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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第10話 椿油の匂いは、別れの匂い

 翌朝の温泉街は、雨上がりの匂いをまだ抱えていた。


 石畳の隙間に残った水。濡れた土。軒先の木が吸った湿気。共同浴場から立ちのぼる湯気は、いつもより白く、町の輪郭をぼんやり滲ませている。


 朝比奈澪は、椿屋の玄関先で傘を畳みながら、少しだけ息を吸った。


 椿の香りは、薄くなっていた。


 昨夜、美奈が泣きながら椿の花を置いていたことを認めたからか、花そのものの怖さは少し遠のいた気がする。


 けれど、問題は終わっていない。


 椿油。


 古い手紙。


 渡せなかった手紙。


 あれを帳場に置いた人物が、まだ残っている。


 そして、澪はもう、その相手が誰なのかを薄々分かっていた。


 土産物屋の老婆、お静。


 静屋の奥から漂っていた椿油の匂い。


 濡れた草履に残っていた椿屋の中庭の土の匂い。


 透真は断定しなかった。


 だが、透真が断定しない時ほど、澪にはかえって分かる。


 彼は、間違えることを嫌がっているだけだ。


 何も見えていないわけではない。


「おはよう」


 坂の下から湯守透真が歩いてきた。


 いつもの学ラン。いつもの鞄。今日は片手に小さな紙袋を持っている。


「おはよう。何それ」


「祖母から」


「おばあちゃんから?」


「静屋に行くなら持っていけ、と」


 透真は紙袋を軽く持ち上げた。


 中には、湯守屋の焼き菓子が入っているらしい。


 澪は少し驚いた。


「お土産?」


「正確には、話を聞きに行くための口実」


「湯守くんにしては人間社会に適応してる」


「祖母の指示だから」


「なるほど」


「僕単独では思いつかないと思われている」


「そこは否定しないんだ」


「否定材料が少ない」


 澪は少しだけ笑った。


 こういうやり取りが、今はありがたかった。


 昨夜はあまり眠れなかった。


 母は、何度か咳をした。澪はそのたびに目を覚まし、水を渡した。


 そして、寝直すたびに、帳場の古い封筒を思い出した。


 沙織さんへ。


 渡せなかった手紙。


 宗一という人は、母に何を書いたのだろう。


 母は、それを読んだらどうなるのだろう。


 自分は、それを見てもいいのだろうか。


 考えれば考えるほど、答えは湯気の向こうへ消えていった。


「今日、学校は?」


 澪が聞くと、透真は淡々と答えた。


「午前だけ。創立記念行事の準備で短縮」


「そういえば言ってたね」


「聞いてなかった?」


「聞いてたけど、脳内が椿まみれで」


「それはあまり健康的ではない」


「分かってる」


 二人は学校へ向かって坂を上った。


 午前中の授業は、ほとんど記憶に残らなかった。


 教室では、椿屋の幽霊騒ぎについて直接聞いてくる生徒はもういなかった。宮原も昨日の件以来、気まずそうにしつつも、あえて普通に話しかけてくれた。


 それが、かえってありがたかった。


「朝比奈、今日の数学プリント持ってる?」


「持ってるよ」


「写させて」


「堂々と?」


「堂々と」


「先生に言うよ」


「裏切り!」


 そんな会話ができるだけで、ずいぶん楽だった。


 昼前に授業が終わると、澪は昇降口で透真を待った。


 蓮がそれを見つけて、にやにやしながら近づいてくる。


「お、今日も湯守待ち?」


「うん」


 澪が素直に答えると、蓮のほうが少し驚いた。


「そこ認めるんだ」


「認めたほうが早いかなって」


「朝比奈さん、成長早いな。湯守の面倒くささに適応してきてる」


「適応っていうか、諦め?」


「それ正解」


 そこへ透真が来た。


「聞こえてる」


「聞こえるように言ってる」


「いつもそれだね」


 澪が言うと、蓮は笑った。


「伝統芸だから」


「伝統にするには歴史が浅い」


 透真が即座に言った。


