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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第7話 土産物屋の老婆は、椿油を売らない

 雨は夜のうちに上がっていた。


 けれど、温泉街はまだ濡れていた。


 石畳の目地には水が残り、軒先からは時々、思い出したように雫が落ちる。共同浴場の湯気はいつもより白く濃く、坂道の先をぼかしていた。


 朝比奈澪は、椿屋の玄関を出る前に一度だけ振り返った。


 二階の部屋では、母がまだ眠っている。


 昨夜、母は寝言でまたその名前を呼んだ。


 宗一さん。


 その声は、澪の知っている母の声ではなかった。


 母親の声ではなく、もっと若い誰かの声だった。

 誰かに謝りたくて、でも謝れなかったまま時間だけが過ぎた人の声。


 澪は玄関先で靴を履きながら、自分の指先が冷えていることに気づいた。


「おはようございます」


 帳場から女将のふみが声をかけてきた。


「おはようございます」


「昨夜は眠れた?」


「少しは」


 そう答えると、ふみは一瞬だけ苦笑した。


「それは、眠れなかった人の言い方ね」


「……みんな、そういうの分かるんですね」


「この仕事をしているとね。お客様の顔色を見るのも仕事のうちだから」


 ふみは静かに言った。


 その言葉は優しかったが、澪の胸には少し引っかかった。


 見ること。


 気づくこと。


 でも、踏み込まないこと。


 この町の大人たちは、そういう線引きに慣れすぎている気がした。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 ふみの声を背に、澪は外へ出た。


 雨上がりの空気は冷たかった。


 坂道の下には、湯守透真が立っていた。


 いつもの学ラン。いつもの鞄。いつもの、何を考えているのか分かりにくい横顔。


 澪は近づきながら言った。


「今日も遠回りの通り道?」


「今日は待ってた」


 透真がそう答えたので、澪は少し驚いて足を止めた。


「珍しく認めた」


「認めない理由がない」


「いつもその方針でいてほしい」


「検討する」


「絶対しないやつ」


 透真は歩き出した。


 澪も隣に並ぶ。


 坂の途中で、饅頭屋のおばさんが店先に水を撒いていた。濡れた土と蒸し器の甘い匂いが混ざって、朝の空気に広がっている。


 澪はしばらく黙って歩いた。


 透真も聞いてこない。


 それがありがたくもあり、少しだけもどかしくもあった。


「湯守くん」


「うん」


「宗一って、誰?」


 言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 透真は驚かなかった。


 たぶん、聞かれると思っていたのだろう。


「祖母から聞いた範囲でなら」


「うん」


「椿屋に昔いた板前。名前は宗一。無口で、料理が上手かったらしい」


「それは昨日聞いた」


「それ以上は、本人に聞いたほうがいい」


「本人って、お母さん?」


「そう」


「聞いたら、関係ないって言われた」


 澪の声が少し硬くなる。


 透真はそれを責めなかった。


「それで怒った?」


「怒った」


「それも正しい」


「湯守くんって、怒ることに優しいよね」


「怒ること自体は悪くないと思うから」


「じゃあ、怒ったあとに後悔するのは?」


「それもよくある」


「湯守くんも?」


「ある」


「想像できない」


「僕を何だと思ってるの」


「温泉地質調査報告を朝読む人」


「それは事実だけど、人間性の説明としては狭い」


 澪は少し笑った。


 でも、すぐに笑みは消えた。


「お母さん、寝言で言ってた。また」


「宗一さん、と?」


 澪はうなずいた。


「ごめんなさいって」


 透真は少しだけ目を伏せた。


 朝の湯気が二人の間を流れていく。


「ごめんなさい、か」


「何に謝ってるんだろう」


「分からない」


「湯守くんでも?」


「分からない」


「そう言われると、逆に怖い」


「分かると言ったほうが怖いと思う」


「たしかに」


 澪は息を吐いた。


「お母さんは、この町に来た理由を全部話してない。椿屋のことも、宗一さんのことも。なのに私は、知らないまま転校して、知らないまま笑って、知らないまま幽霊騒ぎに巻き込まれてる」


