第13話 焦げた共同浴場と、雨の日の鉄の匂い
椿屋の幽霊騒ぎが落ち着いてから、温泉街は何事もなかったように日常へ戻っていった。
いや、正確に言えば、何事もなかったように見せるのが上手い町なのだと思う。
饅頭屋のおばさんは朝から蒸し器の前に立っているし、共同浴場にはいつもの老人たちが桶を持って通う。旅館の玄関には水が打たれ、土産物屋の軒先では色褪せたのぼりが揺れている。
けれど、朝比奈澪には少しだけ分かるようになっていた。
同じように見える朝でも、匂いは違う。
雨の翌日は土の匂いが強い。
晴れた朝は湯気が軽い。
饅頭屋の蒸し器から漂う甘さは、湿気の多い日ほど坂の上まで伸びる。
そして椿屋の前を通ると、まだほんの少しだけ椿の匂いが残っている。
怖い匂いではない。
思い出が、まだ完全には乾いていない匂いだ。
澪はそんなことを考えながら、湯けむり坂を上っていた。
隣には湯守透真がいる。
相変わらず、歩く姿勢が妙に正しい。鞄を片手に持ち、目線は少し先の石畳へ向いている。表情はいつも通り分かりにくい。
「ねえ、湯守くん」
「何」
「最近、ちょっと鼻がよくなった気がする」
透真は横目で澪を見た。
「気のせいだと思う」
「即答」
「嗅覚そのものが急に鋭くなることは少ない。意識して嗅ぐようになっただけ」
「夢がない」
「正確ではある」
「そこは『成長したね』とか言ってくれてもよくない?」
「成長したね」
「言わされてる感すごい」
「言わせたから」
「そうだけど」
澪はむっとしたふりをしてみせたが、すぐに笑ってしまった。
こういう会話にも、もうだいぶ慣れてきた。
慣れたくなかった気もするが、慣れてしまったものは仕方がない。
坂の途中で、湯気がふわりと流れてきた。
澪は立ち止まり、鼻先でそれを受ける。
湯の匂い。
最近は、ちゃんとそう思える。
卵が腐った匂い、とはもう言わない。
言ったら、隣の偏屈高校生がまた面倒くさい顔で振り向くから、という理由も少しある。
「何?」
透真が聞いた。
「今、湯の匂いだなって思っただけ」
「いいと思う」
「お、褒められた」
「ただし、湯の種類によって匂いは違う」
「すぐ補足する」
「大事だから」
「はいはい」
澪は軽く流そうとした。
その時だった。
透真が足を止めた。
最初は、いつもの癖かと思った。
彼はよく立ち止まる。風の向き、湯気の流れ、誰かの足元の泥、旅館の軒先の匂い。澪には見えないものを見ているように、唐突に黙ることがある。
けれど、今の止まり方は少し違った。
背筋は伸びたまま。
目だけが、坂の下ではなく、温泉街の奥へ向いている。
廃業した共同浴場の方角だ。
「湯守くん?」
澪が呼ぶと、透真はゆっくり息を吸った。
「昨日より濃い」
「何が?」
「焦げた木の匂い」
澪は眉をひそめる。
「焦げた木?」
「それと、濡れた土。古い湯垢。鉄の匂い」
「鉄って、血みたいな?」
「血と決めるには材料が足りない」
「いや、朝から怖い単語出さないでよ」
「君が言った」
「そうだけど」
澪は透真の視線の先を追った。
旅館の屋根が重なり、細い路地が湯けむりに隠れている。その向こうに、もう使われていない共同浴場があると聞いたことがあった。
名前はたしか、奥の湯。
今は板で入口が塞がれていて、地元の人も近づかないらしい。
椿屋の騒ぎが落ち着いたばかりだというのに、また何かが始まろうとしている。
澪は、そんな予感を覚えた。
「……今から行く?」
聞いてから、自分で驚いた。
数日前の自分なら、絶対に言わなかった。
怖いものには近づきたくなかった。知らないことは知らないままにしておきたかった。
でも今は違う。
怖くないわけではない。
ただ、怖いからこそ、分からないままにするほうが嫌だった。
透真は澪を見た。
「学校」
「あ」
校舎のほうから予鈴が鳴った。
澪は空を見上げる。
「……放課後?」
「君は来ないほうがいい」
「出た」
「何が」
「来ないほうがいい、って言うやつ」
