第6話 消毒液と古い手紙の匂い
雨が降りそうで、降らない朝だった。
温泉街の空は低く、山の稜線に白い雲が引っかかっている。石畳はまだ濡れていないのに、空気だけが先に湿っていた。
朝比奈澪は、椿屋の二階の部屋で制服のリボンを結び直していた。
鏡の中の自分は、昨日より少し疲れて見える。
けれど、顔色が悪いというほどではない。笑えばごまかせる。髪も整えた。制服の襟も曲がっていない。鞄の中には教科書も入れた。
普通の転校生に見える。
少なくとも、そう見えるはずだった。
「澪、ハンカチ持った?」
布団の上から母の沙織が声をかけてきた。
「持ったよ」
「傘は?」
「折りたたみ入れた」
「薬は……あ、それは私ね」
沙織は自分で言って、小さく笑った。
澪も笑う。
「お母さん、自分の心配して」
「してるわよ。ちゃんと薬も飲んだし、今日は無理しない」
「昨日もそう言ってた」
「昨日よりは守る」
「微妙に信用できない言い方」
沙織は困ったように笑った。
その笑い方が、最近の母によく似合うようになってしまったことに、澪は気づいていた。
昔の母は、もっとはっきり笑っていた。
声も大きかった。朝から味噌汁の鍋をかき混ぜながら、台所で鼻歌を歌うこともあった。澪が寝坊すると、「お姫様、馬車が出ますよ」とふざけて起こしに来た。
今の母は、笑う前に一瞬だけ息を整える。
咳を我慢するように。
疲れを隠すように。
澪は鞄を肩にかけた。
「じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい。無理しないでね」
「それはこっちの台詞」
「親子で言い合っていたらきりがないわね」
玄関へ向かおうとして、澪はふと机の上に目を留めた。
沙織の荷物が入った布製のバッグが、少し開いている。
中には、薬の袋、診察券、文庫本、薄手のショールが見えた。
その奥に、茶色い封筒の端が覗いていた。
封筒には、何か赤いものが挟まっている。
押し花。
椿のように見えた。
澪の足が止まる。
「どうしたの?」
沙織が聞いた。
「……ううん。なんでもない」
澪はすぐに顔を上げた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
廊下に出ると、古い木の匂いがした。
椿の香りは、昨夜ほど強くない。
けれど、完全に消えたわけでもなかった。
薄く、廊下の奥に残っている。
まるで誰かが、ここにいた証拠をわざと残しているようだった。
旅館の玄関を出ると、湯守透真が少し離れたところに立っていた。
黒い学生服に、いつもの学生鞄。
朝の湯けむりの中に立っている姿は、妙にこの町に馴染んでいる。
「おはよう」
透真が言った。
「おはよう。待ってたの?」
「通り道」
「椿屋の玄関前は、湯守屋から学校への通り道じゃないと思う」
「少し遠回りの通り道」
「それ、待ってたって言うんじゃない?」
「言葉の定義による」
「出た」
澪が呆れると、透真は少しだけ視線をそらした。
「昨日、眠れた?」
「少し」
「雑な嘘だ」
「朝から採点しないで」
「採点というより添削」
「もっと嫌」
二人は坂道を上り始めた。
共同浴場の前では、常連のおじいさんたちが湯上がりの顔で世間話をしている。饅頭屋の蒸し器からは甘い湯気が上がり、湿った空気に砂糖の匂いが混じっていた。
澪は、その匂いを吸い込みながら、さっき見た封筒のことを思い出していた。
母の荷物の奥。
茶色い封筒。
赤い椿の押し花。
見間違いだったかもしれない。
でも、最近の椿屋で椿を見間違えるほど、澪は鈍感ではなくなっていた。
「湯守くん」
「何」
「古い手紙って、匂いで分かる?」
透真が少しだけ横を見た。
「分かる」
「どんな匂い?」
「紙の酸化した匂い。湿気を吸った匂い。保管されていた場所の匂い。封筒なら糊の匂いも残ることがある」
「……そうなんだ」
