宗一さんは、もう亡くなっているわ」
澪は息を呑んだ。
雨の音だけが残った。
「……亡くなってる?」
「ええ」
「知ってたの?」
「知っていたわ」
「じゃあ、何で」
言葉が続かなかった。
会えない人。
もういない人。
それでも母は、この町に来た。
椿屋に泊まった。
寝言で名前を呼んだ。
それは恋なのか。
後悔なのか。
未練なのか。
澪には分からなかった。
分からないことが、こんなにも怖いとは思わなかった。
「ごめんなさい」
沙織は言った。
昨夜の寝言と同じ言葉だった。
澪は首を振った。
「謝ってほしいんじゃない」
「分かってる」
「分かってないよ」
自分でも、幼い言い方だと思った。
でも、止まらなかった。
「私、お母さんのこと何も知らないみたいじゃん」
沙織は、静かに澪を見ていた。
母の目だった。
けれどその奥に、澪の知らない少女のような弱さが見えた。
「あなたに、母親じゃない私を見せるのが怖かったの」
その言葉が、部屋に落ちた。
澪は何も言えなくなった。
母親じゃない母。
そんなもの、考えたことがなかった。
母は母だ。
自分を起こしてくれて、弁当を作ってくれて、咳を隠して笑って、薬を飲んで、心配させまいとする人。
その前に、誰かを好きになった少女だったこと。
誰かに謝りたくて、ずっと言えずにいた女性だったこと。
そんな当たり前のことを、澪は受け止めきれなかった。
「……ごめん。外、行ってくる」
「澪、雨が」
「傘あるから」
「体、冷やすわ」
「お母さんじゃないんだから、少しくらい大丈夫」
言った瞬間、しまったと思った。
沙織の顔が白くなった。
澪は謝ることもできず、鞄から傘をつかんで部屋を出た。
廊下に出ると、椿の香りがした。
雨の日の椿は、いつもより重く匂う。
甘くて、湿っていて、昔のものを引きずり出すような匂い。
澪はその匂いから逃げるように階段を下りた。
玄関で女将のふみが顔を上げる。
「澪ちゃん?」
「少し出てきます」
「雨が強いわよ」
「すぐ戻ります」
そう言って、澪は外へ出た。
雨は思ったより冷たかった。
傘を開くと、ばらばらと雨粒が当たる音が響いた。石畳は濡れて黒く光り、白い湯気が足元を這うように流れている。
温泉街は、雨の日になると人の気配が少し遠くなる。
観光客の姿はまばらで、土産物屋の軒先も薄暗い。旅館の窓から漏れる明かりだけが、濡れた道にぼんやり映っていた。
澪はあてもなく歩いた。
どこへ行くつもりなのか、自分でも分からなかった。
母を責めたかったわけではない。
それなのに、責めてしまった。
母には母の人生がある。
頭では分かる。
でも、娘としては、置いていかれた気がした。
父ではない男の名前を、母が寝言で呼ぶ。
そのことが、自分の家族の形を少しだけ揺らした。
いや、家族は何も変わっていない。
変わったのは、自分が母を見る目だ。
「最悪……」
雨音に紛れて、澪は呟いた。
しばらく歩いて、気づけば湯守屋の前にいた。
また来てしまった。
自分でも呆れる。
ここに来ても、答えがあるわけではない。
湯守透真は探偵ではないし、万能でもないし、話せばすべてが解決するわけでもない。
それでも、足が向いていた。
湯守屋の暖簾の下で立ち止まっていると、帳場の奥から声がした。
「入れば」
透真だった。
澪は傘を閉じながら、少しだけむっとする。
「見てたの?」
「雨の日に玄関前で立ち尽くす人は目立つ」
「そういうときは、どうしたの、って聞くんじゃないの」
「どうしたの」
「遅い」
「努力はした」
澪は少しだけ笑ってしまった。
笑いたくなかったのに。
玄関に入ると、透真がタオルを差し出した。
「髪、濡れてる」
「ありがとう」
「足元も」
「そこまで見なくていい」
「転ぶから」
「転ばない」
「朝、転びかけた」
「記録しないで」
「記録は大事だ」
澪はタオルで髪を押さえながら、帳場の横の椅子に座った。
雨に濡れたせいで、制服の裾が少し冷たい。
透真は何も聞かずに、温かいお茶を持ってきた。
前にも座った席。
前にも飲んだ湯守屋のお茶。
乾いた畳と、番茶と、湯の匂い。
椿屋とは違う匂いに、澪は少しだけ息をついた。
「聞いたの?」
透真が言った。
澪は湯呑みを両手で包んだ。
「うん」
「宗一さんのこと」
「うん」
「亡くなっていることも?」
澪は顔を上げた。
「知ってたの?」
「祖母から聞いた」
「いつ?」
「昨日」
「言ってよ」
「本人から聞くべきだと思った」
「そういうところ、正しいけど腹立つ」
「そうだね」