 言葉にすると、少しだけみじめだった。


 自分が子どもだと言われているようで。


 透真は坂の先を見たまま言った。


「知る方法はある」


 澪は顔を上げる。


「何?」


「椿屋の昔を知っている人に聞く」


「女将さん?」


「女将さんは、今の椿屋を守る立場だ。話せないことが多い」


「じゃあ誰?」


「土産物屋の店主」


「土産物屋?」


「静屋のお静さん。昔からこの町にいる。椿屋にも出入りしていたらしい」


「詳しいね」


「祖母が名前を出した」


「湯守くんのおばあちゃん、本当に何でも知ってるね」


「知っていても全部は言わない」


「似てる」


「僕と?」


「うん」


「不本意だ」


「似てるよ」


「……よく言われる」


 透真が少しだけ不満そうに言ったので、澪はまた笑った。


 その笑いは、今朝初めて自然に出たものだった。


 学校では、何とか普通に過ごした。


 正確には、普通のふりをした。


 授業中、澪は何度もノートの端に「宗一」と書きそうになった。書いてしまえば、その名前が本当に自分の生活へ入り込んでくる気がして、寸前でやめた。


 昼休み、芽衣と杏に心配された。


「今日、いつもより静かだよ」


「眠いだけ」


「その言い訳、そろそろ使用期限切れじゃない?」


 杏が言う。


 澪は苦笑した。


「じゃあ、雨上がりで湿気にやられてる」


「それ、湯守が言いそう」


「失礼だな」


 隣から透真が言った。


 杏はにやっと笑う。


「聞こえてた?」


「聞こえる距離で言っていた」


「それも湯守が言いそう」


「本人だからね」


 蓮が前の席から振り返る。


「朝比奈さん、こいつの口調うつったら終わりだぞ」


「終わりって何」


「会話が全部、確認と訂正になる」


「それは嫌かも」


 透真が淡々と言う。


「正確さは大事だ」


「ほら出た」


 教室が笑う。


 澪も笑った。


 でも、心のどこかは放課後のことを考えていた。


 静屋。


 お静。


 母の過去を知っているかもしれない人。


 知りたい。


 知るのが怖い。


 その二つが、胸の中で同じ強さで引っ張り合っていた。


 放課後、空はまた曇り始めていた。


 部活へ向かう生徒たちの声を背に、澪と透真は校門を出た。


「本当に行く?」


 透真が聞いた。


「今さら?」


「確認」


「行く」


「聞きたくないことを聞く可能性もある」


「脅してる?」


「注意事項」


「温泉みたいに?」


「温泉にも禁忌症がある」


「会話に禁忌症を持ち込まないで」


 澪は笑ったが、心の中ではその言葉を受け止めていた。


 聞きたくないことを聞く可能性。


 たぶん、ある。


 母が宗一という人と恋をしていたのかもしれない。


 父ではない誰かを、大切に思っていたのかもしれない。


 それは母の過去であって、澪には責める権利などない。


 頭では分かる。


 でも、心はそう簡単ではなかった。


 静屋は、温泉街の外れにあった。


 人通りの多い坂道から一本外れた細い路地。古い木造の店構えで、軒先には色あせた土産物の旗が揺れている。


 看板には「御土産処 静屋」とある。


 店先には、温泉まんじゅう、木彫りのふくろう、湯の花、古い絵葉書、地元の作家が作ったらしい陶器の小皿などが並んでいた。


 昭和で時間が止まったような店だった。


「ここ?」


「ここ」


「営業してる?」


「してる」


「してる店に対して失礼だった」


「少し」


 透真がそう言うと、店の奥からしわがれた声がした。


「聞こえてるよ」


 澪はびくっとした。


 奥から出てきたのは、小柄な老婆だった。


 白髪を後ろで小さくまとめ、藍色の割烹着を着ている。背は少し曲がっているが、目だけが驚くほど鋭い。


「湯守の坊やじゃないか」


