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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第17話 雨の奥乃湯に灯る作業灯

 雨の温泉街は、音を近くする。


 石畳を打つ雨粒。

 軒先から流れ落ちる水。

 側溝を走る濁った流れ。

 遠くの共同浴場から漏れる湯の音。


 普段なら湯けむりに包まれて柔らかく見える町も、雨の日には輪郭を少しだけ失う。旅館の灯りは滲み、看板の文字は濡れて暗くなり、誰もいない路地は、奥へ奥へと人を引き込むように見えた。


 湯守千鶴は、傘を差していなかった。


 正確には、差してはいる。


 けれど、雨を避けるためではなく、ただ手に持っているだけのような差し方だった。背筋は伸び、歩幅は年齢を感じさせない。薄鼠色の雨羽織をまとった姿は、旅館の女将というより、町の奥へ踏み込んでいく番人のようだった。


 その後ろを、湯守透真と朝比奈澪が歩く。


 澪は傘の柄を握る手に力を入れていた。


「千鶴さん、歩くの速いね」


 小声で言うと、透真も小さく頷いた。


「怒っている時は速い」


「怒ってるの?」


「たぶん」


「静かすぎて分からない」


「静かな怒りのほうが長持ちする」


「それ、経験?」


「祖母観察」


「嫌な観察だね」


「必要に迫られて」


 こんな時でも、透真はいつもの透真だった。


 ただ、いつもより声が低い。


 雨の匂いに紛れて、奥乃湯の匂いが近づいているのだろう。


 澪にも、少し分かる。


 温泉街の中心を離れるにつれて、湯の匂いが薄くなる。代わりに、湿った土と古い木の匂いが強くなる。そこに焦げたような、鼻の奥をかすめる匂いが混じっていた。


 数時間前に嗅いだばかりの匂い。


 旧共同浴場《奥乃湯》の匂いだ。


「気分、悪くない?」


 澪が聞くと、透真は少しだけこちらを見た。


「大丈夫」


「その大丈夫、信用していいやつ?」


「半分くらい」


「半分は駄目じゃん」


「今は歩ける」


「湯守くん、それは大丈夫とは言わない」


 透真は何か返そうとしたが、前を歩く千鶴が振り返らずに言った。


「澪さんの言う通りだよ」


 透真は黙った。


 澪は少しだけ勝った気分になった。


 しかし、すぐにその気分は消えた。


 路地の奥に、明かりが見えたからだ。


 奥乃湯の周辺は、普段なら人の気配がない。


 しかし今は違った。


 雨に濡れた旧共同浴場の前に、小型の作業灯が二つ置かれている。黄色く強い光が、黒ずんだ木壁と濡れた雑草を照らしていた。


 そして、数人の男たちがいた。


 レインコートを着た作業員らしき男が二人。

 スーツの上からコートを羽織った男が一人。

 それから、少し離れたところに、黒い車が停まっている。


 車の後部座席のドアは開いていて、中には細長い筒状のケースや、金属製の箱のようなものが見えた。


 澪は息を呑んだ。


「本当に、誰かいる……」


 透真の表情は硬い。


「作業灯。工具箱。測定機器かもしれない」


「測定?」


「温度、湿度、ガス、地下の状態。いろいろ考えられる」


「勝手にやっていいの?」


「普通は許可がいる」


 千鶴は、二人より先にすっと前へ出た。


 雨羽織の裾が濡れている。


 けれど彼女は気にも留めなかった。


「こんばんは」


 その声は大きくなかった。


 だが、作業灯の周りにいた男たちは一斉に振り返った。


 その中に、真島玲司がいた。


 湯守屋に来た時と同じ、整った顔。


 ただし今は、雨のせいで髪の一部が額に落ち、スーツの裾にも泥が跳ねていた。


 それでも笑顔は崩さない。


「これは、湯守女将」


「真島さん」


 千鶴は男たちを見回した。


「昼間、申し上げたはずですが。奥乃湯に勝手に入ることはおやめなさい、と」


「もちろん、建物内には入っておりません」


 真島はすぐに答えた。


「本日は外周の安全確認だけです。地権者の方からも許可はいただいております」


 千鶴の目が細くなる。


「地権者?」


「はい」


「誰からです」