「そこは否定してよ」
「否定できない」
澪は湯呑みの中の茶を見た。
表面に小さな湯気が立っている。
「お母さんにも、私の知らない人生があるんだね」
「あると思う」
「知りたくなかった」
その言葉は、自分でもひどいと思った。
けれど、本音でもあった。
透真は責めなかった。
ただ、少しだけ間を置いて言った。
「でも、知らないままだと、たぶんもっと怖くなる」
「湯守くんは冷静でいいよね」
澪は思わず言った。
「匂いで分かって、事実だけ並べてればいいんだから」
透真は何も言い返さなかった。
澪はすぐに後悔した。
前にも似たようなことを言って、彼を傷つけたばかりなのに。
「……ごめん」
「怒ってるときは、言葉が先に出る」
「また分類?」
「今回は経験」
「湯守くんも?」
「うん」
透真は短く答えた。
それ以上、自分の話はしなかった。
澪は少しだけ落ち着いてから、ぽつりと言った。
「お母さん、宗一さんのこと、好きだったんだと思う」
「そう」
「お父さんじゃないのに」
「うん」
「変だよね。昔のことなのに。私が生まれる前のことなのに。何でこんなに嫌なんだろう」
透真は、帳場の向こうにある雨の庭を見ていた。
「家族を、一つの形で覚えていたいからかもしれない」
「形?」
「父親がいて、母親がいて、自分がいる。その前に別の時間があると分かると、形が少しずれる」
澪は黙った。
まさにそれだった。
家族が壊れたわけではない。
でも、自分の知っている家族の外側に、母の知らない時間が広がっていた。
その広さが怖い。
「湯守くん、たまに言語化うまいよね」
「たまに?」
「うん。普段は面倒くさい」
「普段も正確なだけだと思う」
「今は反論する元気ない」
「なら、反論は延期で」
澪は少し笑った。
そのとき、奥から足音がした。
湯守千鶴が現れた。
雨の日でも、背筋が伸びている。
着物の袖を少し持ち上げ、澪を見るなり、何も聞かずに言った。
「濡れたね。風邪を引くよ」
「すみません。お邪魔してます」
「謝ることじゃない。透真、替えの手ぬぐいをもう一枚」
「はい」
透真が奥へ行くと、千鶴は澪の向かいに座った。
「聞いたんだね」
澪はうなずいた。
「少しだけ」
「少し聞くのが、一番つらい」
「……はい」
「全部聞いてもつらいけどね」
千鶴は雨の外を見た。
その横顔には、長くこの町を見てきた人の静けさがあった。
「あの子は、いい板前だったよ」
「宗一さんですか」
「ああ。口数は少ない。愛想もない。けれど、客の箸の進み方をよく見ていた。湯治に来る人間は、体だけじゃなく心も弱っていることが多い。宗一は、そういう人の前に、黙って食べられるものを置ける子だった」
澪は黙って聞いた。
千鶴の言葉の中で、宗一という人が少しずつ人間になっていく。
名前だけではなく、誰かのために料理を作る手を持った人。
「母は、その人と……」
「仲がよかった」
千鶴は言った。
お静と同じ言い方だった。
「それ以上は、沙織さんの口から聞いたほうがいい」
「みんな、そう言いますね」
「本人の人生だからね」
「でも、本人が言ってくれなかったら?」
「待つしかない時もある」
「待てない時は?」
澪の声が少し強くなる。
千鶴は怒らなかった。
ただ、静かに笑った。
「その時は、待てないと伝えればいい」
澪はその言葉に、少しだけ胸を突かれた。
待てないと伝える。
母を責めるのではなく。
嘘を暴くのでもなく。
ただ、自分が待てないくらい不安なのだと伝える。
そんな方法もあるのかもしれない。
「宗一さんは、どうして亡くなったんですか」
澪が聞くと、千鶴は少しだけ目を伏せた。
「病だよ。長くは患わなかった。最後まで椿屋にいた」
「母は知っていたみたいです」
「そうだろうね」
「それでも来たんです。何ででしょう」
「それは、私には分からない」
千鶴はきっぱり言った。
「でも、沙織さんは宗一に会いに来たんじゃない。亡くなった人には会えないからね」
「じゃあ、何をしに」
「言えなかったことを、言いに来たのかもしれない」
「言えなかったこと……」
「ありがとうかもしれない。ごめんなさいかもしれない。さようならかもしれない。人は、若い頃に言えなかった一言を、年を取ってから探しに来ることがある」
雨の音が、少し弱くなった。
澪は湯呑みを見つめたまま、母の寝言を思い出す。
ごめんなさい、宗一さん。
あれは、謝罪だった。
でも、何に対する謝罪なのかはまだ分からない。
透真が手ぬぐいを持って戻ってきた。
