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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第15話 再開発の名刺は、雨の匂いがした

 東都開発企画。


 その名刺は、湯守屋の帳場の明かりの下で、やけに白く見えた。


 雨に濡れた男の指先から渡されたばかりなのに、紙は少しも湿っていない。丁寧に扱われている。名刺入れから出す瞬間も、角が折れないように気をつけていた。


 そういう人だ、と朝比奈澪は思った。


 物を丁寧に扱う人。


 あるいは、丁寧に扱っているように見せるのが上手い人。


 男の名前は、真島玲司。


 三十代前半くらいに見えた。細身のスーツに、濡れても形の崩れない髪。笑顔は柔らかい。声も低すぎず高すぎず、聞き取りやすい。


 けれど、温泉街の雨には似合っていなかった。


 湯守屋の磨かれた柱や、古い帳場や、番茶の匂いの中で、真島だけが別の場所から切り取って貼りつけられたように見える。


「突然の訪問で失礼いたしました」


 真島は、きちんと頭を下げた。


 湯守千鶴は名刺を受け取ったまま、少しだけ目を細めている。


「本当に突然ですね」


 声は穏やかだった。


 でも、澪にも分かった。


 これは歓迎の声ではない。


 真島は、動じた様子を見せなかった。


「申し訳ありません。実は本日、町役場のほうへご挨拶に伺っておりまして。その流れで、温泉街の主だった旅館の皆さまにも、簡単にご説明をと思いまして」


「主だった旅館」


 千鶴はその言葉を、少しだけ転がすように繰り返した。


「うちが主だった旅館かどうかは分かりませんが」


「ご謙遜を。湯守屋さんは、この町でも古くから湯を守ってこられたお宿だと伺っております」


「誰から?」


 短い問いだった。


 真島は一拍置いた。


 その一拍が、澪には少しだけ引っかかった。


「役場の観光課の方からです」


「そうですか」


 千鶴は名刺を帳場の上に置いた。


「それで、再整備計画とやらは、どのあたりのお話で?」


「現時点ではまだ調査段階です」


 真島は鞄から薄い資料を取り出した。


 透明なクリアファイルに入った、数枚の紙。


 表紙には、温泉街再活性化基本構想、と書かれていた。


 いかにも役場や企業が作りそうな言葉だ。


 澪は、自分には関係ないはずなのに、少しだけ胸の奥がざらつくのを感じた。


 温泉街再活性化。


 きれいな言葉だ。


 でも、その言葉の下に何が隠れているのかは、まだ分からない。


「温泉街全体の回遊性を高め、若い観光客にも訴求できる導線を作る。古い施設を再利用し、宿泊、飲食、体験型観光を組み合わせる。そうした案を、地元の皆さまと一緒に考えていければと」


 真島は滑らかに話す。


 言葉に淀みがない。


 きっと何度も同じ説明をしているのだろう。


 千鶴は資料を受け取らなかった。


「古い施設というのは、奥乃湯のことですか」


 真島の笑顔が、ほんの少し深くなる。


「ご存じでしたか」


「この町の者ですから」


「失礼しました。はい。旧奥乃湯周辺は、立地として非常に面白い場所です。現在は使われていませんが、町の歴史を感じられる建物ですし、再整備次第では新しい観光拠点になり得ます」


