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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第11話 言えなかったことを、湯けむりの中で

 封筒を開けるまでに、沙織は長い時間をかけた。


 紙が古いから、というだけではなかった。


 破れないように。

 壊さないように。

 それから、たぶん、自分の中に残っている何かを乱暴に起こさないように。


 夕方の椿屋の客室には、湯の匂いと、雨上がりの土の匂いが残っていた。


 中庭の椿は、雨に洗われたせいか、いつもより赤く見える。窓の外で、重そうな花が少しだけ風に揺れていた。


 朝比奈澪は、母の前に座っていた。


 何か言うべきか、何も言わずにいるべきか分からなかった。


 今までの澪なら、きっと「大丈夫?」と聞いていた。


 けれど、その言葉が時々、人を追い詰めることもあると、この町へ来てから知った。


 大丈夫ではない人ほど、大丈夫と答える。


 母も、自分も、そうだった。


 だから澪は、黙っていた。


 沙織は封筒の口をそっと開いた。


 中から出てきた便箋は、二枚。


 紙は少し黄ばんでいて、折り目が深くついている。何度も開かれた跡はない。たぶん、書かれてからずっと、誰かの手元で眠っていたのだ。


 沙織の指が震える。


 澪は、母の手がこんなに細くなっていたことに、今さら気づいた。


「お母さん」


 思わず声をかける。


 沙織は少しだけ笑った。


「大丈夫、って言おうとしたけど」


「うん」


「今は、あまり大丈夫じゃないかもしれないわ」


 澪は小さく頷いた。


「うん」


 沙織は便箋に目を落とした。


 そして、一行目を読んだ瞬間、呼吸を止めた。


 澪からは、文字は見えない。


 見ようと思えば見える距離だった。


 でも、見なかった。


 これは母宛ての手紙だ。


 母の過去から、母へ届いたものだ。


 澪が勝手に覗いていいものではない。


 部屋の中に、紙をめくる音だけが響いた。


 沙織の目から、涙が一粒落ちた。


 それは頬を伝う前に、便箋の端へ落ちそうになった。沙織は慌てて紙を少し遠ざける。


「泣くなら、紙から離して」


 澪が言うと、沙織は涙を浮かべたまま少しだけ笑った。


「そうね。濡らしたら、宗一さんに叱られるわ」


「叱る人だったの?」


「いいえ」


 沙織は首を横に振った。


「叱らない人だった。だから、余計に叱られた気になるの」


 澪は、何となく分かった気がした。


 お静も同じようなことを言っていた。


 宗一は責めない。


 責めないからこそ、残された人が勝手に責められた気になる。


 沙織は、もう一度手紙に目を落とした。


 しばらくして、ぽつりと口にした。


「戻ってこい、なんて書いてない」


「え?」


「私、少しだけ怖かったの。もし、戻ってきてほしいって書いてあったらどうしようって」


 沙織の声は震えていた。


「私は戻れなかった。あの頃にも、宗一さんのところにも。だから、もしそんな言葉があったら、私はまた何も返せないと思っていた」


 澪は黙って聞いていた。


 沙織は便箋を見つめながら、ゆっくり言った。


「でも、この人は、そういうことを書かないのね」


 母の口元に、涙混じりの笑みが浮かぶ。


「昔から、そうだった」


 澪は少しだけ身を乗り出した。


「何て書いてあるの?」


 聞いてから、しまったと思った。


 けれど沙織は怒らなかった。


 便箋の上に視線を落としたまま、少しだけ読んでくれた。


「あなたがどこで生きても、ここの湯があなたの記憶の片隅で温かくあればいい……って」


 その言葉は、部屋の空気に静かに溶けた。


 湯けむりのように、淡く、けれど確かにそこに残った。


 澪の胸が、少し詰まった。


 恋文なのかもしれない。


