第3話 椿屋の幽霊
朝比奈澪は、幽霊を信じていない。
少なくとも、信じていないことにしている。
夜の廊下に落ちていた椿の花びらも、誰もいない浴場のほうから漂ってきた甘い香りも、古い旅館特有の薄暗さが見せた錯覚だと思うことにした。
そうしないと、眠れない。
昨夜は、母の咳が落ち着いたあとも、布団の中で何度も目を開けた。障子の向こうに誰かが立っているような気がして、けれど確かめる勇気はなく、布団を顎まで引き上げた。
朝になってみれば、全部くだらない。
昼の光の下では、幽霊なんて馬鹿馬鹿しい。
そう思える。
だから澪は、登校中の坂道で湯守透真に会ったとき、わざと軽い声で言った。
「ねえ、湯守くん」
「何」
「幽霊って、信じる?」
透真は、温泉街の坂を上りながら少しだけ目を細めた。
「質問の範囲が広い」
「また面倒くさい始まり方した」
「幽霊という言葉には、死者の魂、未知の自然現象、見間違い、作り話、観光資源、罪悪感の投影まで含まれる。どれについて聞いてる?」
「朝から分類しないでよ」
「分類しないと答えられない」
「普通に、いると思う? でいいじゃん」
「いると断言する材料はない。いないと断言する材料もない」
「ずるい答え」
「正確な答え」
「じゃあ、夜中に誰もいないはずの浴場から椿の匂いがして、花びらが落ちてたら?」
透真の足が、一瞬だけ遅くなった。
ほんの少しだった。
けれど澪には分かった。
今のは、聞き流していない。
「見たの?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「眠かったし。母さんが咳してたから、ちゃんとは見てない」
「廊下?」
「うん。浴場へ行く角のところ」
「花びらは一枚?」
「たぶん一枚。赤いやつ」
「濡れてた?」
「え?」
「花びらが濡れていたかどうか」
澪は記憶を探った。
薄暗い廊下。
湯気。
赤い花びら。
その表面に、少し光があったような気がする。
「……濡れてたかも」
「外から持ち込まれた可能性がある」
「なんで?」
「中庭の椿なら、夜露がつく。浴場の湿気でも濡れるけど、廊下の角に落ちていたなら、誰かが運んだ途中で落とした可能性が高い」
「幽霊じゃなくて?」
「幽霊が花びらを運ぶなら、かなり物理法則に協力的な幽霊だ」
「やっぱりそこに突っ込むんだ」
透真は真顔だった。
澪は少しだけ笑った。
怖かったものが、透真の口を通すと、どこか間の抜けたものになる。
それは救いでもあった。
けれど同時に、別の怖さも出てくる。
幽霊ではない。
なら、誰かがやっている。
そう考えると、昨夜の廊下は急に違う意味を持ちはじめる。
「ねえ、湯守くん」
「何」
「誰かがやってるとしたら、何のためだと思う?」
「分からない」
「そこは分からないんだ」
「動機は匂いじゃ分からない。人間に聞くしかない」
「じゃあ聞く?」
「誰に」
「椿屋の人とか」
透真はすぐには答えなかった。
坂の途中で、共同浴場から出てきた老人が、二人に向かって「おはよう」と声をかけてきた。透真が軽く頭を下げる。澪も慌てて会釈した。
老人が通り過ぎると、透真は言った。
「人の宿に踏み込む理由がない」
「私、泊まってる」
「君が怖いなら、女将さんに言えばいい」
「怖いとは言ってない」
「言ってないだけだ」
澪は黙った。
透真はそういうところだけ、嫌になるくらい外さない。
「……怖いっていうか」
「うん」
「母さんが気に入ってるの、あの旅館」
言ってから、澪は自分でも少し驚いた。
学校では言わないようにしていたことが、透真の前だと半端にこぼれる。
母の病気のことまでは言えない。
