第5話 湯守透真は探偵ではない
噂というものは、足がないくせによく走る。
しかも温泉町の噂は、湯けむりに乗る。
誰が言い出したのか、どこで尾ひれがついたのか、気づいたときにはもう、教室の隅から隅まで白く薄く広がっていた。
「椿屋の女湯に、また椿が浮いたらしい」
「夜中に水音がしたんだって」
「え、マジで幽霊じゃん」
「泊まってる転校生、見たんでしょ?」
朝比奈澪が教室に入った瞬間、いくつかの視線がこちらへ向いた。
悪意があるわけではない。
それは分かる。
でも、悪意がないことと、痛くないことは別だった。
好奇心というものは、時々、刃物より軽い顔で人に刺さる。
「おはよ、朝比奈さん」
仁科芽衣が、いつもより少し早足で近づいてきた。
その横には小坂杏もいる。杏は教室の空気を一目で察したのか、少し眉を寄せていた。
「おはよう」
澪は笑った。
昨日より少しだけ上手に笑えたと思う。
上手に笑えることが、嬉しいことなのかどうかは分からない。
「大丈夫?」
芽衣が小さな声で聞いてくる。
「うん。大丈夫」
「本当に?」
「うん。眠いだけ」
嘘ではない。
実際、眠かった。
夜中に椿の香りが漂うたび、目が覚めた。母の寝息を確認して、廊下の音に耳を澄ませて、何もないと分かってからまた布団に戻る。それを何度も繰り返した。
だから眠い。
それだけなら説明は簡単だ。
だが、眠れなかった理由まで説明するには、言葉が足りなかった。
「無理しないでね」
芽衣の声は柔らかかった。
澪はまた笑う。
「ありがとう」
席に着くと、隣の湯守透真はすでに本を開いていた。
今日の本は、古い温泉場の民俗誌らしい。背表紙が擦れていて、図書室の蔵書印が押されている。
高校生の朝読書として、やっぱり間違っている。
「おはよう、湯守くん」
「おはよう」
「今日は何読んでるの?」
「この町の古い湯治場について」
「それ、授業に関係ある?」
「ない」
「受験にも?」
「おそらくない」
「じゃあ何のために?」
「気になるから」
「そこは普通なんだ」
透真は本から目を上げた。
「普通?」
「うん。理由がシンプルで」
「僕はいつもシンプルだと思うけど」
「それはだいぶ認識がずれてる」
透真は少し考えた。
「認識のずれは、すり合わせる必要がある」
「朝から会議みたいにしないで」
「じゃあ放課後にする?」
「しない」
いつものやり取り。
澪は少しだけほっとした。
そのとき、前の席の黒瀬蓮が振り返った。
「お前ら、朝から仲いいな」
「どこが?」
澪と透真の声が重なった。
蓮は一瞬ぽかんとして、それからにやりと笑った。
「今のところ」
「重なっただけだよ」
「発声タイミングが一致しただけだ」
「ほら、息ぴったり」
「黒瀬くん、朝から楽しそうだね」
「俺は人生を明るく生きてるから」
蓮が胸を張ると、杏が横から言った。
「その明るさで、変な噂も吹き飛ばしてよ」
「変な噂?」
「椿屋の話。みんな朝比奈さんに聞きすぎ」
蓮は教室を見回して、すぐに表情を少し変えた。
「あー……なるほど」
軽いようで、意外と空気を読む。
蓮は立ち上がり、近くで盛り上がっていた男子たちに向かって声をかけた。
「おーい、宮原。幽霊より漢字テストのほうが出現率高いぞ」
「うわ、やめろ思い出させんな」
「昨日も言っただろ。椿より漢字見ろ」
「いや椿は書ける。幽霊も書ける」
「じゃあ昨日の範囲全部書ける?」
「それは無理」
「幽霊以前に現実で死ぬぞ」
そのやり取りで、教室の空気が少し変わった。
笑いが起こり、何人かが慌ててノートを広げる。
澪は小さく息を吐いた。