 でも、ただの恋文ではなかった。


 誰かを自分のもとへ引き戻すための言葉ではない。


 どこかで生きている相手の人生を、そのまま遠くから温めるような言葉だった。


「宗一さんは、優しい人だったの?」


 澪が聞くと、沙織は目を伏せた。


「不器用な人だったわ」


「湯守くんみたい?」


 つい言ってしまった。


 沙織は少し驚いて、それから初めて声を出して笑った。


「そうね。少し似ているかもしれない」


「やっぱり」


「でも、宗一さんのほうが、もっと無口だったわ」


「湯守くんより?」


「ええ」


「それはかなりだね」


 澪が言うと、沙織はまた少し笑った。


 その笑い方は、久しぶりに母らしかった。


 いや、母らしいというより、沙織という一人の人らしかった。


 澪はそれを見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 沙織は手紙の続きを読んでいた。


 時々、息を止める。


 時々、涙を拭う。


 やがて、最後の一枚を読み終えた沙織は、便箋を丁寧に畳まなかった。


 しばらく膝の上に広げたまま、動かなかった。


「お母さん?」


「……この人、椿屋のことを書いている」


「椿屋?」


「ええ」


 沙織は便箋の一部を指でなぞった。


「椿屋の湯は、派手な湯じゃない。けれど、弱った人間が、もう一度食べて、眠って、歩き出すための湯だって」


 澪は部屋の外へ意識を向けた。


 古い廊下。


 きしむ床。


 小さな浴場。


 湯船に浮かんだ赤い椿。


 怖い場所だと思っていた。


 でも、母にとっては違ったのだ。


 この宿は、昔の母が弱っていた頃、もう一度立ち上がるための場所だった。


「宗一さんは、椿屋を守りたかったの?」


「そうみたい」


「でも、もう……」


「ええ」


 沙織は静かに頷いた。


「宗一さんは、もういない」


 言葉にした瞬間、沙織の涙がまた落ちた。


 澪は、今度は手を伸ばした。


 母の手に、そっと触れる。


 沙織は少し驚いたように澪を見た。


「私」


 澪は言った。


「宗一さんのこと、最初は嫌だった」


「澪」


「お父さんじゃない人の名前をお母さんが寝言で呼んで、何それって思った。知らないお母さんが急に出てきたみたいで、怖かった」


 沙織は黙って聞いていた。


「でも、今は少しだけ分かる。全部じゃないけど」


「……そう」


「お母さんは、お母さんになる前から生きてたんだよね」


 自分で言って、何だか変な言い方だと思った。


 けれど、沙織は笑わなかった。


「ええ」


「当たり前なのに、ちゃんと考えたことなかった」


「私も、あなたに母親以外の私を見せる勇気がなかった」


 沙織は澪の手を握り返した。


「母親はね、子どもの前でなるべく綺麗な形でいたいの。強くて、正しくて、迷わなくて、全部分かっているような顔をしていたい」


「無理じゃない?」


 澪が素直に言うと、沙織は涙を拭いながら笑った。


「無理ね」


「うん。けっこう無理」


「でも、そうありたいのよ」


「……分かる気もする」


 澪もまた、母の前ではなるべく普通の娘でいたかった。


 心配かけず、明るく、転校先にもすぐ馴染んで、母の療養を邪魔しない娘でいたかった。


 お互いに、相手を守ろうとして嘘を増やしていたのかもしれない。


「お母さん」


「なあに」


「宗一さんに、何を謝りたかったの?」


 沙織は、すぐには答えなかった。


 手紙を見つめる。


 それから、静かに言った。


「何も言わずに帰ったこと」


「東京に?」


「ええ」


 沙織の視線は、遠くへ行っていた。


「私、あの頃、本当に体が弱くてね。家族も心配していたし、医者にも環境を変えたほうがいいと言われて、この町に来たの。椿屋で過ごすうちに、少しずつ食べられるようになって、眠れるようになって、笑えるようになった」