「こんにちは、お静さん」


「坊やが女の子連れてくるなんて、千鶴さんが聞いたら祭りだね」


「もう別の場所で同じようなことを言われました」


「そりゃそうだろうよ。珍しいものは町中で共有しないとね」


 お静は澪を見た。


 その目は、値踏みするようでいて、どこか懐かしむようでもあった。


「あんたが朝比奈さんとこの娘さんかい」


 澪は息を呑んだ。


「母を知ってるんですか」


「そりゃあね。昔の話だよ」


「……そうですか」


「そんな顔するんじゃないよ。私はまだ何も言っちゃいない」


 お静は店の奥へ戻りかけた。


 透真が店内を見回す。


 棚には温泉まんじゅうの箱、地元銘菓、安っぽいキーホルダー、古い絵葉書の束。


 けれど、澪が探しているものは見当たらない。


「椿油って、ありますか」


 澪は思い切って聞いた。


 お静の足が止まった。


 ほんの一瞬。


 だが、確かに止まった。


「今どき若い子が使うもんじゃないよ」


「置いてないんですか」


「置いてないねえ。観光客は香りの強い石鹸やらハンドクリームやらのほうを買っていく。椿油なんて、古くさいって言われるだけさ」


「でも」


 透真が口を開いた。


「店の奥から、椿油の匂いがします」


 お静の顔から笑みが消えた。


 澪は思わず透真を見る。


 言うのが早い。


 相変わらず、遠回しにするという機能がついていない。


「それに、浴場用の消毒剤に似た匂いも」


 透真は続けた。


 お静はしばらく黙っていた。


 店の外では、温泉街を歩く観光客の笑い声が遠くに聞こえる。


 お静はやがて、ふっと鼻で笑った。


「あんた、千鶴さんとこの孫だね」


「はい」


「嫌な鼻してる」


「よく言われます」


「褒めてないよ」


「知ってます」


 澪は二人のやり取りを見ながら、妙な緊張の中で少しだけ呆れた。


 この町の年寄りと透真は、どうしてこうも会話が噛み合うのか。


 お静は奥から丸椅子を二つ引っ張り出した。


「座りな。立ち話ですることじゃないだろう」


「ありがとうございます」


 透真は素直に座る。


 澪も隣に腰を下ろした。


 店の奥には、小さな石油ストーブが置いてある。今は火が入っていないが、灯油の匂いがかすかに残っている。その奥に、古い木箱が積まれていた。


 そこから、透真には椿油の匂いがするのだろう。


 澪には分からない。


 ただ、古い紙と木の匂いがした。


「それで?」


 お静は腕を組んだ。


「椿屋の幽霊を捕まえに来たのかい?」


「幽霊ではありません」


 透真が即答する。


「そう言い切るところが、若いねえ」


「花には土の匂いがありました。油には古い紙と薬品の匂いがある。幽霊にしては物を使いすぎています」


「幽霊だって、たまには物を使いたいかもしれないよ」


「その場合、物理的干渉について検証が必要です」


「面倒な子だね」


「よく言われます」


 お静は声を出して笑った。


 澪は思わず口を挟む。


「あの、母のことを聞きたいんです」


 お静の笑いが止まった。


 澪は膝の上で手を握る。


「母は昔、この町に来ていたんですよね。椿屋に」


「ああ」


「宗一さんという人と、知り合いだったんですか」


 お静は少し目を細めた。


 その表情は、先ほどまでの軽さとは違っていた。


「沙織ちゃんが、その名前を?」


「寝言で言っていました」


「そうかい」


 お静は、店の奥の暗がりに視線をやった。


 まるでそこに、昔の誰かが立っているかのように。


「宗一は、椿屋の板前だったよ」


「聞きました」


「無口でね。客に愛想よくするなんてことはできない。でも、湯治に来た人の体をよく見ていた。食が細い客には、ほんの少しだけ香りを立てた出汁を使う。胃が弱い客には油を控える。そういうことを、誰にも言わずにやる子だった」


