第18話 古賀真理という名前
湯守屋へ戻るまで、三人はほとんど口をきかなかった。
雨が強かったせいもある。
けれど、それだけではなかった。
旧奥乃湯の暗がりから漏れていた白い湯気。
板で塞がれた入口の奥から聞こえた、こぽり、という水音。
そして、作業灯に照らされた雨の中で見えた紙片の文字。
古賀。
その二文字が、朝比奈澪の頭の中に残っていた。
古賀源一郎。
奥乃湯の湯守だった人。
町の湯脈調査に反対し、火事のあと町を出た人。
そして、その娘。
古賀真理。
湯守千鶴が語ったばかりの名前だ。
どうして再開発業者の資料に、その名前が出てくるのか。
考えれば考えるほど、雨の冷たさとは別の寒さが背中に広がった。
「足元、気をつけて」
透真が言った。
澪ははっとして下を見る。
濡れた石畳の端に、苔が生えていた。
「あ、うん」
「転ぶ」
「転ばない」
「朝もそう言っていた」
「記録しないで」
「記録は大事」
「今それ言う?」
「緊張している時ほど、転びやすい」
それは、たぶん透真なりの気遣いだった。
澪は素直にうなずいた。
「気をつける」
透真は少しだけ意外そうにこちらを見た。
「素直」
「雨で抵抗力が下がってるの」
「その使い方は不正確」
「湯守くんが前に似たようなこと言った」
「僕のせいか」
「かなり」
前を歩く千鶴が、ふっと小さく笑った。
「二人とも、よくこの雨の中でそんな会話ができるね」
「祖母の前で黙っていると、別の意味で緊張するので」
透真が真顔で答える。
「失礼だね」
「事実です」
「澪さん、この子は昔からこうだよ」
「最近、だいぶ分かってきました」
「それは気の毒に」
「二人で僕を何扱いしてるんですか」
澪は少し笑った。
笑えることに、自分で驚いた。
奥乃湯の前では、ずっと体がこわばっていた。
けれど、透真と千鶴のいつもの調子が少し戻るだけで、呼吸が楽になる。
そう思った瞬間、澪はふと気づいた。
自分はもう、この二人の会話に安心するようになっている。
最初に湯けむり坂で透真に声をかけられた時は、ただ面倒くさい男子だと思ったのに。
人間、慣れというのは怖い。
いや、これを慣れと言っていいのかは、まだ分からない。
湯守屋の玄関に入ると、雨の音が急に遠のいた。
濡れた傘を傘立てに置き、靴を脱ぐ。
帳場の明かりは、外の雨で暗くなった空気の中に、やわらかく浮かんでいた。
「二人とも、手を拭きなさい」
千鶴が言った。
旅館の女将というより、完全に祖母の声だった。
透真は素直に手ぬぐいを受け取る。
澪も借りて、冷えた指先を拭いた。
手が少し震えていることに気づき、慌てて力を入れる。
透真は気づいたようだったが、何も言わなかった。
それが今はありがたかった。
千鶴は帳場の奥から平たい盆を出し、その上に手ぬぐいで包んだ紙片を置いた。
「濡れている。無理に開けば破れるよ」
「乾かしますか」
透真が聞く。
「自然にね。火に近づけるのは駄目だ」
「分かっています」
「本当に?」
「紙を焦がしたことはありません」
「卵みたいな言い方しないで」
澪が思わず言うと、透真がこちらを見た。
「卵?」
「ほら、最初の」
「ああ」
透真は少しだけ考えた。
「あれは今も有効な質問だと思う」
「まだ言う?」
「卵を腐らせた経験は?」
「ないです」
「よろしい」
「もう定番にしないで」
千鶴が楽しそうに笑った。
けれど、その笑いはすぐに落ち着いたものへ変わった。
「さて」
千鶴は盆の上の紙片を見た。
「古賀の名が、真島さんの資料にあった」
帳場の空気が静まる。
澪も、背筋を伸ばした。
透真は椅子に座らず、帳場の横に立っている。
顔色は、さっきよりは戻っている。
でも、完全ではない。
それでも彼の目は、紙片から離れなかった。
「真島さんは、古賀源一郎さんの名前を知っていました」
透真が言った。
「それだけなら、古い資料を見たという説明は成り立つ」
千鶴は頷く。
「だが、紙片には古賀としか見えなかった。源一郎さんか、真理さんか、それとも他の古賀かは分からない」