「ほら、これ」


 蓮は大げさに肩をすくめた。


「朝比奈さん、こいつ本当に大変だと思うけど、よろしくな」


「よろしくって何を」


「人間社会への接続」


「黒瀬くん、私を何だと思ってるの」


「湯守専用通訳機」


「嫌だな、それ」


「僕も嫌だ」


 透真まで普通に嫌がったので、澪は笑ってしまった。


 蓮は軽く手を振った。


「まあ、気をつけて帰れよ。雨上がりで坂滑るから」


「うん。ありがとう」


「湯守、朝比奈さん転ばすなよ」


「転ばせたことはない」


「転びかけたところを観察してただろ」


「支えた」


「じゃあよし」


 蓮は満足げに部活のほうへ去っていった。


 澪はその背中を見送りながら言った。


「黒瀬くんって、軽いけどいい人だね」


「彼は便利だよ」


「またそれ」


「褒めてる」


「黒瀬くんに言ったら怒るよ」


「分かってるから本人には言わない」


「人間社会に適応してる」


「少しずつ」


 二人は校門を出た。


 静屋に着くまで、あまり話さなかった。


 温泉街は昼の顔をしている。観光客が数人、足湯に足を浸していた。土産物屋の軒先では、濡れたのぼり旗が風に揺れている。旅館の窓からは、昼食の準備の匂いが漂ってきた。


 静屋は、昨日と同じように古びた店構えで、路地の奥に静かに立っていた。


 ただ、昨日よりも店の中が暗く見えた。


「入る?」


 澪が小声で聞く。


「入る」


「お静さん、怒るかな」


「怒ると思う」


「断言するんだ」


「昨日の時点で怒っていた」


「それもそう」


 透真は店の戸を開けた。


「こんにちは」


 店の奥から、しばらく返事はなかった。


 澪が不安になりかけたころ、のれんの向こうからお静が姿を見せた。


 昨日と同じ藍色の割烹着。


 けれど、顔は少し疲れていた。


「また来たのかい」


「はい」


「嫌な鼻の坊やと、怖いものを見に来た娘さん」


「ひどい紹介ですね」


 透真が言うと、お静はふんと鼻を鳴らした。


「ひどいことを聞きに来たんだろう」


 澪は一歩前に出た。


「聞きたいことがあります」


「昨日も聞いただろう」


「昨日、答えてもらってません」


 お静の目が細くなる。


 澪の心臓は速くなっていた。


 怖い。


 でも、ここで引き返したくはなかった。


 透真が紙袋を差し出した。


「祖母からです」


 お静はそれを見て、少しだけ表情を変えた。


「千鶴さんが?」


「はい。『これを渡せば、少なくとも追い返されはしないだろう』と」


「あの人は本当に嫌なところを突くね」


「よく言っています。お静さんも同じことを言っていました」


「余計なことを覚えてるんじゃないよ」


 お静は紙袋を受け取り、店の奥へ置いた。


「座りな」


 昨日と同じ丸椅子が二つ出された。


 澪と透真は座る。


 お静は向かいに立ったままだった。


「それで? 今日は何を聞きたい」


 澪は息を吸った。


「椿屋の帳場に、古い手紙が置かれていました」


 お静の顔は変わらなかった。


 だが、手だけがわずかに動いた。


 割烹着の裾をつまむ指が、強くなった。


「沙織さん宛ての手紙です。表に、渡せなかった手紙って書いてありました」


「そうかい」


「お静さんが置いたんですか」


 店の中が静かになった。


 外では、観光客の笑い声が通り過ぎていく。


 その明るさが、ここだけ別の時間にあるように感じさせた。


「証拠はあるのかい」


 お静が言った。


 透真が静かに答える。


「封筒から、椿油、古い紙、煙草、静屋の奥にある木箱と同じ匂いがしました」


「匂いだけで人を疑うのかい」


「疑う材料の一つです」


「裁判じゃ通らないね」


「裁判ではありません」


「じゃあ何だい」


 透真は少しだけ黙った。


 それから言った。


「渡せなかったものを、誰かがようやく渡そうとしているのかを確認しに来ました」


 お静は返事をしなかった。


 澪は透真を見た。


 時々、この人はひどく面倒くさい。