「何か見つけた?」
澪はすぐには答えなかった。
言っていいのか、分からない。
母の荷物を勝手に見たわけではない。ただ、見えてしまっただけだ。
でも、母は知られたくなかったかもしれない。
「見つけたっていうか……見えただけ」
「お母さんの荷物?」
澪は足を止めかけた。
「なんで分かるの」
「君が迷っているから」
「匂いじゃなくて?」
「今のは顔」
「顔に出てる?」
「出てる」
「やだなあ」
澪は頬を押さえた。
透真は前を向いたまま言った。
「見えてしまったものと、見ようとして見るものは違う」
「それ、慰め?」
「分類」
「たまには慰めて」
「……意図して見たわけじゃないなら、罪悪感を大きくしすぎなくていい」
澪は少し驚いた。
ちゃんと慰めに聞こえた。
「できるじゃん」
「何が」
「慰め」
「今のは分類を少し柔らかくした」
「それを慰めって言うんだよ」
「世間は言葉を雑に使う」
「はいはい」
澪は笑った。
でも、胸のもやもやは消えなかった。
学校へ着くと、教室はいつもよりざわついていた。
椿屋の噂は、完全には消えていない。けれど、前日の透真の言葉が効いたのか、澪に直接聞いてくる生徒は減っていた。
代わりに、遠巻きの視線が増えた。
それはそれで、居心地が悪い。
「朝比奈さん、おはよう」
芽衣が声をかけてくれる。
「おはよう」
「今日、顔色ちょっと悪い?」
「眠いだけ」
「それ、この前も言ってた」
「便利だから」
澪がそう言うと、芽衣は心配そうに眉を下げた。
杏は澪の机に軽く手を置く。
「無理なら保健室行きなよ。うちの保健室、ベッドふかふかだよ」
「それは魅力的」
「ただし先生がめちゃくちゃ話しかけてくる」
「眠れないじゃん」
「だから誰も長居しない」
杏の軽さに救われる。
澪は笑って席に着いた。
一時間目の授業が始まっても、頭の中には封筒のことが残っていた。
茶色い封筒。
赤い椿の押し花。
母は、この町に来る前から椿屋と関わりがあった。
それは、もうほとんど確信に近かった。
問題は、その関わりをなぜ隠しているのかだった。
昼休み。
澪は弁当を広げたものの、あまり箸が進まなかった。
母が作ってくれたおにぎりが二つ。梅と鮭。小さなタッパーに卵焼きが入っている。
今日は卵焼きがあった。
そのことが、なぜか少し胸に痛い。
「朝比奈さん、食べないの?」
芽衣が聞いた。
「食べるよ。ちょっと考え事」
「悩み?」
「うーん……親のこと」
口にしてから、澪は自分で驚いた。
芽衣と杏も、少しだけ驚いた顔をした。
でも、二人ともすぐに茶化さなかった。
杏が箸を置く。
「親って、地味に難しいよね」
「杏も?」
「うちは元気すぎて難しい。毎朝、私よりテンション高い」
「それはそれで大変そう」
「大変。朝から『若者は米を食え』って言われる」
芽衣が小さく笑う。
「うちは逆に静かすぎるかな。何考えてるか分からないときある」
澪は、二人の言葉を聞いて少し安心した。
親のことを難しいと思っているのは、自分だけではないらしい。
「親が隠し事してるって、子どもには分かるんだね」
澪はぽつりと言った。
杏と芽衣は顔を見合わせた。
隣で本を読んでいた透真が、ページをめくる手を止めた。
澪はそれに気づいたが、もう言葉を引っ込められなかった。
「何を隠してるかは分からないんだけど。隠してることだけは、なんか分かる」
芽衣は少し考えてから言った。
「心配かけたくないんじゃないかな」
「うん。たぶん、そう」
杏が続ける。
「でも、心配させたくなくて隠されると、こっちは余計に心配になるよね」
「そう。それ」
澪は思わず頷いた。
母を責めたいわけではない。
でも、何も知らされないまま笑顔だけ向けられると、自分が子ども扱いされているように感じる。
実際、子どもなのかもしれない。
けれど、母の咳を聞いて、薬の袋を見て、夜中に水を持っていくのは自分だ。
