第12話 卵を腐らせたことのない君へ
椿屋の朝は、昨日までより少し静かだった。
ただし、何もなくなった静けさではない。
古い木造旅館の廊下は相変わらずきしむし、浴場のほうからは湯の流れる音がする。中庭の椿は雨を含んで重そうに枝を垂らし、朝の光を受けた花びらは、暗い赤から少しだけ明るい赤へ戻っていた。
朝比奈澪は、二階の客室の窓を少しだけ開けた。
冷たい空気が入ってくる。
湯の匂い。
濡れた土の匂い。
古い木の匂い。
それから、ほんのわずかに椿の匂い。
でも、もう鼻の奥を押さえつけるような強い椿油の香りはしなかった。
夜の廊下で人影を見た気がした時の、あの重たい香り。
湯船に赤い花が浮かんでいた時の、胸を締めつけるような甘さ。
それは薄くなっている。
消えたわけではない。
ただ、怖がらせる匂いではなくなっていた。
「澪、寒くない?」
布団の上から沙織が声をかけてきた。
「ちょっとだけ。すぐ閉める」
澪は窓を閉め、振り返った。
沙織は上体を起こし、膝に宗一の手紙を置いている。
昨夜から何度も読み返していた。
澪は最初、その手紙を母から遠ざけたほうがいいのかと思った。読めば読むほど、母が昔の時間に引っ張られてしまうのではないかと怖かったからだ。
けれど、そうではなかった。
沙織は手紙を読むたびに、少しずつ今の顔へ戻っていった。
昔に戻るためではなく、昔に置き忘れた言葉を拾って、今へ帰ってくるために読んでいる。
澪にも、ようやくそれが分かってきた。
「体調どう?」
澪が聞くと、沙織は少し考えた。
「昨日より、少しいいわ」
「本当に?」
「本当に。大丈夫って言うと、あなたに疑われそうだから、少しいい、にしておく」
「うん。そのほうが信用できる」
澪が言うと、沙織は小さく笑った。
その笑い方は、ここへ来たばかりの頃より少しだけ自然だった。
母が元気になったわけではない。
病気が急に消えるわけでもない。
でも、胸の奥に溜まっていた別の重さが少し動いたのは、澪にも分かった。
朝食のあと、沙織はお静ともう一度会うことになった。
椿屋の一階、庭に面した小さな座敷。
女将のふみが、そっと茶を運んできた。
お静は昨日よりもさらに小さく見えた。背筋を伸ばそうとしているのに、長年抱えてきたものが肩に残っているのか、どこか頼りない。
澪は沙織の隣に座った。
本来なら席を外すべきなのかもしれない。
けれど、沙織が「いてほしい」と言った。
だから、ここにいる。
お静は茶にも手をつけず、畳に両手をついた。
「沙織ちゃん」
「はい」
「手紙を、勝手に預かったままにして、すまなかった」
昨日と同じ謝罪。
けれど、今日は少し違って聞こえた。
昨日は、こぼれ落ちるような謝罪だった。
今日は、自分の足でそこへ立っているような謝罪だった。
「宗一から預かった時、すぐに渡すべきだった。あんたが結婚していようと、子どもがいようと、読むか読まないかはあんたが決めることだった。私が勝手に決めることじゃなかった」
沙織は静かに聞いていた。
「それなのに私は、あんたのためだと言いながら、自分が怖かっただけだった。手紙を渡して、あんたが困る顔を見るのが怖かった。宗一の言葉が今さら届いて、あんたの人生が揺れるのを見るのが怖かった」
お静の声が震える。
「でも、一番怖かったのは、宗一に託されたものを私が勝手に止めてしまったと認めることだった」
澪は、膝の上で手を握った。
お静は悪い。
その事実は変わらない。
でも、人が悪いことをする時、そこにはいつも分かりやすい悪意だけがあるわけではないのだと、この数日で知った。
恐怖。
後悔。
弱さ。
言えなかった一言。
そういうものが積もって、人は時々、誰かを傷つける。
沙織は、しばらく何も言わなかった。
ふみも口を挟まない。
澪は母の横顔を見た。
沙織は手紙の入った封筒にそっと手を置き、静かに言った。
「お静さん」
「はい」
「遅すぎました」
お静の肩が、小さく震えた。
「……はい」
「私は、もっと早く読みたかった。宗一さんが生きているうちに、読めたらよかったと思います」
「はい」
「だから、すぐに許すとは言えません」
お静は、顔を上げなかった。
ただ、深く頷いた。
「でも」
沙織の声が少しだけ柔らかくなる。
「手紙は、届きました」
昨日と同じ言葉。
でも今日は、その先があった。
