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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第3話 椿屋の幽霊

朝比奈澪は、幽霊を信じていない。


 少なくとも、信じていないことにしている。


 夜の廊下に落ちていた椿の花びらも、誰もいない浴場のほうから漂ってきた甘い香りも、古い旅館特有の薄暗さが見せた錯覚だと思うことにした。


 そうしないと、眠れない。


 昨夜は、母の咳が落ち着いたあとも、布団の中で何度も目を開けた。障子の向こうに誰かが立っているような気がして、けれど確かめる勇気はなく、布団を顎まで引き上げた。


 朝になってみれば、全部くだらない。


 昼の光の下では、幽霊なんて馬鹿馬鹿しい。


 そう思える。


 だから澪は、登校中の坂道で湯守透真に会ったとき、わざと軽い声で言った。


「ねえ、湯守くん」


「何」


「幽霊って、信じる?」


 透真は、温泉街の坂を上りながら少しだけ目を細めた。


「質問の範囲が広い」


「また面倒くさい始まり方した」


「幽霊という言葉には、死者の魂、未知の自然現象、見間違い、作り話、観光資源、罪悪感の投影まで含まれる。どれについて聞いてる?」


「朝から分類しないでよ」


「分類しないと答えられない」


「普通に、いると思う? でいいじゃん」


「いると断言する材料はない。いないと断言する材料もない」


「ずるい答え」


「正確な答え」


「じゃあ、夜中に誰もいないはずの浴場から椿の匂いがして、花びらが落ちてたら?」


 透真の足が、一瞬だけ遅くなった。


 ほんの少しだった。


 けれど澪には分かった。


 今のは、聞き流していない。


「見たの?」


「……たぶん」


「たぶん?」


「眠かったし。母さんが咳してたから、ちゃんとは見てない」


「廊下?」


「うん。浴場へ行く角のところ」


「花びらは一枚?」


「たぶん一枚。赤いやつ」


「濡れてた?」


「え?」


「花びらが濡れていたかどうか」


 澪は記憶を探った。


 薄暗い廊下。


 湯気。


 赤い花びら。


 その表面に、少し光があったような気がする。


「……濡れてたかも」


「外から持ち込まれた可能性がある」


「なんで?」


「中庭の椿なら、夜露がつく。浴場の湿気でも濡れるけど、廊下の角に落ちていたなら、誰かが運んだ途中で落とした可能性が高い」


「幽霊じゃなくて?」


「幽霊が花びらを運ぶなら、かなり物理法則に協力的な幽霊だ」


「やっぱりそこに突っ込むんだ」


 透真は真顔だった。


 澪は少しだけ笑った。


 怖かったものが、透真の口を通すと、どこか間の抜けたものになる。


 それは救いでもあった。


 けれど同時に、別の怖さも出てくる。


 幽霊ではない。


 なら、誰かがやっている。


 そう考えると、昨夜の廊下は急に違う意味を持ちはじめる。


「ねえ、湯守くん」


「何」


「誰かがやってるとしたら、何のためだと思う?」


「分からない」


「そこは分からないんだ」


「動機は匂いじゃ分からない。人間に聞くしかない」


「じゃあ聞く?」


「誰に」


「椿屋の人とか」


 透真はすぐには答えなかった。


 坂の途中で、共同浴場から出てきた老人が、二人に向かって「おはよう」と声をかけてきた。透真が軽く頭を下げる。澪も慌てて会釈した。


 老人が通り過ぎると、透真は言った。


「人の宿に踏み込む理由がない」


「私、泊まってる」


「君が怖いなら、女将さんに言えばいい」


「怖いとは言ってない」


「言ってないだけだ」


 澪は黙った。


 透真はそういうところだけ、嫌になるくらい外さない。


「……怖いっていうか」


「うん」


「母さんが気に入ってるの、あの旅館」


 言ってから、澪は自分でも少し驚いた。


 学校では言わないようにしていたことが、透真の前だと半端にこぼれる。


 母の病気のことまでは言えない。


 でも、全部を嘘で固めるのは、少しだけ苦しくなっていた。


「あの宿が変な噂で騒がしくなったら、困るなって思って」


「君が困る?」


「母さんが困る」


「そう」


