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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第2話 転校生は、笑顔で嘘をつく

 朝比奈澪は、笑顔を作るのが得意だった。


 得意、というより、必要に迫られて身についた。


 小学生のころから、父の転勤で何度か学校を変わった。最初のころは、いちいち緊張して、自己紹介の前夜には眠れなくなったりもした。


 けれど、何度も繰り返すうちに分かったことがある。


 転校生に求められるのは、個性ではない。


 まずは、安心感だ。


 明るいこと。


 話しかけやすいこと。


 変な地雷がなさそうに見えること。


 余計な事情を抱えていなさそうに振る舞うこと。


 それだけで、最初の一週間はかなり楽になる。


 だから、澪は笑う。


「おはよう」


 翌朝、教室の扉を開けた澪は、昨日より少しだけ大きな声でそう言った。


 窓際の席から、何人かが振り返る。


「おはよー、朝比奈さん」


「もう道覚えた?」


「昨日迷わなかった?」


 さっそく女子たちが声をかけてくれた。


 澪は鞄を机に置きながら笑う。


「覚えた……と思う。郵便局の角を左、だよね?」


「あー、そこ大事」


「でも帰りは逆だからね」


「朝比奈さん、意外と方向音痴?」


「違う違う。町のほうが複雑すぎるだけ」


 そう言うと、女子たちは楽しそうに笑った。


 その笑い方に、悪意はなかった。


 澪は少しだけ肩の力を抜く。


 大丈夫。


 昨日より、少しだけ教室の匂いが分かる。


 古い木の床。チョークの粉。窓際の花瓶の水。誰かの制汗剤。朝練帰りの男子の汗。紙とインクと、少し湿ったカーテン。


 その中で、隣の席だけは妙に静かだった。


 湯守透真は、すでに席に座って本を読んでいた。


 厚めの文庫本。表紙には、温泉地質調査報告、と書いてある。


 高校生が朝のホームルーム前に読む本としては、たぶんかなり間違っている。


「おはよう、湯守くん」


 澪が声をかけると、透真は本から目を上げた。


「おはよう」


「今日は卵の話しないの?」


「必要があればする」


「一生必要ないと思う」


「一生は長い。断言するには材料が足りない」


「朝からそれかあ」


 澪が呆れると、前の席の黒瀬蓮が椅子ごとくるりと振り返った。


「お、もう湯守語に慣れてきた?」


「慣れる前に疲れる」


「分かる。俺も一年の春は疲れた」


「一年かかったんだ」


「いや、今も疲れる」


 透真が本を閉じた。


「聞こえてる」


「聞こえるように言ってる」


「ならいい」


「いいのかよ」


 蓮の軽いツッコミで、近くの席の生徒たちが笑った。


 澪もつられて笑う。


 こういう空気は嫌いではない。


 むしろ、助かる。


 笑っていれば、誰も細かいことを聞かない。


 ホームルームが始まるまでの短い時間、澪はクラスの女子たちに囲まれた。


 最初に話しかけてくれたのは、仁科芽衣という小柄な女子だった。前髪をピンで留めていて、声が柔らかい。


 もう一人は、小坂杏。背が高く、快活で、物怖じしないタイプだった。


「朝比奈さんって、東京のどの辺から来たの?」


「えっと、世田谷のほう」


「え、都会!」


「いや、普通だよ」


「普通じゃないって。こっちなんて、放課後に遊ぶ場所、足湯かコンビニか山だから」


「山で遊ぶの?」


「遊ばないけど選択肢として存在する」


 杏が真顔で言うので、澪は笑ってしまった。


 芽衣が机に肘をついて聞いてくる。


「なんで急にこっち来たの? 親の転勤?」


 来た。


 澪は、ほんの一瞬だけ呼吸を整えた。