「源一郎さんは亡くなっているんですよね」
澪が聞くと、千鶴は頷いた。
「そう聞いている」
「だったら、今関係しているなら、娘さんの可能性が高い?」
「普通に考えればね」
普通に考えれば。
その言い方が少し気になった。
「でも、普通じゃない可能性もあるんですか」
澪が聞くと、千鶴は少しだけ澪を見た。
「澪さんは、本当に聞くべきところを聞くね」
「湯守くんにもさっき言われました」
「似てきたね」
「それは……まだ受け入れる準備が」
「失礼だな」
透真が言った。
千鶴は軽く流し、話を戻した。
「古賀家が奥乃湯の土地に何らかの権利を持っている可能性がある。源一郎さんが管理していただけでなく、一部の湯口や裏手の土地に関わっていたかもしれない」
「だから真島さんが?」
「もし再開発を進めるなら、権利関係を整理しなければならない。古賀真理さんに接触していても不思議ではない」
透真が言う。
「ただ、真島さんは関係者について答えなかった」
「答える義務はない、と考えているのだろうね」
「でも、古賀さんの名前が書かれた資料を奥乃湯で落とした」
「そこは不用心だった」
千鶴は、少しだけ目を細めた。
「あるいは、急いでいたか」
「何をですか」
澪が聞く。
「奥乃湯が動き始めたからだよ」
その言葉に、三人とも一瞬黙った。
死んだはずの湯。
客を入れられなくなった湯。
閉じられた共同浴場。
その入口の下から、白い湯気が漏れていた。
こぽり、と水音もした。
澪は、腕に鳥肌が立つのを感じた。
「湯って、止まっていたものが急に戻ることがあるんですか」
「ある」
千鶴が答えた。
「地下のことは、人間にすべて分かるわけじゃない。雨、地震、地盤の変化、古い配管の詰まりが抜けること。いろいろな理由で、湯が一時的に動くことはある」
「じゃあ、自然に?」
「そうかもしれない」
千鶴の声は、慎重だった。
「でも、あの場所に再開発業者が来て、探査機材を持ち込み、古賀の名前が出て、同じ日に湯が動いた。偶然と言うには、少し都合がよすぎる」
「誰かが何かした?」
澪の声が小さくなる。
透真が答えた。
「可能性はある。入口周辺だけでなく、裏手や地下配管に干渉したかもしれない」
「危なくないの?」
「危ない」
即答だった。
澪は、思わず透真を見る。
彼は奥乃湯の方向を見ているわけではない。
でも、まるでまだあの匂いがここにあるような顔をしていた。
「古い配管に水や圧をかければ、どこが破損するか分からない。ガスが溜まっていれば危険だし、地盤が弱っていれば崩れることもある」
「そんな場所で作業灯つけてたの?」
「だから止めた」
千鶴が言った。
「真島さんがどこまで分かっているのかは知らない。けれど、あの場所を甘く見ているなら危ない」
澪は少しだけ腹が立った。
真島の丁寧な笑顔を思い出す。
町を壊しに来たわけではない、と彼は言った。
でも、壊すつもりがなくても壊れるものはある、と千鶴は返した。
今なら、その意味が少し分かる。
真島に悪意があるかどうかは、まだ分からない。
でも、善意の顔をした雑さは、十分に怖い。
「真島さん、また来ますよね」
澪が言うと、千鶴は頷いた。
「来るだろうね」
「奥乃湯にも?」
「来る」
透真が言った。
確信に近い声だった。
「なぜ」
千鶴が聞く。
「匂いが変わったからです」
「湯が動いたから?」
「はい。真島さんたちがそれを確認したなら、必ずまた来ます。再開発に使える材料だと思うかもしれない」
「死んだ湯が戻った、と」
「そうです」
千鶴の顔が険しくなる。
「それは危ないね」
「何がですか」
澪が聞く。
「死んだ湯が戻った、という話は人を呼ぶ」
千鶴は低い声で言った。
「廃業した共同浴場が復活する。幻の湯が再び湧いた。そういう言葉は、外の人間には魅力的に聞こえる」
「でも実際は危ないかもしれない」
「そうだよ」
澪は、椿屋のことを思い出した。
椿の幽霊。