 透真は短く返した。


 そのあと、いつものように余計なことを言わなかった。


 学校へ着くまで、二人はしばらく黙って歩いた。


 湯気の匂いが、坂の下から追いかけてくる。


 澪は、その匂いをもう「卵が腐った匂い」とは思わなかった。


 でも、何と呼べばいいのかは、まだ分からなかった。


 教室に入ると、椿屋の噂は昨日より少し広がっていた。


 理由は簡単だった。


 誰かが、澪の名前を出したのだ。


「朝比奈さん、椿屋に泊まってるんでしょ?」


 一時間目が始まる前、男子の一人が興味津々に聞いてきた。


 名前はたしか、宮原だったと思う。サッカー部で、声が大きい。


「うん」


「幽霊見た?」


「見てないよ」


 澪は即答した。


 宮原は少し残念そうにする。


「なんだー」


「なんだって何」


「いや、椿屋の幽霊って昔からある噂らしいからさ。転校生がいきなり遭遇したら、めっちゃ話題になるじゃん」


「人の宿泊先で話題性求めないでよ」


 杏が横から突っ込んでくれた。


 宮原は悪びれずに笑う。


「いやでも、怖くね? 夜中に女湯から椿の匂いするんだろ?」


「温泉街だし、匂いくらいするでしょ」


「でも椿だぜ? 硫黄じゃなくて」


「硫黄って言ったら湯守が来るよ」


 蓮が言った瞬間、何人かが透真のほうを見た。


 透真は席で本を読んでいた。


 反応しない。


 蓮がにやにやしながら言う。


「湯守先生、温泉の匂いについて一言お願いします」


「先生ではない」


「じゃあ湯守博士」


「博士でもない」


「じゃあ温泉鼻男」


「それは悪口だ」


 教室が笑った。


 透真は本を閉じ、澪のほうを見ないまま言った。


「椿の香りがするなら、原因は椿か椿油か香料のどれかだ。幽霊にするには候補を減らす必要がある」


 宮原が口を開ける。


「え、マジレス?」


「質問に答えた」


「怖い話が怖くなくなるな、お前が言うと」


「怖がりたいなら、僕に聞くべきじゃない」


 また笑いが起きた。


 澪も笑った。


 笑ったが、心の中は少しだけざわついていた。


 椿の香り。


 椿油。


 香料。


 候補を減らす必要がある。


 幽霊を否定されると、逆に何かが現実になっていく。


 昼休み、澪は校舎裏の自動販売機前にいた。


 芽衣と杏は委員会の用事で職員室へ行っている。教室に戻ろうかと思ったが、何となく人の多い場所にいたくなくて、缶の紅茶を買って日陰に立っていた。


 五月の風は柔らかい。


 けれど、山から降りてくる風には少し湿気が混じっている。


 ぼんやりしていると、横から声がした。


「砂糖が多い」


 透真だった。


 片手に紙パックの緑茶を持っている。


 澪は紅茶の缶を見た。


「人の飲み物にまで言う?」


「成分表示が見えた」


「見ないで」


「視界に入った」


「じゃあ目を閉じて歩いて」


「危ない」


「でしょうね」


 透真は隣に立った。


 ただし、少し距離がある。


 近すぎない。


 それが、この人らしいと思った。


「さっきの話」


 透真が言った。


「椿屋の?」


「うん」


「気になるの?」


「気になる」


「探偵じゃないのに?」


「探偵じゃない」


「じゃあ何?」


「匂いの異常を確認したいだけだ」


「それを世間では調査って言うよ」


「世間は言葉を雑に使う」


「また始まった」


 澪は缶を開けた。


 甘い紅茶の匂いが、ふわっと上がる。


 透真は少しだけ眉を寄せた。


「だから砂糖が多い」


「疲れてると甘いもの欲しくなるの」


「眠れてないから?」


 澪の手が止まった。


 透真は、言ったあとで少しだけ視線を落とした。


「言いすぎた」


 謝るのが早かった。


 澪は怒るタイミングを失った。


「……別に」


「よくない別にだ」


「そういうところ」


「悪い」


「謝りすぎても、それはそれで変」


「難しいな」


「人付き合いが?」


「君が」


 澪は少しだけ笑った。


「失礼」


「失礼だった」


「自覚あるならいいけど」


 短い沈黙があった。


 澪は缶を両手で包んだ。


 冷たい。


 昨日の夜、廊下で見た花びらの赤が頭から離れない。