「宗一さんが私に何を願っていたのか、ようやく知ることができました。私は、あの人に謝りに来たつもりだったけれど……あの人は、私が思っていたよりずっと先で、私の人生を許してくれていたのかもしれない」
沙織は少しだけ目を伏せた。
「それを知れたことは、私にとって大きいです」
お静は畳に額がつきそうなほど頭を下げた。
「すまなかった」
「謝罪は受け取ります」
沙織は言った。
「でも、これからは、幽霊のせいにしないでください」
お静は、泣きながら少しだけ笑った。
「そうだね。幽霊にしたら、宗一に叱られる」
「叱らない人だったのでしょう?」
「ああ。叱らないから、余計に困る」
その言葉に、沙織も小さく笑った。
ふみが目元をそっと押さえていた。
澪は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
何もかもが綺麗に許されたわけではない。
過去が消えたわけでもない。
でも、止まっていた何かが動いた。
それだけは確かだった。
その日の午後、椿屋の帳場前に小さな張り紙が出された。
派手なものではない。
ふみが自分で書いた、丁寧な文字の案内だった。
『中庭の椿について』
椿屋の中庭には、古くから一本の椿があります。
昔、湯治のお客様を迎えた頃から、この宿の季節を知らせてきた木です。
最近、一部のお客様にご心配をおかけする出来事がございましたが、今後は中庭の椿と当館の湯にまつわる小さなお話を、宿の記憶として大切にお伝えしてまいります。
張り紙の前で、澪は腕を組んだ。
「真面目だね」
隣にいた透真がうなずく。
「真面目でいいと思う」
「椿の湯語り、って言葉は使わないんだ」
「いきなり出すと少し怪しい」
「考えた本人が言う?」
「考えたからこそ分かる」
澪は笑った。
ふみが帳場から出てくる。
「湯語り、という言葉は、もう少し形にしてから使わせてもらうわ」
「使うんですか」
透真が少し驚いた顔をする。
ふみは微笑んだ。
「ええ。あなたがくれた言葉だもの」
「僕は言っただけです」
「宿というのはね、言葉一つで見え方が変わることがあるの」
ふみは中庭のほうを見た。
「幽霊の宿になるか、記憶の宿になるか。たぶん、その差は大きいわ」
澪はうなずいた。
怖がらせる椿ではなく、誰かの記憶を残す椿。
そのほうがずっといい。
「宗一さんのお菓子、作るんですか?」
澪が聞くと、ふみの顔が少し明るくなった。
「倉庫から古い献立帳が出てきたの。字がかすれているし、分量も今の書き方ではないけれど、板場の者と相談してみるわ」
「湯上がりに出すんですか?」
「まずは宿泊のお客様に少しだけね。うまくいけば、椿の季節の名物にできるかもしれない」
「それ、絶対いいです」
澪が言うと、ふみは嬉しそうに笑った。
その横で、透真がぼそりと言う。
「甘さは控えめがいいと思います。湯上がりなら、香りを残しすぎないほうがいい。椿の葉を直接食べるわけではないなら、包み方で香りを移す程度にして」
澪とふみが同時に透真を見た。
「何ですか」
透真が少し身構える。
「今、めちゃくちゃ具体的だった」
澪が言う。
「思ったことを言っただけ」
「板場に入る?」
ふみが真面目に言うと、透真は一歩引いた。
「僕は旅館の息子ですが、料理人ではありません」
「味見係なら?」
「それは……必要なら」
「断らないんだ」
澪が突っ込むと、透真は少しだけ目を逸らした。
「食べ物を無駄にしないために」
「便利な理由」
「便利だね」
「最近、便利って認めるようになったね」
「認識が更新された」
ふみは二人のやり取りを見て、また笑った。
その笑い声は、数日前よりずっと軽かった。
美奈は、しばらく椿屋を休むことになった。
けれど、逃げるように消えるわけではなかった。
翌日、彼女は改めて沙織と澪の部屋へ謝罪に来た。
髪をきちんとまとめ、目を赤くしながらも、昨日よりしっかり立っていた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
美奈は深く頭を下げた。
沙織はそれを静かに受け止めた。
「怖かったのは本当です」
「はい」
「でも、あなたが追い詰められていたことも、少し分かりました」
美奈の目が潤む。
「ありがとうございます……」
「まだ、すぐに何もなかったことにはできません。でも、これからをちゃんと選んでください」
