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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第16話 鉄臭の古い記録

 蔵の中は、雨音が少し遠く聞こえた。


 湯守屋の帳場にいた時は、屋根を打つ雨粒の音がはっきりしていたのに、ここでは厚い土壁と古い木箱に吸われて、低くこもっている。


 紙の匂い。


 埃の匂い。


 乾いた木の匂い。


 それから、ほんの少し、古い墨の匂い。


 朝比奈澪は、手元のメモを見つめていた。


『調査継続の場合、湯守屋は責任を負えない。奥乃湯の湯口に異常あり。鉄臭、焦げ臭、確認。――湯守千鶴』


 鉄臭。


 焦げ臭。


 透真が今日、旧奥乃湯で嗅ぎ取った匂いと同じ言葉が、そこにあった。


 しかも、それを書いたのは千鶴本人だった。


 昔のことだ。


 紙は黄ばんでいる。端は少し丸まり、折り目も深い。今の千鶴の字より、少し勢いがある。若い頃の筆跡なのかもしれない。


 けれど、内容は今につながっていた。


 澪は、そっと千鶴を見た。


 千鶴はメモを持ったまま、しばらく動かなかった。


 いつもの、背筋の伸びた女将の顔ではない。


 湯守屋を支えてきた強い祖母の顔でもない。


 古い紙の向こうに置いてきた何かを、急に目の前に突きつけられた人の顔だった。


「千鶴さん」


 澪は小さく呼んだ。


 千鶴は、はっとしたように瞬きをした。


「……悪いね。少し、昔のことを思い出した」


「このメモ、千鶴さんが書いたんですよね」


「ああ」


「奥乃湯で、昔も同じ匂いがしていたんですか」


 千鶴は、答えるまでに時間をかけた。


 その間に、雨音が一段強くなった。


「していたよ」


 短い返事だった。


 でも、その短さの中に、ずっと言わずにいたものの重さがあった。


「鉄の匂いと、焦げた匂いが」


「ああ」


「火事の前ですか?」


 澪が聞くと、千鶴は少しだけ目を細めた。


 質問が核心に触れているのだと、澪にも分かった。


「火事の前だ」


 千鶴は言った。


 蔵の空気が重くなる。


 焦げた匂いは、火事の後に残るものだと思っていた。


 でも、火事の前から焦げ臭かったというなら、話は変わる。


「どういうことですか」


「分からなかった」


 千鶴は、ゆっくりと書類箱の上にメモを置いた。


「当時の私にも、分からなかった。湯口から、金気が強くなったような匂いがした。鉄っぽくて、少し血に似ている。さらに、湯の周りの木材が焦げたような匂いもあった。でも、火は出ていなかった」


 澪は、旧奥乃湯の黒ずんだ壁を思い出した。


 濡れた土。


 古い湯垢。


 焦げた木。


 鉄の匂い。


 透真が黙り込んだ理由が、少し分かった気がした。


「それを誰かに言ったんですか」


「言ったよ」


「でも、調査は続いた?」


 千鶴は苦笑した。


 その笑いは、苦いというより、乾いていた。


「町が焦っていたからね」


「温泉街の再生のために?」


「そういう言葉を使う大人は、昔からいたよ。今の真島さんみたいにね」


 千鶴は、木箱の上に置いた古い図面へ視線を落とした。


「温泉街再活性化。湯量増加計画。新湯脈開発。言葉は立派だった。でも中身は、客を呼ぶために新しい湯が欲しい、という話だった」


「それが悪いことなんですか」


 澪は、少し迷いながら聞いた。


 責めるつもりはなかった。


 ただ、分からなかった。


 温泉街を続けるためには、客が必要だ。椿屋のことで、それは痛いほど知った。宿を守るには、気持ちだけでは足りない。お金も、人も、未来の見通しも必要になる。


 千鶴は、澪の質問に怒らなかった。


 むしろ、静かに頷いた。


「悪いことじゃない」


「じゃあ」


「悪いのは、焦りが湯を甘く見ることだ」


 千鶴の声が、少しだけ強くなった。


「湯は、掘れば都合よく出てくる宝じゃない。地下を通る水であり、熱であり、土地そのものだ。一本いじれば、別の湯に影響することもある。湯量が変わる。温度が下がる。成分が変わる。場合によっては、止まる」


