第1話 君は卵を腐らせたことがあるのかい?
「うわ、卵が腐った匂いする」
朝比奈澪がそう言ったのは、転校初日の朝だった。
まだ七時を少し回ったばかりの温泉町は、眠りから完全には覚めきっていない。坂道の両側には古い木造旅館が肩を寄せ合い、軒先の提灯は朝の光に色を失っている。石畳の隙間には夜露が残り、共同浴場の煙突からは白い湯気が細く立ちのぼっていた。
澪は、その湯気を見上げた。
東京では見たことのない朝だった。
山の輪郭が近い。空気が湿っている。通学路の途中に浴衣姿のおじいさんがいて、手ぬぐいを首にかけたおばあさんが「おはようさん」と誰にともなく声をかけていく。
そして、匂い。
鼻の奥に引っかかるような、独特の匂い。
だから、つい言ってしまったのだ。
「うわ、卵が腐った匂いする」
その瞬間、前を歩いていた男子高校生が足を止めた。
黒い学ラン。少し癖のある黒髪。背は高いが、猫背ではない。むしろ、妙に姿勢がいい。片手に学生鞄を持ち、もう片方の手をポケットに入れていた彼は、ゆっくりと振り返った。
澪は、目が合った瞬間に思った。
うわ、面倒くさそう。
それは、第一印象としてはかなり失礼だったが、たぶん間違っていなかった。
男子は、澪をまっすぐ見て言った。
「君は」
「はい?」
「卵を腐らせたことがあるのかい?」
澪は、一度まばたきをした。
聞き間違いかと思った。
「……え?」
「卵が腐った匂い、と君は言った。なら確認したい。君は実際に卵を腐らせ、その匂いを嗅いだ経験があるのか。それとも、どこかで聞いた比喩を、自分の感想としてそのまま提出しただけなのか」
朝の温泉街に、湯気が流れていく。
その向こうで、浴衣姿のおじいさんがちらりとこちらを見た。だが、すぐに興味をなくしたように歩いていった。
この町では、こういう会話が普通なのだろうか。
いや、そんなはずはない。
「……普通、そう言いません?」
澪がそう返すと、男子は少しだけ眉を動かした。
「普通という言葉は、観察を放棄した人間にとって便利な杖だ」
「朝から言うこと重っ」
「重くない。正確なだけだ」
「いや、正確じゃなくて面倒くさいです」
「それは否定しない」
否定しないんだ。
澪は少しだけ困った。
初日だ。転校初日。できれば平穏に始めたかった。知らない町、知らない学校、知らない制服。そんな朝に、いきなり温泉の匂いについて詰められるとは思っていなかった。
男子は共同浴場のほうへ視線を向ける。
「これは硫化水素を含む温泉の匂いだ。卵が腐った匂い、という説明は分かりやすい。だが、分かりやすさは時々、ものを雑にする」
「硫化……何?」
「硫化水素」
「それ、朝の登校中に女子高生へ向けて言う単語ですか?」
「女子高生かどうかで成分は変わらない」
「会話の成分は変わると思う」
澪がそう言うと、男子は初めて少し黙った。
言い負かした、というほどではない。けれど、ほんの一瞬、彼の目に考える色が浮かんだ。
澪はその隙に横を抜けようとした。
今日から通う高校は、この坂を上った先にあると聞いている。地図アプリでは徒歩十五分。けれど坂が多すぎる。しかも温泉街の路地は、どれも似たように曲がっている。方向音痴ではないつもりだが、正直あまり自信がなかった。
そのとき、男子が言った。
「高校なら、そっちじゃない」
澪は足を止めた。
「……え?」
「そっちは観光客向けの足湯通り。学校はこの坂を上がって、郵便局の角を左」
澪はスマホの画面を見た。
たしかに、地図アプリは少しずれていた。山間の町だから電波か位置情報が不安定なのかもしれない。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
その返事は淡々としていた。
嫌味なのか親切なのか、分かりにくい。
澪は少し歩いてから、横目で男子を見た。
「あなたも高校?」
「そう」
「同じ学校?」
「たぶん」
「たぶんって」
「この町に高校は一つしかない」
「あ、そうなんだ」