「一枚だけだった」


 澪は小さく言った。


「花びら?」


「うん。廊下の角。浴場に続くところ。落ちてたのは一枚だけ」


「踏まれてた?」


「踏まれてはなかったと思う」


「匂いは強かった?」


「椿の匂いはした。あと、湯気みたいな……湿った感じ」


「水音は?」


 澪は透真を見た。


「……した気がする」


「浴場から?」


「たぶん」


「時間は」


「夜の十一時過ぎかな。母さんが咳したから、部屋に戻ったけど」


 透真は少し考え込んだ。


 紙パックの緑茶を持ったまま、校舎裏の地面を見る。


「椿屋の浴場は、夜も湯を張ってる?」


「泊まり客は夜中でも入れるって聞いた」


「なら水音だけでは判断できない」


「でも、誰もいなかったら?」


「誰もいないと思っただけかもしれない」


「怖い言い方しないでよ」


「幽霊よりは現実的だ」


「現実のほうが怖いこともある」


 そう言うと、透真は少しだけ澪を見た。


 その目は、いつもより静かだった。


「あるね」


 短い返事だった。


 からかわなかった。


 だから澪は、少しだけ胸が詰まった。


 透真は紙パックの緑茶にストローを刺した。


「今日、椿屋に寄る」


「え?」


「女将さんに話を聞く。君が嫌なら行かない」


「私が?」


「君の泊まっている場所だから」


 澪はすぐには答えられなかった。


 透真は勝手に踏み込む人ではない。


 それは、たぶん分かっていた。


 でも、聞かれたことで、逆に自分が決めなければいけなくなる。


 怖いから調べてほしい。


 でも、母のことまで知られたくない。


 椿屋のことは気になる。


 でも、騒ぎにしたくない。


 いくつもの気持ちが、紅茶の甘さみたいに喉の奥で絡まる。


「……来て」


 澪は言った。


 自分でも、意外なくらい小さな声だった。


「母さんには、変に心配させたくない。でも、私一人だとたぶん怖い」


「分かった」


「あと、探偵みたいな顔しないでね」


「したことがない」


「してるよ。今もまあまあしてる」


「これは通常の顔だ」


「通常でそれなら損してる」


「よく言われる」


 澪は少しだけ笑った。


 やっぱり、この人は面倒くさい。


 でも、面倒くささの中に、妙な安心感がある。


 放課後、二人は椿屋へ向かった。


 蓮が「何、デート?」と聞いてきたが、透真が「匂いの確認」と答えたせいで、蓮は腹を抱えて笑っていた。


「それ、女子と一緒に帰る理由として最低だからな」


「事実だ」


「事実ならなお悪い」


 澪も否定しようとしたが、どう言っても面倒になりそうだったので、黙って教室を出た。


 坂を下りる途中、透真はいつもより少しだけ無口だった。


 澪もあえて話しかけなかった。


 温泉街の夕方は、観光客の声と夕食の支度の匂いで満ちている。焼き魚の匂い。醤油が焦げる匂い。旅館の玄関に撒かれた水の匂い。土産物屋から漂う蒸し饅頭の甘さ。


 その中に、澪にも分かるくらい、椿の香りが混じりはじめた。


 椿屋に近づくにつれて、それは濃くなる。


「分かる?」


 透真が聞いた。


「うん。昨日より、はっきりする」


「椿の花そのものより、油に近い」


「椿油って、髪につけるやつ?」


「そう。昔はよく使われた」


「幽霊が?」


「その話に戻すのか」


「だって椿屋の幽霊だし」


「幽霊が髪の手入れをしているなら、未練より美意識が強い」


「その幽霊、ちょっと好きかも」


 透真は真顔だったが、澪は笑ってしまった。


 椿屋の玄関に着くと、女将の佐伯ふみが出迎えてくれた。


 五十代半ばくらいの、柔らかい物腰の女性だ。いつもきちんと着物を着ていて、髪を低い位置でまとめている。笑い方は穏やかだが、目の奥には疲れがある。


「あら、澪ちゃん。おかえりなさい。透真くんも」


「こんにちは」


 透真は丁寧に頭を下げた。


 ふみは少し不思議そうに二人を見る。


「今日はどうしたの?」


 澪は言葉に迷った。


 幽霊のことを聞きに来ました、とは言いにくい。


 すると透真が、いつもの淡々とした声で言った。


「椿の香りについて伺いたいことがあります」


 直球だった。


 澪は思わず透真の横顔を見た。