あれも、言葉だけなら人を引き寄せる。
でも、その裏には母の痛み、お静の後悔、美奈の弱さがあった。
見せ方一つで、誰かの古傷が観光資源にされる。
その怖さを、澪は少し知ってしまった。
「奥乃湯も、怪談や復活話にされたら」
「止める」
透真が言った。
声が硬かった。
澪は彼を見た。
「湯守くん」
「何」
「顔が怖い」
「そう?」
「うん。奥乃湯の配管みたいな顔してる」
透真は一瞬、言葉を失った。
千鶴が吹き出した。
「それはいい」
「よくありません」
「だって本当にそうだよ」
「ばあちゃんまで」
澪は笑いかけて、少しだけ表情を緩めた。
重い話が続くと、透真はどんどん硬くなる。
それを少しだけほぐしたかった。
たぶん千鶴も、同じことを思ったのだろう。
「止めるのはいいけど」
澪は言った。
「一人で止めようとしないでね」
透真は黙った。
澪は続ける。
「今、返事が遅い」
「考えていた」
「つまり、一人で動く気があった」
「決めつけはよくない」
「否定しないんだ」
「……しない」
透真は、観念したように小さく息を吐いた。
「分かった。一人では行かない」
「約束」
「約束」
千鶴が横から言った。
「私にもだよ」
「はい」
「それから、澪さんにも」
透真が少しだけ困った顔をした。
「朝比奈さんにも?」
「この子はもう関係者だ」
「えっ」
澪は思わず声を上げた。
「私、関係者なんですか」
「奥乃湯の前で鉄臭を嗅いで、古賀の紙片を見て、うちの蔵で資料まで探した。十分だよ」
「巻き込まれ認定が早い」
「温泉町はそういうところだ」
千鶴はさらりと言った。
澪は少し困った。
でも、不思議と嫌ではなかった。
関係者。
最初はただ、母の療養のために来た転校生だった。
それが今、温泉街の古い共同浴場の謎に関わっている。
普通に考えれば大変すぎる。
でも、この町の匂いを知ってしまった以上、自分だけ外へ出るのも違う気がした。
「分かりました。じゃあ、関係者として言います」
「何かな」
千鶴が面白そうに見る。
「今日はもう、奥乃湯には行かない」
澪が言うと、透真が何か言いかけた。
しかし千鶴が先に頷く。
「賛成」
「僕はまだ何も」
「顔が行くって言ってた」
澪が言う。
「顔に出てる?」
「出てる」
「……不本意だ」
「湯守くん、わりと出るよ」
「初耳」
「認識を更新してください」
透真は渋々うなずいた。
「更新する」
その時、帳場の電話がまた鳴った。
三人の空気が一瞬で変わる。
千鶴が受話器を取った。
「はい、湯守屋でございます」
短い沈黙。
千鶴の目が細くなる。
「……はい。ええ。いま本人がおります」
千鶴は受話器を手で押さえ、澪を見た。
「澪さん。椿屋の沙織さんから」
「お母さん?」
澪は慌てて受話器を受け取った。
「もしもし、お母さん?」
『澪? 今、湯守屋さん?』
「うん。ごめん、連絡しなくて。ちょっと雨が強くて」
『それはいいの。体は冷えてない?』
「大丈夫。お母さんは?」
『私は大丈夫』
その「大丈夫」は、以前より少しだけ信用できる声だった。
澪はほっとした。
だが、沙織の声はすぐに少し低くなった。
『今、ふみさんから聞いたの。奥乃湯のほうで何かあったって』
「えっと……少し」
『澪』
母の声が、静かに強くなった。
『隠さなくていいわ』
澪は息を止めた。
前なら、きっと「何でもない」と言っていた。
母を心配させないために。
でも、それで母を遠ざけていたことも、もう知っている。
「うん。奥乃湯の前に、再開発の人たちが来てた。古い機材を持ち込んでて、千鶴さんと湯守くんと一緒に確認した」
『危ないことはしていない?』
「してない。入ってない。ちゃんと戻った」
『そう』
沙織の息が、電話越しに少しだけ聞こえた。
『澪、約束して』
「何?」
『怖いことがあったら、怖いと言って。大丈夫じゃないなら、大丈夫じゃないと言って』
澪は、受話器を握る手に力を入れた。
「うん」
『私もそうするから』
その言葉に、胸の奥がじんとした。