「知らずに転校してきたのか」
「そこまで調べる余裕なかったの」
言ってから、澪は少しだけ唇を噛んだ。
余計なことを言ったかもしれない。
男子がこちらを見る。
澪はすぐに笑った。
「父の仕事の都合で、急に引っ越すことになって。だからまだ町のこと全然分からなくて」
用意していた説明だった。
何度も頭の中で練習した。担任に聞かれたときも、クラスメイトに聞かれたときも、これを言えばいい。父の仕事。急な引っ越し。慣れない町。大丈夫。笑えば、それ以上は聞かれない。
男子は、澪の顔ではなく、制服の袖口あたりを見た。
それから、わずかに鼻を動かしたように見えた。
「……そう」
「何?」
「いや」
「何その間。すっごく気になるんだけど」
「言うとたぶん怒る」
「もう若干怒ってるから言って」
男子は前を向いたまま、静かに言った。
「仕事の匂いじゃないと思っただけだ」
澪は足を止めそうになった。
でも止めなかった。
「なにそれ」
「言ったら怒ると言った」
「いや、意味分かんないし」
「分からないなら、それでいい」
澪は笑おうとした。
けれど、うまく笑えたかどうか自分でも分からなかった。
坂道の上から、学校のチャイムが小さく聞こえた。まだ始業には早いはずなのに、建物が近いせいか、予鈴のような音が風に乗って落ちてくる。
澪は鞄を持ち直した。
「ねえ」
「何」
「名前は?」
男子は少し意外そうにこちらを見た。
名前を聞かれると思っていなかったらしい。初対面でここまで会話しておいて、それもどうかと思う。
「湯守透真」
「ゆもり?」
「湯を守ると書いて湯守」
「温泉町っぽい名字」
「よく言われる」
「私は朝比奈澪。今日から二年」
「そう」
「そう、だけ?」
「よろしく、と言ったほうがいい場面か」
「普通はね」
透真は少し考えてから言った。
「よろしく、朝比奈さん」
澪は、なんとなく笑ってしまった。
言わされている感がすごかった。
「よろしく、湯守くん」
そのとき、共同浴場のほうから、濡れた桶を抱えたおばあさんが出てきた。
「あら、透真ちゃん。今日は女の子連れかい」
透真は顔色ひとつ変えなかった。
「道案内です」
「へえ、そうかいそうかい。春だねえ」
「季節は関係ありません」
「関係あるよお。若い子には特にねえ」
おばあさんは楽しそうに笑いながら坂を下っていった。
澪は吹き出しそうになった。
「透真ちゃん」
「笑いたければ笑えばいい」
「いや、かわいい呼ばれ方だなって」
「君の感想の自由は尊重する」
「その返し、かわいくない」
「それもよく言われる」
こんなに会話が噛み合わないのに、なぜか歩く速度は合った。
澪は不思議な気分だった。
知らない町で、知らない男子に絡まれて、腹が立ってもいいはずなのに、そこまで嫌ではなかった。たぶん、彼の言葉には棘があるけれど、こちらを傷つけようという感じがしないからだ。
いや、やっぱり面倒くさいのは間違いない。
坂を上がりきると、県立白峰高校の校門が見えた。
古いが、手入れはされている。校舎の奥には山が見え、グラウンドの向こうにはまだ湯気を上げる温泉街の屋根が広がっていた。
澪は校門の前で立ち止まった。
深呼吸をする。
鼻の奥に、さっきの温泉の匂いが残っている。
卵が腐った匂い。
そう言いかけて、澪は少しだけ言葉を変えた。
「……湯の匂い、するね」
透真がこちらを見た。
「今のは悪くない」
「採点制なの?」
「表現は常に採点されている」
「誰に?」
「自分に」
「めんどくさ」
澪がそう言うと、透真は少しだけ口元を緩めた。
笑った、のかもしれない。
分かりにくい笑い方だった。
職員室で手続きを済ませ、澪は担任に連れられて二年二組の教室へ向かった。
廊下を歩く間、心臓が少しずつ早くなる。
大丈夫。
笑えばいい。
明るく、普通に、感じよく。
余計なことは言わない。
父の仕事の都合。急な引っ越し。温泉町は初めて。よろしくお願いします。
それでいい。
担任が教室の扉を開けると、ざわめきが一瞬で静かになった。