「申し訳ありません。個人情報になりますので、ここでは」


 千鶴は、ほんの少し口元を上げた。


 笑っているように見えたが、澪には少し怖かった。


「この町で、その言い方はあまり長持ちしませんよ」


 真島は穏やかな顔を保ったままだった。


「もちろん、正式な場ではすべて開示いたします。ただ、今はまだ確認段階ですので」


「確認段階で、作業灯と機材を持ち込むんですか」


「雨天時の排水状態を見るには、むしろ今のほうが都合が良いのです」


「排水状態」


「はい。古い施設では、雨天時にどこへ水が流れるかが重要になります。特に、地下配管が残っている場合は」


 地下配管。


 その言葉に、透真が少しだけ反応した。


 真島は、それを見逃さなかったように微笑んだ。


「湯守くん、と言いましたね」


「はい」


「君も、温泉や配管に興味があるのかな」


「あります」


「なら、分かるでしょう。古い施設を再利用するには、まず構造を知らなければならない」


「構造を知ることと、所有者や町の合意なしに調査を進めることは別です」


 透真の声は淡々としていた。


 真島は少しだけ目を細めた。


「先ほど申し上げた通り、許可はいただいております」


「誰からかは言えない」


「今は、ですね」


「便利な言い方ですね」


 その言い方は、千鶴によく似ていた。


 澪は思わず透真を見た。


 本人は真面目な顔をしているが、完全に血筋が出ている。


 真島は笑みを深くした。


「湯守屋さんは、奥乃湯の再活用にかなり慎重なようですね」


「慎重というより、雑に扱うなと言っているだけです」


 千鶴が答えた。


「奥乃湯は、この町の古い湯です。閉じたからといって、空き家と同じように扱える場所ではありません」


「もちろん、その歴史も含めて活かしたいと考えています」


「歴史は、飾りではありません」


 千鶴の声が少し低くなった。


「都合のいい言葉だけ拾って、看板にするものでもない」


 雨が強くなる。


 作業灯の光が、雨粒に反射してざらざらと揺れる。


 澪は、男たちの足元を見た。


 長靴。泥。ケーブル。金属製の箱。


 その一つに、小さなシールが貼られている。


『地中音響探査』


 澪には意味が分からない。


 だが、透真は気づいていた。


「地中音響探査ですか」


 真島の笑顔が一瞬だけ固まる。


「よく見えましたね」


「見えました」


「興味があるようですね」


「あります」


「それは心強い」


「建物外周の安全確認に、地中音響探査が必要ですか」


 透真の問いに、作業員の一人が気まずそうに視線を逸らした。


 真島はすぐに答えた。


「古い地下配管の位置を確認するためです。地面を掘らずに調べられる手段ですから、安全性は高い」


「配管図は?」


「手元にないので、現地で確認を」


「手元にない?」


「古い図面はまだ見つかっていません」


 透真の表情は変わらない。


 だが、澪には分かった。


 その答えが、彼の中で何かに引っかかったことを。


 千鶴も同じようだった。


「図面もないのに、配管を探している」


「だからこそ、探査を」


「その図面を、誰かが探しているのではありませんか」


 千鶴の声は静かだった。


 真島の笑顔が、少し薄くなる。


「どういう意味でしょう」


「そのままの意味です」


 その時、透真が足元を見た。


 作業灯の光が当たる少し外れ、雑草の中に何かが落ちている。


 小さな紙片。


 今日の昼間に見つけたものとは別だった。


 透真が一歩近づこうとすると、真島がさりげなく体の向きを変えた。


 止めるほどではない。


 だが、見えない壁のように前に立つ。


 澪にも分かった。


 あの紙片を見られたくないのだ。


 透真は立ち止まった。


 無理に前へ出ない。


 代わりに、ほんの少しだけ鼻を動かした。


 澪は、横でそれを見ていた。


 この人は本当に、目だけで見ているわけではない。


「油の匂い」


 透真が呟いた。


 真島の目が動いた。


「油?」


「古い機械油。紙。湿った土。焦げた木」


「この場所なら、いくらでもある匂いでしょう」