 ふみの表情が、ほんの少しだけ変わる。


 笑顔の形は残っている。


 でも、目が笑っていない。


「椿の香り?」


「はい。浴場付近に強く残っています」


「うちは椿屋ですから。中庭にも椿がありますし、昔からその香りがするんですよ」


「花の香りではありません」


 透真は即座に言った。


 ふみの指が、着物の袖をわずかに握った。


「透真くんは、本当に鼻がいいのね」


「よく言われます」


「でも、古い宿だから、いろんな匂いが染みついているのよ。椿油も、昔のお客様が使っていたものかもしれないし」


「昨日今日で強くなっています」


 玄関の空気が、少し硬くなった。


 澪は慌てて口を挟む。


「あの、女将さん。別に責めたいとかじゃなくて。学校で噂を聞いちゃって」


「噂?」


「夜、浴場から椿の匂いがするって。花びらが浮いてるとか」


 ふみは困ったように笑った。


「ああ……またそんな話が出ているのね」


「また?」


 澪が聞き返すと、ふみは少しだけ視線を逸らした。


「昔からあるの。椿屋には椿の幽霊がいるって。お客様を怖がらせるようなものではないわ。町の人が面白がって言っているだけ」


「でも、昨夜、廊下に花びらが落ちてました」


 澪が言うと、ふみの顔から笑みが消えた。


 すぐに戻ったが、確かに消えた。


「中庭から風で入ったのかしら」


 透真が玄関の奥へ視線を向ける。


「昨夜、廊下の窓は開いていましたか」


「さあ……全部は確認していないけれど」


「浴場前の廊下は中庭に面していません」


 ふみは黙った。


 澪も黙った。


 この人、本当に遠慮がない。


 いや、遠慮がないというより、事実を遠回しにする気がない。


 ふみは小さく息を吐いた。


「透真くん」


「はい」


「あなたのお祖母さんには、昔からお世話になっているわ」


「はい」


「だから言うけれど、この宿には、この宿の事情があります」


「分かります」


「分かっているなら」


「だから、騒ぎにはしません」


 透真の声は、いつもより少しだけ低かった。


「ただ、誰かが花を置いているなら、理由があります。匂いが強くなっているなら、何かが変わっています。宿の事情とは別に、危険がないかだけ確認したい」


 ふみは、透真をじっと見た。


 しばらくして、ふっと肩の力を抜いた。


「……本当に、湯守の子ね」


「よく言われます」


「褒めているのよ」


「ありがとうございます」


 ふみは苦笑した。


「浴場を見るだけなら構わないわ。ただし、お客様がいない時間にね。今ならまだ大丈夫」


 澪は少し緊張した。


 本当に見るのか。


 昨日の夜、怖くて近づけなかった場所に。


 透真は澪を見た。


「無理しなくていい」


「行く」


 澪はすぐに答えた。


 怖い。


 でも、ここで一人だけ残るほうがもっと怖い。


 ふみの案内で、二人は椿屋の奥へ進んだ。


 廊下は古く、歩くたびに床板がきしむ。壁には昔の温泉街の写真が何枚も飾られていた。木造の旅館が並ぶ白黒写真。湯治客が並んだ集合写真。椿の花が咲く中庭の写真。


 廊下の奥へ行くほど、湿気が濃くなる。


 そして、椿の香りも。


 澪は自分の腕をさすった。


「寒い?」


 透真が聞いた。


「ううん。ちょっと、雰囲気に負けてる」


「古い建物は音が多い。怖がる材料に困らない」


「慰めてる?」


「説明してる」


「慰めて」


「……床板の音は大半が木材の収縮だ」


「それは説明」


「難しいな」


 澪は小さく笑った。


 こんな状況でも、少しだけ笑える。


 浴場前に着くと、ふみが立ち止まった。


「ここよ」


 暖簾の向こうから、湯気が漏れている。


 女湯の入口。


 昼間なのに、なぜか夜のように感じた。


 ふみが中を確認し、誰もいないことを確かめてから、澪と透真を入れた。


「透真くんは入口までね」


「はい」


 透真は脱衣所の入口で止まった。


 当然だ。


 澪だけが、ふみと一緒に浴場のほうへ進む。


 脱衣所には籠が並び、壁際には古い鏡台があった。木の床は湿気を吸って、わずかに黒ずんでいる。澪は昨夜、ここまで来られなかった。廊下の角で花びらを見て、母の咳で戻ったからだ。


