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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第45話 白狐の口は、開ける場所ではなかった

 翌朝は、土曜日だった。


 それだけで、朝比奈澪は少しだけ救われた気がした。


 もしこれが平日だったら、湯守透真はまた学校へ行くか、白狐社へ行くかで、朝から千鶴と静かな戦を始めていたに違いない。


 いや、静かでは済まなかったかもしれない。


 本人は無茶をしているつもりがない。


 だから厄介なのだ。


「今日は正式調査です」


 湯守屋の帳場で、透真はそう言った。


 制服ではなく、動きやすい上着を着ている。表情はいつも通りに見えるが、目だけは完全に山のほうを向いていた。


 澪は、その隣で靴紐を結び直しながら言う。


「正式調査でも、前に出すぎない」


「分かってる」


「湯気を見た瞬間に吸い込みすぎない」


「分かってる」


「穴を見つけても覗き込みすぎない」


「分かってる」


「分かってるって言う人ほど分かってない説あるよ」


「それは偏見」


「経験則」


 透真は少し黙った。


「否定しにくい」


「でしょう」


 帳場の奥から千鶴の笑い声がした。


「澪さんがいると話が早いね」


「完全に監視役になっている気がします」


「監視じゃないよ。安全確認だ」


 透真が横から言った。


 澪はじっと彼を見る。


「それ、私の言い方」


「使いやすい」


「湯守くんに言葉を取られた」


「不本意?」


「ちょっと」


 そんなやり取りをしている間にも、湯守屋の前には人が集まっていた。


 役場の田辺。

 温泉設備業者。

 消防団。

 警察官。

 相馬静雄と相馬悠介。

 古賀真理。

 湯守美佐江。

 そして真島玲司。


 木原隆文は病院にいる。


 昨日の聞き取りで、白狐の口を「祖父の記録を取り戻すため」に探したと話したらしい。だが、本人が直接この場に来られる状態ではなかった。


 真島はいつもより地味な服装だった。


 スーツではない。


 山道を歩ける靴を履き、会社の名前が目立つものも持っていない。


 澪はそれに気づいた。


 彼は今日、東都開発の人間としてではなく、木原の部下として、そしてこの町に迷惑をかけた人間として来ているのかもしれない。


 それでも、簡単に信用できるわけではない。


 でも、少なくとも以前のような匂いは薄くなっていた。


 そう言うと透真みたいなので、澪は心の中だけで思った。


 白狐社までの道は、昨日より慎重に進んだ。


 今日は人数が多い。


 消防団が先に足場を確認し、設備業者が温度計や簡易ガス測定器を持っている。警察官は木原が落ちた空洞周辺の確認も兼ねているため、表情が硬い。


 澪は最後尾に近い位置を歩いていた。


 透真は千鶴のすぐ後ろ。


 その背中を見るたび、澪は声をかけそうになる。


 けれど今日は、透真もかなり自制していた。


 白狐社に着くと、山の空気が少し変わった。


 祠は昨日と同じように、苔むした鳥居の奥で静かに立っていた。

 狐面石は、朝の光を受けて白く見える。

 昨日より湯の匂いが濃い気がした。


 いや、澪にも分かるくらいだから、本当に濃いのだろう。


 透真が足を止める。


「湯の匂いが戻ってる」


 千鶴が聞いた。


「危ないかい」


「すぐに危険という匂いではありません。でも、昨日より地面の奥が動いている感じがします」


「感じ?」


 田辺が聞き返す。


 透真は少しだけ言葉を選んだ。


「匂いの層が増えています。沢水に混じった薄い湯ではなく、奥から湯そのものの匂いが来ている」


 静雄が低く言った。


「白狐の口が、息をしているんだ」


 その言い方に、誰も笑わなかった。


 祠の裏手からさらに奥へ進む。


 昨日、木原の鞄が見つかった分岐を越え、熱い湯枡が確認された場所へ向かう。


 そこから先は、消防団と警察官がロープを張っていた。


 足場は悪い。


 斜面の土は湿り、石の間から湯気のない温かい空気が上がっている。


 見た目はただの山道に近い。


 けれど、足の裏から伝わる地面の感触が違う。


 澪はそう感じた。


 地面が、生きている。


 そう言うと大げさかもしれないが、今の白狐社の奥には本当にそんな空気があった。


「澪さん、ここからは足元だけ見て」


 千鶴が言った。


「はい」


「怖かったら、すぐ言う」


「はい」


 透真が横から言う。


「右側の石は浮いてる」


「ありがとう。あと湯守くんも前だけ見すぎないで」


「うん」


 返事が素直だった。


 澪は少し安心する。


 やがて、熱い湯枡が見えた。


 石で囲まれた小さな湯溜まり。


 湯船というほど整ってはいない。

 自然の窪みに人の手で石を積み、湯の流れを抑えたような場所だった。


 表面には湯気がほとんど出ていない。


 しかし、近づくと空気が明らかに温かい。