 でも、時々、誰よりもやわらかいところに言葉を置く。


 お静は、古い棚に手をついた。


 しばらくして、小さく笑った。


「千鶴さんの孫だね」


「よく言われます」


「褒めてないよ」


「知っています」


「……でも、似ているよ」


 お静は、のれんの奥へ消えた。


 戻ってきたとき、手には小さな木箱を持っていた。


 その木箱は古く、角が擦れている。蓋には薄く椿の模様が彫られていた。


 お静はそれをテーブルに置いた。


 蓋を開けると、中には小瓶がいくつか入っていた。


 椿油の小瓶。


 澪にも、ふわりと甘く重い匂いが分かった。


 その奥に、茶色い紙の束がある。


「宗一が使っていたものだよ」


 お静は言った。


「椿油を?」


「客の髪に使うためじゃない。包丁の柄や道具の手入れに、ほんの少し使っていた。あの子は、何でも手入れしないと気が済まない子だった」


「じゃあ、椿屋の浴場にあった小瓶は」


「私が置いた」


 あまりにあっさり言われて、澪は息を止めた。


 お静は、もう隠すつもりがない顔をしていた。


「最初に椿油の匂いを出したのは、私だよ」


 澪の手が膝の上で強く握られる。


「どうして」


「どうしてだろうね」


「分からないふりしないでください」


 自分でも驚くほど、声が強かった。


 お静は澪を見る。


 澪は目を逸らさなかった。


「母は怖がっていました。私も怖かった。美奈さんは、それを真似して椿の花を置いた。椿屋はもっと騒ぎになりました。お静さんが最初にやらなければ」


「そうだね」


 お静は静かに認めた。


 その静けさが、澪の怒りを少しだけ行き場のないものにした。


「悪かったよ」


「謝ればいいってことじゃ」


「分かってる」


 お静の声は低かった。


「謝ればいいってことじゃない。そんなことは、年寄りのほうがよく知ってる」


 澪は黙った。


 お静は木箱の中から、一枚の古い紙を取り出した。


 そこには、宗一という字が書いたと思われる短い献立のメモがあった。


 右上がりの、不器用な字。


「宗一はね、死ぬ少し前に、沙織ちゃん宛ての手紙を私に預けた」


 お静の声が、少しだけかすれた。


「自分で出せばいいって言ったんだよ。でも、あの子は首を横に振った。今さら出せない、と言った。なら何で書いたんだと聞いたら、書かずにはいられなかった、と」


 澪は息を潜めて聞いた。


 透真も黙っている。


「沙織ちゃんは、もう別の人生を歩いていた。結婚して、娘がいると聞いていた。宗一もそれを知っていた。だから、戻ってきてほしいなんて言うつもりはなかった。ただ、礼を言いたかったらしい」


「礼?」


「自分の料理を、初めてちゃんと食べてくれた人だったんだとさ」


 澪は少し驚いた。


 宗一が母を救ったのではないのか。


 母が宗一に救われたのだと思っていた。


 でも、もしかしたら逆でもあったのかもしれない。


 いや、どちらが救ったという話ではないのかもしれない。


 お静は続けた。


「宗一は無口な子だった。自分の作ったものが人の役に立っているのか、いつも分からない顔をしていた。でも、沙織ちゃんはあの子の料理を食べて、笑ったんだよ。体が弱くて、食も細かったのに、あの子の作った椿の菓子だけは、嬉しそうに食べた」


 お静の声が、少しだけ柔らかくなる。


「それが、宗一には一生ものだったんだろうね」


 澪は胸の奥が熱くなった。


 母の知らない時間。


 その中で、母は誰かに救われ、同時に誰かを救っていた。


 そんなこと、想像したこともなかった。


「なら、どうして手紙を渡さなかったんですか」


 澪が聞くと、お静は目を閉じた。


「怖かったからだよ」


「怖い?」


「沙織ちゃんの今の人生を乱すのがね」


 お静は自分の手を見た。


 しわの深い、節くれだった手。


「結婚して、子どももいる人に、昔の男からの手紙を渡す。そんなもの、迷惑かもしれないだろう。宗一の自己満足かもしれない。私が渡すことで、沙織ちゃんが困るかもしれない。そう思った」