でも、全部を嘘で固めるのは、少しだけ苦しくなっていた。
「あの宿が変な噂で騒がしくなったら、困るなって思って」
「君が困る?」
「母さんが困る」
「そう」
透真は短く返した。
そのあと、いつものように余計なことを言わなかった。
学校へ着くまで、二人はしばらく黙って歩いた。
湯気の匂いが、坂の下から追いかけてくる。
澪は、その匂いをもう「卵が腐った匂い」とは思わなかった。
でも、何と呼べばいいのかは、まだ分からなかった。
教室に入ると、椿屋の噂は昨日より少し広がっていた。
理由は簡単だった。
誰かが、澪の名前を出したのだ。
「朝比奈さん、椿屋に泊まってるんでしょ?」
一時間目が始まる前、男子の一人が興味津々に聞いてきた。
名前はたしか、宮原だったと思う。サッカー部で、声が大きい。
「うん」
「幽霊見た?」
「見てないよ」
澪は即答した。
宮原は少し残念そうにする。
「なんだー」
「なんだって何」
「いや、椿屋の幽霊って昔からある噂らしいからさ。転校生がいきなり遭遇したら、めっちゃ話題になるじゃん」
「人の宿泊先で話題性求めないでよ」
杏が横から突っ込んでくれた。
宮原は悪びれずに笑う。
「いやでも、怖くね? 夜中に女湯から椿の匂いするんだろ?」
「温泉街だし、匂いくらいするでしょ」
「でも椿だぜ? 硫黄じゃなくて」
「硫黄って言ったら湯守が来るよ」
蓮が言った瞬間、何人かが透真のほうを見た。
透真は席で本を読んでいた。
反応しない。
蓮がにやにやしながら言う。
「湯守先生、温泉の匂いについて一言お願いします」
「先生ではない」
「じゃあ湯守博士」
「博士でもない」
「じゃあ温泉鼻男」
「それは悪口だ」
教室が笑った。
透真は本を閉じ、澪のほうを見ないまま言った。
「椿の香りがするなら、原因は椿か椿油か香料のどれかだ。幽霊にするには候補を減らす必要がある」
宮原が口を開ける。
「え、マジレス?」
「質問に答えた」
「怖い話が怖くなくなるな、お前が言うと」
「怖がりたいなら、僕に聞くべきじゃない」
また笑いが起きた。
澪も笑った。
笑ったが、心の中は少しだけざわついていた。
椿の香り。
椿油。
香料。
候補を減らす必要がある。
幽霊を否定されると、逆に何かが現実になっていく。
昼休み、澪は校舎裏の自動販売機前にいた。
芽衣と杏は委員会の用事で職員室へ行っている。教室に戻ろうかと思ったが、何となく人の多い場所にいたくなくて、缶の紅茶を買って日陰に立っていた。
五月の風は柔らかい。
けれど、山から降りてくる風には少し湿気が混じっている。
ぼんやりしていると、横から声がした。
「砂糖が多い」
透真だった。
片手に紙パックの緑茶を持っている。
澪は紅茶の缶を見た。
「人の飲み物にまで言う?」
「成分表示が見えた」
「見ないで」
「視界に入った」
「じゃあ目を閉じて歩いて」
「危ない」
「でしょうね」
透真は隣に立った。
ただし、少し距離がある。
近すぎない。
それが、この人らしいと思った。
「さっきの話」
透真が言った。
「椿屋の?」
「うん」
「気になるの?」
「気になる」
「探偵じゃないのに?」
「探偵じゃない」
「じゃあ何?」
「匂いの異常を確認したいだけだ」
「それを世間では調査って言うよ」
「世間は言葉を雑に使う」
「また始まった」
澪は缶を開けた。
甘い紅茶の匂いが、ふわっと上がる。
透真は少しだけ眉を寄せた。
「だから砂糖が多い」
「疲れてると甘いもの欲しくなるの」
「眠れてないから?」
澪の手が止まった。
透真は、言ったあとで少しだけ視線を落とした。
「言いすぎた」
謝るのが早かった。
澪は怒るタイミングを失った。
「……別に」