 でも、顔には出さない。


「うん。父の仕事の都合で。ちょっと急だったんだけどね」


「そうなんだ。大変だったね」


「まあ、引っ越しの段ボールまだ全然片づいてないけど」


「分かる。うち、引っ越してないのに部屋が段ボールみたいになってる」


「それは片づけよう?」


 笑いが起きる。


 うまく流れた。


 澪は心の中で、小さく息を吐いた。


 そのとき、隣からページをめくる音がした。


 透真は何も言わない。


 こちらを見てもいない。


 けれど、澪には分かった。


 たぶん、聞いていた。


 この人は、聞き流しているようで、妙なところだけ聞いている。


 朝の坂道で言われた言葉が、耳の奥に残っていた。


 仕事の匂いじゃない。


 そんなもの、匂いで分かるわけがない。


 分かるはずがない。


 そう思いたいのに、透真の表情を見ていると、不思議と不安になる。


 彼は、嘘を責めているわけではなかった。


 だからこそ、少し怖い。


 一時間目は英語だった。


 澪は前の学校で使っていた教科書と進度が少し違っていて、先生から配られたプリントを見ながら必死にノートを取った。


 ところどころ分からない単語がある。


 隣を見ると、透真は授業を聞いているのか聞いていないのか分からない顔で、淡々と板書を写していた。


 字が綺麗だった。


 意外だった。


 いや、意外と言ったら失礼かもしれないが、あれだけ口で人を刺してくる人間の字が、こんなに整っているとは思わなかった。


 授業が終わると、澪は思いきって声をかけた。


「湯守くん、ちょっとノート見せてもらっていい?」


「いいよ」


 あっさり差し出された。


 澪は拍子抜けする。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 透真のノートには、板書だけでなく、先生が口頭で説明したことまで短く整理されていた。余白もきちんと取ってあり、後から見返しやすい。


「……すごいね」


「何が」


「ノート。分かりやすい」


「情報は整理しないと腐る」


「今度は情報を腐らせるの?」


「比喩だ」


「卵の比喩には厳しいのに、自分は使うんだ」


 透真は少しだけ考えた。


「正しい比喩なら使う」


「その自信どこから来るの」


「観察」


 澪はペンでノートを写しながら、思わず笑った。


 なんだか少し悔しい。


 面倒くさいのに、役に立つ。


 蓮が前から振り返る。


「朝比奈さん、そいつのノート使うときは気をつけて」


「何を?」


「たまに欄外に変なこと書いてある」


「変なこと?」


 澪はノートの端を見た。


 そこには小さな字で、こう書かれていた。


『教室の換気が甘い。三列目後方に眠気の原因あり』


 澪は吹き出した。


「何これ」


「昨日からストーブの上に置いてある雑巾が湿っている。匂いが悪い」


「先生に言えば?」


「言うほどではない」


「欄外に書くほどではあるんだ」


「記録は大事だ」


 蓮が大げさに肩をすくめる。


「な? 変だろ」


「うん。変」


「二対一は不公平だ」


「多数決では正確さは決まらない」


 そんな会話をしていると、廊下から女子の声が聞こえた。


「朝比奈さん、購買行く?」


 芽衣だった。


「あ、行く」


 澪はノートを返し、席を立った。


「ありがと、湯守くん」


「うん」


 それだけ。


 追及も、詮索もない。


 なのに、澪は背中に視線を感じる気がした。


 購買は、校舎の一階にあった。


 東京の学校のようにメニューが豊富というわけではなかったが、焼きそばパンとコロッケパンはやたら人気らしい。昼前には売り切れると聞いて、澪は芽衣と杏に連れられて見に行った。