「だから、ずっと持っていたんですか」


「ああ」


「でも、母はこの町に来ました」


「ああ」


「だから渡そうと思った?」


 お静は小さく首を振った。


「思った。でも、渡せなかった」


 澪は言葉を失った。


 透真が静かに言う。


「それで、椿油の香りを残したんですね」


 お静は透真を見た。


「そうだよ」


「宗一さんと朝比奈さんのお母さんの思い出が、椿油と結びついていたから」


「宗一が椿油を使った道具で、沙織ちゃんに菓子を作っていた。あの子が椿の季節に湯上がりで笑っていた。そういうつまらない記憶が、年を取ると妙に残る」


 お静は苦笑した。


「直接渡せないくせに、思い出してほしかったんだろうね。私も馬鹿だ」


「幽霊のせいにしたかったんですか」


 透真の声は穏やかだった。


 だが、その言葉は深く入った。


 お静はしばらく黙り、それから頷いた。


「そうだよ」


 澪は、お静の顔を見る。


 そこにいたのは、少し怖い老婆ではなかった。


 長い間、手紙を抱えてしまった人だった。


「幽霊にしたかったんだよ。私のせいじゃなく、宗一の未練が出たんだってことにしたかった。椿屋の椿が騒いでいるんだって。そうすれば、私が決めなくて済む」


「でも、決めたんですね」


 澪が言うと、お静は力なく笑った。


「決めたというより、耐えられなくなったんだよ。沙織ちゃんが椿屋に戻ってきて、あの湯に入っていると聞いたら、もうね」


 お静は木箱の蓋を撫でた。


「宗一に怒られる気がした」


「宗一さんに?」


「あの子なら、私を責めないだろうけどね。責めないから余計につらい」


 店の外で、湯気が流れていく。


 澪は怒っていた。


 母を怖がらせたこと。


 自分たちを巻き込んだこと。


 美奈が真似するきっかけを作ったこと。


 それは消えない。


 でも、怒りだけでは足りなかった。


 目の前の老婆は、悪意で動いたわけではない。


 弱さで動いた。


 そして、その弱さは、澪自身にもどこか覚えがあった。


 言えない。


 聞けない。


 逃げる。


 笑ってごまかす。


 それを誰かのせいにしたくなる。


 澪は、それを完全には責めきれなかった。


 透真が口を開いた。


「匂いで伝わることはあります」


 お静は顔を上げた。


「でも、匂いだけで済ませるのは、ずるいと思います」


 店の中の空気が、少しだけ止まった。


 澪は透真を見た。


 透真の声は静かだった。


 責め立てる声ではない。


 でも、逃げ道を塞ぐ声だった。


 お静はしばらく黙ってから、ふっと笑った。


「あんたに言われるとはね」


「僕も、言いながら少し自覚があります」


「自分もずるいって?」


「はい」


「正直な子だ」


「よくは言われません」


「だろうね」


 お静は木箱の中から、もう一つ封筒を取り出した。


 それは、昨夜帳場に置かれていたものと同じような古い封筒だった。


 違うのは、こちらには何も書かれていないこと。


「帳場に置いたのは写しじゃない。本物だよ」


 お静は言った。


「でも、これも一緒に渡すつもりだった」


「それは?」


「宗一が書き損じた手紙。何度も書いて、何度も破れずに残したもの」


 澪は息を呑んだ。


「読んだんですか」


「読めなかったよ」


 お静は首を振った。


「読んだら、渡せなくなると思った」


「もう十分渡せてませんでしたよ」


 澪が思わず言うと、お静は目を丸くし、それから声を出して笑った。


「その通りだ」


 笑いながら、少し泣いているようにも見えた。


 お静は封筒を澪に差し出した。


「持っていきな」


 澪はすぐには手を出せなかった。


「私が?」


「あんたのお母さんに渡しておくれ」


「お静さんが渡すべきです」


「そうだね」


「なら」


「でも、今はまだ無理だ」


 お静は、澪をまっすぐ見た。


「私は卑怯な婆さんだよ。最後の最後まで、人に頼ろうとしてる。でも、これはもう、私の手元に置いておくべきじゃない」


「……私には、重いです」


「だろうね」


「分かってて渡すんですか」


「ああ」


 澪は唇を噛んだ。


 正直、受け取りたくなかった。


 母の過去。