「はい」
澪は、その横で黙っていた。
美奈は澪にも頭を下げる。
「澪さんにも、本当にごめんなさい」
澪は、少しだけ迷った。
怒っていた。
今も完全に許せたわけではない。
けれど、昨日より言葉は見つかっていた。
「私も、すぐには忘れられません」
「はい」
「でも、美奈さんがちゃんと話してくれたことは、忘れません」
美奈は泣きそうな顔でうなずいた。
「ありがとうございます」
「次の仕事、ちゃんと決まるといいですね」
そう言うと、美奈は目を丸くした。
それから、泣きながら笑った。
「はい」
美奈が出ていったあと、沙織が澪を見た。
「大人みたいなことを言うのね」
「大人じゃないよ」
「そう?」
「怒ってるし」
「怒りながら、相手のこれからを考えられるなら、十分大人よ」
「じゃあ、お母さんも大人?」
「私はまだ練習中」
澪は笑った。
「私も」
練習中。
その言葉が、この数日の自分に少し合っている気がした。
人を許すこと。
知らなかった過去を受け止めること。
怖さを言葉にすること。
全部、まだ練習中だ。
学校では、椿屋の幽霊騒ぎはだんだん別の話題に押し流されていった。
それは少し拍子抜けするほど早かった。
人の噂は湯より早いが、冷めるのも意外と早い。
創立記念行事の準備、部活の大会、購買の新しいパン、数学教師の寝癖。
教室は、すぐに別の話でいっぱいになった。
それでも宮原は、ある昼休みに澪の席まで来て、少し気まずそうに頭をかいた。
「朝比奈」
「何?」
「椿屋の話、もうあんまりしないようにするわ」
「うん」
「いや、俺だけじゃなくて、周りにも言っとく。面白半分で言うの、やっぱよくないし」
澪は少し驚いた。
宮原は言葉を選ぶのが得意なタイプではなさそうだった。
でも、その分、言葉がまっすぐだった。
「ありがとう」
「うん。なんか、悪かったな」
「もう謝ってもらったよ」
「何回か謝っといたほうが安心だろ」
「それ、黒瀬くんみたい」
「え、俺そんな軽い?」
近くで聞いていた蓮が振り返った。
「俺を基準にするなよ」
「黒瀬くん、基準にしやすいから」
杏が笑う。
「軽さの基準?」
「明るさの基準」
芽衣が言うと、蓮は少し得意げな顔をした。
「ほら、聞いたか湯守。俺は明るさの基準」
「基準値が高すぎると疲れる」
「何でそういうこと言うんだよ!」
「褒めてる」
「嘘つけ!」
教室に笑いが広がる。
澪も笑った。
この笑いの中に、自分が少しずつ馴染んできていることが分かった。
その日の放課後、澪は芽衣と杏に、母のことを少しだけ話した。
全部ではない。
宗一のことも、手紙のことも、まだ話せない。
でも、母の療養のためにこの町へ来たこと。
だから椿屋の騒ぎが少し怖かったこと。
それだけを話した。
芽衣は静かに聞いてくれた。
杏は途中で一度だけ「そっか」と言って、それ以上は急かさなかった。
話し終わると、芽衣が言った。
「言ってくれてありがとう」
「重くなかった?」
「重いか軽いかで友達の話は聞かないよ」
澪はその言葉に、少し泣きそうになった。
杏が続ける。
「何かできることあったら言って。温泉街の道案内くらいならできる」
「それ、湯守くんにも言われた」
「湯守と役割かぶるの嫌だな」
「役割って何」
「偏屈じゃないほうの道案内係」
澪は笑った。
その笑いは、自然だった。
翌朝。
澪と透真は、最初に出会った湯けむり坂を歩いていた。
空は晴れていた。
山の上には薄い雲がかかっているが、朝の光は明るい。共同浴場の湯気は白く、石畳の上をゆっくり流れている。
数日前、この坂で澪は言った。
卵が腐った匂い。
そして透真は聞き返した。
君は卵を腐らせたことがあるのかい。
あの時は、本当に面倒くさい人に会ったと思った。
今も面倒くさいとは思っている。
そこは変わらない。
でも、その面倒くささがなければ、澪はきっと何も見えないままだった。
「ねえ、湯守くん」
「何」
「温泉の匂いって、結局なんて言えばいいの?」
透真は少しだけ歩く速度を緩めた。
共同浴場の前で、おじいさんが桶を片手にこちらを見ている。
たぶん、また何か面白いことを言うのではないかと期待している顔だった。
透真は湯気を見上げた。
「湯の匂いでいい」
「そのままじゃん」
「そのままを、そのまま言える人間は案外少ない」
澪は、少し考えた。