「ここのコロッケパン、地味にうまいよ」


「へえ」


「ソースが旅館街の肉屋さん特製なんだって」


「なんか町ぐるみだね」


「だいたい町ぐるみ。悪い噂も町ぐるみ」


 杏が笑いながら言った。


 澪はその言葉に少しだけ引っかかった。


「悪い噂?」


「たとえばさ、どこの旅館が潰れそうとか、どこの家の息子が東京から戻ってこないとか、そういうの。温泉街って狭いから」


 芽衣が杏の袖を軽く引っ張る。


「杏、転校初日にそういう話しないの」


「あ、ごめん」


「ううん、大丈夫」


 澪は笑った。


 大丈夫。


 また笑う。


 すると芽衣が、少し声をひそめた。


「朝比奈さんって、椿屋に泊まってるんだよね?」


「うん」


「じゃあ、聞いた? 幽霊の話」


 澪は足を止めた。


 購買の前で、ほかの生徒たちが騒いでいる。


 そのざわめきの中で、「幽霊」という言葉だけがやけにはっきり聞こえた。


「幽霊?」


 杏が楽しそうに身を乗り出す。


「椿屋の女湯に出るんだって。夜中に椿の匂いがして、湯船に花びらが浮いてるとか」


「ちょっと、杏」


「いや、有名じゃん。別に怖がらせたいわけじゃなくて」


 澪は笑った。


「へえ、そうなんだ。昨日は何もなかったよ」


 嘘ではない。


 昨日は、何も見ていない。


 ただ、玄関に入ったとき、椿の甘い匂いはした。


 湯守くんも、椿油と言っていた。


「まあ、ただの噂だよ。温泉街ってそういうの好きだから」


 杏はそう言って、コロッケパンを一つ取った。


 澪も同じものを買った。


 教室へ戻る途中、芽衣が少し申し訳なさそうに言う。


「ごめんね。変な話して」


「全然。むしろちょっと面白い」


「ほんと?」


「うん。東京だと、女湯に椿の幽霊とか聞かないし」


「そりゃ聞かないよ」


 三人で笑った。


 でも、澪の胸の奥には、細い棘のようなものが残っていた。


 昼休み。


 澪は芽衣と杏と机を寄せて昼食を取った。


 母が朝早く起きて作ってくれた小さなお弁当。


 卵焼きと、ほうれん草のおひたしと、冷凍の唐揚げ。母は「簡単でごめんね」と言っていたが、澪にはそれで十分だった。


 むしろ、無理をして作ったのではないかと心配になる。


 朝、母は少し咳をしていた。


 澪が「今日は寝てていいよ」と言ったら、「初日じゃないけど、ちゃんと送り出したいの」と笑った。


 あの笑顔も、たぶん澪と同じだ。


 心配させないための笑顔。


「朝比奈さんのお弁当、かわいいね」


 芽衣に言われ、澪は少し慌てる。


「そう? 普通だよ」


「卵焼ききれい」


「母が作ってくれて」


「いいなあ。うち、朝は全員セルフだよ」


 杏がパンをかじりながら言う。


「朝比奈さんのお母さん、料理上手なんだ」


「うん。上手……だと思う」


 言いながら、澪は箸を止めた。


 以前の母は、もっと料理をしていた。


 朝から出汁を取って味噌汁を作るような人だった。弁当の隙間に、妙に凝った副菜を詰める人だった。


 でも最近は、そういうことが少しずつ減った。


 仕方ない。


 病気なのだから。


 それでも母は、澪にだけは普通でいようとする。


 だから澪も、普通でいなければならない。


「朝比奈さん?」


 芽衣に呼ばれ、澪は顔を上げた。


「ごめん、ぼーっとしてた」


「疲れてる?」


「引っ越し疲れかな」


 また、便利な説明を口にする。


 引っ越し疲れ。


 転校疲れ。


 慣れない町。


 そう言えば、だいたいの不調は隠せる。


 隣の席で、透真が静かにお茶を飲んでいた。


 目は合わない。


 でも、澪はなぜか落ち着かなかった。


 放課後になると、担任に呼ばれて、澪は校内の説明を受けることになった。


 案内役に選ばれたのは、芽衣と杏、そしてなぜか透真だった。


「なんで湯守くんも?」


 澪が聞くと、担任は真顔で言った。


「湯守は校内の変な場所までよく知っている」


「褒めてます?」


「半分くらいは」


 透真は特に反論しなかった。


 蓮が横から言う。


「湯守、鼻で校内マップ作れるからな」


「作らない」


「作れないとは言わないんだ」


「必要がない」


 杏が笑う。


「朝比奈さん、迷子になったら湯守に聞けばいいよ。たぶん現在地を匂いで当てる」


「それ人間?」


「失礼だな」


 透真はそう言ったが、怒ってはいないようだった。


 校舎は思ったより広かった。


 古い本が詰まった図書室。床のワックスの匂いが強い職員室前の廊下。湿気のこもった体育館への渡り廊下。使われていない旧音楽室。階段の踊り場からは、温泉街の屋根が見えた。