 浴場の扉を開けると、白い湯気が顔に当たった。


 湯船には透明に近い湯が張られている。石造りの浴槽。窓の外には、小さな坪庭と椿の木が見える。


 そこに、花は浮いていなかった。


 澪はほっとしたような、少し拍子抜けしたような気持ちになった。


「何もないね」


 ふみが言う。


「ええ」


 澪はうなずいた。


 そのとき、入口に立っていた透真が声をかけた。


「朝比奈さん」


「何?」


「脱衣所の鏡台の引き出し、少し開いてる」


 澪は振り返った。


 古い鏡台の下、小さな引き出しがほんの少しだけ開いている。


 ふみが眉をひそめた。


「あら、閉め忘れかしら」


 澪が近づくと、確かにそこから椿の香りがした。


 強い。


 昨夜の廊下よりも濃い。


「女将さん、開けてもいいですか?」


「ええ」


 澪は引き出しをそっと開けた。


 中には、古い櫛と、紙に包まれた小瓶があった。


 小瓶の蓋には、赤い椿の絵が描かれている。


「椿油……?」


 澪が呟く。


 ふみの顔が強張った。


「そんなもの、まだ残っていたのね」


 透真が入口から言う。


「最近使われています」


 ふみが振り返る。


「なぜ分かるの?」


「蓋の周りに新しい油の跡があります。古いものなら、もっと酸化した匂いが強い。でもこれは開けられたばかりです」


「……透真くん、本当に何でも分かるのね」


「何でもは分かりません。匂いだけです」


 澪は小瓶を見つめた。


 古いものなのに、新しく開けられている。


 誰かが、これを使った。


 昨夜の椿の香り。


 廊下の花びら。


 女湯の噂。


 全部が少しずつ形を持ちはじめる。


 透真はさらに言った。


「薬品の匂いもします」


「薬品?」


 澪が聞き返す。


「浴場の消毒に使うものとは少し違う。でも、近い匂いが混じってる。椿油だけじゃない」


 ふみが困ったように手を握った。


「それは……掃除道具の匂いかもしれないわ。脱衣所の奥に置き場があるから」


「見ても?」


 ふみは迷った。


 けれど、やがてうなずいた。


「ええ」


 掃除道具置き場は、脱衣所の奥にある小さな扉の向こうだった。バケツ、雑巾、洗剤、浴場用のブラシ。澪にはどれも同じような薬品臭に感じられる。


 透真は入口から中を見て、少しだけ鼻を動かした。


「違う」


「何が?」


「ここにある洗剤の匂いじゃない」


「じゃあ何?」


「まだ分からない」


 透真はそう言って、廊下のほうを見た。


「椿油の匂いは、ここから廊下へ出ている。でも廊下に残っていた花の匂いは、油だけじゃない。生の椿も混じってる」


「つまり?」


 澪が聞くと、透真は答えた。


「花を置いた人と、油を使った人が同じとは限らない」


 ふみの表情が、また変わった。


 今度は明らかだった。


 驚きと、不安。


 澪はその顔を見逃さなかった。


「女将さん」


「……ごめんなさい。少し、昔のことを思い出しただけ」


「昔?」


 ふみは微笑んだ。


 けれど、その笑みは疲れていた。


「この宿はね、昔から椿に縁があるの。だから、こういう噂が消えないのかもしれないわ」


 それ以上は話したくない。


 そういう空気だった。


 透真も追及しなかった。


 浴場を出ると、廊下の湿気が肌にまとわりついた。


 澪は少し息を吐いた。


 怖かった。


 でも、何かを見つけた。


 それが良かったのか悪かったのかは分からない。


 玄関まで戻る途中、ふみが小さく言った。


「澪ちゃん」


「はい」


「お母様には、このことは」


「言いません」


 澪はすぐに答えた。


 言えるはずがない。


