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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第4話 夜の浴場に浮かぶ赤い花

 その朝、朝比奈澪は、自分がちゃんと笑えているのか分からなかった。


 坂道を上る足が重い。


 眠れていないせいだと思いたかった。


 昨夜、椿屋の廊下に落ちていた赤い椿。


 湯気の向こうに見えた気がした人影。


 浴場のほうから聞こえた水音。


 部屋に戻ってからも、澪はずっと耳を澄ませていた。母の寝息。旅館の柱がきしむ音。どこか遠くで湯が流れる音。そのすべてが、自分を呼んでいるように感じた。


 けれど、朝になると世界は平気な顔をしている。


 共同浴場からはいつも通り湯気が上がり、饅頭屋のおばさんは店先を掃き、通学路では一年生らしい男子たちがふざけながら坂を上っている。


 昨日の夜だけが、悪い夢だったみたいだ。


 そう思いたいのに、靴先には、潰れた椿の花弁の跡が残っていた。


「朝比奈さん」


 隣を歩く湯守透真が言った。


「何?」


「転ぶよ」


「え?」


 その瞬間、澪は石畳の段差につまずいた。


「うわっ」


 転びかけたところで、透真が鞄を持っていないほうの手で、澪の腕を軽く支えた。


 ほんの一瞬だった。


 透真はすぐに手を離す。


「見事に注意した直後だった」


「言い方」


「事実だ」


「助けてくれたことは感謝するけど、言い方で感謝が目減りする」


「目減りする感謝なら、最初からそれほど多くない」


「そういうところだよ」


 澪は言い返しながら、少しだけほっとしていた。


 いつもの調子。


 面倒くさい会話。


 それがあるだけで、昨夜の薄暗い廊下が少し遠くなる。


 透真は澪の顔を見た。


「眠れてないなら、今日は無理に笑わなくていい」


 澪は息を止めた。


「……笑ってた?」


「笑おうとして失敗してた」


「そこまで言う?」


「言葉を柔らかくすると、伝わらないことがある」


「柔らかくして伝える努力をしようよ」


「努力目標にする」


「絶対しないやつだ」


 澪は小さく笑った。


 けれど、その笑いはすぐに消えた。


「ねえ、湯守くん」


「うん」


「昨日の夜のこと、やっぱり女将さんに言ったほうがいいかな」


「言ったほうがいい」


「母さんには?」


「言いたくないなら、まだ言わなくていい」


 透真は迷わず言った。


 澪は少し驚いて彼を見る。


「どうして?」


「お母さんに伝えるかどうかは、君が決めることだから」


「……湯守くん、そういうところだけ妙にちゃんとしてるよね」


「だけ、は余計だ」


「ごめん。九割面倒くさいけど、一割ちゃんとしてる」


「割合が下がった」


「昨日は二割だったっけ」


「記録してない」


「私はしてる」


「それは困る」


 透真が本当に少し困った顔をしたので、澪はまた笑った。


 やっぱり、少し助かる。


 学校に着くころには、澪の顔色も少しだけ戻っていた。


 けれど教室に入ると、その小さな平穏はあっさり崩れた。


「朝比奈さん!」


 席に着く前に、小坂杏が駆け寄ってきた。


「昨日、椿屋で何かあった?」


 澪は鞄を机に置きそこねた。


「え?」


「うちの母さんが言ってた。昨日の夜、椿屋の前で誰かが騒いでたって」


「騒いでた?」


「いや、詳しくは知らないけど。お客さんが廊下で赤い花を見たとか何とか」


 仁科芽衣が杏の後ろから顔を出した。


「杏、朝から詰め寄りすぎ」


「だって気になるじゃん」


「気になるのは分かるけど」


 澪は、なるべく普通に笑った。


「私もよく分からない。夜は母さんと部屋にいたし」


 嘘ではない。


 部屋にはいた。


 その前に廊下へ出たことを言っていないだけだ。


 ただ、それを聞いていた透真が、隣でわずかに椅子を引く音がした。


 澪はそちらを見ないようにした。


 杏は納得していない顔だったが、芽衣が話題を変えてくれた。