 澪は窓の外に目を向けた。


 夕方の光が、坂道と川と旅館の屋根を薄く照らしている。


 湯気が見える。


 町全体が、何かを隠すように白く霞んでいた。


「綺麗」


 澪が呟くと、杏がうなずく。


「でしょ。何もないけど、景色だけはいいんだよね」


「何もないって、温泉があるじゃん」


「地元民からすると、温泉って生活設備だから」


「ぜいたく」


 芽衣が小さく笑う。


「朝比奈さん、温泉好き?」


「うん。まだよく分からないけど、嫌いじゃない」


「匂いは?」


 そう聞かれて、澪は一瞬だけ透真を見た。


 透真もこちらを見ていた。


 澪は少し考えてから言った。


「最初はびっくりしたけど……湯の匂いだなって」


 透真の眉がわずかに動く。


 杏が首を傾げた。


「何その感想」


「湯守くんにそう言えって指導された」


「指導してない」


「朝から補習みたいなことされたじゃん」


「補習ではない。質問だ」


「卵を腐らせたことあるのかって聞くのが?」


 芽衣と杏が同時に吹き出した。


「何それ!」


「湯守、初対面で何言ってんの!」


 透真は少し不満そうに言う。


「表現の由来を確認しただけだ」


「それを世間では絡むって言うんだよ」


 杏の言葉に、澪は笑った。


 笑いながら、胸の奥の緊張が少しほぐれる。


 この町で、ずっと笑っていられるかは分からない。


 でも、少なくとも今は、笑えた。


 校内案内が終わるころには、日が傾いていた。


 芽衣と杏は部活へ向かい、澪は玄関で靴を履き替えた。


 外へ出ると、坂の向こうから温泉の匂いが流れてくる。


 昨日より、少しだけ鼻が慣れた気がした。


「郵便局の角を左」


 澪が呟くと、横から声がした。


「帰りは右」


 透真だった。


「分かってるよ」


「昨日は分かってなかった」


「今日は分かってる」


「ならいい」


 透真は校門を出て、澪と同じ方向へ歩き出した。


「また途中まで?」


「湯守屋もそっちだから」


「そっか」


 二人は並んで坂を下った。


 昨日ほど気まずくはない。


 かといって、親しいわけでもない。


 微妙な距離。


 澪はその距離が、少し楽だった。


 透真はあまり質問してこない。


 東京のことも、家族のことも、なぜこの町に来たのかも。


 普通なら、もう少し聞かれてもおかしくないのに。


「ねえ」


「何」


「湯守くんって、人のこと気にならないの?」


「気になる」


「じゃあ、なんで聞かないの?」


 透真は少し歩いてから答えた。


「聞かれたくないことを聞かれると、人は嘘を増やす」


 澪の足が、ほんの少し遅くなった。


 透真は前を見たまま続ける。


「嘘が悪いとは思わない。必要な嘘もある。ただ、増えすぎると本人が疲れる」


「……経験者みたいな言い方」


「観察者だよ」


「また観察」


「便利だから」


 澪は笑おうとした。


 でも、少し難しかった。


「私、そんなに嘘ついてるように見える?」


「見える、とは言ってない」


「じゃあ匂う?」


 自分で言ってから、しまったと思った。


 透真は立ち止まらなかった。


 ただ、少しだけ声を低くした。


「匂いで分かるのは、そこに何があったかだけだ。何を隠しているかまでは分からない」


「……そうなんだ」


「だから、聞かない」


 風が吹いた。


 湯けむりが坂の下から流れてくる。


 澪は、言葉を探した。


 けれど、見つからなかった。


 父の仕事の都合。


 母の療養。


 病院の匂い。


 夜中に聞こえる咳。


 椿屋の薄暗い廊下。


 それらを、今ここで言う必要はない。


 でも、何も言わないでいるのも少し苦しかった。


「湯守くんってさ」


「うん」


「優しいのか、意地悪なのか、よく分からない」


「よく言われる」


「直す気は?」


「どちらを?」


「分からないところ」


「それは相手の解釈に依存する」


「うわ、逃げた」


「正確に言った」


 澪は今度こそ笑えた。


 面倒くさい。


 本当に面倒くさい。


 でも、少しだけありがたかった。


 椿屋の前に着くと、昨日と同じように、玄関の奥から古い木の匂いがした。