 新しい観光拠点。


 その言葉を聞いた瞬間、湯守透真の眉がわずかに動いた。


 澪はそれに気づいた。


 彼はさっきから、ほとんど喋っていない。


 ただ、真島のほうを見ている。


 いや、見ているというより、嗅いでいる。


 その表現が自分の中で自然に出てきたことに、澪は少しだけ複雑な気持ちになった。


「奥乃湯は、長く閉じられている場所です」


 千鶴が言った。


「古い建物を再利用するには、かなり手間がかかりますよ」


「もちろんです。耐震、消防、配管、周辺道路、すべて調査が必要になります。ただ、外から見る限り、建物そのものにはまだ活用の余地があるのではないかと」


「外から見る限り、ね」


 千鶴の声は静かだった。


「中には入られましたか」


「いえ、まだ正式な許可をいただいていませんので」


 真島はすぐに答えた。


 その答えは、用意されていたように聞こえた。


 澪は透真を見た。


 透真は真島の靴を見ていた。


 革靴。


 きれいに磨かれているが、つま先の横に泥がついている。


 雨の日に温泉街を歩けば泥くらいつく。


 それだけなら不自然ではない。


 けれど、透真の目はそこに留まっていた。


 きっと澪には分からない匂いがあるのだ。


「奥乃湯には入っていないと」


 千鶴が確認する。


「はい」


「周辺には?」


「外観の確認程度です」


「今日ですか」


「いえ、数日前に一度」


「数日前」


 千鶴はそれ以上追及しなかった。


 しかし帳場の空気は、さらに硬くなった。


 真島は、少しだけ話題を変えるように微笑んだ。


「もちろん、私どもとしても、地元の方々のご意向を無視して進めるつもりはありません。むしろ、湯守屋さんのように歴史をお持ちの宿のご意見を伺いながら、町にとって良い形を模索したいと考えております」