「よくない別にだ」
「そういうところ」
「悪い」
「謝りすぎても、それはそれで変」
「難しいな」
「人付き合いが?」
「君が」
澪は少しだけ笑った。
「失礼」
「失礼だった」
「自覚あるならいいけど」
短い沈黙があった。
澪は缶を両手で包んだ。
冷たい。
昨日の夜、廊下で見た花びらの赤が頭から離れない。
「一枚だけだった」
澪は小さく言った。
「花びら?」
「うん。廊下の角。浴場に続くところ。落ちてたのは一枚だけ」
「踏まれてた?」
「踏まれてはなかったと思う」
「匂いは強かった?」
「椿の匂いはした。あと、湯気みたいな……湿った感じ」
「水音は?」
澪は透真を見た。
「……した気がする」
「浴場から?」
「たぶん」
「時間は」
「夜の十一時過ぎかな。母さんが咳したから、部屋に戻ったけど」
透真は少し考え込んだ。
紙パックの緑茶を持ったまま、校舎裏の地面を見る。
「椿屋の浴場は、夜も湯を張ってる?」
「泊まり客は夜中でも入れるって聞いた」
「なら水音だけでは判断できない」
「でも、誰もいなかったら?」
「誰もいないと思っただけかもしれない」
「怖い言い方しないでよ」
「幽霊よりは現実的だ」
「現実のほうが怖いこともある」
そう言うと、透真は少しだけ澪を見た。
その目は、いつもより静かだった。
「あるね」
短い返事だった。
からかわなかった。
だから澪は、少しだけ胸が詰まった。
透真は紙パックの緑茶にストローを刺した。
「今日、椿屋に寄る」
「え?」
「女将さんに話を聞く。君が嫌なら行かない」
「私が?」
「君の泊まっている場所だから」
澪はすぐには答えられなかった。
透真は勝手に踏み込む人ではない。
それは、たぶん分かっていた。
でも、聞かれたことで、逆に自分が決めなければいけなくなる。
怖いから調べてほしい。
でも、母のことまで知られたくない。
椿屋のことは気になる。
でも、騒ぎにしたくない。
いくつもの気持ちが、紅茶の甘さみたいに喉の奥で絡まる。
「……来て」
澪は言った。
自分でも、意外なくらい小さな声だった。
「母さんには、変に心配させたくない。でも、私一人だとたぶん怖い」
「分かった」
「あと、探偵みたいな顔しないでね」
「したことがない」
「してるよ。今もまあまあしてる」
「これは通常の顔だ」
「通常でそれなら損してる」
「よく言われる」
澪は少しだけ笑った。
やっぱり、この人は面倒くさい。
でも、面倒くささの中に、妙な安心感がある。
放課後、二人は椿屋へ向かった。
蓮が「何、デート?」と聞いてきたが、透真が「匂いの確認」と答えたせいで、蓮は腹を抱えて笑っていた。
「それ、女子と一緒に帰る理由として最低だからな」
「事実だ」
「事実ならなお悪い」
澪も否定しようとしたが、どう言っても面倒になりそうだったので、黙って教室を出た。
坂を下りる途中、透真はいつもより少しだけ無口だった。
澪もあえて話しかけなかった。
温泉街の夕方は、観光客の声と夕食の支度の匂いで満ちている。焼き魚の匂い。醤油が焦げる匂い。旅館の玄関に撒かれた水の匂い。土産物屋から漂う蒸し饅頭の甘さ。
その中に、澪にも分かるくらい、椿の香りが混じりはじめた。
椿屋に近づくにつれて、それは濃くなる。
「分かる?」
透真が聞いた。
「うん。昨日より、はっきりする」
「椿の花そのものより、油に近い」
「椿油って、髪につけるやつ?」
「そう。昔はよく使われた」
「幽霊が?」
「その話に戻すのか」
「だって椿屋の幽霊だし」
「幽霊が髪の手入れをしているなら、未練より美意識が強い」
「その幽霊、ちょっと好きかも」
透真は真顔だったが、澪は笑ってしまった。