 今日は、それに混じって微かな甘さがある。


 花の匂い。


 椿。


 澪にも、昨日よりはっきり分かった。


「……椿の匂い、する」


 思わず呟くと、透真が横で足を止めた。


「昨日より強い」


「分かるの?」


「分かる」


「幽霊かな」


 澪は冗談めかして言った。


 透真は即答した。


「幽霊が椿油を使うなら、かなり身だしなみに気を遣う霊だね」


「そこなの?」


「そこからだ」


「普通は怖がるところじゃない?」


「怖がるには情報が足りない」


「怖がるのにも情報いるんだ」


「いる」


 澪は呆れながらも、少し安心した。


 怖い話が、透真の口にかかると少し馬鹿馬鹿しくなる。


 それは、それで助かる。


 玄関の引き戸が開いた。


 中から、母の沙織が顔を出した。


「澪、おかえり」


「ただいま。起きてて大丈夫?」


「大丈夫よ。ずっと寝てると、かえって体がなまっちゃうから」


 沙織は笑った。


 細い笑顔だった。


 その後、透真に気づいて小さく会釈する。


「お友達?」


 澪は一瞬詰まった。


「えっと……同じクラスの湯守くん。昨日、道教えてくれて」


「湯守です」


 透真は丁寧に頭を下げた。


「まあ、湯守屋さんの」


 沙織が言うと、透真の目がわずかに動いた。


「ご存じですか」


「この町に来る前に、少し調べたの。古くからある旅館でしょう」


「はい」


「澪がお世話になったみたいで。ありがとう」


「いえ」


 透真は短く答えた。


 そのとき、沙織が小さく咳をした。


 一度だけ。


 けれど、澪はすぐに反応した。


「お母さん」


「平気よ。冷えただけ」


「中入ってて」


「はいはい」


 沙織は困ったように笑い、旅館の中へ戻っていった。


 澪はその背中を見送る。


 笑顔が消えないように気をつけながら。


 透真は何も言わなかった。


 咳についても。


 消毒液の匂いについても。


 母が「湯守屋」を知っていたことについても。


 何も。


 それが逆に、澪には分かった。


 この人は、気づいている。


 たぶん、かなりのところまで。


「じゃあ、また明日」


 澪が言うと、透真はうなずいた。


「また明日」


 彼は背を向けた。


 しかし数歩歩いてから、ふと立ち止まった。


「朝比奈さん」


「何?」


「椿屋の浴場、夜に一人で行かないほうがいい」


 澪は少し笑った。


「幽霊が出るから?」


「違う」


 透真は真顔で言った。


「匂いが強い場所は、原因がある。原因が分かるまで、近づかないほうがいい」


「……分かった」


「たぶん、分かってない返事だ」


「分かってるよ」


「ならいい」


 透真は今度こそ坂を上っていった。


 澪はしばらくその背中を見ていた。


 古い旅館の中から、湯気と椿の香りが流れてくる。


 遠くで、川の音がした。


 その夜。


 澪は母が眠ったあと、一人で部屋の窓を開けた。


 椿屋の客室は二階にある。窓の外には、狭い中庭が見えた。石灯籠と、小さな池と、赤い椿の木。


 花はまだ満開ではない。


 それでも、いくつかの赤い花が、暗がりの中でぽつりぽつりと浮かんでいるように見えた。


 澪は、昼間に聞いた噂を思い出す。


 夜になると、誰もいない女湯から椿の香りがする。


 湯船に椿の花びらが浮いている。


 幽霊。


 馬鹿馬鹿しい。


 そう思うのに、背中が少し寒い。


 そのとき、廊下の奥で、きしり、と床板が鳴った。


 澪は振り返った。


 旅館の廊下は暗い。


 母は眠っている。


 女将も、仲居たちも、もう奥に引っ込んでいる時間だ。


 もう一度、床板が鳴る。


 きしり。


 そして、微かな香り。


 椿の匂い。


 澪は、透真の言葉を思い出した。


 夜に一人で行かないほうがいい。


「……行かないよ」


 誰にともなく言った。


 けれど、足は廊下のほうを向いていた。


 怖い。


 でも、気になる。


 澪はそっと障子を開けた。


 廊下の奥、浴場へ続く角のあたりに、白い湯気が薄く漂っていた。


 その中に、何か赤いものが落ちている。


 花びら。


 椿の花びらだった。