 宗一の手紙。


 お静の後悔。


 そんなものを、自分の手で運ぶのは怖い。


 けれど、ここで受け取らなければ、また何かが止まったままになる気がした。


 透真は何も言わなかった。


 受け取れとも、やめろとも言わない。


 澪が決めるまで、待っていた。


 それが少しだけ腹立たしくて、ありがたかった。


 澪は、ゆっくり手を伸ばした。


 封筒を受け取る。


 紙は薄く、思ったより軽かった。


 でも、手に乗せた瞬間、ずしりと重く感じた。


「お母さんに渡します」


 澪は言った。


「でも、お静さんも来てください」


 お静の目が揺れた。


「私が?」


「はい。謝るなら、自分で謝ってください」


 お静は黙った。


 澪は続けた。


「私は手紙を渡します。でも、お静さんの謝罪までは運べません」


 透真が、ほんのわずかに澪を見た。


 驚いたような、少し感心したような顔だった。


 お静はしばらく動かなかった。


 やがて、深く息を吐いた。


「……きつい娘さんだね」


「今、怒ってますから」


「そうかい」


「はい」


「なら、怒ってる娘さんの言うことを聞くしかないね」


 お静は、ゆっくり立ち上がった。


 その動きは年相応に遅かったが、逃げる気配はなかった。


「今日の夕方、椿屋に行くよ」


「約束です」


「ああ」


「湯守くん、証人ね」


「うん」


「証人なんて大げさな」


 お静は苦笑した。


 だが、その声は昨日より少し軽かった。


 静屋を出ると、空は晴れ始めていた。


 雨上がりの雲の隙間から、薄い日差しが落ちている。石畳に残った水が光り、温泉街の湯気が白く立ちのぼっていた。


 澪は封筒を鞄の中に入れず、両手で持っていた。


 鞄にしまうのが、何となく怖かった。


「大丈夫?」


 透真が聞いた。


「大丈夫じゃない」


「そう」


「でも、持っていく」


「うん」


「湯守くん、何も言わないんだね」


「君が決めたから」


「そういうところ、ずるい」


「ずるい?」


「止めてほしい時も、背中押してほしい時も、何も言わないから」


「言ったほうがよかった?」


「分かんない」


「じゃあ、言わなくてよかった可能性もある」


「そういうところが面倒くさい」


「よく言われる」


 澪は小さく笑った。


 けれど、目元が少し熱くなった。


「でも、いてくれて助かった」


 透真は、少しだけ歩く速度を落とした。


「それは、記録しておく」


「記録しないで」


「必要な記録だと思う」


「何に使うの」


「分からない」


「分からないのに記録するの?」


「大事なものは、あとで意味が分かることがある」


 澪は返事をしなかった。


 代わりに、封筒を少しだけ強く握った。


 夕方。


 椿屋の二階の部屋で、澪は母の前に座っていた。


 沙織は、澪の手の中の封筒を見て、すぐに何かを察したようだった。


 顔色が変わる。


「それは」


「お静さんから預かってきた」


 澪は言った。


「宗一さんの手紙」


 沙織の指が震えた。


 澪は封筒を差し出した。


「読んでほしいって」


「……お静さんが?」


「うん。あとで謝りに来るって」


 沙織は封筒を受け取らなかった。


 しばらく見つめていた。


 まるで、そこに昔の時間が封じ込められているかのように。


 澪は急かさなかった。


 透真ならそうすると思ったから。


 やがて、沙織は震える手で封筒を受け取った。


 紙の音が、部屋に小さく響く。


 窓の外では、雨に濡れた椿が夕日に照らされている。


 赤い花が、少しだけ明るく見えた。


 沙織は封筒を胸に抱いた。


 そして、目を閉じて、小さく言った。


「……届いたのね」


 その声を聞いた瞬間、澪はようやく分かった気がした。


 手紙は、過去を壊すために届いたのではない。


 止まっていた何かを、やっと少しだけ動かすために届いたのだ。


 その夜、椿屋の廊下に椿油の匂いはしなかった。


 ただ、古い木と、湯と、雨上がりの土の匂いがした。


 それは少し寂しくて、少し優しい匂いだった。

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