「そうですね」


 透真はあっさり認めた。


 だが、そのあと続ける。


「ただ、紙の匂いだけが新しい」


 真島は黙った。


 澪は、背中が少し冷えるのを感じた。


 あの紙片は、やはり最近のものなのだ。


「透真」


 千鶴が短く呼んだ。


 前へ出るな、という声だった。


 透真は頷く。


 真島は、少しだけ息を吐いたように見えた。


 その時、黒い車の近くにいた作業員が声を上げた。


「真島さん、こっち、準備できました」


 真島はそちらを振り返る。


 その一瞬。


 雨でぬかるんだ地面の端から、白い紙が風に煽られて滑った。


 澪の足元まで、ひらりと流れてくる。


 澪は反射的にそれを踏みそうになり、慌てて足を引いた。


 紙片は、泥に半分濡れている。


 文字が見えた。


『古賀』


 それだけだった。


 澪の心臓が跳ねた。


 古賀。


 千鶴が話していた、奥乃湯の湯守。


 古賀源一郎。


 その娘、古賀真理。


「澪さん」


 千鶴の声が飛んだ。


 澪は、紙に触れなかった。


 透真なら触らないと思ったからだ。


 ただ、見た。


 見てしまった。


 真島も気づいた。


 彼は素早く近づき、紙片を拾い上げようとする。


 だが、それより先に千鶴が傘を閉じ、その先で紙片を押さえた。


「これは、何ですか」


 真島の顔から、初めて営業用の笑顔が薄れた。


「こちらの資料です。風で飛んだようで」


「資料に、古賀の名がある」


「古い所有関係を確認しているだけです」


「所有関係?」


「はい。奥乃湯周辺は、複数の名義が絡んでいる可能性がありますので」


 千鶴は、真島をじっと見た。


「古賀源一郎さんの名前を、どこで知りました」


「町の古い資料で」


「役場ですか」


「そうです」


「役場に、源一郎さんの資料がまだ残っていたとはね」


 真島は返事をしなかった。


 澪には、何がどうおかしいのかまでは分からない。


 でも、千鶴の声で分かった。


 真島の説明には、何か穴がある。


 透真が静かに言った。


「古賀さんの娘さんと連絡を取っていますか」


 真島の目が、今度こそはっきり動いた。


 澪は息を呑む。


 動いた。


 今の問いに、反応した。


「個別の関係者についてはお答えできません」


「関係者ではあるんですね」


「そうは言っていません」


「否定もしない」


 透真の声は平坦だった。


 真島は、しばらく透真を見ていた。


 雨音が、二人の間に落ちる。


 やがて、真島は笑顔を戻した。


「湯守くん。君は高校生にしては、ずいぶん鋭いですね」


「よくは言われません」


「でしょうね」


 その返しに、ほんの少しだけ皮肉が混じった。


 澪はむっとした。


 透真の面倒くささをからかっていいのは、自分たちだけだと思った。


 いや、それもどうなのかと思ったが、今はそう思った。


「今日はもう作業を引き上げます」


 真島が言った。


「雨も強くなってきましたし、地元の方にご不安を与えるつもりはありませんので」


「それが賢明です」


 千鶴は傘の先を紙片から離さなかった。


「その紙は置いていってもらいます」


「こちらの資料ですので」


「奥乃湯の敷地で落としたものです。内容に古賀さんの名がある。町の者として確認します」


「困ります」


「困るなら、最初から落とさないことです」


 千鶴の声は、もう完全に女将の声ではなかった。


 湯を守る人の声だった。


 真島は数秒沈黙した。


 そして、軽く頭を下げた。


「分かりました。ただし、写しですので、後日返却をお願いします」


「必要なら連絡します」


 真島は作業員に合図した。


 作業灯が消される。


 急に、奥乃湯の周りが暗くなった。


 車のライトだけが雨の中で光る。


 男たちは機材を積み込み、車へ乗り込んだ。


 真島は最後に振り返った。


「湯守女将」


「何でしょう」


「私は、この町を壊しに来たわけではありません」


 千鶴は、濡れた奥乃湯を背にして立っていた。


「壊すつもりがなくても、壊れるものはあります」