椿屋の玄関に着くと、女将の佐伯ふみが出迎えてくれた。
五十代半ばくらいの、柔らかい物腰の女性だ。いつもきちんと着物を着ていて、髪を低い位置でまとめている。笑い方は穏やかだが、目の奥には疲れがある。
「あら、澪ちゃん。おかえりなさい。透真くんも」
「こんにちは」
透真は丁寧に頭を下げた。
ふみは少し不思議そうに二人を見る。
「今日はどうしたの?」
澪は言葉に迷った。
幽霊のことを聞きに来ました、とは言いにくい。
すると透真が、いつもの淡々とした声で言った。
「椿の香りについて伺いたいことがあります」
直球だった。
澪は思わず透真の横顔を見た。
ふみの表情が、ほんの少しだけ変わる。
笑顔の形は残っている。
でも、目が笑っていない。
「椿の香り?」
「はい。浴場付近に強く残っています」
「うちは椿屋ですから。中庭にも椿がありますし、昔からその香りがするんですよ」
「花の香りではありません」
透真は即座に言った。
ふみの指が、着物の袖をわずかに握った。
「透真くんは、本当に鼻がいいのね」
「よく言われます」
「でも、古い宿だから、いろんな匂いが染みついているのよ。椿油も、昔のお客様が使っていたものかもしれないし」
「昨日今日で強くなっています」
玄関の空気が、少し硬くなった。
澪は慌てて口を挟む。
「あの、女将さん。別に責めたいとかじゃなくて。学校で噂を聞いちゃって」
「噂?」
「夜、浴場から椿の匂いがするって。花びらが浮いてるとか」
ふみは困ったように笑った。
「ああ……またそんな話が出ているのね」
「また?」
澪が聞き返すと、ふみは少しだけ視線を逸らした。
「昔からあるの。椿屋には椿の幽霊がいるって。お客様を怖がらせるようなものではないわ。町の人が面白がって言っているだけ」
「でも、昨夜、廊下に花びらが落ちてました」
澪が言うと、ふみの顔から笑みが消えた。
すぐに戻ったが、確かに消えた。
「中庭から風で入ったのかしら」
透真が玄関の奥へ視線を向ける。
「昨夜、廊下の窓は開いていましたか」
「さあ……全部は確認していないけれど」
「浴場前の廊下は中庭に面していません」
ふみは黙った。
澪も黙った。
この人、本当に遠慮がない。
いや、遠慮がないというより、事実を遠回しにする気がない。
ふみは小さく息を吐いた。
「透真くん」
「はい」
「あなたのお祖母さんには、昔からお世話になっているわ」
「はい」
「だから言うけれど、この宿には、この宿の事情があります」
「分かります」
「分かっているなら」
「だから、騒ぎにはしません」
透真の声は、いつもより少しだけ低かった。
「ただ、誰かが花を置いているなら、理由があります。匂いが強くなっているなら、何かが変わっています。宿の事情とは別に、危険がないかだけ確認したい」
ふみは、透真をじっと見た。
しばらくして、ふっと肩の力を抜いた。
「……本当に、湯守の子ね」
「よく言われます」
「褒めているのよ」
「ありがとうございます」
ふみは苦笑した。
「浴場を見るだけなら構わないわ。ただし、お客様がいない時間にね。今ならまだ大丈夫」
澪は少し緊張した。
本当に見るのか。
昨日の夜、怖くて近づけなかった場所に。
透真は澪を見た。
「無理しなくていい」
「行く」
澪はすぐに答えた。
怖い。
でも、ここで一人だけ残るほうがもっと怖い。
ふみの案内で、二人は椿屋の奥へ進んだ。
廊下は古く、歩くたびに床板がきしむ。壁には昔の温泉街の写真が何枚も飾られていた。木造の旅館が並ぶ白黒写真。湯治客が並んだ集合写真。椿の花が咲く中庭の写真。
廊下の奥へ行くほど、湿気が濃くなる。
そして、椿の香りも。
