第14話 千鶴は古い湯を語らない
湯守屋に戻った透真は、まず玄関で靴を脱ぎ、鞄を帳場の脇に置いた。
それから、何も言わずに手洗い場へ向かった。
朝比奈澪は、その背中を見ながら少しだけ迷った。
ついていくべきか。
それとも、ここで待つべきか。
数分前、二人は旧共同浴場《奥乃湯》から戻ってきたばかりだった。
焦げた木の匂い。
濡れた土。
古い湯垢。
鉄の匂い。
そして、雨に濡れた紙片。
『旧奥乃湯 地下配管』
あの文字が、まだ澪の頭から離れない。
ただの廃業した共同浴場ではない。
何かが、あそこに残っている。
そう思わせるには十分だった。
「おや」
帳場の奥から声がした。
湯守千鶴だった。
着物姿で、いつものように背筋が伸びている。年齢を感じさせる白髪をきちんとまとめ、手には帳簿を持っていた。
千鶴は澪を見るなり、すぐに目を細めた。
「澪さんまで濡れているね」
「あ、すみません。お邪魔してます」
「謝ることじゃないよ。雨の日に濡れずに歩ける人間がいたら、そっちのほうが怖い」
そう言ってから、千鶴は手洗い場のほうを見た。
「透真は?」
「手を洗いに」
「なるほど」
千鶴の声が、ほんの少し低くなった。
それだけで、澪は気づいた。
千鶴は分かっている。
透真がただ雨に濡れただけではないことを。
やがて、透真が戻ってきた。
顔色は悪くない。
けれど、いつもより少し無口だった。
いや、元からよく喋るほうではない。
だが、今日の無口さは、言葉を選んでいる無口ではなく、匂いを体の中から追い出そうとしているような無口だった。
「透真」
千鶴が呼ぶ。
「はい」
「どこへ行った」
透真は少しだけ間を置いた。
「奥乃湯です」
帳場の空気が、そこで一度止まった。
澪には、そう感じた。
千鶴の表情は大きく変わらない。
けれど、帳簿を持つ手が、ほんのわずかに強くなった。
「誰に聞いて行った」
「匂いです」
「そうかい」
千鶴は短く答えた。
その短さが、逆に不自然だった。
いつもの千鶴なら、ここで「また鼻かい」とでも言いそうなものだ。
けれど言わなかった。
澪は黙って二人を見る。
この町には、言わないことで会話する大人が多すぎる。
そう思った。
透真は濡れた鞄から、ビニール袋に入れた紙片を取り出した。
触らないように、落ちていたものを袋に入れたらしい。
澪はその動作を見て、いつの間に、と思った。
自分は雨と建物の気配に気を取られていた。
透真は違う。
気持ち悪くなるほど匂いを拾いながら、それでも手順を外さない。
「奥乃湯の脇に落ちていました」
透真は袋を帳場に置いた。
千鶴は、それを見た。
紙片に残る文字。
『旧奥乃湯 地下配管』
千鶴の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「古いものだね」
「最近、誰かが持ち出した可能性があります」
「なぜそう思う」
「紙自体は古い。でも、泥が新しい。落ちていた場所も、雨で自然に流れた位置ではありません。誰かが持ってきて、落としたか、捨てたか」
千鶴は黙って聞いていた。
透真は続ける。
「あの建物から、焦げた木と鉄の匂いがしました。古い火事の跡だと思います。ただ、今日の匂いは雨だけでは説明しにくい」
「雨の日は、古い匂いが戻るものだよ」
「それは分かっています」
「なら、それ以上は嗅がなくていい」
千鶴の声は静かだった。
しかし、その静けさには強い線があった。
澪は思わず口を開きかけた。
けれど、透真が先に言った。
「ばあちゃん」
「何だい」
「奥乃湯で何があったんですか」
単刀直入だった。
千鶴はすぐには答えなかった。
帳場の外では、雨がまた強くなり始めている。
屋根を打つ音が、低く続いていた。
千鶴は紙片から目を離し、透真を見た。