 真島は返事をしなかった。


 車のドアが閉まる。


 黒い車は、雨の路地をゆっくり走り去った。


 ライトが消えると、奥乃湯の前には雨音だけが残った。


 千鶴は、傘の先で押さえていた紙片を、持ってきた手ぬぐいで慎重に包んだ。


 透真が近づく。


「見せてください」


「ここでは駄目だ」


「でも」


「濡れる。帰ってから見る」


 千鶴の声はきっぱりしていた。


 透真は引き下がった。


 澪は旧奥乃湯を見た。


 黒ずんだ壁。


 板で塞がれた入口。


 さっきまで作業灯が当たっていたせいで、闇に戻った今、かえって沈んで見える。


「古賀さんの名前が、どうして」


 澪が呟くと、千鶴は静かに言った。


「源一郎さん本人ではないだろうね」


「娘さん?」


「その可能性が高い」


「古賀真理さん……」


 その名前を言うと、透真がこちらを見た。


「朝比奈さん、覚えてたんだ」


「覚えてるよ。大事そうだったから」


「そう」


「何、その顔」


「いや」


「言いなよ」


「君は、聞くべきところを覚えている」


 澪は少しだけ黙った。


 褒められたのだと分かるまで、数秒かかった。


「……それ、褒めてる?」


「かなり」


「分かりにくいけど、今は受け取っておく」


「どうぞ」


 千鶴が二人を見て、小さく笑った。


「雨の奥乃湯で、何をやっているんだか」


「千鶴さんが連れてきたんですよ」


 澪が言うと、千鶴は「それもそうだ」と笑った。


 しかし、その笑みはすぐに消えた。


 奥乃湯のほうから、風が吹いた。


 澪の傘が少し揺れる。


 その風に乗って、匂いが来た。


 澪にも、今度は分かった。


 焦げた木の匂い。


 濡れた土の匂い。


 それから、金属のような、少し生々しい匂い。


「……鉄の匂い」


 澪が呟くと、透真がこちらを見た。


「分かった?」


「少しだけ」


「そう」


「嬉しくなさそう」


「嬉しい匂いじゃないから」


「うん」


 透真は奥乃湯を見た。


「強くなってる」


 千鶴も、その言葉を聞いて表情を硬くした。


「雨だけじゃないね」


「はい」


「真島さんたちが何かした?」


「作業灯と機材を置いていただけなら、ここまで変わらないと思います」


「では」


 千鶴は古い建物の入口を見た。


 板で塞がれているはずの入口。


 その下の隙間から、わずかに湯気のような白いものが漏れている。


 澪は目を凝らした。


「湯気……?」


 透真の顔が変わった。


「奥乃湯は、止まったんですよね」


 千鶴が答える。


「客を入れられる湯ではなくなった。そう言った」


「でも、今」


「ああ」


 千鶴の声が低くなる。


「少しだけ、湯が動いている」


 雨音の中で、古い共同浴場が静かに息をしている。


 死んだはずの湯。


 閉じられたはずの場所。


 そこから、白い湯気が細く漏れている。


 澪は、胸の奥が冷たくなった。


 再開発業者が動き、古賀の名が出て、地下配管の図面が現れ、今度は止まったはずの湯が動く。


 偶然とは思えなかった。


「帰るよ」


 千鶴が言った。


「今すぐ」


 透真は頷いた。


 澪も頷く。


 三人は奥乃湯に背を向けた。


 その瞬間、建物の奥から、こぽり、と音がした。


 小さな水音。


 けれど、三人とも聞こえた。


 透真が振り返りかける。


 千鶴が強く言った。


「透真」


 その声で、透真は止まった。


 澪は、思わず透真の袖を掴んだ。


 今度は、止めるために。


「帰ろう」


 透真は澪の手元を見て、それから奥乃湯を見た。


 数秒後、小さく頷いた。


「帰ろう」


 雨の路地を、三人は足早に戻った。


 後ろでは、旧奥乃湯が雨に濡れながら静かに佇んでいる。


 その奥で、死んだはずの湯が、ほんの少しだけ音を立てた。


 それは再生の音なのか。


 それとも、昔の過ちがまた動き出す音なのか。


 まだ、誰にも分からなかった。

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