「今日からこのクラスに入る朝比奈澪さんだ。みんな、仲良くするように」
黒板の前に立つ。
視線が集まる。
東京から来た転校生。
たぶん、それだけで珍しいのだろう。何人かの女子が興味津々にこちらを見ている。男子たちは少しそわそわしている。
澪は笑った。
「朝比奈澪です。父の仕事の都合で、東京から引っ越してきました。まだ町のことも学校のことも全然分からないので、いろいろ教えてもらえたら嬉しいです。よろしくお願いします」
拍手が起きた。
明るく言えた。
大丈夫。
そう思った瞬間、教室の窓際に座る男子と目が合った。
湯守透真だった。
澪は内心で固まった。
同じクラスか。
しかも、担任が示した席は、その隣だった。
「朝比奈は湯守の隣な。湯守、いろいろ教えてやれ」
教室のあちこちから小さな笑いが起きた。
「先生、それ人選ミスじゃないですかー」
明るい男子が言った。
担任も苦笑する。
「まあ、湯守は変わってるが、悪いやつではない」
「先生、褒め方が雑です」
透真が淡々と言うと、また教室が笑った。
澪は席についた。
隣から、低い声が聞こえる。
「再会が早かったね」
「本当にね」
「席順は僕のせいじゃない」
「そこ疑ってないよ」
「ならいい」
前の席の男子が振り返った。
人懐っこい顔をしている。髪は少し明るめで、笑うと犬っぽい。
「俺、黒瀬蓮。よろしく、朝比奈さん。ちなみに湯守の言うことは七割くらい聞き流していいから」
「三割は?」
「たまに役に立つ」
「たまに?」
「ほんとにたまに」
透真が蓮を見た。
「僕の説明として不正確だ」
「じゃあ正確に言うと、面倒だけど悪いやつではない」
「担任と同じ雑さだ」
澪は思わず笑った。
教室の空気が少しだけ柔らかくなる。
自己紹介のあと、授業が始まった。
最初の授業は現代文だった。教科書のページを開く音、チョークが黒板を叩く音、窓の外から聞こえる鳥の声。
東京の学校より静かだと思った。
いや、静かなのではなく、別の音が多いのかもしれない。風の音。遠くの川の音。古い校舎がきしむ音。温泉街のほうからかすかに聞こえる車の音。
澪はノートを取ろうとして、消しゴムを落とした。
ころころと転がり、透真の机の脚に当たって止まる。
透真が拾って渡してくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
今度は普通だった。
少しだけ、普通だった。
昼休みになると、澪の周りにはすぐに女子たちが集まった。
「東京から来たんでしょ?」
「どこ? 渋谷とか?」
「温泉街ってどう? 匂いきつくない?」
澪は笑いながら答えた。
「まだ来たばっかりだから、全部新鮮かな。坂が多くてびっくりした」
「分かるー。最初だけだよ、びっくりするの」
「そのうち無心で登れるようになる」
「温泉は? 入った?」
「うん、昨日少しだけ。熱かったけど、気持ちよかった」
嘘ではない。
全部が嘘ではない。
だから大丈夫。
父の仕事の都合、というところだけ少し違うだけだ。
母の咳。病院の説明。療養に向いている温泉。古い旅館。引っ越しの段ボール。知らない町。
それらを教室に持ち込む必要はない。
明るくしていればいい。
澪はそう思いながら笑った。
そのとき、隣の席で弁当を食べていた透真が、卵焼きを箸で持ち上げてじっと見ていた。
蓮がその様子に気づく。
「お前、卵焼きに何か恨みでもあんの?」
「ない」
「じゃあなんで鑑識みたいな目で見てんだよ」
「朝、卵の話をしたから」
「何の話?」
澪は慌てて言った。
「何でもない!」
透真は淡々と続ける。
「朝比奈さんが温泉の匂いを卵が腐った匂いと言った」
「ちょっと!」
蓮が吹き出した。
「あー、言う言う。観光客だいたい言う」
「君たちも雑だ」
「出た、湯守節」
蓮は澪に向かって笑った。
「こいつさ、匂いにうるさいんだよ。温泉旅館の息子だからっていうか、もう病気レベル」
「病気ではない」
「じゃあ趣味?」
「体質だ」
澪は箸を止めた。
「体質?」