「奥乃湯は……」


「止まった」


 千鶴は言った。


「完全にではない。でも、客を入れられる湯ではなくなった。湧き方が不安定になって、匂いも変わった。あの湯は、あそこで死んだんだよ」


 澪は、何も言えなかった。


 人ではない。


 でも、千鶴は確かに「死んだ」と言った。


 その言葉には、ただ施設が廃業したという以上の痛みがあった。


「火事は?」


 澪が聞くと、千鶴は目を伏せた。


「調査を止めるべきだという話が出ていた頃に起きた。夜だった。奥乃湯の裏手から火が出て、建物の一部が焼けた。幸い、誰も泊まっていなかったし、けが人も出なかった」


「本当に?」


 その言葉は、思わず口から出た。


 千鶴は澪を見た。


 澪は慌てて言う。


「すみません。でも、さっき千鶴さんが『そういうことになっている』って言ったから」


「ああ」


 千鶴は少し笑った。


「澪さんは、聞きにくいところを聞くね」


「湯守くんに似てきましたか」


「似てきたね」


「それは……ちょっと複雑です」


「本人に言うと、もっと複雑な顔をするだろうね」


 少しだけ空気が緩んだ。


 でも、千鶴の表情はすぐに戻った。


「けが人は、本当に出ていない」


「じゃあ、何が記録と違うんですか」


「火事の原因だ」


 澪は息を止めた。


 千鶴は、書類箱の中からもう一枚、紙を取り出した。


 消防への報告書の写しらしい。


 そこには、古い文字で「漏電の疑い」と書かれていた。


「表向きは漏電になった」


「実際は違うんですか」


「分からない」


「分からない?」


「当時も分からなかった。分からないまま、そういうことになった」


 千鶴は報告書を箱の上に置いた。


「ただ、火の気のない場所から火が出た。焦げ臭さは、その前からあった。そして火事の後、奥乃湯の湯はますますおかしくなった」


「湯脈調査のせいかもしれない?」


「私はそう思っていた」


「でも、証拠がなかった」


「そうだね」


 蔵の中に、雨音が染み込んでくる。


 澪は、背中が少し冷たくなるのを感じた。


 椿屋の件は、人の未練が香りになって現れた話だった。


 けれど奥乃湯は違う。


 もっと硬く、暗く、町そのものに関わるものだ。


「その、奥乃湯の管理をしていた人って」


 澪は慎重に聞いた。


「前に千鶴さんが言っていた、湯に真面目だった人ですか」


 千鶴は、しばらく黙った。


 そして、蔵の奥に視線を向けた。


「名は、古賀源一郎」


「古賀さん」


「奥乃湯の番頭であり、湯守のような人だった。旅館の主人ではない。派手な役職もない。ただ、誰よりもあの湯を見ていた」


「その人は、火事の時に?」


「町を出た」


「え?」


 澪は思わず聞き返した。


「火事のあと、すぐに町を出た。責任を感じたのか、追い出されたのか、逃げたのか。人によって言うことは違った」


「千鶴さんは?」


「私は、追い出されたのだと思っている」


 千鶴の声には、はっきりとした悔しさがあった。


「源一郎さんは、調査に強く反対していた。湯がおかしい、止めるべきだと何度も言った。私も同じ意見だった。でも、町の中にはそれを面白く思わない人たちもいた」


「再開発したい人たち?」


「当時のね」


「その人たちが、古賀さんを?」


「直接何かをしたとは言わない。でも、あの人は町にいづらくなった」


 澪は胸の奥が重くなった。


 湯を守ろうとした人が、町を出た。


 それを千鶴はずっと覚えている。


 だから奥乃湯のことを話したがらなかったのかもしれない。


「源一郎さんは今も?」


「亡くなったと聞いた」


「そうですか……」


「ただ」


 千鶴はそこで言葉を切った。


「ただ?」


「娘さんがいた」


 澪は顔を上げた。


「娘さん」


「ああ。小さな子だった。まだ小学生にもならなかったかもしれない。名前は……」


 千鶴は記憶をたどるように目を閉じた。


「確か、真理」


「古賀真理さん」