湯の匂い。
確かに、それでいいのかもしれない。
卵が腐った匂いでも、硫化水素でも、観光パンフレットの言葉でもなく。
この町の朝に立ちのぼる、湯の匂い。
「じゃあ私は、まだ練習中だね」
「最初よりはましになった」
「褒めてる?」
「かなり」
「分かりにくいなあ」
「改善点として記録する」
「記録しなくていい」
二人は坂を上った。
澪は白い湯気の向こうにある町を見下ろした。
椿屋の屋根が見える。
あの宿に、母の過去がある。
宗一という人の記憶がある。
お静の後悔があり、美奈の弱さがあり、ふみの踏ん張りがある。
怖いだけの場所ではなくなった。
澪にとっても、少しだけ意味のある場所になった。
「卵が腐った匂いって言ったの」
澪はぽつりと言った。
「今なら、ちょっと雑だったかもって思う」
透真が横目で見る。
「卵を腐らせた経験は?」
「ない」
「なら、よろしい」
「よろしいんだ」
「認識が更新された」
「湯守くんに更新されるの、ちょっと悔しい」
「僕に言われても困る」
「でもさ」
「うん」
「最初にああ言われなかったら、私、たぶんこの町の匂いをちゃんと嗅ごうとしなかった」
透真は黙った。
澪は続ける。
「椿の匂いも、湯の匂いも、古い旅館の匂いも。全部、怖いとか変とかで済ませてたかも」
「それは」
透真は少し考えた。
「僕が役に立ったということ?」
「そこ、自分で確認する?」
「重要だから」
「役に立ったよ」
澪が言うと、透真は少しだけ顔をそらした。
「そう」
「照れてる?」
「確認する必要はない」
「照れてるね」
「朝比奈さん」
「何?」
「君は時々、観察が雑ではなくなる」
「褒めてる?」
「かなり」
「やっぱり分かりにくい」
澪は笑った。
透真も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その瞬間だった。
透真の足が止まった。
澪は数歩進んでから気づき、振り返る。
「どうしたの?」
透真は坂の上ではなく、温泉街の奥を見ていた。
椿屋よりさらに奥。
観光客があまり行かない細い路地の先。
古い共同浴場がある方角だった。
もう何年も使われていないと聞いたことがある。入口には板が打ちつけられ、地元の人もあまり近づかない場所だと杏が言っていた。
透真の表情が変わっている。
いつもの面倒くさい顔ではない。
何かを捉えた顔。
澪は胸の奥が少しざわつくのを感じた。
「湯守くん?」
透真は、ゆっくり息を吸った。
そして、眉をひそめる。
「焦げた木」
「え?」
「濡れた土。古い湯垢。あと……」
透真の声が少しだけ低くなる。
「鉄の匂い」
「鉄?」
澪には何も分からなかった。
ただ、朝の湯けむりの向こうで、町の奥が少し暗く見えた。
透真はしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「この町は、まだ何か隠してる」
澪は、もう笑えなかった。
怖い。
そう思った。
けれど、数日前とは少し違う怖さだった。
今は、その怖さを一人で抱えなくてもいいことを知っている。
澪は透真の隣に戻り、同じ方向を見た。
「また、匂いの出どころを確認するだけ?」
透真は、少しだけこちらを見た。
「たぶん」
「それを世間では調べるって言うんだよ」
「世間は言葉を雑に使う」
「知ってる」
澪は小さく息を吸った。
湯の匂いがした。
朝の町の匂い。
そして、その奥にかすかに混じる、透真だけが気づいた新しい匂い。
椿の騒ぎは終わった。
けれど、湯けむりの町は、まだすべてを見せてはいない。
坂の上でチャイムが鳴った。
二人は顔を見合わせる。
「遅刻する」
透真が言った。
「湯守くんが立ち止まったんでしょ」
「それは事実」
「急ごう」
「坂で走ると危ない」
「じゃあ早歩き」
「妥当だね」
二人は並んで坂を上った。
白い湯けむりが、背中の後ろでゆっくり流れていく。
朝比奈澪は、もうその匂いを雑に呼ぼうとは思わなかった。
これは湯の匂いだ。
この町が隠しているものも、癒やしてきたものも、忘れられなかったものも、すべて包んで立ちのぼる匂い。
そして、その奥にはまだ、次の秘密が眠っている。
湯守透真は、それに気づいてしまった。
澪も、もう知らないふりはできない。
湯けむり坂の朝は、そうしてまた静かに始まった。