「あんたには関係ない」
その言葉は、やわらかくなかった。
澪の胸が少し痛んだ。
その言葉を、最近聞いたばかりだったからだ。
母から。
澪には関係ないこと。
その一言がどれほど人を遠ざけるか、澪は知ってしまった。
透真は表情を変えない。
ただ、少しだけ息を吸った。
「関係ないなら、なぜ隠すんですか」
「隠しているんじゃない。話す必要がない」
「同じに聞こえます」
「違うよ」
千鶴の声が少しだけ鋭くなった。
その瞬間、澪は初めて、千鶴が本気で透真を止めようとしているのだと分かった。
普段の茶化しでも、年寄りの意地悪でもない。
本当に、ここから先へ行かせたくないのだ。
「透真」
千鶴は静かに言った。
「椿屋のこととは違う」
透真の目がわずかに動く。
「どう違うんですか」
「椿屋は、言えなかった人の話だった。奥乃湯は、言わずに終わらせた人の話だ」
澪は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
言えなかった人。
言わずに終わらせた人。
似ているようで、違う。
前者には、まだ言葉が残っている。
後者には、最初から言葉にしないと決めた重さがある。
透真は黙っていた。
千鶴は紙片を見つめる。
「昔、奥乃湯で小さな火事があった」
「小さな?」
透真が聞き返す。
「建物の一部が焼けた。けが人は出なかった。そういうことになっている」
そういうことになっている。
澪は、その言い方に引っかかった。
透真も同じだったらしい。
「実際は?」
「透真」
「実際はどうだったんですか」
千鶴は、深く息を吐いた。
「けが人は出なかった」
「なら」
「ただ、あの湯は死んだ」
帳場に、雨音だけが残った。
澪は思わず聞いた。
「あの湯が、死んだ?」
千鶴が澪を見る。
責めるような目ではなかった。
むしろ、少しだけ申し訳なさそうだった。
「温泉にはね、湧き方がある。湯量があり、温度があり、通り道がある。人間が乱暴に扱えば、湯は出なくなることがある」
「奥乃湯は、出なくなったんですか」
「ああ」
千鶴は短く答えた。
その声には、古い悔しさのようなものが滲んでいた。
透真は紙片を見た。
「湯脈調査と関係がありますか」
千鶴は答えない。
それが答えのようにも見えた。
「ばあちゃん」
「あの頃、町は焦っていた」
千鶴は、ようやく話し始めた。
視線は、今の帳場ではなく、もっと昔の温泉街を見ているようだった。
「客が減り始めていた。大きな温泉地に客を取られ、若い人は外へ出ていく。古い旅館は修繕費を払えず、共同浴場も維持が難しくなった。そんな時に、奥乃湯のあたりで新しい湯脈があるかもしれないという話が出た」
「新しい湯脈」
「もし本当なら、町は変わる。新しい宿を建てられる。湯量が増えれば、観光客を呼べる。そう考えた大人がいた」
澪は、なんとなく嫌な予感がした。
町を守ろうとする大人。
焦る大人。
隠す大人。
この数日で、そういうものを少し知ってしまった。
千鶴は続ける。
「けれど、湯脈は宝の山じゃない。掘れば出るというものでもない。出たとしても、元の湯に影響することがある。私は反対した」
「ばあちゃんが?」
「そうだよ」
「当時から女将だったんですか」
「あんたが思っているより、私は長く女将をしている」
「それは知っています」
「なら聞くな」
少しだけ、いつもの千鶴に戻った。
けれど、すぐに声は低くなる。
「反対したのは私だけじゃない。奥乃湯の管理をしていた人も反対した」
「誰ですか」
千鶴はまた黙った。
透真は、それ以上強く聞かなかった。
代わりに、澪がそっと尋ねた。
「その人も、湯を守ろうとしたんですか」
千鶴は澪を見た。
しばらくして、頷いた。