「うん。約束」
『帰り、迎えに行けないけれど、気をつけて戻ってきて』
「湯守くんたちが送ってくれると思う」
言ってから、澪は透真を見た。
透真は少し驚いた顔をしたあと、黙って頷いた。
千鶴も頷いている。
『それなら安心ね』
「うん」
電話を切ると、澪は少しだけ息を吐いた。
千鶴が穏やかに聞く。
「沙織さん、心配していたかい」
「はい。でも、ちゃんと話せました」
「それはよかった」
透真が言う。
「送る」
「今?」
「雨が弱いうちに」
外を見ると、確かに雨は少し落ち着いていた。
千鶴は資料をまとめながら言う。
「そうしなさい。私はこの紙片を少し乾かしておく。透真、戻ったら勝手に触るんじゃないよ」
「触りません」
「信用は半分だね」
「半分もあるんですか」
「澪さんの前だから増やしている」
透真は複雑そうな顔をした。
澪は笑った。
「よかったね、信用増えて」
「素直に喜びにくい」
「じゃあ半分だけ喜んで」
「それも難しい」
湯守屋を出ると、温泉街は雨に洗われていた。
石畳が濡れて光り、湯けむりが低く流れている。
澪と透真は傘を並べ、椿屋へ向かって歩いた。
しばらく無言だった。
けれど、沈黙は重くなかった。
雨音が、ちょうどいい隙間を埋めてくれていた。
「湯守くん」
「何」
「奥乃湯、怖いね」
「うん」
「でも、気になる」
「うん」
「私、やっぱり関係者なのかな」
透真は少し考えた。
「関係者かどうかは分からない」
「そこは否定してよ」
「でも、君がいると助かる」
澪は足を止めかけた。
「え?」
透真は前を向いたまま言う。
「僕だけだと、匂いに寄りすぎる。ばあちゃんだけだと、過去に寄りすぎる。君がいると、今どう感じるかを言ってくれる」
「それ、役に立ってる?」
「かなり」
澪は、傘の下で少しだけ頬が熱くなった。
「……分かりにくい褒め方」
「今回は分かりやすく言ったつもりだった」
「うん。分かりやすかった」
「ならよかった」
雨が傘を叩く。
椿屋の灯りが見えてきた。
澪は、その灯りに少し安心した。
自分が帰る場所が、少しずつこの町にもできている。
そう感じた。
椿屋の前に着いた時、透真がふと足を止めた。
「どうしたの?」
「匂い」
「また?」
「でも、奥乃湯じゃない」
澪は身構えた。
「何の匂い?」
透真は椿屋の玄関ではなく、道の向こうを見た。
そこには、黒い車が一台、ゆっくりと走り去っていくところだった。
真島たちが乗っていた車に似ている。
ただ、距離があってナンバーまでは見えない。
「紙と香水」
「香水?」
「それから、薬品に近い匂い」
「真島さん?」
「違う」
透真の声は低かった。
「あの車に、女の人が乗っていた」
「見えたの?」
「少し」
澪は車が消えた先を見る。
雨の向こうに、赤いテールランプが滲んで消えた。
「誰?」
「分からない」
透真は短く答えた。
けれど、澪は思った。
この流れで、何も関係のない人が現れるだろうか。
古賀源一郎。
古賀真理。
再開発業者。
奥乃湯。
黒い車の中の女性。
雨の温泉街は、また一つ新しい気配を隠した。
「明日、学校で話そう」
澪が言うと、透真は少しだけこちらを見た。
「今じゃなくて?」
「今日は帰る。お母さんと約束したから」
透真は、ほんの少し目元を緩めた。
「それは正しい」
「でしょ」
「かなり」
澪は笑った。
椿屋の玄関を開けると、古い木と湯の匂いが迎えてくれた。
奥乃湯の鉄臭は、まだ鼻の奥に残っている。
けれど今は、それだけではなかった。
帰る場所の匂いも、確かにあった。
その夜、湯守屋では千鶴が乾かした紙片を広げていた。
雨で滲んだ文字の中に、かろうじて読める一文があった。
『古賀真理 同意確認済』
千鶴は、それを見て深く息を吐いた。
透真はまだ戻っていない。
帳場には、古い湯の匂いだけが静かに漂っている。
「真理さん」
千鶴は小さく呟いた。
「あなたは今、何をしようとしているんだい」
雨はまだ、温泉街を濡らしていた。