「良い形」


「はい」


「誰にとって?」


 千鶴の問いは、刃物ではなかった。


 けれど、木の板にすっと入る細い釘のようだった。


 真島の笑顔が、そこで初めて少し止まった。


「もちろん、町全体にとって、です」


「町全体という言葉は便利ですね」


 千鶴が言った。


 澪は思わず透真を見た。


 透真がいつも言いそうなことだった。


 透真もそれを思ったのか、少しだけ目を伏せる。


 真島は穏やかに笑った。


「おっしゃる通りです。便利な言葉ほど、具体的に考えなければなりません。だからこそ、今日はお話を伺いに来ました」


「話せることはあまりありませんよ」


「奥乃湯の過去についても?」


 その言葉が出た瞬間、千鶴の表情から少しだけ温度が消えた。


 澪の背中に、ひやりとしたものが走る。


 真島は、気づいていないふりをしている。


 いや、気づいたうえで続けているのかもしれない。


「古い共同浴場が閉鎖された経緯について、いくつか資料を見たのですが、どうにも記録が少なくて。火災があったということは分かりましたが、詳細が曖昧でした」


 透真が、そこで初めて口を開いた。


「どの資料ですか」


 真島は透真を見る。


 初めて、きちんと認識したようだった。


「君は?」


「孫です」


 透真は簡潔に言った。


「湯守透真です」


「なるほど。お孫さんですか」


 真島は柔らかく微笑む。


「温泉に興味が?」


「あります」


「それは頼もしいですね」


「資料は、どの資料ですか」


 透真は話を戻した。


 真島は一瞬だけ目を細めた。


 笑顔は消えていない。


 けれど、ほんのわずかに空気が変わった。


「役場で閲覧した古い観光資料と、消防関連の記録です。ただ、正式な調査はこれからですので、現時点では詳しいことは」


「地下配管図は見ましたか」


 澪は息を止めた。


 いきなりそこへ踏み込んだ。


 透真らしいと言えば透真らしい。


 千鶴も、真島も、ほんの少しだけ動きを止めた。


「地下配管図?」


 真島が聞き返す。


「旧奥乃湯の地下配管に関する図面です」


「いえ、私はまだ見ていません」


 答えは自然だった。


 しかし、自然すぎた。


 澪は、椿屋の一件で少しだけ学んでいた。


 自然な答えが、必ずしも本当とは限らない。


 真島は透真を見たまま言う。


「そういった図面が残っているなら、ぜひ拝見したいですね。湯守屋さんにあるのですか?」


「さあ」


 透真は淡々と答えた。


「確認中です」


 千鶴が横から言った。


「透真」


 声は静かだったが、制止の意味があった。


 透真はそれ以上言わなかった。


 真島は場の空気を読んだのか、資料を鞄に戻した。


「本日は突然の訪問でしたので、これ以上は控えます。改めて、正式な説明の機会を設けさせていただければ」


「そうしてください」


 千鶴は言った。


「ただし、奥乃湯に勝手に入ることはおやめなさい」


 真島は、ほんの少し目を丸くした。


「もちろんです」


「古い建物です。怪我をします」


「お気遣いありがとうございます」


「お気遣いではありません。警告です」


 帳場が静まり返った。


 澪は、千鶴の声に初めて少し怖さを感じた。


 真島は笑みを崩さなかった。


 だが、その笑みはさっきより薄い。


「承知しました」


 真島は丁寧に頭を下げた。


「それでは、本日は失礼いたします」


 玄関の引き戸が開く。


 雨の音が帳場に流れ込む。


 真島は傘を差し、湯守屋を出ていった。


 その背中が石畳の向こうへ消えるまで、誰も口を開かなかった。


 引き戸が閉まる。


 雨音が少し遠くなる。


 千鶴は帳場の上の名刺を見下ろした。


「面倒なのが来たね」


 その一言で、澪はようやく息を吐いた。


 透真は真島が立っていた場所を見ている。


「奥乃湯に行っています」


「そうだろうね」


 千鶴はあっさり言った。


 透真が振り返る。


「ばあちゃんもそう思ったんですか」


「靴に奥の土がついていた」


「見えました?」


「見えたよ」


「匂いもしました」


「だろうね」


 澪は二人を見比べた。


「え、真島さん、奥乃湯に入ったってことですか?」


 透真は首を横に振る。


「入ったかどうかはまだ分からない。でも周辺には行っている。数日前だけじゃない。今日も近くを歩いたはず」


「匂いで?」


「奥乃湯の湿った土と、焦げた木の匂いが靴に残っていた。雨の日に長く歩けばもっと流れる。でも残っていた。つまり、かなり最近」


「本人は外観確認だけって」


「外観確認でもつく可能性はある」


「また慎重」


「断定は危ない」


 千鶴が名刺を指で軽く叩いた。


「東都開発企画ねえ」


「知っていますか」


 透真が聞く。


「名前は知らない。けれど、こういう会社は珍しくないよ。温泉街が弱ると、外から人が来る。助ける顔をして、買えるものを探す」


「悪い会社なんですか?」


 澪が聞くと、千鶴はすぐには答えなかった。


「悪い、と決めるには早いね」


 その言い方は、少し透真に似ていた。


「でも、良い話だけを持ってくる人間でもない」


 澪は名刺を見る。


 白い紙。整った文字。東都開発企画。


 さっきまでただの名刺だったものが、急に冷たく見えた。


「奥乃湯を再開発したいんですよね」


「そう言っていたね」


「でも、あそこは湯が死んだって」


 澪が言うと、千鶴は少しだけ目を伏せた。


「死んだ湯を、外の人間がどう見るかは分からないよ」


「どういうことですか」


「建物に価値を見るかもしれない。土地に価値を見るかもしれない。地下にまだ何か残っていると思うかもしれない」


 透真が言う。


「湯脈ですか」


「あるいは、その記録だ」


 千鶴は帳場の奥を見た。


 そこには古い蔵へ続く廊下がある。