 澪は黙って聞いた。


 母が若いころ、その人の料理を食べていた。


 その事実が、胸の中で静かに重くなる。


「沙織ちゃんは、東京から来たお嬢さんだった。体が強くなくてね。椿屋にしばらく滞在していた。最初は、いつも青い顔をしていたよ」


「母が……」


「あんたと少し似てた」


 お静は言った。


 澪は顔を上げる。


「私と?」


「無理して笑うところがね」


 その言葉は、思ったより深く刺さった。


 お静は続けた。


「宗一は、そんな沙織ちゃんに椿の葉で包んだ小さな菓子をよく出していた。甘さを抑えた、湯上がりに食べやすい菓子でね。あの子は、それを嬉しそうに食べていたよ」


「二人は……」


 澪は言葉を選べなかった。


 恋人だったんですか。


 そう聞くには、生々しすぎた。


 お静は澪の迷いを見透かしたように、静かに言った。


「仲はよかったよ」


「それだけですか」


「若い子は、何でも名前をつけたがるねえ」


「知りたいんです」


「知ってどうする」


「分かりません。でも、知らないままなのは嫌です」


 お静はしばらく澪を見ていた。


 そして、小さく息を吐いた。


「悪い話じゃないよ」


「悪い話じゃない?」


「ああ。ただ、終わった話だ」


 澪は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


 終わった話。


 大人は簡単にそう言う。


 でも、終わったはずの話が、今になって椿の花を湯船に浮かべている。


 母は寝言で謝っている。


 古い手紙が残っている。


 それでも終わった話なのか。


「終わったなら」


 澪は言った。


「なんで今さら椿の花が出るんですか」


 お静は答えなかった。


 沈黙が落ちる。


 透真も黙っている。


 店の外で、軒先から雨水が一滴落ちた。


「お静さん」


 透真が口を開いた。


「椿油は、あなたのものですか」


「さあね」


「店の奥にあります」


「昔の在庫かもしれない」


「椿屋の浴場にあった小瓶と、匂いが近い」


「嫌な鼻だねえ」


「さっきも聞きました」


「二度言いたくなるくらい嫌なんだよ」


 透真は表情を変えなかった。


「椿油の匂いには、古い紙と薬品の匂いが混じっていました。ここにも同じ匂いがある」


「それで、私が幽霊だって?」


「幽霊ではないと言いました」


「じゃあ犯人かい?」


「まだ分かりません」


「分からないくせに聞くのかい」


「分からないから聞きます」


 お静はまた黙った。


 その沈黙は、先ほどより重かった。


 やがて、彼女は店の奥へ行き、小さな茶筒を持って戻ってきた。


「茶でも飲みな」


「ありがとうございます」


「勘違いするんじゃないよ。長話になりそうだから出すだけだ」


 澪は湯呑みを受け取った。


 番茶の匂いがした。


 湯守屋で飲んだ茶より少し渋い。


「宗一はね」


 お静は湯呑みを置きながら言った。


「手紙を書くのが下手だった」


 澪の指が動いた。


「手紙……」


「言葉が少ない男だったからね。料理で伝えればいいと思っていた。でも、料理で伝わることなんて、半分もない」


 お静の声には、昔を悔やむような響きがあった。


「沙織ちゃんが町を去る日、宗一は何も言えなかった。見送りにも出なかった。厨房で、ずっと包丁を研いでいたよ」


「どうして」


「出たら、引き止めたくなるからだろうね」


 澪は言葉を失った。


 透真は静かに聞いている。


「そのあと、宗一は何通か手紙を書いた。でも、出したかどうかは知らない」


 茶色い封筒。


 赤い椿の押し花。


 佐伯椿屋 板場より。


 澪は朝見たものを思い出した。


「母のところに、手紙があります」


 お静の目が、ほんの少し揺れた。


「そうかい」


「知ってたんですか」


「知らないよ」


 声は平静だった。


 だが、澪にはそれが本当かどうか分からなかった。


 透真も何も言わない。


 お静は湯呑みを持ったまま、少しだけ笑った。


「過去っていうのはね、若い子が思うほど綺麗じゃない。でも、汚いだけでもない。だから厄介なんだよ」


「それ、答えになってません」