 母はただでさえ、体調がよくない。


 余計な心配をかけたくなかった。


 ふみは安心したようにうなずいた。


「ありがとう」


 透真は、そのやり取りを黙って聞いていた。


 椿屋を出るころには、夕方の光が山の端に沈みかけていた。


 旅館の前で、澪は透真に言った。


「今日はありがとう」


「まだ何も分かってない」


「でも、一人じゃ絶対見に行けなかった」


「そう」


「そう、だけ?」


「どういたしまして」


「最初からそれ言えばいいのに」


「今言った」


 澪は笑った。


 けれど、すぐに表情を戻す。


「ねえ」


「うん」


「あの小瓶、誰が使ったんだと思う?」


「分からない」


「花びらを落とした人も?」


「分からない」


「じゃあ、やっぱり幽霊?」


 透真は澪を見た。


「幽霊は、引き出しを開けて椿油の蓋を回す必要がある?」


「……ないね」


「なら、人間の可能性が高い」


「人間のほうが嫌だな」


「分かる」


 その短い返事が、妙に胸に残った。


 透真は続けた。


「今夜、浴場に近づかないほうがいい」


「またそれ?」


「昨日より匂いが強い。何かが動いてる」


「何かって」


「人間」


 澪は冗談で返そうとした。


 でも、言葉が出なかった。


 透真は坂を上る前に、もう一度だけ椿屋を見た。


 そして、小さく言った。


「椿の幽霊、ね」


「何?」


「いや」


「また言わないやつ?」


「まだ言う材料が足りない」


「材料集める気なんだ」


「集まってしまったら考える」


「本当に探偵じゃないの?」


「違う」


「じゃあ何なの」


 透真は少しだけ考えた。


「旅館の息子」


「それ、答えになってるようでなってない」


「正確ではある」


 そう言って、透真は帰っていった。


 その夜。


 澪は母と夕食を取った。


 椿屋の食事は派手ではないが、丁寧だった。山菜の煮物、川魚の塩焼き、湯豆腐、小さな茶碗蒸し。


 母の沙織は、いつもより少し食べてくれた。


「おいしいね」


「うん。東京じゃあんまり食べない味」


「こういうの、落ち着くわ」


 母は本当にそう思っているように見えた。


 だから澪は、浴場の小瓶のことも、椿の花びらのことも言わなかった。


 言えなかった。


「学校は?」


「楽しいよ。友達もできたし」


「湯守くん、だったかしら」


「ああ、うん。変な人」


「でも、親切そうだったわ」


「親切かなあ……面倒くさい八割、親切二割くらい」


「二割もあれば十分よ」


「お母さん、基準低くない?」


 沙織は笑った。


 その笑顔を見て、澪は胸が少し痛くなった。


 食事のあと、沙織は薬を飲んで早めに布団に入った。


 澪は灯りを落とし、しばらくスマホを眺めていた。


 クラスのグループに招待された。


 芽衣から「明日一緒に購買行こう」とメッセージが来た。


 杏からは「幽霊出たら写真よろしく」と送られてきて、澪は「無理」と返した。


 普通の高校生活。


 普通のやり取り。


 画面の中は、ちゃんと普通だった。


 けれど、障子の外から、またあの匂いがした。


 椿。


 昨日より濃い。


 澪はスマホを置いた。


 透真の言葉が頭に浮かぶ。


 今夜、浴場に近づかないほうがいい。


 近づかない。


 絶対に近づかない。


 そう思っていたのに、廊下の奥から水音がした。


 ちゃぷん。


 澪は息を止めた。


 母は眠っている。


 部屋の時計は、十一時十二分を指していた。


 もう一度、水音。


 ちゃぷん。


 誰かが、湯を揺らしている。


 澪は布団から出た。


 足音を立てないように、そっと障子を開ける。


