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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第44話 木原という名は、湯気の奥にあった

 古い写真の裏に書かれていた文字は、かすれていた。


『白狐の口にて

 宗吾 白之助 木原――』


 最後の名前だけ、墨が滲んでいる。


 木原。


 その二文字が、湯守屋の庭に落ちた夕方の空気を変えた。


 湯けむりは、少し戻ってきていた。


 旅館の屋根の向こうから白く立ちのぼり、斜めの夕日に照らされて、淡い金色になっている。


 けれど朝比奈澪には、その湯けむりの奥にまた別の影が見える気がした。


 木原。


 東都開発企画の木原部長。


 白狐社の奥へ入り、熱い湯枡の先の空洞に落ち、救助された男。


 彼が白狐の口を狙ったのは、会社の利益のためだけだと思っていた。


 でも、もし木原家が昔から白狐の口に関わっていたのなら、話はまた変わる。


「……偶然、ではないですね」


 古賀真理が言った。


 彼女は写真から目を離せずにいた。


 湯守千鶴は、写真を指で押さえながら頷く。


「たぶんね」


 湯守透真は、写真をじっと見ている。


「この木原という人が、木原部長の祖父か曾祖父だとしたら、東都開発が白狐の口を知っていた理由が説明できます」


「会社の資料じゃなくて、家の資料だったかもしれないってこと?」


 澪が聞くと、透真は頷いた。


「もともとは木原家に残っていた記録。それが、木原部長を通じて東都開発の調査資料になった可能性があります」


 千鶴が低く言った。


「外から来た業者だと思っていたら、昔から湯気の奥にいたわけだ」


 美佐江が写真を見つめ、唇を噛んだ。


「父は、木原の名前を言わなかった」


「宗吾兄さんが?」


「はい。白之助さんの名前は何度も出ました。三枝勝蔵の名前も。けれど、木原という名前は……聞いた覚えがありません」


 相馬静雄が腕を組み、眉間に皺を寄せる。


「俺も祖父から木原の話は聞いたことがない。いや……待て」


 全員が静雄を見る。


 彼は記憶を探るように、庭の石を見つめた。


「白之助の手帳に、『木の測り屋』という言葉があった気がする」


「木の測り屋?」


 澪が聞き返す。


 静雄は頷いた。


「子どもの頃は意味が分からなかった。木を測る人間かと思っていた。だが、もしかすると木原のことかもしれん。測量屋だったのかもしれない」


 透真がすぐに反応した。


「木原家が測量や地質調査に関わっていた?」


「その可能性はある」


 千鶴は写真を持ち直し、目を細めた。


「昔の湯脈調査には、外から測量技師が呼ばれていたと聞いたことがある。名前までは覚えていないけれど」


「その技師が木原家の人間だった」


 真理が言う。


「そして、白狐の口を見た」


 庭に沈黙が落ちた。


 また一人、過去の人物が現れた。


 宗吾。

 白之助。

 勝蔵。

 源一郎。

 宗一郎。


 そして木原。


 この町の湯は、ずいぶん多くの人間の手に触れられてきた。


 いや、触れられすぎたのかもしれない。


 その時、帳場から相馬悠介が顔を出した。


「女将さん、真島さんが来ました」


 千鶴は写真を畳まず、手に持ったまま振り返った。


「通しておくれ」


 数分後、真島玲司が庭に現れた。


 病院から戻ったばかりなのだろう。疲れた顔をしている。スーツの皺も隠せていない。


 だが、目だけは妙にはっきりしていた。


「木原部長の容体は?」


 千鶴が問う。


「足の骨にひびが入っているそうです。熱気と脱水もありましたが、命に別状はありません。明日にはもう少し詳しく話せるだろうと」


「そうですか」


「それで……何か見つかったと聞きました」


 真島の視線が、千鶴の手の中の写真へ向く。


 千鶴はそれを渡した。


「見覚えは?」


 真島は写真を受け取った。


 古い白黒写真。


 白狐社の前に立つ若い男たち。


 裏の文字。


 真島の表情が変わった。


「木原……」


「木原部長の家系に、この人の名前はありますか」