「黒瀬くん、すごいね」
「彼は便利だよ」
透真が言った。
蓮が即座に振り返る。
「おい、便利って言うな。せめて有能って言え」
「有能は評価が高すぎる」
「友達への評価が渋い」
「友達?」
「そこ疑うなよ!」
また笑いが起こる。
澪は、笑いながら少しだけ思った。
この教室は、悪い場所ではない。
悪気なく噂を楽しむ人もいるけれど、誰かがそれを止めてくれる場所でもある。
問題は、止めてもらったあとでも、心の中に残るざらつきだった。
椿屋は、母が静かに過ごすための場所だ。
体を休めるために来た場所だ。
それなのに、誰かの退屈しのぎの怪談になっている。
そのことが、澪には思った以上につらかった。
午前の授業は、流れるように過ぎていった。
漢字テストは予想より難しかった。椿は書けた。幽霊も書けた。けれど「湯治」の「治」を一瞬迷った自分に、澪は内心で苦笑した。
昼休み。
澪は芽衣と杏と一緒に弁当を広げた。
今日の母の弁当には、卵焼きが入っていなかった。代わりに、小さな鮭の切り身と、ほうれん草の胡麻和えが入っている。
母は朝、「今日は卵を切らしてたの」と言った。
けれど澪は、母が昨日より疲れていたことを知っている。
台所に立つ時間を少しでも減らしたのだ。
それでも弁当を作ってくれる。
だから澪は、残さず食べようと思った。
「朝比奈さん、今日の放課後どうする?」
杏が聞いた。
「どうって?」
「一緒に帰る? まだ道、完璧じゃないでしょ」
「郵便局の角は覚えた」
「そこだけ?」
「あと饅頭屋と足湯」
「観光客ルートじゃん」
芽衣が笑う。
「私、今日委員会あるからすぐ帰れないんだよね」
「あ、私は大丈夫。たぶん帰れる」
「たぶんって不安な言い方」
「最悪、湯気の濃いほうに行けば温泉街には戻れるかなって」
澪がそう言うと、隣から透真が口を挟んだ。
「湯気を目印にすると、共同浴場に出る。椿屋とは少し方向が違う」
「訂正ありがとう」
「どういたしまして」
杏がにやにやした。
「湯守、送ってあげれば?」
「僕が?」
「ほら、匂いで道分かるんでしょ」
「道は目で分かる」
「そこ普通なの、なんか腹立つな」
蓮がパンをかじりながら言った。
「湯守は朝比奈さん限定で道案内係になったのか」
「なってない」
「でも送ってるじゃん」
「途中までだ」
「出た。言い訳が堅い」
澪は慌てて言った。
「私が迷うから助けてもらってるだけだから」
「それ、湯守が言うなら分かるけど、朝比奈さんが言うと逆に怪しい」
杏が楽しそうに突っ込む。
「怪しくないよ」
「朝比奈さん、顔に出るタイプ?」
「え、出てる?」
「今は出てる」
澪は頬を押さえた。
透真は平然と弁当を食べている。
こういう話題には乗らないらしい。
助かるような、少し腹立つような。
そのとき、宮原がまた近づいてきた。
今度は少し遠慮がちな顔をしている。
「朝比奈、さっきは悪かったな」
「え?」
「朝、椿屋の話、みんなでしてたやつ。面白がってたみたいになって」
澪は少し驚いた。
宮原は人懐っこいが、鈍感そうでもある。謝られるとは思っていなかった。
「あ、ううん。大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ」
その声は、隣からだった。
透真だった。
教室の空気が一瞬止まる。
澪も目を見開く。
宮原が固まった。
「え、湯守?」
透真は箸を置いた。
「大丈夫と言う人間が、必ず大丈夫とは限らない」
「いや、それは……」
「写真を撮ったか、見たか、本当か。そういう質問をする前に、怖がっている人間がいる可能性を考えたほうがいい」