澪は自分の腕をさすった。
「寒い?」
透真が聞いた。
「ううん。ちょっと、雰囲気に負けてる」
「古い建物は音が多い。怖がる材料に困らない」
「慰めてる?」
「説明してる」
「慰めて」
「……床板の音は大半が木材の収縮だ」
「それは説明」
「難しいな」
澪は小さく笑った。
こんな状況でも、少しだけ笑える。
浴場前に着くと、ふみが立ち止まった。
「ここよ」
暖簾の向こうから、湯気が漏れている。
女湯の入口。
昼間なのに、なぜか夜のように感じた。
ふみが中を確認し、誰もいないことを確かめてから、澪と透真を入れた。
「透真くんは入口までね」
「はい」
透真は脱衣所の入口で止まった。
当然だ。
澪だけが、ふみと一緒に浴場のほうへ進む。
脱衣所には籠が並び、壁際には古い鏡台があった。木の床は湿気を吸って、わずかに黒ずんでいる。澪は昨夜、ここまで来られなかった。廊下の角で花びらを見て、母の咳で戻ったからだ。
浴場の扉を開けると、白い湯気が顔に当たった。
湯船には透明に近い湯が張られている。石造りの浴槽。窓の外には、小さな坪庭と椿の木が見える。
そこに、花は浮いていなかった。
澪はほっとしたような、少し拍子抜けしたような気持ちになった。
「何もないね」
ふみが言う。
「ええ」
澪はうなずいた。
そのとき、入口に立っていた透真が声をかけた。
「朝比奈さん」
「何?」
「脱衣所の鏡台の引き出し、少し開いてる」
澪は振り返った。
古い鏡台の下、小さな引き出しがほんの少しだけ開いている。
ふみが眉をひそめた。
「あら、閉め忘れかしら」
澪が近づくと、確かにそこから椿の香りがした。
強い。
昨夜の廊下よりも濃い。
「女将さん、開けてもいいですか?」
「ええ」
澪は引き出しをそっと開けた。
中には、古い櫛と、紙に包まれた小瓶があった。
小瓶の蓋には、赤い椿の絵が描かれている。
「椿油……?」
澪が呟く。
ふみの顔が強張った。
「そんなもの、まだ残っていたのね」
透真が入口から言う。
「最近使われています」
ふみが振り返る。
「なぜ分かるの?」
「蓋の周りに新しい油の跡があります。古いものなら、もっと酸化した匂いが強い。でもこれは開けられたばかりです」
「……透真くん、本当に何でも分かるのね」
「何でもは分かりません。匂いだけです」
澪は小瓶を見つめた。
古いものなのに、新しく開けられている。
誰かが、これを使った。
昨夜の椿の香り。
廊下の花びら。
女湯の噂。
全部が少しずつ形を持ちはじめる。
透真はさらに言った。
「薬品の匂いもします」
「薬品?」
澪が聞き返す。
「浴場の消毒に使うものとは少し違う。でも、近い匂いが混じってる。椿油だけじゃない」
ふみが困ったように手を握った。
「それは……掃除道具の匂いかもしれないわ。脱衣所の奥に置き場があるから」
「見ても?」
ふみは迷った。
けれど、やがてうなずいた。
「ええ」
掃除道具置き場は、脱衣所の奥にある小さな扉の向こうだった。バケツ、雑巾、洗剤、浴場用のブラシ。澪にはどれも同じような薬品臭に感じられる。
透真は入口から中を見て、少しだけ鼻を動かした。
「違う」
「何が?」
「ここにある洗剤の匂いじゃない」
「じゃあ何?」
「まだ分からない」
透真はそう言って、廊下のほうを見た。
「椿油の匂いは、ここから廊下へ出ている。でも廊下に残っていた花の匂いは、油だけじゃない。生の椿も混じってる」
「つまり?」
澪が聞くと、透真は答えた。
「花を置いた人と、油を使った人が同じとは限らない」
ふみの表情が、また変わった。
今度は明らかだった。
驚きと、不安。
澪はその顔を見逃さなかった。
「女将さん」