「それが宗一さんのおかげ?」


「宗一さんだけではないわ。女将さんも、お静さんも、この町の湯も。でも、宗一さんの料理には、ずいぶん助けられた」


 沙織は小さく息を吐いた。


「でも、ある日、急に東京へ戻ることになった。家の事情でね。私は、宗一さんにちゃんとお礼も言えなかった。さようならも言えなかった」


「どうして?」


「言ったら、帰れなくなる気がしたの」


 その声には、若い頃の弱さがまだ残っているようだった。


「それで、逃げたの?」


「そうね。逃げたのだと思う」


 母は自分の弱さを、初めて澪の前で認めた。


 澪は、それを責めたいとは思わなかった。


 ただ、少しだけ悲しかった。


「それから何年も経って、宗一さんが亡くなったことを知った。もう、ありがとうも、さようならも言えないんだと思ったら……ずっと胸の奥に残ってしまった」


「だから、この町に来たの?」


「ええ」


 沙織はうなずいた。


「療養のため、というのは嘘ではないわ。ここの湯が体に合うのも本当。でも、それだけじゃなかった」


「宗一さんに会いに来たんじゃなくて」


「言えなかった言葉を、置きに来たの」


 澪は、ようやく腑に落ちた。


 母は昔の恋に戻りたかったのではない。


 今の人生を捨てたかったのでもない。


 ただ、言えなかった言葉を抱えたまま、体が弱っていくのが怖かったのだ。


 ちゃんと自分の人生を続けるために、過去に会いに来たのだ。


「お父さんのことは?」


 澪は恐る恐る聞いた。


 沙織は澪を見て、少しだけ眉を下げた。


「あなたのお父さんは、私にとって大切な人よ。それは変わらない」


「うん」


「でも、人の人生には、一つだけじゃない大切なものが残るのね」


 澪は黙って頷いた。


 まだ完全には分からない。


 でも、分からないまま受け止めることもできる気がした。


 その時、部屋の外で控えめな声がした。


「沙織さん」


 女将のふみだった。


 沙織は手紙をそっと畳み、澪を見た。


 澪は頷く。


「どうぞ」


 障子が開き、ふみが姿を見せた。


 その後ろに、お静がいた。


 いつもの割烹着ではなく、少しよそ行きの上着を羽織っている。背は小さいのに、今日はさらに小さく見えた。


 澪は立ち上がった。


「来てくれたんですね」


「約束したからね」


 お静はぶっきらぼうに言った。


 けれど、その声は震えていた。


 沙織はお静を見る。


 しばらく、二人は何も言わなかった。


 ふみが気を利かせて、静かに一歩下がる。


 澪も席を外すべきか迷った。


 だが、沙織が澪の手をそっと握った。


 ここにいていい。


 そう言われた気がした。


 お静は、畳に手をついて頭を下げた。


「沙織ちゃん」


「お静さん」


「すまなかった」


 その一言は、長い年月をくぐってきたように重かった。


「宗一から預かった手紙を、私はずっと渡せなかった。あんたの人生を乱すんじゃないかと思った。今さら渡しても迷惑じゃないかと思った。そう言えば聞こえはいいけど、本当は私が怖かっただけだ」