透真の声は大きくない。
怒鳴ってもいない。
でも、教室のざわめきがすっと引いていった。
「椿屋は誰かの宿泊先で、誰かの療養先で、誰かの職場だ。怪談にするのは簡単だけど、そこにいる人間は簡単じゃない」
澪は、息をするのを忘れた。
透真は続ける。
「幽霊の有無より、そのくらいは先に確認できる」
宮原は、しばらく黙ったあと、真面目な顔で頭を下げた。
「……悪かった」
透真はうなずいた。
「僕に謝ることじゃない」
宮原は澪を見る。
「朝比奈、ごめん」
澪は少しだけ迷ってから、ゆっくり答えた。
「うん。ありがとう」
ありがとう、で合っているのかは分からない。
でも、宮原がちゃんと謝ってくれたことは、少し嬉しかった。
それ以上に。
透真が、母の療養先という言葉を出したことに、胸がぎゅっとなった。
彼には、やっぱり分かっていた。
でも、彼は今まで言わなかった。
勝手に広めることも、問い詰めることもしなかった。
ただ、必要なときだけ、最小限の言葉で守った。
そう分かった瞬間、澪は何を言えばいいのか分からなくなった。
昼休みが終わるころ、透真はいつも通り本を開いていた。
澪は横から小さく言う。
「湯守くん」
「何」
「さっき、ありがとう」
「僕が気になったから言っただけだ」
「それでも」
「なら、どういたしまして」
その言い方が少し硬くて、澪は小さく笑った。
「だいぶ言えるようになったね」
「何が」
「どういたしまして」
「練習中だ」
「私の真似?」
「認識が更新された」
「なんか腹立つ」
午後の授業が終わるころには、椿屋の話題は少しだけ沈静化していた。
もちろん完全になくなったわけではない。
でも、少なくとも澪の前で面白半分に聞く生徒はいなくなった。
放課後。
澪は校門の前で透真を待った。
今度は、はっきり待っていた。
透真は図書室へ寄っていたらしく、古い本を二冊抱えて出てきた。
「待ってた?」
「うん」
澪が素直に答えると、透真は少しだけ意外そうな顔をした。
「珍しい」
「嘘つくの疲れたから」
「それはいい傾向かもしれない」
「でも、全部本当のこと言うのも疲れる」
「それも正しい」
二人は坂を下り始めた。
夕方の温泉街は、いつも通りだった。
観光客の声。旅館の玄関に撒かれる水。土産物屋の甘い匂い。遠くの共同浴場から上がる湯気。
日常が平気な顔をしている。
そのことに、澪は少しだけ腹が立った。
「ねえ、湯守くん」
「うん」
「調べてよ」
透真は足を止めなかった。
「何を」
「椿屋のこと。椿の花を置いてる人。椿油を動かしてる人。母さんが何を知ってるのかも」
「嫌だ」
即答だった。
澪は立ち止まった。
「……え?」
透真も数歩先で止まり、振り返る。
「嫌だ」
「なんで?」
「僕は探偵じゃない」
澪は一瞬、言葉を失った。
それから、胸の奥に溜まっていたものが一気に熱くなった。
「昨日まであれだけ見てたじゃん」
「見ただけだ」
「匂いも確認した」
「異常があったから」
「それ、調べてるって言うんだよ」
「違う」
「何が違うの?」
澪の声が少し大きくなった。
坂道を下っていた老夫婦が、ちらりとこちらを見る。
透真は声の大きさを変えなかった。
「気づくことと、暴くことは違う」
「暴くって」
「誰かが隠している理由を、本人の許可なく表に出すこと」
「でも、困ってる人がいる」
「いるね」
「母さんが怖がったら困るの。あの宿にいられなくなったら、本当に困るの」
言ってしまった。
胸の奥に押し込めていた言葉が、こぼれた。
澪は拳を握った。