それでも何も知らなくていいと言われるのは、少しだけ苦しい。
「隠し事って」
透真が言った。
澪は彼を見る。
透真は弁当の箸を置いていた。
「見つけた側も、隠している側も疲れる」
「湯守くんも、そういうの分かるの?」
「分かる。分かっても、知らないふりをすることもある」
「湯守くんも?」
「うちの祖母は、隠し事が多い」
「それ、女将だから?」
「たぶん、人間だから」
澪は少しだけ黙った。
人間だから。
その言い方は、妙に優しかった。
母は母である前に、人間だ。
そんな当たり前のことが、澪にはまだうまく飲み込めない。
放課後、澪はまっすぐ椿屋へ戻った。
透真は「図書室に寄る」と言って学校に残った。澪は少し心細かったが、今日は迷わず帰れた。
郵便局の角を右。
饅頭屋の前を通る。
足湯の手前で曲がる。
椿屋の看板が見えたとき、ほんの少しだけ達成感があった。
玄関を入ると、女将のふみが帳場にいた。
「おかえりなさい、澪ちゃん」
「ただいま戻りました」
「お母様、お部屋で休んでいらっしゃるわ」
「ありがとうございます」
廊下を歩きながら、澪は椿の香りを探してしまう。
今日は薄い。
だが、消えてはいない。
母の部屋の前で、澪は一度深呼吸した。
「ただいま」
障子を開けると、沙織は窓際で本を読んでいた。
「あら、おかえり。今日は早かったのね」
「うん。部活ないし」
「そう」
沙織は本に栞を挟んだ。
机の上には、朝と同じ布製のバッグが置かれている。
今度は、ちゃんと閉じられていた。
澪の視線が一瞬そこへ向いた。
沙織はそれに気づいたようだった。
部屋の空気が、少しだけ変わる。
「澪」
「何?」
「何か聞きたいことがある?」
母の声は穏やかだった。
けれど、少しだけ緊張している。
澪は、ここで何でもないと言えば、今日も終われると思った。
今まで通りに。
笑って、夕食を食べて、薬を飲む母を見て、夜中の廊下の音に耳を澄ませて。
でも、それはもう少し苦しかった。
「朝、見えたの」
澪は言った。
「バッグの中の封筒」
沙織の表情がこわばった。
ほんの一瞬。
けれど、今度は見逃さなかった。
「……そう」
「赤い押し花みたいなのが挟まってた。椿?」
沙織は視線を落とした。
「昔のものよ」
「昔って?」
「澪には関係ないこと」
声は優しかった。
怒っているわけではない。
突き放したいわけでもない。
それでも、その言葉は澪の胸にまっすぐ刺さった。
澪には関係ないこと。
母の過去。
椿屋。
宗一という名前。
自分には関係ない。
そう言われた瞬間、澪は自分だけが部屋の外に立たされたような気がした。
「関係ないって」
声が少し震えた。
「私、ここに一緒に来てるんだよ」
「分かってるわ」
「お母さんの体調が悪いから、学校も変わって、知らない町に来て、椿屋に泊まってる。なのに関係ないの?」
「澪」
「何を隠してるの?」
沙織は答えなかった。
その沈黙が、いちばん苦しかった。
「言えないこと?」
「……言えないというより、どう言えばいいか分からないの」
「じゃあ、分かってからでいいってこと?」
「そうじゃないわ」
「でも今は言わないんでしょ」
沙織の顔が悲しそうに歪んだ。
澪は、その顔を見た瞬間、自分がひどいことを言っていると分かった。
分かったのに、止まれなかった。
「ごめん。外、歩いてくる」
「澪」
「すぐ戻るから」
澪は逃げるように部屋を出た。
廊下に出ると、古い木の匂いがした。
その奥に、薄い椿の香り。
まただ。
何もかもが、椿に繋がっている。
腹が立って、悲しくて、怖くて、どうしたらいいか分からなかった。
玄関を出ると、空は曇っていた。
雨はまだ降っていない。
澪はあてもなく温泉街を歩いた。
饅頭屋の前を通り、足湯の横を抜け、細い路地へ入る。観光客の姿は少なく、夕方の支度をする旅館の人たちが忙しそうに行き来している。
澪は気づけば、湯守屋の前に来ていた。