「蔵を探すんですか」


 澪が聞くと、千鶴はため息をついた。


「本当は、今日は休ませるつもりだったんだけどね」


 透真が立ち上がりかける。


 千鶴はすぐに言った。


「ただし、透真は入らない」


「なぜですか」


「さっきの男が来て、さらに匂いを拾っただろう。顔色が戻りきっていない」


「問題ありません」


「問題ある」


「でも」


「蔵は私が探す」


 千鶴の言葉は強かった。


「透真、あんたは座っていな」


 透真は不満そうに黙った。


 澪はその横顔を見た。


 彼は、何か気づいてしまうと止まれない。


 それは優しさでもあり、危うさでもあるのだと思った。


「私、手伝えますか」


 澪が言うと、千鶴と透真が同時にこちらを見た。


「朝比奈さん?」


「湯守くんは休む。千鶴さん一人だと大変。私はそこまで匂いにやられない。なら私が手伝えばいい」


 透真は眉をひそめる。


「蔵は埃っぽい」


「マスク借りる」


「暗い」


「スマホのライトがある」


「古い書類は虫が」


「それはちょっと嫌だけど、我慢する」


 千鶴がふっと笑った。


「澪さんのほうが根性があるね」


「比較対象が僕なのは不本意です」


「今のあんたは休む根性を持ちな」


 透真は返す言葉を失ったようだった。


 澪は少しだけ得意になった。


「湯守くん、番茶飲んで待ってて」


「立場が逆になっている」


「たまにはいいじゃん」


「よくない」


「でも休む」


「……分かった」


 透真はしぶしぶ椅子に座り直した。


 千鶴は奥から手ぬぐいとマスクを持ってきて、澪に渡した。


「埃が多いからね。無理だと思ったらすぐ出るんだよ」


「はい」


「透真」


「はい」


「勝手に蔵へ来たら怒るよ」


「もう怒ってるように聞こえます」


「まだ序の口だよ」


「分かりました」


 澪は少し笑った。


 こういうやり取りを見ると、透真がちゃんと高校生に見える。


 普段は年齢不詳の偏屈温泉辞典みたいなところがあるが、祖母の前では孫なのだ。


 千鶴に連れられて、澪は湯守屋の奥へ向かった。


 廊下は表の帳場より少し暗く、古い木の匂いが濃い。


 突き当たりに、重そうな扉があった。


 千鶴が鍵を開ける。


 ぎい、と音がして扉が開いた。


 中から、乾いた紙と埃の匂いが流れてきた。


 澪はすぐにマスクをつけた。


「すごい量ですね」


 蔵の中には、古い帳簿、木箱、行李、使わなくなった食器、掛け軸、旅館の古い看板らしきものまで詰め込まれていた。


 その一角に、書類箱がいくつも積まれている。


「このあたりだね」


 千鶴は迷いなく進んだ。


 やはり知っている。


 澪はそう思った。


 千鶴は「探せば出てくるかもしれない」と言っていたが、どこを探すべきかは最初から分かっていたのだろう。


「千鶴さん」


「何だい」


「本当は、奥乃湯の資料がここにあるって分かってましたよね」


 千鶴は、書類箱に手をかけたまま止まった。


 それから、少しだけ笑った。


「澪さんも、だいぶ透真に似てきたね」


「それ、褒めてますか」


「さあね」


「ちょっと嫌です」


「正直でよろしい」


 澪は苦笑した。


 千鶴は箱の蓋を開けた。


 中には、古い封筒や書類が入っている。


「分かっていたよ。ただ、出したくなかった」


「どうしてですか」


「紙に残ったものは、言い訳できないからね」


 千鶴の声は低かった。


「人の記憶なら、曖昧だったと言える。昔のことだからと逃げられる。でも紙は残る。誰が何を言い、誰が何を決め、誰が反対したか」


 澪は、椿屋の手紙を思い出した。


 紙に残った言葉は、時間を越えて届く。


 優しさも、後悔も、たぶん罪も。


 千鶴は一つの封筒を取り出した。


 表には、古い筆跡で書かれている。


『奥乃湯 湯脈調査関連』


 澪は息を呑んだ。


「それ……」


「あったね」


 千鶴はそう言ったが、驚いてはいなかった。


 封筒を開けると、中から数枚の紙が出てきた。


 古い図面。


 手書きの線。


 配管の位置。


 湯の流れを示す矢印。


 そして、端のほうに、澪が見た紙片とよく似た文字があった。


『旧奥乃湯 地下配管図』


 澪は、思わず声を落とした。


「同じです」


「そうだね」


「じゃあ、奥乃湯に落ちていた紙は、この写し?」


「可能性はある」


 その時、図面の裏から一枚の小さなメモが滑り落ちた。


 澪は拾おうとして、千鶴に止められた。


「待ちなさい」


 千鶴は自分でそれを拾った。


 メモを見た瞬間、表情が変わる。


 今度は、澪にもはっきり分かった。


 千鶴が動揺している。


「千鶴さん?」


 千鶴は黙っていた。


 澪はそっとメモを覗いた。


 そこには、短い文が書かれていた。


『調査継続の場合、湯守屋は責任を負えない。奥乃湯の湯口に異常あり。鉄臭、焦げ臭、確認。――湯守千鶴』


 澪は息を止めた。


 鉄臭。


 焦げ臭。


 透真が今日嗅いだものと同じ言葉。


 それが、昔のメモにも書かれている。


 千鶴はメモを握りしめた。


 その手が、わずかに震えている。


「……まだ残っていたのかい」


 その呟きは、誰に向けたものでもなかった。


 蔵の外では、雨が屋根を打っている。


 澪は、背筋に冷たいものを感じた。


 奥乃湯の匂いは、今始まったものではない。


 ずっと昔にも、同じ匂いがあった。


 そして千鶴は、それを知っていた。


 澪は小さく聞いた。


「千鶴さん。奥乃湯で、何があったんですか」


 千鶴は答えなかった。


 けれど、その沈黙はもう、何も知らない人の沈黙ではなかった。


 雨音の中で、古い湯の記憶が、静かに息を吹き返そうとしていた。

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