蓮が代わりに説明する。
「湯守、鼻がいいんだよ。犬ほどじゃないけど」
「犬と比較するな」
「じゃあ警察犬未満、人間以上」
「それも雑だ」
澪は透真を見た。
朝の言葉を思い出す。
仕事の匂いじゃない。
あれは冗談ではなかったのかもしれない。
透真は澪の視線に気づいたが、何も言わなかった。
ただ、卵焼きを口に運んだ。
「ちなみにその卵焼きは腐ってないの?」
澪が小声で聞くと、透真は一瞬だけ目を細めた。
「腐っていたら食べない」
「まあ、それはそう」
「甘い。祖母の味だ」
不意に、言葉が柔らかくなった。
澪は少し意外だった。
この人でも、そんな言い方をするのか。
放課後。
担任から簡単な説明を受け、教科書を何冊か渡され、澪は校門を出た。
さて、問題は帰り道だった。
来るときは透真がいたから何とかなった。だが帰りは一人だ。旅館「椿屋」までの道は、地図で見ると単純なのに、実際は坂と路地と石段が多くて分かりにくい。
澪はスマホを見ながら歩き出した。
十分後。
同じ饅頭屋の前に戻ってきた。
「……あれ?」
さらに五分後。
さっき見た足湯の前に出た。
「……あれれ?」
温泉街は、観光客には風情があるのだろう。だが迷子には罠だった。似たような旅館の看板、曲がった路地、湯気で霞む視界。地図アプリはまた微妙に方向を示さない。
澪は立ち止まり、強く息を吐いた。
「迷ってない。これは町の構造を理解してる途中」
「迷子の定義を広げても、迷子は迷子だと思う」
背後から声がした。
振り返ると、透真がいた。
片手に学生鞄。もう片方の手には、紙袋を持っている。
澪は反射的に言った。
「迷ってない」
「そう」
「本当に」
「君の靴に同じ道の泥が三種類ついてる」
「泥?」
「共同浴場前の赤土。足湯通りの黒い砂。饅頭屋裏の白っぽい砂利。少なくとも三回、似たような範囲を回ってる」
澪は自分の靴を見た。
確かに汚れている。
「……怖っ」
「怖くない。観察だ」
「いや、女子の靴の泥をそんなに見てるの怖いよ」
「それは失礼した」
透真はあっさり謝った。
澪は少し拍子抜けする。
「謝れるんだ」
「謝るべきときは謝る」
「じゃあ朝の卵の件も謝って」
「それは必要ない」
「なぜ」
「正確さの問題だから」
「やっぱり面倒くさい」
透真は否定しなかった。
紙袋を持ち直し、澪の横を通る。
「椿屋ならこっち」
「……送ってくれるの?」
「途中まで。祖母に頼まれた饅頭を買った帰りだから」
「おばあちゃん思いなんだ」
「事実をそう表現するなら、否定はしない」
「なんでちょっと嫌そうなの」
「照れるほどのことじゃない」
澪は笑った。
少しだけ、この人の扱い方が分かってきた気がした。
坂を下り、川沿いの細い道へ出る。
夕方の温泉街は、朝とは違う顔をしていた。旅館の窓に明かりが灯り、土産物屋の軒先から甘い匂いが漂ってくる。濡れた石畳には夕日が反射し、湯気は橙色に染まっていた。
「綺麗だね」
澪が言うと、透真は少し間を置いて答えた。
「そうだね」
「そこは否定しないんだ」
「綺麗なものを綺麗と言うのは雑じゃない」
「ふうん」
澪は横顔を見た。
透真は町を見ていた。
慣れきった景色を見る目ではなかった。観察しているようで、守っているようでもある。
「湯守くんって、この町好きなの?」
「嫌いではない」
「それ、好きってこと?」
「好きという言葉は範囲が広すぎる」
「また始まった」
「ただ」
透真は少しだけ声を落とした。
「匂いで季節が分かる町は、悪くない」
澪は返事に困った。
変な言い方なのに、少しだけ分かる気がしたからだ。
やがて、古い旅館の前に着いた。
木の看板に「椿屋」と書かれている。立派ではあるが、どこか古びていた。格子戸の隙間から、薄暗い玄関が見える。軒先には赤い椿の鉢植えが置かれていた。
「ここ」
「うん。ありがとう」
澪が礼を言うと、透真は玄関の前で足を止めた。
さっきまでと違う顔をしていた。
静かに、空気を嗅ぐように。
「どうしたの?」
「……椿油」