「ああ。あの人は、湯に対して真面目だった。頑固で、不器用で、町の人からは煙たがられていたけれどね」
「少し湯守くんみたいですね」
澪が言うと、透真がこちらを見た。
「なぜ僕を見る」
「見てない。言っただけ」
「いや、見てた」
千鶴が小さく笑った。
ほんの一瞬だったが、空気が緩んだ。
「そうだね。少し似ていたかもしれない」
透真は不本意そうだった。
しかし、今はそこに突っ込まなかった。
「火事は、その調査中に?」
「そう言われている」
「また、そう言われている」
「記録ではそうだ」
「記録以外では?」
千鶴は帳場の窓の外を見た。
雨が石畳を叩いている。
「町には、記録に残さないことで保たれる平穏もある」
透真の顔が、わずかに強張った。
「それは、隠蔽ですか」
「強い言葉を使うね」
「弱い言葉にすると、見えなくなることがあります」
「透真」
千鶴の声が、今度ははっきりと厳しくなった。
「正しさだけで人の秘密に触ると割れる。そう言ったね」
「聞きました」
「それは町の秘密も同じだよ」
「でも、あそこには最近誰かが行っています」
透真の声も引かなかった。
「地下配管の紙片が落ちていた。入口の泥も新しい。奥乃湯は過去の話だけではありません」
千鶴は沈黙した。
その沈黙は、先ほどまでとは違った。
知らないふりではない。
考えている沈黙だった。
「……誰かが、あそこを掘り返そうとしているのかもしれないね」
千鶴が呟いた。
「掘り返す?」
澪が聞く。
「湯脈か、昔のことか。どちらにしても、いい話ではない」
透真は紙片を見た。
「この紙に心当たりはありますか」
「古い湯脈図なら、町の資料庫か、各旅館に写しが残っているかもしれない」
「湯守屋にも?」
「昔はあった」
「今は?」
「さあね」
透真が眉をひそめる。
「ばあちゃん」
「探せば出てくるかもしれない」
「どこに」
「蔵だよ」
千鶴はあっさり言った。
「ただし」
「ただし?」
「今日は駄目だ」
透真は何か言いかけた。
だが千鶴は先に言う。
「匂いに当てられた顔をしている。そんな状態で埃っぽい蔵に入ったら倒れるよ」
「倒れません」
「倒れそうな人間ほどそう言う」
澪はすぐに言った。
「それはそうです」
透真が澪を見る。
「朝比奈さん」
「何?」
「なぜ急にばあちゃん側に」
「気分悪いって言ってたでしょ」
「少し」
「少しでも休む」
「君まで」
「今の私は正確です」
透真は黙った。
千鶴は少し満足そうに笑った。
「澪さんのほうが話が早いね」
「いえ、湯守くんが話を遅くしてるだけです」
「それもそうだ」
「二対一は不公平です」
透真が小さく言った。
澪は思わず笑った。
重い話の途中なのに、少しだけ息がしやすくなる。
千鶴は立ち上がった。
「透真、今日は奥へ行って休みな。澪さんも、お茶を飲んでから帰るといい。雨が強い」
「でも」
透真が言いかけると、千鶴はぴしゃりと言った。
「今日は駄目だ」
その一言には、女将ではなく、祖母の強さがあった。
透真は渋々うなずく。
「分かりました」
「よろしい」
千鶴は帳場から奥へ入っていった。
その背中を見送りながら、澪は小さく息を吐く。
「怒られたね」
「怒られた」
「素直」
「反論材料が少なかった」
「体調悪いんでしょ」
「匂いが残っているだけ」
「それを体調悪いって言うんじゃないの?」
透真は答えなかった。
澪は彼の顔を覗き込む。
「湯守くん」
「何」
「休む」
「命令?」
「確認」
「それ、僕の言い方」
「使いやすいね」
「便利だろう」
「便利」
二人は、そこで少しだけ笑った。
千鶴が出してくれた番茶は、いつもより濃かった。
澪は帳場横の椅子に座り、湯呑みを両手で包む。
透真は少し離れた椅子に座っている。
顔色は、少しずつ戻ってきていた。
湯守屋の匂いは落ち着いている。