「それより、今日の現代文、漢字テストあるよ」


「え、聞いてない」


「昨日言ってたよ」


「転校生に厳しくない?」


「先生、たぶん忘れてる」


 澪は慌ててノートを開いた。


 漢字テスト。


 普通の高校生活。


 幽霊より、ある意味では現実的に怖い。


 その後の午前中は、妙に長かった。


 授業の内容は頭に入ってこない。ノートを取っているつもりでも、気づけば余白に小さな椿の花を描いていた。


 昼休みになると、クラスの話題はまた椿屋の幽霊に戻った。


 宮原が弁当を片手にやって来る。


「なあ、湯守。椿屋の幽霊って昔からあるんだろ?」


「僕に聞くな」


「温泉町の生き字引みたいな顔してるから」


「顔で判断するな」


 蓮が笑いながら割り込む。


「湯守の顔は生き字引っていうより、古文書を読んで文句言う顔だろ」


「具体的に失礼だな」


「褒めてる」


「褒めてない」


 宮原は椅子を引っ張ってきて座った。


「でもさ、椿屋って経営やばいって噂もあるじゃん? 幽霊騒ぎって、客寄せだったりして」


 その言葉に、澪は箸を止めた。


 杏がすぐに眉をひそめる。


「そういう言い方やめなよ。朝比奈さん泊まってるんだから」


「あ、悪い。そういうつもりじゃなくて」


「どういうつもりでも感じ悪い」


 杏がはっきり言うと、宮原は気まずそうに頭をかいた。


「ごめん、朝比奈」


「ううん。大丈夫」


 澪は笑った。


 でも、大丈夫ではなかった。


 椿屋の経営が苦しい。


 それは、昨日女将のふみの顔を見て、何となく分かっていた。


 古い廊下。


 少ない客。


 丁寧だけれど、どこか節約が見える食事。


 母があの旅館を気に入っているから、澪は見ないふりをしていた。


 透真が静かに言う。


「幽霊で客を呼ぶなら、もう少し演出が派手になる」


 宮原が顔を上げる。


「え?」


「花びら一枚や一輪では効率が悪い。客寄せなら、SNSに載るような見せ方をする。浴場に大量の椿を浮かべるとか、夜の廊下に灯りを並べるとか」


「やけに具体的だな」


「観光資源として考えればそうなる」


 蓮がにやにやした。


「湯守、椿屋のプロデュースできそう」


「しない」


「でも今のちょっと良さそうだったぞ。椿幽霊ナイトプラン」


「泊まりたくない」


 杏が即答し、教室が笑った。


 澪も少しだけ笑った。


 透真は、澪に直接は何も言わない。


 でも、宮原の言葉をそのまま残さなかった。


 それが分かったから、少しだけ胸の奥が温かくなった。


 放課後、澪は校門の前で透真を待った。


 待つつもりはなかった。


 でも、足が自然に止まっていた。


 透真は少し遅れて出てきた。手にはまた本を持っている。


「待ってた?」


「待ってない」


「そう」


「嘘。少し待ってた」


「正直でよろしい」


「先生みたいに言わないで」


 二人は坂を下り始めた。


 夕方の温泉街は、昨日よりも騒がしく感じた。観光客が数人、椿屋の前で立ち止まって何かを話している。土産物屋の老婆が、店先からちらちらと椿屋のほうを見ていた。


 澪は小さく息を吐く。


「噂、広がってるね」


「温泉町だから」


「湯より早いんだっけ」


「祖母の言葉を覚えてるんだ」


「印象的だったから」


「本人が聞いたら喜ぶ」


「湯守くんのおばあちゃん、どんな人?」


「女将」


「それ職業」


「強い人」


「へえ」


「あと、僕より口が強い」


「それは一度会ってみたい」


「おすすめはしない」


「なんで?」


「気に入られたら逃げられない」


「怖い言い方」


 そんな話をしているうちに、椿屋に着いた。


 玄関前には、女将のふみが立っていた。


 いつもの穏やかな顔ではなかった。困り果てたように、眉尻を下げている。


「澪ちゃん、透真くん」


「何かありましたか」


 透真が先に聞いた。


 ふみは玄関の奥を気にしながら、小さく言った。


「昨夜、お客様が廊下で椿の花を見たとおっしゃって……今朝から、少し騒ぎになっているの」