「火事のあと、源一郎さんと一緒に町を出た。私もそれきり会っていない」


 澪は、その名前を心の中で繰り返した。


 古賀真理。


 奥乃湯を守ろうとした人の娘。


 今、この町に関係しているのかは分からない。


 でも、物語の端に新しい糸が現れた気がした。


「この話、透真にしますか」


 澪が聞くと、千鶴は苦い顔をした。


「しなければ、あの子は自分で嗅ぎに行くだろうね」


「行きそうです」


「困った孫だよ」


「でも、千鶴さんに似てます」


「そこは否定したいね」


「湯守くんも同じことを言いそう」


「だろうね」


 千鶴は、少しだけ笑った。


 そして、奥乃湯関連の資料を数枚、慎重にまとめた。


「これは帳場へ持っていく。ただし、透真には全部を一度には見せない」


「どうしてですか」


「あの子は、見えすぎる」


 千鶴は言った。


「匂いだけじゃない。人の隠したものに気づきすぎる。気づいたら放っておけない。でも、人の古傷に触れるには、若すぎる時もある」


 澪は、透真の顔を思い浮かべた。


 面倒くさい。


 偏屈。


 正確さにうるさい。


 でも、怖がっている人を放っておけない。


 母のことも、椿屋のことも、彼は自分のことのように受け止めていた。


 それは優しさだ。


 けれど同時に、自分を削ることでもある。


「分かる気がします」


 澪が言うと、千鶴は少し意外そうに見た。


「澪さんがそう言うなら、少し安心だ」


「私が?」


「あんたが隣にいると、透真はたぶん少し人間に戻る」


「え、普段は?」


「温泉の配管みたいな顔をしている」


 澪は吹き出した。


「それ、ひどくないですか」


「事実だよ」


「湯守くんが聞いたら怒りますよ」


「怒るなら、まだ人間だ」


 千鶴はさらりと言った。


 澪は笑いながら、でも少しだけ納得してしまった。


 帳場へ戻ると、透真はちゃんと椅子に座っていた。


 湯呑みは空になっている。


 約束通り、蔵へは来なかったらしい。


 ただ、目は完全に資料を待っている目だった。


「ありましたか」


 第一声がそれだった。


 澪は思わず言う。


「体調は?」


「戻った」


「本当に?」


「少し」


「少しならまだ戻ってない」


「君まで細かくなった」


「湯守くんのせい」


「僕のせい?」


「かなり」


 透真は何か言い返そうとしたが、千鶴が資料を帳場に置いたので、すぐにそちらを見た。


 澪は、少しだけ胸が痛んだ。


 本当に、この人は気づいたものに吸い寄せられてしまう。


 千鶴が言う。


「見つかったよ。奥乃湯の湯脈調査関連の資料だ」


 透真は手を伸ばしかけた。


 だが、千鶴が資料に手を置いた。


「その前に、聞きなさい」


「はい」


「奥乃湯では、昔、湯脈調査があった。町の再生をかけた計画だった。私は反対した。奥乃湯の湯守だった古賀源一郎さんも反対した」


「古賀源一郎」


 透真が名前を繰り返す。


「その人は?」


「火事のあと、町を出た。もう亡くなっている」


 透真の表情が少しだけ変わった。


「責任を取らされたんですか」


「そういう見方もできる」


「実際は?」


「私は、責任を押しつけられたのだと思っている」


 帳場が静かになった。


 透真は、資料を見る前に千鶴を見た。


「なぜ、今まで話さなかったんですか」


「話したくなかったからだよ」


 千鶴は逃げなかった。


「私は、あの時何もできなかった。反対はした。メモも残した。でも、止められなかった。湯はおかしくなり、火事が起き、源一郎さんは町を出た」


「ばあちゃんのせいでは」


「そうだね。私一人のせいじゃない」


 千鶴は静かに言った。


「でも、誰のせいでもないことにしてしまった町の一人ではあった」


 その言葉は重かった。


 透真は何も言わなかった。


 澪も言えなかった。


 町。


 その大きな言葉の中に、個人の後悔が埋もれている。


 椿屋の時とは違う重さだった。


 千鶴はメモを透真の前に置いた。