来るつもりはなかった。
それなのに、足が勝手に向いていた。
湯守屋は椿屋より少し大きく、古いが手入れが行き届いている。玄関の前には水が打たれ、暖簾が静かに揺れていた。
引き返そうとしたとき、帳場の奥から透真が顔を出した。
「朝比奈さん?」
澪は、なぜかその声を聞いた瞬間、泣きそうになった。
泣かない。
泣くほどのことではない。
そう思うのに、喉の奥が熱くなる。
「……迷ったわけじゃないから」
澪が言うと、透真は少しだけ首を傾げた。
「そう」
「本当に」
「今は疑ってない」
「いつも疑ってるみたいに言わないで」
「疑うというより、確認してる」
「それ、似たようなものだよ」
澪は苦笑しようとして、失敗した。
透真はそれを見て、少しだけ声を落とした。
「中に入る?」
「いいの?」
「玄関までなら」
「客じゃないけど」
「迷子の保護という名目で」
「迷ってないって言ってるでしょ」
「じゃあ、休憩」
澪は小さく頷いた。
湯守屋の玄関に入ると、椿屋とは違う匂いがした。
乾いた畳。
磨かれた柱。
番茶。
温泉の湯気。
同じ温泉旅館なのに、こんなに違うのかと驚いた。
透真は帳場の横の小さな椅子を示した。
「座って」
「ありがとう」
澪が座ると、透真は奥へ行き、すぐに温かいお茶を持って戻ってきた。
「熱いから気をつけて」
「うん」
湯呑みを両手で包む。
温かい。
その温かさに、澪は少し落ち着いた。
「封筒のこと?」
透真が言った。
澪は湯呑みを見つめたまま、うなずいた。
「見えたんだ。母さんのバッグに、古い封筒。椿の押し花みたいなのが挟まってて」
「聞いた?」
「聞いた。昔のものだって。私には関係ないって」
言葉にすると、また胸が痛くなった。
「関係ないって、何なんだろうね。私は娘なのに」
透真はすぐには答えなかった。
その沈黙は、冷たくはなかった。
ちゃんと考えている沈黙だった。
「親にも、子どもに見せる顔と、見せない顔があるんだと思う」
「湯守くんのおばあちゃんも?」
「ある。多すぎる」
「それは大変そう」
「大変。帳場の引き出し一つ開けるにも、歴史が出てくる」
澪は少しだけ笑った。
透真は続ける。
「でも、見せない顔があるからといって、君を大事にしていないわけではないと思う」
「……分かってる」
「分かってても腹は立つ?」
「立つ」
「それも正しい」
その言い方に、澪はまた少しだけ救われた。
怒ってはいけない、と言われたら、たぶんもっとつらかった。
透真は、怒ってもいいと言っているように聞こえた。
「古い封筒に、何か書いてあった?」
「ちゃんとは見てない。でも……表に文字があった気がする。佐伯椿屋、板場より、みたいな」
透真の目がわずかに動いた。
「板場」
「料理するところ?」
「そう」
「何か知ってるの?」
「昨日、祖母から少し聞いた」
「何を?」
透真は一瞬だけ迷った。
その迷い方が、澪には分かった。
話していいことか、考えている。
「椿屋には昔、宗一という板前がいたらしい」
澪は湯呑みを持つ手に力を入れた。
「宗一……」
「知ってる?」
澪は首を振ろうとして、できなかった。
「昨日の夜」
声が小さくなる。
「母さんが寝言で言ってた」
透真は黙って聞いていた。
「ごめんなさい、宗一さんって」
言った途端、胸の奥がざわざわした。
父ではない男の名前。
母が知らない声で呼んだ名前。
それを自分の口で言うことが、なぜか少し怖かった。
「私、知らない。そんな人」
「うん」
「お父さんじゃない」
「うん」
「お母さん、何を隠してるんだろう」
透真は、湯呑みの湯気を見ながら言った。
「分からない」
「湯守くんでも?」
「僕に分かるのは、そこに古い手紙があるらしいことと、宗一という人がいたことだけ」
「少ないね」
「少ない」
「でも、何もないよりは多い」
「そうだね」
そのとき、奥から足音がした。