 沙織は何も言わなかった。


 お静は頭を下げたまま続ける。


「椿油の匂いを残したのも私だよ。直接渡せないくせに、思い出してほしかった。宗一のせいにしたかった。椿屋の幽霊のせいにしたかった」


「お静さん」


「許してくれとは言わない。言える立場じゃない。ただ、謝らせておくれ」


 沙織は、長い間黙っていた。


 澪は、その沈黙の中で気づいた。


 許す、というのは簡単な言葉ではない。


 誰かが謝ったからといって、すぐに差し出せるものではない。


 沙織はゆっくりと口を開いた。


「お静さん」


「ああ」


「遅すぎましたね」


 お静の肩が小さく震えた。


「……ああ」


「でも」


 沙織は手紙に手を添えた。


「届きました」


 その瞬間、お静は声を殺して泣いた。


 大きく泣くのではない。


 長い間、胸の奥で固まっていたものが、ようやく崩れるような泣き方だった。


 ふみも目元を押さえていた。


 澪は、母の横顔を見た。


 沙織は泣いていなかった。


 ただ、静かに息をしていた。


 ずっと抱えていたものを、少しだけ降ろした人の顔だった。


 その夜、椿屋ではもう一つの話し合いが行われた。


 帳場奥の応接間。


 ふみと美奈が向き合って座っている。


 澪は本来なら同席する立場ではなかったが、美奈が「澪さんにも聞いてほしい」と言ったため、部屋の隅に座っていた。


 そして、なぜか透真もいた。


「なぜ僕も」


 透真が小さく言うと、澪は小声で返した。


「流れで」


「流れは時々、雑だ」


「今は黙ってて」


「はい」


 美奈は、昨日より少し落ち着いていた。


 目は赤いが、声ははっきりしている。


「女将さん。私、やっぱり椿屋を辞めたいです」


 ふみは目を閉じた。


 痛みを受け止めるように。


 それから、ゆっくり頷いた。


「ええ」


「逃げるみたいに辞めるんじゃなくて、ちゃんと辞めたいです。次の仕事のことも、自分で話します。お給料のことも……今まで言えなかったこと、ちゃんと話したいです」


「そうね」


 ふみの声は、少し震えていた。


「私も、ちゃんと話すわ。遅れているお給料のこと。椿屋の経営のこと。あなたに甘えていたこと」


「女将さん……」


「あなたがしたことは、許されることではないわ。お客様を怖がらせた。宿の信用も傷つけた」


「はい」


「でも、それ以前に、あなたがそんなことをしなければ言えないと思うほど、追い詰めていたことも事実です」


 美奈は泣きそうな顔で首を振った。


「私が弱かったんです」


「弱さを一人に押しつけるのは、女将の仕事じゃないわ」


 その言葉に、澪は胸を突かれた。


 ふみもまた、今まで隠していたものを言葉にしているのだ。


 宿を守るために。


 働く人を守るために。


 けれど守りきれなかったものを、やっと見ようとしている。


「しばらく休みなさい」


 ふみが言った。


「え?」


「その間に、これからのことを一緒に考えましょう。椿屋に残るのか、別の宿へ行くのか。町を出るのか。どれを選んでも、あなたがちゃんと選べるように」


 美奈は、声を出して泣いた。


「ありがとうございます……」


 澪は、その様子を見ながら、怒りが完全に消えたわけではないことを自覚していた。


 でも、怒りだけではないものも確かに生まれていた。


 人は、弱い。


 その弱さで、誰かを傷つけることがある。


 でも、弱さを認めたところから、やり直せることもあるのかもしれない。


 話し合いが一段落した頃、透真がふいに口を開いた。


「椿の幽霊は、やめたほうがいいと思います」


 ふみ、美奈、澪の三人が同時に透真を見た。


 透真は少しだけ居心地悪そうにした。


「いきなり何?」


 澪が聞く。


「椿屋の今後の話」


「今?」


「今の流れかと」


「流れの読み方が独特」


 ふみが少し笑った。


「どういうことかしら」


「幽霊騒ぎとして広まると、宿が怖い場所として消費されます。短期的には興味を引くかもしれませんが、療養や湯治の宿としては傷が残る」


「そうね」


「でも、椿にまつわる記憶そのものは、悪いものではありません」