 澪は息を飲んだ。


 その瞬間、背後の部屋で母が咳き込んだ。


 澪ははっとして振り返る。


「お母さん?」


 急いで部屋へ戻ると、沙織が布団の中で苦しそうに咳をしていた。


 澪は水差しを取り、背中をさする。


「大丈夫? 薬、飲む?」


「平気……ごめんね、起こした?」


「起きてたから」


「そう」


 沙織は少し落ち着くと、弱く笑った。


「学校、どうだった?」


「楽しかったよ。友達もできそう」


「よかった」


「変な男子もいるけど」


「変な男子?」


「温泉の匂いにうるさい人」


 沙織は小さく笑った。


「この町らしいわね」


「この町、そんな人ばっかりなの?」


「どうかしら」


 母の声は、どこか遠かった。


 澪は水の入ったコップを手渡す。


「ねえ、お母さん」


「何?」


「ここに来たのって、本当に温泉が体にいいから?」


 沙織の指が、コップの縁で止まった。


 ほんの一瞬。


 でも、澪には分かった。


 今、何かを隠した。


 沙織はすぐに笑う。


「そうよ。先生も勧めてくれたでしょう?」


「うん」


「いいお湯だもの。きっと元気になるわ」


 その笑顔は優しかった。


 優しい嘘だった。


 澪は、それ以上聞けなかった。


「そっか」


 笑って返す。


 母を安心させるための笑顔。


 自分を守るための笑顔。


 どちらが先なのか、もう分からない。


 その夜、澪はなかなか眠れなかった。


 廊下の向こうから、椿の香りがする。


 遠くで水音がした気がした。


 けれど確かめには行かなかった。


 行けなかった。


 翌朝。


 湯守透真は、坂道の途中でいつものように足を止めた。


 共同浴場の湯気は昨日と同じように白い。


 山の空気も、石畳の湿り気も、朝の饅頭屋から漂う甘い匂いも、ほとんど変わらない。


 だが、坂の下から上ってきた澪の制服には、昨日とは違う匂いがあった。


 椿。


 夜の冷えた廊下。


 少しだけ、眠れていない人間の匂い。


 澪は透真に気づくと、いつものように笑った。


「おはよう、湯守くん」


 その笑顔は、昨日より少し上手だった。


 上手すぎた。


 透真は一秒だけ黙ってから、答えた。


「おはよう」


「何?」


「いや」


「また言うと怒るやつ?」


「たぶん」


「じゃあ言わないで」


「そうする」


 澪は少し驚いた顔をした。


「本当に言わないんだ」


「言うなと言われた」


「そうだけど」


 二人は並んで坂を上る。


 澪は明るく話し始めた。


「昨日、芽衣ちゃんと杏ちゃんに購買教えてもらった。コロッケパンおいしかった」


「肉屋のソースだから」


「町情報詳しいね」


「地元だから」


「あと、椿屋の幽霊の話も聞いた」


 透真は歩く速度を変えなかった。


「そう」


「有名なんだね」


「有名というほどではない。狭い町で、話題が少ないだけだ」


「湯船に椿の花びらが浮くんだって」


「聞いた」


「……見たことある?」


「ない」


「そっか」


 澪はそれ以上言わなかった。


 透真も聞かなかった。


 ただ、校門が見えてきたころ、澪が小さく呟いた。


「匂いってさ」


「うん」


「嘘つかないんだっけ?」


「匂いは嘘をつかない」


 透真は前を見たまま言った。


「嘘をつくのは、匂いを説明する人間のほうだ」


 澪は、少しだけ笑った。


「ほんと、面倒くさいね」


「よく言われる」


「でも」


 澪は言いかけて、やめた。


 でも、何なのか。


 自分でも分からなかった。


 校門をくぐると、朝のチャイムが鳴った。


 澪はまた、教室用の笑顔を作る。


 透真はその横顔を見た。


 転校生は、笑顔で嘘をつく。


 けれど、その嘘は誰かを傷つけるためのものではない。


 たぶん、自分と母親を壊さないための、薄い包帯のようなものだ。


 だから、透真は何も言わない。


 まだ。


 今はまだ。


 ただ、椿屋の匂いだけは、確実に濃くなっている。


 それだけが、どうにも気にかかった。

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