湯守千鶴だった。
着物姿で、背筋が伸びている。白髪をきちんとまとめ、目元には年齢相応の皺があるが、声には張りがあった。
「あら、透真。女の子を泣かせたのかい」
「泣かせてません」
「泣きそうな顔をさせるのも似たようなもんだよ」
「理不尽です」
「世の中はだいたい理不尽さ」
千鶴は澪を見ると、柔らかく笑った。
「あなたが朝比奈澪さんだね」
「あ、はい。お邪魔してます」
「邪魔なんてことないよ。透真が同年代の子を連れてくるなんて、うちではちょっとした祭りだからね」
「ばあちゃん」
「事実だろう」
澪は思わず笑ってしまった。
透真が本当に少し困った顔をしている。
千鶴は澪の向かいに座った。
「椿屋のことで悩んでいる顔だ」
澪は笑顔を引っ込めた。
この人もまた、よく見ている。
透真の祖母だと思うと、納得もできた。
「……母が、この町に昔来たことがあるみたいで」
「そうかい」
「千鶴さんは、知っていますか? 宗一さんって人のこと」
透真がわずかに身じろぎした。
聞くのか、と言いたそうだった。
けれど澪は、もう聞いてしまっていた。
千鶴はしばらく黙っていた。
それから、窓の外の曇り空を見た。
「宗一は、椿屋の板前だったよ」
「どんな人でしたか」
「無口な子だった。愛想はないが、包丁を持つと人が変わった。湯治客の体に障らないよう、味を薄くして、それでも寂しくならない料理を出す。そういうところに気の回る子だったね」
澪は息を詰めて聞いた。
「母と、知り合いだったんですか」
「昔、沙織さんは椿屋に湯治に来ていた」
「湯治……」
「体が弱かったんだろうね。今よりずっと若いころだ。宗一は、沙織さんの食事をよく気にしていた」
胸の奥が重くなる。
母には、澪の知らない時間がある。
知らない町で、知らない人に大切にされていた時間。
それは当たり前のことなのに、澪にはなぜか受け止めきれなかった。
「二人は」
澪は言いかけて、止まった。
聞いていいのか分からなかった。
千鶴は答えを急がなかった。
代わりに、静かに言った。
「人の昔話はね、本人の口から聞くのが一番いい」
「……はい」
「ただ、一つだけ言える。悪い話じゃないよ」
「悪い話じゃない?」
「ああ。誰かを傷つけるための話じゃない。たぶん、言えなかっただけの話だ」
言えなかっただけ。
その言葉が、澪の中に残った。
その日の夜、澪は椿屋へ戻った。
沙織は夕食を少しだけ食べ、薬を飲んで布団に入った。
澪は、結局その夜、封筒のことをもう一度聞けなかった。
聞けば、母を追い詰める気がした。
聞かなければ、自分が苦しい。
どちらも正しいようで、どちらも間違っている気がした。
部屋の灯りを少し落とすと、沙織は眠りに入った。
澪はその横で、膝を抱えて座っていた。
雨が降り始めていた。
しとしとと、屋根を打つ音がする。
中庭の椿が雨に濡れているだろう。
その光景を想像した瞬間、椿の香りがまた濃くなった気がした。
「……澪」
母が寝返りを打つ。
「起きてる?」
澪は小さく返事をした。
「起きてるよ」
だが、沙織は眠っていた。
寝言だった。
澪は身を乗り出す。
沙織の唇が、かすかに動いた。
「……ごめんなさい」
澪の心臓が跳ねる。
母の声は、ひどく弱かった。
「……宗一さん」
雨の音が、一瞬遠のいた。
澪は息を止めた。
父ではない名前。
古い封筒。
椿の押し花。
板場からの手紙。
母の知らない過去が、雨の夜に薄く輪郭を持ちはじめる。
澪は布団の横で動けなかった。
沙織は眠ったまま、眉を寄せていた。
泣きそうな顔だった。
澪は、そっと母の手を握った。
母の手は温かかった。
でも少し細くなっていた。
「お母さん」
澪は小さく呟いた。
「私、何を知らないの」
答えはなかった。
雨の匂い。
古い木の匂い。
消毒液。
薬。
そして、椿。
そのすべてが混ざり合って、椿屋の夜は静かに深くなっていった。