「……ごめんなさい。少し、昔のことを思い出しただけ」
「昔?」
ふみは微笑んだ。
けれど、その笑みは疲れていた。
「この宿はね、昔から椿に縁があるの。だから、こういう噂が消えないのかもしれないわ」
それ以上は話したくない。
そういう空気だった。
透真も追及しなかった。
浴場を出ると、廊下の湿気が肌にまとわりついた。
澪は少し息を吐いた。
怖かった。
でも、何かを見つけた。
それが良かったのか悪かったのかは分からない。
玄関まで戻る途中、ふみが小さく言った。
「澪ちゃん」
「はい」
「お母様には、このことは」
「言いません」
澪はすぐに答えた。
言えるはずがない。
母はただでさえ、体調がよくない。
余計な心配をかけたくなかった。
ふみは安心したようにうなずいた。
「ありがとう」
透真は、そのやり取りを黙って聞いていた。
椿屋を出るころには、夕方の光が山の端に沈みかけていた。
旅館の前で、澪は透真に言った。
「今日はありがとう」
「まだ何も分かってない」
「でも、一人じゃ絶対見に行けなかった」
「そう」
「そう、だけ?」
「どういたしまして」
「最初からそれ言えばいいのに」
「今言った」
澪は笑った。
けれど、すぐに表情を戻す。
「ねえ」
「うん」
「あの小瓶、誰が使ったんだと思う?」
「分からない」
「花びらを落とした人も?」
「分からない」
「じゃあ、やっぱり幽霊?」
透真は澪を見た。
「幽霊は、引き出しを開けて椿油の蓋を回す必要がある?」
「……ないね」
「なら、人間の可能性が高い」
「人間のほうが嫌だな」
「分かる」
その短い返事が、妙に胸に残った。
透真は続けた。
「今夜、浴場に近づかないほうがいい」
「またそれ?」
「昨日より匂いが強い。何かが動いてる」
「何かって」
「人間」
澪は冗談で返そうとした。
でも、言葉が出なかった。
透真は坂を上る前に、もう一度だけ椿屋を見た。
そして、小さく言った。
「椿の幽霊、ね」
「何?」
「いや」
「また言わないやつ?」
「まだ言う材料が足りない」
「材料集める気なんだ」
「集まってしまったら考える」
「本当に探偵じゃないの?」
「違う」
「じゃあ何なの」
透真は少しだけ考えた。
「旅館の息子」
「それ、答えになってるようでなってない」
「正確ではある」
そう言って、透真は帰っていった。
その夜。
澪は母と夕食を取った。
椿屋の食事は派手ではないが、丁寧だった。山菜の煮物、川魚の塩焼き、湯豆腐、小さな茶碗蒸し。
母の沙織は、いつもより少し食べてくれた。
「おいしいね」
「うん。東京じゃあんまり食べない味」
「こういうの、落ち着くわ」
母は本当にそう思っているように見えた。
だから澪は、浴場の小瓶のことも、椿の花びらのことも言わなかった。
言えなかった。
「学校は?」
「楽しいよ。友達もできたし」
「湯守くん、だったかしら」
「ああ、うん。変な人」
「でも、親切そうだったわ」
「親切かなあ……面倒くさい八割、親切二割くらい」
「二割もあれば十分よ」
「お母さん、基準低くない?」
沙織は笑った。
その笑顔を見て、澪は胸が少し痛くなった。
食事のあと、沙織は薬を飲んで早めに布団に入った。
澪は灯りを落とし、しばらくスマホを眺めていた。
クラスのグループに招待された。
芽衣から「明日一緒に購買行こう」とメッセージが来た。
杏からは「幽霊出たら写真よろしく」と送られてきて、澪は「無理」と返した。
普通の高校生活。
普通のやり取り。
画面の中は、ちゃんと普通だった。
けれど、障子の外から、またあの匂いがした。
椿。
昨日より濃い。
澪はスマホを置いた。
透真の言葉が頭に浮かぶ。