 澪は胸が重くなった。


 自分だけではなかった。


 他の客も見ていた。


「浴場は?」


 透真が尋ねる。


「今は何もないわ。ただ……」


 ふみは言いよどんだ。


 澪が聞く。


「ただ?」


「脱衣所の鏡台に、また椿油の小瓶が出ていたの。昨日、片づけたはずなのに」


 澪の背中に冷たいものが走った。


 透真の表情が少しだけ鋭くなる。


「誰が片づけましたか」


「私よ。帳場の引き出しに入れておいたの」


「鍵は?」


「帳場だから、誰でも入れる場所ではないけれど……鍵をかけるほどでは」


「今、その小瓶は?」


「また帳場に戻したわ」


 透真は少し考えた。


「今日の夜、浴場を確認したほうがいいかもしれません」


 澪は思わず透真を見た。


「夜?」


「夜に出るなら、夜に見るしかない」


「正論だけど怖い」


「君は来なくていい」


「それはそれで気になる」


「どちらにしても怖いなら、来ないほうが安全」


「でも」


 澪が言いかけたとき、廊下の奥から母の声がした。


「澪?」


 沙織が、羽織を肩にかけて立っていた。


「お母さん。寝ててって言ったのに」


「ずっと寝ていたら、本当に病人みたいになるわ」


「病人だよ」


「少しだけね」


 沙織はそう言って笑った。


 澪は何も言えなくなる。


 沙織は透真に気づき、会釈した。


「湯守くん、また澪を送ってくれたの?」


「途中までです」


「ありがとう」


「いえ」


 沙織は椿屋の奥を見た。


 その目が、浴場のほうへ一瞬だけ向いた。


 澪は気づいた。


 母は何かを知っている。


 少なくとも、椿の匂いに驚いていない。


 沙織はふみに言った。


「女将さん、あとで少しお湯をいただいてもいいですか」


「ええ、もちろんです」


「お母さん、今日はやめたほうが」


「大丈夫。ここのお湯に入ると、少し楽なの」


 そう言われると、澪は止められなかった。


 透真が静かに沙織を見ていた。


 何かを聞きたそうに。


 けれど、聞かなかった。


 夕食後。


 椿屋の空気は、いつもより重かった。


 客たちの声が少ない。廊下を歩く足音も、どこか遠慮がちだ。誰もが幽霊の噂を意識しているようだった。


 沙織は薬を飲み、少し休んだあと、浴場へ行くと言った。


 澪は心配でついていこうとしたが、沙織に止められた。


「一人で大丈夫よ。すぐ戻るから」


「でも」


「澪まで疲れた顔をしないの」


 母にそう言われて、澪は返事を失った。


 沙織は優しく笑い、廊下の向こうへ歩いていった。


 障子が閉まる。


 部屋に一人残された澪は、膝の上で手を握りしめた。


 行かないほうがいい。


 でも母が浴場にいる。


 何かあったら。


 そう思うと、じっとしていられなかった。


 澪は部屋を出た。


 廊下は薄暗い。


 非常灯の緑が、古い柱を照らしている。


 浴場のほうから湯気が流れてきた。


 椿の香りも。


 強い。


 昨日より、さらに。


 澪は足を進めた。


 脱衣所の前まで来たとき、中から母の咳が聞こえた。


「お母さん?」


 澪は反射的に声をかけた。


 返事はない。


 胸がざわつく。


 女湯の暖簾をくぐり、脱衣所へ入る。


 母の着替えが籠に入っていた。


 浴場の扉の向こうから、湯気が漏れている。


「お母さん、大丈夫?」


 澪は扉を少し開けた。


 白い湯気が顔に当たる。


 石造りの浴槽。


 湯船の奥に、沙織がいた。


 ちゃんといる。


 倒れてはいない。


 澪はほっと息を吐いた。


「澪? どうしたの」


「咳が聞こえたから」


「平気よ。少しむせただけ」


「本当に?」


「本当」


 沙織は困ったように笑った。


 そのときだった。


 浴場の窓の近くで、ぽたり、と音がした。


 澪は視線を動かした。


 湯船の水面に、赤いものが浮いていた。


 椿の花。


 一輪。


 真っ赤な花が、湯の上でゆっくり揺れていた。


 澪は声を失った。