 設備業者が測る。


「湯温、四十二度。昨日より安定しています」


 田辺が記録を取る。


 真島は黙って湯枡を見つめていた。


「ここまで来て、木原さんは何を見ようとしたんでしょう」


 真理が呟く。


 静雄が答えた。


「湯枡の奥だ。木原さんは、湯の本当の出口を探していた。けれど、ここは出口じゃない」


「では何ですか」


 美佐江が聞く。


 静雄は、奥の崩落穴を指した。


「息継ぎだ」


 その言葉に、透真が反応した。


「息継ぎ」


「ああ。祖父はそう言っていた。白狐の口は、湯を取る口ではない。湯が息をする口だと」


 澪は、胸の奥がきゅっとなった。


 湯が息をする口。


 それは、千鶴が前に言った「泣きやんだのではなく、息を止めた」という言葉とも繋がる。


 奥乃湯は死んだのではなく、傷ついた。


 そして白狐の口は、その傷ついた湯の呼吸口だったのかもしれない。


 消防団の案内で、崩落穴の近くへ慎重に進む。


 穴の縁には近づけない。


 ロープの手前から、中を覗かずに確認する。


 穴の奥からは、低い音が聞こえた。


 ごう、というほど大きくない。


 さらさら、というほど優しくもない。


 石の奥で、湯と水がぶつかり、狭い隙間を抜けていく音。


 澪は、その音を聞いた瞬間、言葉を失った。


 湯音。


 木原を引き寄せた音。


 白之助が手帳に残した音。


 宗吾が恐れた音。


 そして今、透真がじっと聞いている音。


「湯守くん」


 澪が小声で呼ぶ。


「分かってる」


「吸い込まれないで」


「うん」


 透真は目を閉じた。


 耳を澄ます。


 それでも足は動かさない。


 以前の彼なら、一歩近づいていたかもしれない。


 今は止まっている。


 それだけで、澪は少し泣きそうになった。


 警察官が指し示した。


「石積みは、あちらです」


 崩落穴の向こう側。


 ライトで照らされる位置に、人工的な石積みがあった。


 自然の崖ではない。


 誰かが明らかに石を選び、組み、蓋のように積んだものだった。


 その中央に、平たい石が一枚はめ込まれている。


 そこに文字が刻まれていた。


 苔と湯の成分で白くなり、読みづらい。


 だが、田辺がライトの角度を調整すると、文字が浮かび上がった。


『湯を欲で開く者、町を枯らす』


 誰も声を出さなかった。


 昨日聞いた通りの言葉。


 だが、実物を見ると重みが違う。


 紙に写された警告ではない。


 山の奥で、湯音を聞きながら刻まれた言葉。


 千鶴が、低く息を吐いた。


「これを見たら、父たちは閉じたくもなるね」


「でも」


 透真が言った。


「これだけではないと思います」


「何?」


 澪が聞く。


 透真は石積みの下のほうを見ている。


「下にも文字があります。湯の成分で隠れている」


 設備業者がライトを下げる。


 たしかに、苔の下に線のようなものがある。


 直接触ることはできないため、高倍率のカメラで撮影し、田辺が画面を拡大した。


 薄い文字が、少しずつ読める。


『塞ぎすぎる者もまた、町を病ませる』


 澪は、息を止めた。


 千鶴も真理も、美佐江も、静雄も、全員がその文字を見つめた。


 警告は、開くなだけではなかった。


 塞ぎすぎるな、とも言っていた。


 透真が静かに言った。


「白狐の口は、開ける場所でも、完全に塞ぐ場所でもない」


 静雄が頷いた。


「息をさせる場所だ」


 真島が顔を伏せた。


「木原部長は、上の文字だけを見たのでしょうか」


「たぶんね」


 千鶴が答えた。


「あるいは、上の文字すら本当には読んでいなかった。湯口を見つけた、という欲で目が曇っていた」


 真島は反論しなかった。


 澪は、石積みを見つめた。


 湯を欲で開く者、町を枯らす。


 塞ぎすぎる者もまた、町を病ませる。


 どちらも正しい。


 どちらか一つだけでは足りない。


 奥乃湯の歴史は、まさにその両方だった。


 欲で触ろうとした者がいた。

 怖くて塞いだ者がいた。

 見ないふりをした者がいた。

 利用しようとした者がいた。


 そのたびに湯は傷つき、町もまた病んだ。


「湯守くん」


「何」


「これ、さっきの学校の話と同じだね」


「湯は誰のものでもない?」


「うん」


 透真は石積みを見つめたまま答えた。


「誰のものでもないから、開けてもいけないし、塞ぎきってもいけない」


「難しいね」


「難しい」


「湯守くんでも?」


「うん」


 その素直な答えに、澪は少しだけ笑った。


 難しいと言えるようになったことも、たぶん大事だった。


 千鶴は、石積みに向かって静かに頭を下げた。


「父さん。兄さん。源一郎さん。白之助さん。勝蔵さん。木原重蔵さん」


 名前を一つずつ呼ぶ。


 その声は、山の空気に溶けていった。


「ようやく、ここまで来たよ」


 真理が湯帳を胸に抱え、目を閉じた。


「父は、この文字を知っていたのでしょうか」


 透真が答える。