 鉄臭、焦げ臭、確認。


 透真はそれを見て、目を細めた。


「今日、同じ匂いがしました」


「ああ」


「昔の匂いが、雨で戻っただけではないと思います」


「なぜ」


「真島さんの靴にも同じ土と焦げた匂いがありました。地下配管図の紙片も新しい泥についていた。誰かが奥乃湯を動かしています」


「動かしている」


 千鶴がその言葉を繰り返す。


 透真は頷いた。


「少なくとも、あの場所に最近出入りした人がいる。再開発業者が奥乃湯に興味を持ち、古い配管図を探している可能性があります」


「目的は湯脈かね」


「分かりません」


「珍しく、分からないが重いね」


「はい」


 透真は資料を見つめた。


「でも、古い湯脈図が欲しい理由はあります。再開発するなら地下の構造が必要です。もし、まだ使える湯脈があると思っているなら、なおさら」


「でも奥乃湯の湯は死んだんですよね」


 澪が言うと、透真は頷いた。


「死んだ湯を、外の人間がどう判断するかは別」


 千鶴と同じ言い方だった。


 澪は、少しだけ嫌な予感がした。


「もしかして、真島さんたちは、奥乃湯がまた使えると思ってる?」


「可能性はある」


 透真は言った。


「あるいは、使えることにしたい」


 その言葉に、澪の背中が冷えた。


 事実ではなく、使えることにする。


 それは、とても危ない響きだった。


 その時、湯守屋の電話が鳴った。


 帳場にある古い固定電話。


 千鶴が受話器を取る。


「はい、湯守屋でございます」


 声はすぐに女将のものになった。


 しかし、次の瞬間、千鶴の表情が変わった。


「……はい。はい、分かりました。すぐ確認します」


 受話器を置く。


 透真が聞く。


「何かありましたか」


 千鶴は、少しだけ眉を寄せた。


「椿屋のふみさんからだ」


 澪の胸が跳ねる。


「椿屋で何か?」


「違う。奥乃湯の近くで、見慣れない男たちが数人、何かを運び込んでいたらしい」


 透真が立ち上がった。


「行きます」


「駄目だと言っても行く顔だね」


「はい」


「なら、私も行く」


 千鶴は即座に言った。


 透真が驚いた顔をする。


「ばあちゃんが?」


「私の町だ。私の湯だ。私の古傷だ」


 千鶴の声は低かった。


「これ以上、人に嗅がせてばかりはいられない」


 澪は立ち上がった。


「私も行きます」


 透真がすぐに言う。


「朝比奈さんは」


「来ないほうがいい、は禁止」


「まだ言ってない」


「顔が言ってた」


 透真は少しだけ困った顔をした。


 千鶴が薄く笑う。


「透真。諦めな」


「ばあちゃんまで」


「澪さんは、もうこの町の匂いを少し嗅いでしまった。嗅いでしまった人間は、知らないふりが下手になる」


 その言葉に、澪は胸の奥が熱くなった。


 知らないふりが下手になる。


 確かにそうだ。


 椿屋の匂いを知った。


 湯の匂いを知った。


 母の過去を知った。


 そして今、奥乃湯の焦げた匂いを知ってしまった。


 もう、ただの転校生には戻れない。


 透真は、小さく息を吐いた。


「危ないと思ったら戻る」


「うん」


「僕より前に出ない」


「うん」


「ばあちゃんより前にも出ない」


「それは最初から無理」


 千鶴が笑った。


「よろしい」


 雨は、まだ降っていた。


 湯守屋の玄関を出ると、温泉街は白い湯けむりと雨に包まれていた。


 奥乃湯のある路地は、その向こうにある。


 過去に閉じられたはずの湯が、今また誰かの手で開かれようとしている。


 それが再生なのか。


 利用なのか。


 それとも、昔の過ちの繰り返しなのか。


 まだ分からない。


 けれど、匂いはもう嘘をついていなかった。


 焦げた木。


 濡れた土。


 鉄の匂い。


 雨の中、三人は奥乃湯へ向かった。

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