今夜、浴場に近づかないほうがいい。
近づかない。
絶対に近づかない。
そう思っていたのに、廊下の奥から水音がした。
ちゃぷん。
澪は息を止めた。
母は眠っている。
部屋の時計は、十一時十二分を指していた。
もう一度、水音。
ちゃぷん。
誰かが、湯を揺らしている。
澪は布団から出た。
足音を立てないように、そっと障子を開ける。
廊下は薄暗かった。
非常灯の緑が、古い柱をぼんやり照らしている。
浴場へ続く角のあたりに、湯気が漂っていた。
そして、床の上に。
赤い椿の花が、一輪、落ちていた。
花びらではない。
花、そのものだった。
澪の喉が鳴った。
そのとき、浴場のほうから、また水音がした。
誰かがいる。
幽霊なんかではない。
誰かが、いる。
澪は後ずさった。
部屋に戻ろうとした瞬間、廊下の奥で床板がきしんだ。
きしり。
澪は動けなくなった。
白い湯気の向こうに、人影のようなものが見えた気がした。
椿の香りが、鼻の奥に痛いほど濃く広がる。
そして、澪の背後で母が小さく咳をした。
その音に救われるように、澪は部屋へ飛び込んだ。
障子を閉め、背中を預ける。
心臓がうるさい。
手が震えている。
布団の中で、沙織が薄く目を開けた。
「澪……?」
「大丈夫。何でもない」
澪は笑った。
こんなときでも、笑った。
「水、取ってくるね」
「……ありがとう」
声が震えていないか、不安だった。
澪は水差しを手に取りながら、廊下のほうを見ないようにした。
椿の香りは、まだ障子の向こうに残っていた。
翌朝、湯守透真は椿屋の前で足を止めた。
登校時間より、少し早い。
彼は呼び鈴を押すつもりはなかった。ただ、玄関先の匂いだけを確認するつもりだった。
昨日より、さらに濃い。
椿油。
生の椿。
湯気。
そして、ほんのわずかに薬品の匂い。
やはり、掃除用洗剤とは違う。
透真は眉を寄せた。
そのとき、玄関の引き戸が開いた。
出てきたのは澪だった。
目の下に、薄く影がある。
それでも彼女は、いつものように笑おうとした。
「おはよう、湯守くん」
透真は少しだけ黙った。
「おはよう」
「何?」
「寝てないね」
「……少しは寝た」
「嘘としては雑だ」
「朝から厳しい」
澪は笑った。
けれど、その笑顔は長く続かなかった。
透真は、彼女の足元を見た。
靴先に、赤いものが少しだけ付いている。
椿の花弁が、潰れて乾いた跡。
「見たの?」
透真が聞いた。
澪は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
坂の下から、共同浴場の湯気が流れてくる。
朝の温泉街はいつものように穏やかだった。
けれど、椿屋の奥には、昨夜の気配がまだ残っている。
澪は小さく言った。
「湯守くん」
「うん」
「やっぱり、幽霊じゃないかも」
透真はうなずいた。
「そうだね」
「でも、人間だとしたら」
澪の声が、少しだけ震えた。
「そのほうが怖い」
透真はすぐに茶化さなかった。
卵の比喩にも、温泉の匂いにも、言葉の雑さにも触れなかった。
ただ、椿屋の玄関を見て言った。
「なら、怖い理由を減らそう」
「どうやって?」
「分からないことを、一つずつ減らす」
澪は透真を見た。
その言い方は、やっぱり少し面倒くさい。
でも今は、その面倒くささが心強かった。
透真は坂の上、学校のほうへ歩き出す。
「まずは、誰が昨夜の花を置いたのか」
「分かるの?」
「まだ分からない」
「じゃあ」
「でも、匂いは残ってる」
透真は振り返らずに言った。
「匂いは嘘をつかない」
澪は、昨日より少しだけその言葉を信じた。
そして、二人は湯けむりの中を学校へ向かった。