 透真は少し考えながら言葉を選んでいるようだった。


「椿の幽霊ではなく、椿の湯語りにすればいい」


 澪は瞬きをした。


「湯語り?」


「湯の歴史や、この宿に残る記憶を、怖い話ではなく語る。中庭の椿、昔の湯治客、板場の料理、湯上がりの菓子。そういうものを、きちんと宿の物語にする」


 ふみは黙って聞いていた。


 美奈も涙を拭きながら顔を上げる。


 澪は、少しだけ胸が弾んだ。


「何それ。ちょっと良さそう」


「ちょっと?」


「かなり良さそう」


「修正が早い」


「そこ拾わなくていい」


 透真は続けた。


「幽霊より、宿の記憶のほうが長持ちします」


 その言葉に、ふみの表情が変わった。


 女将の顔だった。


 疲れていても、宿の未来を考える顔。


「椿の湯語り……」


「椿の菓子も復活させられるかもしれません」


 澪が言った。


「宗一さんが作っていたやつ。椿の葉で包んだ小さなお菓子」


 ふみは少し驚いたように澪を見る。


「知っているの?」


「お静さんから聞きました」


「そう……」


 ふみは静かに目を伏せた。


「宗一さんの菓子ね。正確な作り方は、残っているかしら」


「板場に古い献立帳があるかもしれません」


 美奈が言った。


 全員が美奈を見る。


 美奈は少し慌てながら続けた。


「私、前に掃除した時、古い献立帳を見たことがあります。倉庫の奥に。宗一さんの字かどうかは分かりませんけど」


 透真が言う。


「字なら確認できます」


「匂いじゃなくて?」


 澪が聞く。


「字も見れば分かる場合がある」


「できること多いね」


「探偵ではない」


「まだ言う」


 ふみは、久しぶりに本当に笑ったように見えた。


 その笑いは小さかったが、応接間の空気を少しだけ明るくした。


 その夜遅く、澪は母の部屋へ戻った。


 沙織は手紙を膝に置いたまま、窓の外を見ていた。


「おかえり」


「ただいま」


「話し合い、どうだった?」


「美奈さん、ちゃんと謝ってた。女将さんも、ちゃんと話してた」


「そう」


「あと、湯守くんが変な提案してた」


「変な?」


「椿の幽霊じゃなくて、椿の湯語りにすればいいって」


 沙織は少し目を見開いた。


 そして、ゆっくり微笑んだ。


「いい言葉ね」


「うん。悔しいけど、いい言葉だった」


「悔しいの?」


「湯守くんが考えたから」


「仲がいいのね」


「そういうんじゃない」


 澪は即答した。


 即答しすぎて、沙織が楽しそうに笑った。


「そういうことにしておくわ」


「本当に違うから」


「はいはい」


「お母さん、今ちょっと元気じゃない?」


「少しね」


 沙織は手紙に視線を落とした。


「胸の奥にあった重いものが、少し動いた気がする」


「軽くなった?」


「まだ分からない。でも、動いたわ」


 澪は母の隣に座った。


 外の椿は、夜の闇の中で輪郭だけを残している。


「澪」


「うん」


「あなたが怖かったのは、幽霊じゃなくて、私が何かを隠していることだったのね」


 澪は言葉に詰まった。


 それから、小さく頷いた。


「うん」


 涙が出そうになった。


 でも今度は、我慢しなかった。


「お母さんがどこか遠くに行っちゃうみたいで怖かった」


 沙織は澪の肩を抱いた。


「ごめんね」


「謝らないで」


「でも、謝らせて」


「……うん」


 沙織の腕は細かった。


 それでも、温かかった。


 澪は母の肩に顔を寄せた。


 椿屋の古い木の匂い。


 湯の匂い。


 雨上がりの土の匂い。


 もう、椿油の強い香りはしなかった。


 代わりに、ほんのかすかに甘い菓子のような匂いが、どこかから漂ってきた気がした。


 たぶん気のせいだ。


 けれど澪は、その気のせいを嫌いではなかった。


 言えなかったことが、少しずつ言葉になる。


 渡せなかったものが、ようやく届く。


 湯けむりの中で、過去は消えない。


 でも、形を変えることはできる。


 その夜、澪はこの町へ来て初めて、深く眠った。

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