「ここしかないの。母さんが少しでも楽になれるって言われたから来たの。あの旅館のお湯がいいって、お母さんが言うから。だから、幽霊だか嫌がらせだか知らないけど、変な噂でいられなくなったら困るの」
透真は黙っていた。
澪は止まれなかった。
「湯守くんなら分かるんでしょ? 匂いで。誰が何したか、普通の人より分かるんでしょ? だったら――」
喉が詰まった。
言いたくない言葉が、口から出た。
「何のためにそんな鼻してるの?」
言った瞬間、澪は後悔した。
透真の表情はほとんど変わらなかった。
でも、目だけが少しだけ静かになった。
怒ったのではない。
傷ついたのだと、澪には分かった。
透真は、しばらく黙っていた。
温泉街の音が、妙に遠く聞こえた。
やがて、透真は言った。
「目的を求められても困る」
声は、いつもと同じだった。
けれど、少しだけ硬い。
「生まれつきだ」
澪は唇を噛んだ。
「……ごめん」
「謝る必要はない」
「あるよ。今のは、ひどかった」
「ひどいかどうかより、君が焦っていることは分かった」
「そういう返し、ずるい」
「ずるい?」
「怒ってくれたほうが楽なのに」
透真は少し目を伏せた。
「怒ると、話が進まない」
「進めたいの?」
「進めたほうがいいとは思ってる」
「じゃあ」
「調べるとは言ってない」
澪は顔を上げた。
透真は坂の下にある椿屋の屋根を見ていた。
「ただ、匂いの出どころを確認するだけだ」
澪は一瞬ぽかんとして、それから小さく笑った。
「それを世間では調べるって言うんだけど」
「世間は言葉を雑に使う」
「知ってる。もう知ってる」
澪は、少しだけ目元をこすった。
泣いてはいない。
泣いていないことにした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「また言えた」
「練習の成果だ」
「湯守くんってさ」
「うん」
「本当に、面倒くさいね」
「それもよく言われる」
「でも、助かる」
透真は少しだけ視線をそらした。
「それは、あまり言われない」
「じゃあ覚えておいて」
「記録しておく」
「本当にしそうで怖い」
「必要なら」
「必要ない」
二人はまた歩き出した。
椿屋に近づくにつれ、椿の香りが少しずつ濃くなる。
澪にも分かる。
甘くて、重くて、どこか古い。
それに混じって、湯の匂い。
木の匂い。
母の薬の匂い。
透真は玄関の前で足を止めた。
「今日は、女将さんに話を聞く」
「私も行く」
「お母さんのところにいたほうがいい」
「でも」
「君がいると、女将さんは君に言えないことを隠すかもしれない」
澪は反論しかけて、できなかった。
それはたぶん、正しい。
「……分かった」
「聞いたことは、必要な範囲で話す」
「必要じゃないって判断したら?」
「話さない」
「そこは嘘でも全部話すって言ってよ」
「嘘は増えすぎると疲れる」
澪は苦笑した。
「それ、私に言ってる?」
「自分にも」
意外な返事だった。
澪が見上げると、透真はすでに玄関を見ていた。
「湯守くんも、嘘つくの?」
「つく」
「どんな?」
「大丈夫、とか」
澪は黙った。
それは、自分がよく使う言葉だった。
透真はそれ以上何も言わず、椿屋の玄関へ向かった。
女将のふみは、透真を見ると少しだけ驚いた顔をした。
「透真くん」
「少し、お話を伺ってもいいですか」
ふみは澪を見る。
澪はうなずいた。
「私は母のところにいます」
ふみは何かを察したように、静かに頷いた。
「分かりました。透真くん、こちらへ」
透真は澪に軽く目を向けた。
「何かあったら呼んで」
「うん」
短いやり取りだった。