「実際、廃業した共同浴場は足場が悪い可能性がある」
「湯守くんは行くつもりなんでしょ?」
「確認だけ」
「それを世間では調査って言う」
「世間は言葉を雑に使う」
「知ってる」
二人は顔を見合わせた。
澪は少しだけ笑った。
透真は笑わなかったが、目元がわずかに困ったようになった。
「本当に危ない場所なら、入らない」
「うん」
「入口の匂いを確認するだけ」
「うん」
「それでも来る?」
「来る」
澪が即答すると、透真は小さく息を吐いた。
「認識が更新されすぎている」
「何それ」
「君が、思ったより頑固だという認識」
「今さら?」
「今さら」
そんな話をしているうちに、本鈴が鳴りそうになった。
二人は少し早足で坂を上がった。
教室に入ると、黒瀬蓮がすぐに振り返った。
「お、ギリギリ夫婦」
「誰が」
澪と透真の声が重なった。
蓮は嬉しそうに机を叩いた。
「ほら、息ぴったり」
「黒瀬くん、朝から元気だね」
「朝比奈さん、それ完全に呆れてるよね」
「少し」
「正直!」
蓮が楽しそうに笑う横で、小坂杏が澪の席に寄ってきた。
「ねえ、今日の放課後って空いてる?」
「どうしたの?」
「駅前に新しいクレープの移動販売が来るらしいんだよね。芽衣と行こうって話してて」
「あ、行きたい……けど」
澪は思わず透真を見た。
透真は何も言わず、鞄から教科書を出している。
蓮が目ざとく反応した。
「何、湯守と先約?」
「先約っていうか」
「匂いの出どころを確認する」
透真が淡々と言った。
蓮、杏、芽衣が同時に黙った。
そして杏が言った。
「ごめん、意味は分からないけど、湯守だなってことは分かった」
芽衣が心配そうに澪を見る。
「また何かあったの?」
「まだ分からない」
澪は透真の真似のようなことを言ってしまい、自分で少し嫌になった。
透真がちらりとこちらを見る。
「今のは正確」
「やめて。褒められると戻れなくなる」
「戻る必要はない」
「あるよ。私は湯守くんじゃないんだから」
蓮がにやにやする。
「でも最近、朝比奈さんもだいぶ湯守語わかってきたよな」
「やめてよ、その語学みたいな扱い」
「必修科目にしたら脱落者多そう」
「黒瀬くんは?」
「俺は一年で単位落とした」
教室に小さな笑いが起きた。
けれど、澪の頭の片隅には、ずっと透真の言葉が残っていた。
焦げた木。
濡れた土。
古い湯垢。
鉄の匂い。
椿屋の時とは違う。
椿屋の匂いは、怖くてもどこか人の記憶に近かった。
今回の匂いは、まだ正体が見えない。
だからこそ、不安だった。
放課後になると、空は少し曇っていた。
天気予報では夕方から雨と言っていたが、山の空は予報より早く動く。
芽衣と杏はクレープを諦めて、澪についてこようとした。
「さすがに危なくない?」
芽衣が言った。
「入口を見るだけだから」
澪がそう答えると、杏が眉をひそめる。
「それ、危ない人がよく言うやつだよ。ちょっと見るだけ、すぐ帰るから、みたいな」
「否定できない」
蓮が横から言う。
「俺も行くか?」
透真は即答した。
「来なくていい」
「何でだよ」
「人数が増えると足音と匂いが増える」
「俺、邪魔扱い?」
「確認作業には向かない」
「言い方!」
蓮が叫んだが、どこか楽しそうだった。
澪は苦笑する。
「本当に危なかったら戻るから」
芽衣はまだ心配そうだったが、最後にはうなずいた。
「じゃあ、連絡してね」
「うん」
「既読だけでもいいから」
「分かった」
杏が透真を指差す。
「湯守、朝比奈さん危ない場所に連れていったら怒るからね」
「僕が止めても来ると言った」
「そういう正論じゃなくて、守れって言ってるの」
透真は少し黙った。
それから言った。
「分かった」
杏は少し驚いた顔をした。
「素直」
「必要な指示だと思った」
「うん。じゃあ頼んだ」
澪は少し恥ずかしくなり、鞄を持ち直した。
「行こう、湯守くん」
「うん」
二人は校門を出た。
いつもの坂を下り、途中で温泉街の中心から外れる細い路地へ入る。