 澪が言うと、お静は目を細めた。


「そういうところ、湯守の坊やに似てきたね」


「嫌です」


「僕も少し不本意だ」


「二人して失礼だね」


 お静は笑った。


 その笑いは、少しだけ寂しそうだった。


 店を出るころには、また細かい雨が降り始めていた。


 お静は最後まで、椿油のことについてははっきり答えなかった。


 宗一と沙織のことも、核心には触れなかった。


 ただ、母が昔この町にいて、宗一という板前と親しくしていたことは分かった。


 悪い話ではない。


 ただ、終わった話。


 その言葉が、澪の胸に残っている。


「終わった話って、何なんだろう」


 静屋を出て、路地を歩きながら澪は呟いた。


「終わったと思っている人と、終わっていない人がいる話」


 透真が言った。


 澪は横を見る。


「今の、ちょっと文学っぽい」


「そう?」


「うん。湯守くんにしては」


「最後が余計だ」


 澪は少しだけ笑った。


 そのとき、透真が足を止めた。


 静屋の裏手に続く細い道の前だった。


「どうしたの?」


「匂い」


「また?」


「また」


 透真は路地の奥へ視線を向けた。


 そこには、店の裏口があった。


 軒下に、古い草履が一足置かれている。


 濡れていた。


 今日の雨で濡れたのではない。


 泥がついている。


 澪にも、それくらいは分かった。


 透真はしゃがみ込んだ。


「触らないでね」


「触らない」


「靴泥鑑定士みたいになってる」


「そんな資格はない」


「知ってる」


 透真は草履を見つめたまま、少しだけ鼻を動かした。


 澪は、息を止めて待つ。


「椿屋の中庭と同じ土の匂いがする」


 澪の胸が跳ねた。


「中庭?」


「湿った黒土。苔。椿の根元にある落ち葉の匂い。昨日の花についていた匂いと近い」


「じゃあ、お静さんが……?」


「まだ分からない」


「でも、この草履」


「静屋の裏にある。お静さんのものとは限らない」


「また慎重」


「断定を急ぐと、間違える」


 澪は草履を見た。


 古い草履。


 濡れた土。


 椿屋の中庭と同じ匂い。


 今までぼんやりしていたものが、少しずつ線でつながっていく。


 その線の先に母がいる。


 宗一がいる。


 お静がいる。


 そして、椿屋の浴場に浮かんだ赤い花がある。


「湯守くん」


「うん」


「私、知りたいけど、知るのが怖い」


「それは自然だと思う」


「自然?」


「温泉も、最初は熱い。慣れるまで怖い」


「変な例え」


「でも分かりやすい」


「分かりやすいけど、変」


 透真は立ち上がった。


「今日はここまでにしたほうがいい」


「どうして?」


「情報が増えすぎると、疲れる」


「私が?」


「君も。僕も」


「湯守くんも疲れるの?」


「疲れる」


「鼻が?」


「人が」


 澪は少し驚いた。


 透真がそんなふうに言うのは珍しかった。


「帰ろう」


 彼が言った。


 澪はうなずいた。


 温泉街の路地を出ると、雨は少し強くなっていた。


 透真が鞄から折りたたみ傘を出す。


「傘ある?」


「ある」


 澪も鞄から傘を出した。


 二つの傘が、雨の中で開く。


 椿屋へ向かう道は、いつもより静かだった。


 雨に濡れた石畳。


 白く滲む湯気。


 赤い椿の花。


 澪は傘の下で、小さく息を吐いた。


 母の過去は、まだ見えない。


 でも、確かにそこにある。


 椿の香りの奥に。


 古い手紙の中に。


 そして、誰かが濡れた草履で歩いた土の上に。


 椿屋の看板が見えてきたころ、透真が言った。


「明日、もう一度確認する」


「何を?」


「お静さんが何を隠しているのか。あと、美奈さんの動き」


「やっぱり調べてるよね」


「匂いの出どころを確認している」


「便利な言い方」


「便利だね」


「認めた」


「認識が更新された」


 澪は雨の中で笑った。


 怖さは消えていない。


 けれど、今は一人で怖がっているわけではなかった。


 それだけで、少しだけ歩ける気がした。

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