「分かりません。でも、源一郎さんの言葉とは一致しています。奥乃湯は死んだのではなく、傷ついた。逃がし湯を戻せ。でも、三枝荘を潰す形で戻すな」


「父は、湯の呼吸を見ていたのですね」


「たぶん」


 美佐江も、静かに涙を拭っていた。


「父は、上の文字だけを見てしまったのかもしれない」


「宗吾さんが?」


「ええ。開けてはいけない、触ってはいけない。そう思って、全部隠そうとした。下の文字を見ないまま」


 静雄が低く言った。


「うちの祖父は、下の文字も知っていたのかもしれん。だから閉じるなと言った」


 千鶴は頷いた。


「それぞれが、見たい文字だけ見たのかもしれないね」


 その言葉は、澪の胸に刺さった。


 人は、自分の怖さや欲に合う言葉だけを見てしまう。


 木原は、湯口を見つけたい欲で見た。

 宗吾は、触れてはいけない恐怖で見た。

 三枝勝蔵は、宿を守るために見ないふりをした。

 町もまた、自分に都合のいいように見た。


 澪は、ふと透真を見る。


 彼もまた、自分が見たいものだけを見ることがあるのだろうか。


 匂いが分かるからこそ、匂いに引っ張られすぎることがあるのかもしれない。


「朝比奈さん」


 透真が言った。


「何?」


「今、何か失礼なことを考えた?」


「半分」


「半分なら聞かない」


「賢明」


 千鶴が吹き出した。


 緊張していた場に、ほんの少しだけ笑いが生まれた。


 それで、ようやく人間の呼吸が戻った気がした。


 調査は慎重に進められた。


 石積みには触れない。


 湯枡の湯温を測る。

 湯の成分を採取する。

 空洞の位置を記録する。

 周囲の地盤を確認する。

 警告文を撮影する。


 すぐに開けるとか、塞ぐとか、そういう話にはしない。


 白狐の口は、保護区域として仮指定し、専門家を呼ぶ。


 奥乃湯の逃がし湯と三枝荘の湯路も、同時に調べる。


 町全体の湯の流れを見てから、少しずつ呼吸を戻す。


 それが、その場での仮方針になった。


 山を下りる頃、澪は少し足が震えていた。


 怖かったというより、体の奥に力が入っていたのだと思う。


 透真が振り返る。


「大丈夫?」


「七割」


「微妙」


「でも言えた」


「それは、かなりいい」


「褒めてる?」


「かなり」


 澪は笑った。


 疲れているのに、笑えた。


 白狐社を出る前、真島が石段の途中で立ち止まった。


 彼は白狐の口のほうへ深く頭を下げた。


 誰に対してなのかは分からない。


 湯に。

 町に。

 木原に。

 あるいは、自分が軽く見ていたものすべてに。


 千鶴は何も言わなかった。


 湯守屋へ戻ると、夕方になっていた。


 帳場奥の座卓には、すぐに資料が並べられた。


 田辺が撮影した警告文の写真を置く。


『湯を欲で開く者、町を枯らす』

『塞ぎすぎる者もまた、町を病ませる』


 その二行を見て、全員がしばらく黙った。


 澪は、その沈黙が嫌ではなかった。


 今日は、聞こえないふりの沈黙ではない。


 考えるための沈黙だった。


 千鶴が、ゆっくり口を開いた。


「これで、次にするべきことが見えたね」


「白狐の口の保護」


 田辺が言う。


「奥乃湯の逃がし湯復旧調査」


 設備業者が続ける。


「三枝荘の湯路調整」


 静雄が言う。


「相馬家の古い湯道資料の提出」


 美佐江が言った。


「湯守家の記録公開」


 真島が小さく続けた。


「木原家の資料提供」


 真理は、最後に言った。


「古賀源一郎の湯帳を、町の記録へ戻すこと」


 千鶴は頷いた。


「全部だよ。どれか一つだけでは、また町が病む」


 透真が静かに言った。


「湯の呼吸を戻すには、人の記録も呼吸させる必要がある」


 澪は彼を見る。


「今の、かなりいい」


「そう?」


「うん。成分表じゃない」


「基準がそこ?」


「そこ」


 透真は少しだけ困った顔をして、それから小さく笑った。


 本当に小さく。


 でも、澪には分かった。


 それは笑ったと言っていい顔だった。


 その夜、澪は椿屋へ戻る前に、湯守屋の庭で少しだけ立ち止まった。


 湯けむりが戻っている。


 完全ではない。


 でも、昨日より濃い。


 町が少しずつ息を取り戻しているようだった。


 透真が隣に立つ。


「疲れた?」


「かなり」


「僕も」


「言えるようになったね」


「うん」


「えらい」


「友達扱い?」


「友達扱い」


「なら受け取る」


 澪は、湯けむりの向こうを見た。


 奥乃湯はまだ閉じている。


 三枝荘の湯も、まだ止まっている。


 白狐の口は触れない。


 何も劇的には解決していない。


 でも、ようやく町は同じものを見た。


 上の文字だけではなく、下の文字も。


 開くな。


 塞ぐな。


 呼吸させろ。


 その答えが、次の物語の入り口だった。

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