この道は、澪も初めてだった。
観光客向けの通りから少し外れただけで、町の表情は変わる。
旅館の明るい看板が減り、古い民家と倉庫が増える。石畳は途中からひび割れたコンクリートになり、道端には苔が生えていた。側溝からは湿った葉の匂いがする。
「ここ、通学路から近いのに全然雰囲気違うね」
「昔はこっちも賑わっていたらしい」
「らしい?」
「祖母が言っていた」
「湯守くんのおばあちゃん、また出た」
「この町の情報源としては精度が高い」
「怖いくらいね」
「それも正しい」
路地の奥へ進むにつれ、澪にも少し変な匂いが分かってきた。
湯の匂いではない。
土と、湿気と、古い建物の匂い。
そこに、何か焦げたような匂いが混ざっている。
「……これ?」
澪が聞くと、透真はうなずいた。
「分かる?」
「少し。焚き火のあとみたいな」
「近い。ただ、最近の火ではない」
「昔の火って匂い残るの?」
「条件による。焦げた木材が残っていて、湿気を吸うと出ることがある」
「へえ……」
澪は感心しかけて、ふと思った。
「湯守くんって、こういう話してる時はちょっと楽しそうだよね」
透真が足を止めた。
「楽しそう?」
「うん」
「そう見える?」
「少し」
「……不本意だ」
「楽しいのは悪くないよ」
「今回の匂いは、楽しいものではない」
透真の声が少し低くなった。
澪は表情を戻す。
「ごめん」
「怒ってない」
「うん」
さらに進むと、古い木造の建物が見えてきた。
共同浴場。
たぶん、奥の湯。
入口には板が打ちつけられ、錆びた看板が斜めにぶら下がっている。
かすれた文字で「奥乃湯」と読めた。
建物の一部は黒ずんでいる。
火事の跡のようだった。
屋根の端は少し崩れ、雨樋は外れている。周囲には雑草が伸び、誰も手入れをしていないことが分かる。
澪は足を止めた。
「ここ……」
思ったより、空気が重い。
廃業した建物というだけではない。
何かが、ここで止まったままになっている。
そんな感じがした。
透真は入口から少し離れた場所で立ち止まり、建物全体を見た。
「入らない」
「うん。入らないほうがいい」
「入口周辺だけ見る」
「分かった」
透真はゆっくりと周囲を歩いた。
澪はその後ろからついていく。
板で塞がれた入口の下に、古い泥が固まっている。最近誰かが入った形跡は、澪には分からない。
けれど透真は、すぐにしゃがみ込んだ。
「ここ」
「何かある?」
「泥が新しい」
澪は地面を見る。
確かに、入口近くの泥だけ少し湿っている。
「雨のせいじゃなくて?」
「雨は全体を濡らす。でもここは踏まれている」
「誰か来たってこと?」
「可能性は高い」
その瞬間、澪の背中に冷たいものが走った。
ここは、ただの廃墟ではない。
最近、誰かが来ている。
透真は入口の板に顔を近づけすぎない距離で、少しだけ空気を確かめた。
「焦げた木。カビ。湯垢。鉄。あと……古い紙」
「紙?」
「湿った紙の匂い」
「誰かが何か置いた?」
「まだ分からない」
「そればっかり」
「分からない時に分かると言うと、だいたい間違える」
「それはそう」
澪は建物を見上げた。
窓の一部が割れている。
中は暗い。
人の気配はない。
けれど、見られているような気がした。
「ここ、昔何があったの?」
「詳しくは知らない」
「湯守くんでも?」
「祖母はあまり話したがらない」
「千鶴さんが?」
澪は驚いた。
あの湯守千鶴が話したがらない。
それは、何かあると言っているようなものだった。
透真は建物の側面へ回った。
そこには、古い掲示板が倒れかけていた。紙はほとんど剥がれているが、一枚だけ、破れた古い案内が残っている。
そこに、かろうじて読める文字があった。
『湯脈調査に伴う臨時休業のお知らせ』
澪は眉を寄せた。
「湯脈?」
「温泉の通り道のこと」
「調査って、何を調べるの?」
「湯量、温度、成分、湧出位置。いろいろ」
「それで休業?」