 窓は閉まっている。


 浴場には、母しかいない。


 そして、母は湯船の奥にいる。


 花は、いつの間にかそこにあった。


「お母さん……」


 沙織も花に気づいた。


 その顔から、血の気が引いたように見えた。


 驚きだけではない。


 懐かしさ。


 痛み。


 何かを押し殺すような表情。


「……椿」


 沙織が小さく呟いた。


 その声は、澪の知らない母の声だった。


 次の瞬間、脱衣所の外から足音が近づいた。


「どうしました?」


 女将のふみの声。


 澪は振り返る。


「女将さん、花が……湯船に……」


 ふみが浴場の入口に立ち、湯船を見た。


 その顔もまた、強張った。


 そして、遅れてやって来た仲居の美奈が、小さな悲鳴を上げた。


「また……」


 その一言を、澪は聞き逃さなかった。


「また?」


 美奈は慌てて口を押さえる。


 ふみが厳しい目で美奈を見た。


「美奈さん」


「す、すみません」


 澪の心臓が早くなる。


 また。


 つまり、前にも同じことがあった。


 廊下のほうが騒がしくなった。


 他の客が何事かと顔を出している。


 ふみはすぐに女将の顔に戻り、声を抑えて言った。


「皆さま、申し訳ありません。何でもございません。少し備品の確認をしていただけです」


 そんな説明で納得する人は少なかった。


 けれど、ふみの声音には、客をそれ以上踏み込ませない力があった。


 騒ぎは大きくならずに済んだ。


 沙織は湯から上がり、ふみと美奈に支えられて部屋へ戻った。


 澪はその間ずっと、湯船に浮かぶ赤い椿を見ていた。


 花は湯気の中で、まるで最初からそこにあったように静かに揺れていた。


 少しして、旅館の玄関のほうから低い声がした。


「こんばんは」


 湯守透真だった。


 澪は脱衣所の外へ出た。


「湯守くん」


「連絡をもらった」


「誰から?」


「女将さん。夕方、何かあったら呼んでくださいと伝えておいた」


「そんなことしてたの?」


「君が来なくても済むように」


 澪は何か言おうとして、言葉を失った。


 透真は浴場の中には入らず、廊下に立ったまま言った。


「花は?」


「湯船に浮いてた」


「窓は」


「閉まってた」


「浴場にいたのは?」


「母さんだけ」


「お母さんが置いた可能性は」


 澪は強く首を振った。


「ないと思う」


「思う?」


「……分からない。でも、あの反応は違う」


 透真は澪の顔を見た。


 澪は自分の声が少し震えていることに気づいた。


「母さん、あの花を見て、驚いたっていうより……知ってるみたいだった」


「そう」


「ねえ、湯守くん。これ、何なの?」


「まだ分からない」


「分からないことばっかり」


「だから減らす」


 透真は静かに言った。


「まず、花は誰かが置いた」


「でも窓は閉まってたよ」


「なら、浴場に入れる人間。女将さん、仲居さん、宿泊客、あるいは君のお母さん」


「お母さんは違う」


「感情としては分かる。でも候補から消すには材料がいる」


 澪は唇を噛んだ。


 透真の言葉は冷たく聞こえた。


 けれど、彼は母を疑いたくて言っているわけではない。


 それも分かる。


「それと」


 透真は浴場のほうを見た。


「花に外の匂いが残っているか確認したい」


「どうやって?」


「触らずに近くで匂いを」


「変な顔されるよ」


「今さらだ」


 澪は、こんな状況なのに少しだけ笑ってしまった。


 透真は本当に、今さらだった。


 ふみの許可を得て、透真は暖簾の外、廊下側からできる範囲で浴場の空気を確認した。


 花そのものは、ふみが竹の柄杓でそっとすくい、白い皿に乗せた。


 透真はそれに顔を近づけすぎない距離で、しばらく黙っていた。


 澪は横で見ているしかなかった。


「外の雨の匂いがする」


 透真が言った。


 ふみが眉を寄せる。


「雨なんて降っていないわ」


「今夜は降っていません。でも、花は濡れた土の匂いを持っている。中庭の根元か、石灯籠の近く。浴場内で濡れた匂いとは違います」