けれど澪は、それだけで少し落ち着いた。
部屋へ戻ると、沙織は窓際に座っていた。
薄い羽織を肩にかけ、庭の椿を見ている。
「おかえり、澪」
「ただいま。起きてて大丈夫?」
「今日は少し調子がいいの」
「無理してない?」
「少しだけ」
「そこは嘘でもしてないって言うところじゃない?」
沙織は小さく笑った。
「嘘をつくと、あなたに怒られるでしょう」
澪は胸が少し痛くなった。
「怒らないよ」
「そう?」
「……たぶん」
「たぶんなのね」
母は穏やかに笑った。
けれど、その笑顔の奥に、疲れと、何か別の影があった。
澪は、聞きたいことが山ほどあった。
宗一という名前。
椿を見たときの母の顔。
なぜこの旅館に来たのか。
でも、透真の言葉が頭に残っていた。
聞かれたくないことを聞かれると、人は嘘を増やす。
だから澪は、まだ聞かなかった。
代わりに、母の隣に座った。
「椿、綺麗だね」
「ええ」
「お母さん、椿好きなの?」
沙織は少しだけ間を置いた。
「好きだったわ」
「だった?」
「今も好きよ。でも、昔ほど簡単には見られない」
澪には、その意味が分からなかった。
けれど、今は聞かなかった。
そのころ、透真は椿屋の奥の小さな応接間に通されていた。
古い木のテーブル。
少し沈む椅子。
壁には、昔の椿屋の写真が飾られている。
ふみはお茶を出し、向かいに座った。
「透真くん、あなたは本当に探偵みたいね」
「違います」
「すぐ否定するのね」
「探偵は職業です。僕は高校生で、旅館の息子です」
「でも、気づいてしまう」
「それだけです」
ふみは湯呑みに視線を落とした。
「気づいてしまう人は、つらいでしょう」
透真は答えなかった。
ふみは続ける。
「椿の花を置いた人を探しているの?」
「花だけではありません。椿油の小瓶を動かした人もです」
ふみの指が止まった。
「別人だと思う?」
「匂いが違います」
「そう」
「女将さんは、心当たりがありますか」
ふみは静かに息を吐いた。
「ある、と言えばあるわ。ない、と言えばない」
「一番困る答えです」
「でしょうね」
ふみは少しだけ笑った。
でも、すぐに表情を戻す。
「椿屋には、昔から椿にまつわる話があるの。宿の名前のせいもあるし、中庭の古い椿のせいもある。だから、誰かが椿の花を置けば、すぐに幽霊の噂になる」
「誰かがそれを利用している」
「そうかもしれない」
「美奈さんは?」
ふみは目を伏せた。
「疑っているの?」
「昨夜、花を見たときの反応が不自然でした」
「透真くんは容赦ないわね」
「容赦すると、分からなくなります」
「分からないままにしておいたほうがいいこともある」
「あります」
透真は即答した。
ふみは少し驚いたように顔を上げる。
透真は続けた。
「でも、怖がっている人がいます。困っている人もいます。なら、少なくとも危険があるかどうかは確認したい」
ふみは長い間、黙っていた。
廊下の向こうから、湯の流れる音がする。
古い旅館の木材が、かすかに鳴った。
「椿屋はね」
ふみはぽつりと言った。
「もう、昔みたいにはいかないの」
透真は黙って聞いた。
「客は減ったわ。建物は古い。修繕費はかかる。若い人は町を出ていく。美奈さんだって、本当はもっと条件のいいところで働ける子よ」
「給料が遅れているんですか」
ふみの顔が強張った。
「……どこでそれを」
「帳場の封筒に、未払い分と書かれたメモがありました。見えました」
「嫌な子ね」
「よく言われます」
「褒めてないわ」
「知っています」
ふみは、困ったように笑った。
その笑みには疲労が滲んでいた。