乾いた畳。
磨かれた柱。
番茶。
湯の匂い。
旧奥乃湯の焦げた匂いを、少しずつ洗い流してくれるようだった。
「奥乃湯の管理をしていた人って、誰だろう」
澪が呟く。
「ばあちゃんは名前を言わなかった」
「知ってるけど言わない感じだったね」
「うん」
「湯守くんの家と関係あるのかな」
「あるかもしれない」
「湯守屋も反対してたんだよね。千鶴さんが」
「そう言っていた」
「町を変えたい人と、湯を守りたい人が揉めた?」
「単純化すると、そうなる」
「単純化しないと?」
透真は湯呑みを見た。
「たぶん、どちらにも事情があった」
澪は、少し意外だった。
「湯守くんなら、湯を守る側が正しいって言うかと思った」
「湯を守ることは正しい。でも、町を続けるには客が必要で、金も必要だ」
「現実的」
「旅館の息子だから」
「そっか」
透真は静かに続ける。
「椿屋もそうだった。女将さんは宿を守りたかった。美奈さんは生活を守りたかった。どちらかだけが悪いと言えなかった」
「奥乃湯も?」
「分からない。でも、似ている可能性はある」
澪は、少し考え込んだ。
温泉町は、外から見れば風情のある場所だ。
湯けむり。
石畳。
古い旅館。
赤い椿。
でも、その裏には暮らしている人たちがいる。
宿を続ける人。
湯を守る人。
町を変えたい人。
出ていく人。
戻れない人。
湯けむりは、そういうものを全部白く包んでいるのかもしれない。
「湯守くん」
「うん」
「この町って、綺麗だけじゃないね」
「うん」
「でも、嫌じゃない」
「そう」
「変かな」
「変ではない」
「本当に?」
「綺麗なだけの町は、たぶん匂いが薄い」
澪は一瞬黙った。
それから、ゆっくり笑った。
「今の、すごく湯守くんっぽい」
「褒めてる?」
「かなり」
「分かりにくい」
「仕返し」
透真は少しだけ口元を緩めた。
その時、湯守屋の玄関の引き戸が開いた。
雨の音が一瞬大きくなる。
「ごめんくださーい」
声を聞いた瞬間、透真が眉をひそめた。
若い男の声だった。
帳場に現れたのは、スーツ姿の男性だった。
三十代前半くらい。髪はきちんと整えられていて、靴も磨かれている。温泉街には少し浮いて見える、都会的な雰囲気の人だった。
手には黒いビジネスバッグ。
笑顔は柔らかいが、どこか営業用の匂いがした。
澪は、自分が自然に「匂い」という言葉で考えていることに気づいて、少し驚いた。
「湯守屋さんでよろしいでしょうか」
男性が言う。
透真は立ち上がりかけたが、奥から千鶴が出てきた。
「はい。ご予約ですか」
千鶴の声は女将の声だった。
「いえ、突然失礼いたします。私、東都開発企画の真島と申します」
男性は名刺を差し出した。
千鶴はそれを受け取る。
表情は変わらない。
しかし、帳場の空気がまた少し硬くなった。
「開発企画」
千鶴が言う。
「はい。この温泉街の再整備計画について、少しお話を伺いたく」
澪は、透真を見た。
透真の表情が、完全に変わっていた。
奥乃湯。
湯脈調査。
地下配管の紙片。
焦げた木と鉄の匂い。
そして、開発企画。
何かが、また線でつながり始めている。
真島という男は、にこやかに続けた。
「特に、旧奥乃湯周辺の土地活用について、地元の皆さまのお考えをお聞きしたくて」
雨が、また強くなった。
千鶴は、名刺を見下ろしたまま静かに言った。
「今日は、ずいぶん奥の湯づいている日だね」
その声は穏やかだった。
けれど澪には、湯守屋の空気がぴんと張りつめたのが分かった。
透真は小さく息を吸った。
たぶん、彼にも何か匂ったのだ。
雨に濡れたスーツ。
革靴。
紙の名刺。
そして、旧奥乃湯の湿った土に似た匂い。
澪は、湯呑みを持つ手に少しだけ力を入れた。
新しい謎は、もう玄関先まで来ていた。