「はい」
「ありがとう」
澪は受け取り、髪の先を拭いた。
千鶴が透真を見た。
「透真。椿屋の椿は、また雨で匂いが濃くなっているだろう」
「はい」
「匂いが濃い時ほど、余計なことまで嗅ぎたくなる」
「……はい」
「でも、人の秘密は正しさだけで触ると割れる。昨日も言ったね」
「聞きました」
「澪さんもだよ」
千鶴の目が澪に向いた。
「母親の過去を知るのは、簡単なことじゃない。けれど、母親を母親だけに閉じ込めるのも、時々つらいことだ」
澪は何も言えなかった。
沙織は、母である前に一人の人間だった。
そんな当たり前のことを、澪は雨の日にようやく知りかけていた。
しばらくして、澪は湯守屋を出た。
透真が傘を持って玄関まで送ってくれた。
「送る」
「いいよ。道、分かる」
「雨だから」
「理由が普通」
「普通が必要な時もある」
「それはそう」
二人で傘を差し、雨の温泉街を歩く。
石畳に雨粒が跳ね、湯けむりが低く流れている。店先の椿は水を含んで重たげに垂れ、赤い花が濡れた石の上にいくつも落ちていた。
澪は足元の椿を避けて歩いた。
「お母さんに、何て言えばいいのかな」
「待てないなら、待てないと言えばいい」
「千鶴さんの受け売り?」
「良い言葉は使う」
「珍しく素直」
「雨だから」
「雨だと素直になるの?」
「湿気で抵抗力が下がる」
「変な理屈」
澪は少し笑った。
その笑いは、泣きそうなものに近かった。
「でも、言ってみる」
「うん」
「怖いけど」
「怖いままでいいと思う」
「そこは怖くないよって言うところじゃない?」
「怖いものは怖い」
「正確だね」
「正確だよ」
椿屋の前に着くと、雨は小降りになっていた。
澪は玄関の前で立ち止まり、透真を振り返った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「だいぶ自然になったね」
「練習の成果」
「また記録してる?」
「少し」
「やっぱり怖い」
澪は小さく笑い、玄関へ入った。
部屋に戻ると、沙織は起きていた。
心配していたのだろう。障子が開くなり、ほっとした顔をした。
「澪」
「ただいま」
「濡れたでしょう」
「湯守屋で少し休ませてもらった」
「そう」
沙織は少し申し訳なさそうに目を伏せた。
澪は濡れた傘を隅に置き、母の前に座った。
言葉を探す。
謝るべきか。
聞くべきか。
怒るべきか。
どれも違う気がした。
だから、澪は今の自分に一番近い言葉を選んだ。
「お母さん」
「うん」
「私、待てない」
沙織が顔を上げた。
「全部を今すぐ話してって言いたいわけじゃない。でも、何も知らないまま、大丈夫なふりするのはもう無理」
声が震えた。
でも、止まらなかった。
「お母さんが母親じゃなかった頃の話を聞くのは怖い。宗一さんのことも、本当は聞きたくない。でも、知らないままだともっと怖い」
沙織の目に、涙が浮かんだ。
「澪……」
「だから、少しでいいから教えて」
雨の匂いが、部屋の中に残っている。
椿の香りも。
沙織は長い沈黙のあと、小さくうなずいた。
「分かったわ」
その声は、ひどく静かだった。
「でも、今日は少しだけにさせて」
「うん」
「宗一さんはね、私が若いころ、この町で出会った人。私が一番、自分の体が嫌いだった時期に、何も聞かずに食事を出してくれた人」
澪は黙って聞いた。
「私は、あの人に救われたの」
沙織は窓の外を見た。
雨に濡れた椿が、夕暮れの中で赤く沈んでいる。
「でも、私は何も返せなかった」
「だから、ごめんなさい?」
「ええ」
沙織は小さくうなずいた。
「ずっと、言えなかった」
澪は母の横顔を見た。
母は母だった。
でも、それだけではなかった。
誰かに救われて、誰かに謝れなかった人だった。
それを知ることは、怖い。
けれど、知らないままでいるより、少しだけ呼吸がしやすかった。
その夜。
椿屋の帳場では、女将のふみが一人で帳簿を閉じていた。
雨は上がり、廊下には湿った木の匂いが残っている。
ふみは湯呑みを片づけようとして、ふと帳場の上に置かれたものに気づいた。
古い封筒だった。
茶色く変色した紙。
端には、赤黒く乾いた椿の押し花が挟まっている。
ふみの顔から血の気が引いた。
封筒の表には、かすれた文字でこう書かれていた。
『沙織さんへ』
その下に、別の筆跡で小さく添えられている。
『渡せなかった手紙』
ふみは震える手で封筒に触れた。
廊下の奥から、椿の香りが流れてくる。
その匂いは、今までで一番濃かった。