「つまり?」


 澪が聞く。


「この花は、浴場の中で落ちたものじゃない。誰かが外から持ち込んだ」


「やっぱり人間……」


「それから」


 透真は皿の上の椿を見た。


「切り口が新しい。枝から落ちた花じゃない。摘まれている」


 美奈が息を飲んだ。


 ふみが振り返る。


「美奈さん?」


「いえ、何でも……」


 その様子を、澪も透真も見た。


 けれど透真はすぐには問い詰めなかった。


 ふみが疲れたように言う。


「今夜はもう遅いわ。お客様にも説明しないといけないし……」


「分かりました」


 透真はうなずいた。


 それから澪を見た。


「今日は部屋から出ないほうがいい」


「出たくないよ」


「ならいい」


「母さんは?」


「お母さんの近くにいて」


 澪はうなずいた。


 その夜、澪は母の布団の横で眠った。


 沙織は何も聞かなかった。


 澪も何も聞けなかった。


 椿の花を見たときの母の顔が、ずっと頭から離れなかった。


 翌朝。


 当然のように、椿屋の噂は学校に広まっていた。


 誰が話したのかは分からない。客か、近所の人か、あるいは旅館で働く誰かか。


 教室に入るなり、何人もの視線が澪に向いた。


「朝比奈さん、昨日また出たって本当?」


「湯船に椿が浮いてたって」


「怖すぎない?」


 澪は笑おうとした。


 でも、うまくいかなかった。


 そこへ、透真が隣の席に座りながら言った。


「幽霊ではない」


 教室の空気が止まった。


 宮原が聞く。


「なんで分かるんだよ」


「花に外の土の匂いが残っていた。窓は閉まっていた。自然に入ったものではない。なら、誰かが持ち込んだ」


「いや、それはそれで怖いんだけど」


 蓮が低い声で言った。


「確かに」


 杏が眉をひそめる。


「誰かの嫌がらせってこと?」


「可能性はある」


 透真は言った。


「でも、目的はまだ分からない」


「湯守くん」


 澪が小さく呼ぶ。


 透真はこちらを見た。


「昨日、ありがとう」


「何も解決してない」


「でも、幽霊じゃないって言ってくれた」


「事実を言っただけだ」


「それでも」


 澪は息を吸った。


「少し怖くなくなった」


 透真は、一瞬だけ言葉に迷ったようだった。


 そして、いつもの調子で言った。


「それなら、事実にも多少は効能がある」


「温泉みたいに言うね」


「事実の効能は個人差があります」


 蓮が吹き出した。


「何だよ、その注意書き」


 教室に笑いが戻った。


 澪も、今度は少しだけ自然に笑えた。


 けれど、問題は終わっていない。


 むしろ、始まったばかりだ。


 椿の花を置いた人間がいる。


 椿油の小瓶を動かした人間がいる。


 そして、母は何かを知っている。


 透真は窓の外を見た。


 温泉街の屋根の向こうに、椿屋の古い建物が小さく見える。


「花を置いた人間と、椿油を残した人間は同じとは限らない」


 透真が呟いた。


 澪は聞き返す。


「どういうこと?」


「匂いが少し違う」


「匂いが?」


「花には土と夜露。油には古い紙と薬品。混じっているけど、出どころが同じにしてはずれている」


「じゃあ、二人いるってこと?」


「可能性はある」


 澪は胸の奥が冷えるのを感じた。


 一人ではない。


 そう思った瞬間、椿屋の廊下がさらに暗くなる。


 透真は、澪の不安を見たのか、少しだけ声を和らげた。


「でも、人間なら、跡を残す」


「幽霊じゃないから?」


「そう」


 透真は静かに言った。


「人間は、匂いを消しきれない」


 澪はうなずいた。


 まだ怖い。


 でも、ただ怖がるだけではいられない。


 椿の赤い花は、湯けむりの奥から何かを訴えている。


 それが誰の声なのか、まだ分からない。


 けれど澪は、もう目を逸らせない気がしていた。

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