「美奈さんには迷惑をかけている。だから、もしあの子が何かしたとしても、責めきれない」
「それでも、人を怖がらせていい理由にはなりません」
「分かっているわ」
ふみは手で顔を覆うようにして、少しだけ目を閉じた。
「分かっているの。分かっているのに、宿を守ることばかり考えてしまう」
その声は、女将ではなく、一人の人間の声だった。
透真はしばらく黙ってから言った。
「椿油の小瓶は、どこにありますか」
「帳場の引き出しに」
「見せてもらえますか」
「ええ」
ふみが立ち上がったとき、廊下の向こうで誰かの足音がした。
軽い足音。
若い女性。
ふみが顔を向ける。
「美奈さん?」
足音は一瞬止まり、それから遠ざかった。
透真は立ち上がった。
「今のは」
「……美奈さんね」
「追いますか」
ふみは迷った。
透真は静かに言う。
「今追うと、たぶん逃げます」
「では?」
「夜に動くなら、夜に見るほうがいい」
ふみは透真を見た。
「やっぱり探偵みたい」
「違います」
「分かったわ。違うのね」
ふみは小さく笑った。
その日の夜。
湯守透真は湯守屋の帳場にいた。
祖母の千鶴が、帳簿を閉じながら言う。
「椿屋に首を突っ込んでいるね」
「突っ込んでいません」
「鼻だけ?」
「……表現が嫌です」
「事実だろう」
「ばあちゃんまで雑にならないでください」
千鶴は愉快そうに笑った。
湯守屋の帳場には、椿屋とは違う匂いがある。
磨かれた木。
乾いた畳。
番茶。
古い帳簿の紙。
そして、温泉の湯気。
透真にとっては、育った場所の匂いだった。
「椿屋の椿はね」
千鶴が、ふいに言った。
「昔から人の未練を吸うって言われてる」
透真は眉をひそめた。
「ばあちゃんまで幽霊ですか」
「幽霊なんて可愛いもんさ」
千鶴は湯呑みを持ち上げた。
「本当に厄介なのは、生きてる人間の未練だよ」
「未練」
「言えなかったこと。渡せなかったもの。謝れなかった相手。そういうものは、湯に流したつもりでも残る」
「匂いみたいに?」
「そう。あんたなら分かるだろう」
透真は答えなかった。
千鶴は窓の外を見た。
夜の温泉街に、白い湯けむりが漂っている。
「椿屋には、昔、宗一という板前がいた」
透真の目がわずかに動いた。
「宗一」
「腕のいい子だったよ。無口で、不器用で、でも湯上がりの客に出す一品には妙に心があった」
「その人が、今回の件に関係あるんですか」
「さあね」
「ばあちゃん」
「私が話すことじゃない」
「またそれですか」
千鶴は透真を見た。
その目は、いつもの茶化すようなものではなかった。
「透真。覚えておきな」
「はい」
「人の秘密は、正しさだけで触ると割れる」
帳場が静かになった。
湯の流れる音だけが聞こえる。
透真は、その言葉をしばらく黙って受け止めた。
「……分かっています」
「ならいい」
千鶴はまた湯呑みを口に運んだ。
透真は窓の外を見た。
椿屋のほうは、夜の湯気に隠れて見えない。
けれど、あの宿の匂いは、まだ鼻の奥に残っている。
椿油。
古い紙。
薬品。
夜露に濡れた花。
そして、言えなかったこと。
透真は小さく呟いた。
「探偵じゃないんだけどな」
自分で言った言葉が、少しだけ空しく響いた。
探偵ではない。
事件を解く義務もない。
誰かの秘密を暴く権利もない。
それでも、怖がっている人がいる。
困っている人がいる。
そして、自分は気づいてしまった。
気づいてしまった以上、見なかったことにできるほど器用でもなかった。
夜の温泉街は静かだった。
だが、その静けさの奥で、椿の香りだけが濃くなっている気がした。