「え?」
「古い畳。湿った木材。消毒液。あと、少し焦げた匂い」
「焦げた?」
澪も鼻を動かしてみた。
でも、分からない。
分かるのは、古い旅館の匂いと、温泉の匂いと、どこか甘い花のような匂いだけだ。
透真は玄関の奥を見ている。
そこへ、旅館の中から女将らしき女性が出てきた。
「あら、澪ちゃん。おかえりなさい」
「あ、はい。ただいま戻りました」
女将は透真を見て、少し驚いた顔をした。
「湯守屋の透真くんじゃない。珍しいねえ」
「道案内です」
「そう。助かったわ。澪ちゃん、まだ町に慣れてないから」
女将は穏やかに笑った。
けれど、透真はその笑顔を見ても表情を変えなかった。
「失礼します」
それだけ言って、背を向ける。
澪は慌てて呼び止めた。
「湯守くん」
透真が振り返る。
「今日はありがと。朝は変な人だと思ったけど」
「過去形?」
「……今も少し思ってるけど」
「正直でよろしい」
「でも、助かった」
透真は一瞬だけ黙った。
それから、ほんの少し頷いた。
「迷うなら、明日は郵便局の角まで覚えるといい」
「そこから?」
「まずはそこから」
「はいはい」
澪は笑った。
透真は坂のほうへ戻っていく。
その背中を見送りながら、澪は玄関に入った。
椿屋の中は、昼でも少し薄暗い。廊下の奥からは、母の咳がかすかに聞こえた。
澪の笑顔が、そこで少しだけ消えた。
「……ただいま」
誰に言うでもなく呟く。
古い木の匂い。
薬の匂い。
湯気の匂い。
そして、さっき透真が言っていた椿の香り。
澪は振り返った。
玄関の外には、もう透真の姿はなかった。
その夜。
湯守透真は、自分の家である老舗旅館「湯守屋」の帳場にいた。
祖母の千鶴が、帳簿を閉じながら言う。
「今日は椿屋まで行ったんだって?」
「耳が早いですね」
「温泉町の噂は湯より早く回るよ」
「迷子を送っただけです」
「転校生の子かい」
「朝比奈澪」
「名前まで覚えてるじゃないか」
「同じクラスです」
「ふうん」
千鶴はにやにやした。
透真はそれを無視した。
帳場の奥では、温泉の配管が低く鳴っている。湯守屋は古い旅館だが、湯の管理だけは徹底している。祖父の代からの決まりで、温度、湯量、匂い、色、すべてを毎日確認する。
透真は幼いころから、その匂いの中で育った。
だから、町の小さな変化にも気づく。
椿屋の玄関にあった、あの匂い。
椿油。
消毒液。
古い紙。
焦げた木。
そして、澪の制服に残っていた病院の匂い。
「ばあちゃん」
「何だい」
「椿屋で、最近何かありましたか」
千鶴の手が、ほんの少し止まった。
「どうしてだい」
「匂いが変でした」
「またそれかい」
「またです」
千鶴はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり湯呑みを持ち上げた。
「椿屋は古い宿だよ。古い宿には、古い匂いが染みつく」
「答えになってません」
「答えたくないこともある」
透真は祖母を見た。
千鶴は穏やかに笑っている。
けれど、その笑みは女将の顔だった。
客にも、町の人間にも、孫にも、必要以上を語らない顔。
「透真」
「はい」
「匂いは便利だねえ。けれど、匂いだけで人を追い詰めるんじゃないよ」
「分かってます」
「ならいい」
千鶴は湯呑みを置いた。
透真は帳場の窓から、坂の下を見た。
温泉街には夜の湯気が漂っている。旅館の灯りがぼんやり滲み、石段の向こうに椿屋の屋根が見えた。
あの転校生は、笑顔で嘘をついた。
父の仕事の都合。
たぶん、違う。
だが、嘘をつくには理由がある。
そして、その理由を本人が言いたくないなら、他人が勝手に暴くべきではない。
透真はそう思っていた。
ただ。
椿屋の匂いは、少し気になる。
温泉の匂いを「卵の腐った匂い」と言った少女。
笑顔で嘘を包む少女。
そして、椿の香りが染みついた古い旅館。
透真は小さく呟いた。
「……仕事の匂いじゃないな」
湯けむりの向こうで、夜の温泉町が静かに息をしていた。