 廊下は薄暗かった。


 非常灯の緑が、古い柱をぼんやり照らしている。


 浴場へ続く角のあたりに、湯気が漂っていた。


 そして、床の上に。


 赤い椿の花が、一輪、落ちていた。


 花びらではない。


 花、そのものだった。


 澪の喉が鳴った。


 そのとき、浴場のほうから、また水音がした。


 誰かがいる。


 幽霊なんかではない。


 誰かが、いる。


 澪は後ずさった。


 部屋に戻ろうとした瞬間、廊下の奥で床板がきしんだ。


 きしり。


 澪は動けなくなった。


 白い湯気の向こうに、人影のようなものが見えた気がした。


 椿の香りが、鼻の奥に痛いほど濃く広がる。


 そして、澪の背後で母が小さく咳をした。


 その音に救われるように、澪は部屋へ飛び込んだ。


 障子を閉め、背中を預ける。


 心臓がうるさい。


 手が震えている。


 布団の中で、沙織が薄く目を開けた。


「澪……?」


「大丈夫。何でもない」


 澪は笑った。


 こんなときでも、笑った。


「水、取ってくるね」


「……ありがとう」


 声が震えていないか、不安だった。


 澪は水差しを手に取りながら、廊下のほうを見ないようにした。


 椿の香りは、まだ障子の向こうに残っていた。


 翌朝、湯守透真は椿屋の前で足を止めた。


 登校時間より、少し早い。


 彼は呼び鈴を押すつもりはなかった。ただ、玄関先の匂いだけを確認するつもりだった。


 昨日より、さらに濃い。


 椿油。


 生の椿。


 湯気。


 そして、ほんのわずかに薬品の匂い。


 やはり、掃除用洗剤とは違う。


 透真は眉を寄せた。


 そのとき、玄関の引き戸が開いた。


 出てきたのは澪だった。


 目の下に、薄く影がある。


 それでも彼女は、いつものように笑おうとした。


「おはよう、湯守くん」


 透真は少しだけ黙った。


「おはよう」


「何?」


「寝てないね」


「……少しは寝た」


「嘘としては雑だ」


「朝から厳しい」


 澪は笑った。


 けれど、その笑顔は長く続かなかった。


 透真は、彼女の足元を見た。


 靴先に、赤いものが少しだけ付いている。


 椿の花弁が、潰れて乾いた跡。


「見たの?」


 透真が聞いた。


 澪は答えなかった。


 答えないことが、答えだった。


 坂の下から、共同浴場の湯気が流れてくる。


 朝の温泉街はいつものように穏やかだった。


 けれど、椿屋の奥には、昨夜の気配がまだ残っている。


 澪は小さく言った。


「湯守くん」


「うん」


「やっぱり、幽霊じゃないかも」


 透真はうなずいた。


「そうだね」


「でも、人間だとしたら」


 澪の声が、少しだけ震えた。


「そのほうが怖い」


 透真はすぐに茶化さなかった。


 卵の比喩にも、温泉の匂いにも、言葉の雑さにも触れなかった。


 ただ、椿屋の玄関を見て言った。


「なら、怖い理由を減らそう」


「どうやって?」


「分からないことを、一つずつ減らす」


 澪は透真を見た。


 その言い方は、やっぱり少し面倒くさい。


 でも今は、その面倒くささが心強かった。


 透真は坂の上、学校のほうへ歩き出す。


「まずは、誰が昨夜の花を置いたのか」


「分かるの?」


「まだ分からない」


「じゃあ」


「でも、匂いは残ってる」


 透真は振り返らずに言った。


「匂いは嘘をつかない」


 澪は、昨日より少しだけその言葉を信じた。


 そして、二人は湯けむりの中を学校へ向かった。

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