「普通はある。けど、この掲示は古い」
透真は紙を触らずに見ている。
「火事の前か後かは分からない」
「火事があったんだ」
「建物を見る限り」
澪は黒ずんだ壁を見た。
焦げた木。
濡れた土。
鉄の匂い。
何か嫌な想像をしそうになり、慌てて首を振る。
「ねえ、もう戻らない?」
澪が言うと、透真はすぐにうなずいた。
「そうしよう」
「珍しく早い」
「匂いが強い。長くいると気分が悪くなる」
「湯守くんでも?」
「僕だから」
その言い方に、澪は少しだけ胸が詰まった。
彼は匂いに強いのではない。
人より多く拾ってしまうだけだ。
それは、便利な能力ではなく、時々かなりしんどいものなのかもしれない。
戻ろうとした時だった。
背後で、かさり、と音がした。
澪は振り返る。
建物の横、雑草の奥。
何か白いものが落ちている。
「湯守くん」
「うん」
透真も気づいていた。
近づきすぎないように草を避けると、そこには紙片があった。
濡れて、泥がついている。
けれど、完全には古くない。
澪にも分かった。
最近落ちたものだ。
紙には、手書きの線が少しだけ残っていた。
地図のような線。
そして、かすれた文字。
『旧奥乃湯 地下配管』
澪は息を呑んだ。
「これ……」
透真は紙片を見つめたまま、表情を硬くした。
「湯脈図かもしれない」
「湯脈図?」
「温泉の配管や湯の流れを記した図」
「そんなものが、何でここに落ちてるの?」
「それを確認する必要がある」
「また調べるってこと?」
「匂いの出どころを確認する」
「もうそれ、便利な言い訳になってるよ」
「否定はしない」
否定しなかった。
澪は少し驚いて、透真を見た。
透真は紙片を触らない。
ただ、じっと見ている。
その横顔には、椿屋の時とは違う緊張があった。
澪は小さく聞いた。
「これ、千鶴さんに聞く?」
「聞く」
「話してくれるかな」
「分からない」
「でも聞くんだ」
「聞かないと分からない」
空が低く鳴った。
遠くで雷のような音がした。
雨がまた来る。
澪は奥の湯を見上げた。
黒ずんだ木の壁。
塞がれた入口。
倒れかけた掲示板。
濡れた紙片。
そして、透真だけが嗅ぎ取った鉄の匂い。
椿屋の謎は、人の未練から始まった。
では、この場所に残っているものは何なのだろう。
未練か。
事故か。
それとも、誰かが今も隠している何かなのか。
「帰ろう」
透真が言った。
「うん」
二人は来た道を戻り始めた。
路地を抜けるころ、雨がぽつりと落ちた。
澪は鞄から折りたたみ傘を出す。
透真も傘を開いた。
二つの傘が並び、細い路地を進む。
「湯守くん」
「何」
「この町って、思ったより秘密が多いね」
「温泉町だから」
「温泉町って、そういうもの?」
「湯は地下から来る。見えないところを通って、地上に出る」
透真は傘越しに、白い湯気の立つ町を見た。
「人の秘密と似ている」
澪は少し黙った。
「今の、またちょっと文学っぽい」
「そう?」
「うん」
「不本意だ」
「いいじゃん」
「正確ならいい」
「そこなんだ」
二人は雨の中を歩いた。
温泉街の中心へ戻ると、饅頭屋の匂いと湯の匂いがまた近くなる。
けれど澪の鼻の奥には、奥の湯で嗅いだ焦げた匂いが残っていた。
透真は、もっと強く残っているのだろう。
そう思うと、少しだけ心配になった。
「気分悪くない?」
澪が聞くと、透真は少し意外そうにこちらを見た。
「少し」
「湯守屋戻ったら休みなよ」
「君に言われるとは」
「私だって成長するんです」
「成長したね」
「また言わされてる」
「今回は少し本心」
澪は一瞬黙った。
それから、傘の下で少し笑った。
「少しなんだ」
「かなり、に修正する」
「よろしい」
透真は何か言いたげにしたが、結局言わなかった。
雨は少しずつ強くなっていく。
湯けむりと雨が混ざり、町は白く霞んでいた。
その向こうで、廃業した共同浴場は静かに沈んでいる。
焦げた木と、濡れた土と、鉄の匂い。
新しい謎は、もう始まっていた。