 真島は、しばらく写真を見つめていた。


「たしか、部長の祖父が測量技師だったと聞いたことがあります」


 澪は思わず息を呑んだ。


 静雄の言った「測り屋」と繋がった。


 真島は続ける。


「名前は、木原重蔵。戦後から昭和の終わり頃まで、地方の温泉や山林開発の測量に関わっていたと。木原部長はよく言っていました。祖父は地図に残らない水脈を読めた、と」


 透真の目が鋭くなる。


「地図に残らない水脈」


「ええ」


「その祖父が、白狐の口を見ていた」


 真島は写真の裏を見つめた。


「そういうことに、なりますね」


 千鶴が低く問う。


「木原部長は、そのことを知っていたんですか」


「おそらく」


「おそらく?」


 真理の声が少し冷たくなる。


「真島さん。あなたの『おそらく』は、何度も後から大きな問題になります」


 真島は言葉を詰まらせた。


 そして、深く頭を下げた。


「その通りです。言い換えます。木原部長は、祖父の資料を持っていたと思います。私は何度か、古い測量ノートの写真を見せられました」


「なぜ、それを今まで言わなかったんですか」


 真理の問いは、真っ直ぐだった。


 真島は目を伏せる。


「会社の資料だと思っていました。個人の家に残っていたものだとは、深く考えていなかった」


「また、深く考えなかった」


「……はい」


 真島は否定しなかった。


 澪は、その様子を見ながら思った。


 真島は少しずつ変わっている。


 以前なら言い訳を重ねたかもしれない。


 今は、認める。


 ただ、それで過去の被害が消えるわけではない。


 認めることは、始まりでしかない。


 透真が写真を見つめながら言った。


「木原重蔵さんは、なぜ記録から消えたんでしょう」


「消えた?」


 真島が聞き返す。


「湯守家の蔵にも、役場台帳にも、木原という名前は今まで出ていませんでした。写真には残っている。でも書類にはほとんどない」


 千鶴が頷いた。


「そうだね。湯脈調査に外の測量技師が入っていたなら、記録に残っていていい」


「誰かが消したか、最初から外部協力者として正式記録に入れなかった」


 透真は静かに続けた。


「宗吾さんが記録外扱いをしたのは、三枝側分湯だけではなかったのかもしれない」


 美佐江の肩が小さく揺れた。


「父が、木原重蔵の名前も消した?」


「可能性です」


 透真はすぐに言った。


「まだ決めません」


 澪は、その言い方に少しほっとした。


 決めない。


 それは逃げではなく、雑にしないための待ち方だ。


 美佐江は少しだけ目を伏せた。


「ありがとう」


 短い言葉だった。


 透真は少し戸惑ったように瞬きをした。


「礼を言われることでは」


「いいえ。父をすぐ悪者にしなかったでしょう」


 透真は黙った。


 千鶴が写真を座卓へ置いた。


「木原さん本人に、明日聞くしかないね」


「病院へ?」


 澪が聞く。


「ええ。警察の聞き取りが優先です。その後、話せる範囲で」


 真島が言った。


「木原部長は、写真を見れば何か話すかもしれません」


「話してもらわなければ困る」


 千鶴の声は厳しかった。


「山の湯口に勝手に入った。会社の事情では済まない」


「はい」


 真島は頷いた。


 その夜、湯守屋では遅くまで資料の整理が続いた。


 白狐の口の写真。

 宗吾の聞き書き。

 白之助の手帳。

 木原重蔵の可能性。

 奥乃湯湯帳。

 湯守宗一郎の手紙。

 三枝側分湯の台帳。


 紙が多すぎる。


 名前も多すぎる。


 澪は途中で頭が混乱してきた。


「家系図と関係図がほしい」


 思わず呟くと、透真が紙を一枚取った。


「作る?」


「今?」


「今」


「湯守くん、こういう時だけ早い」


「必要だから」


 透真は鉛筆で名前を書き始めた。


 湯守宗一郎。

 湯守宗吾。

 湯守千鶴。

 湯守透真。

 湯守美佐江。

 古賀源一郎。

 三枝勝蔵。

 三枝健三。

 相馬白之助。

 相馬静雄。

 相馬悠介。

 木原重蔵。

 木原隆文。


 線を引く。


 湯守家。

 古賀家。

 三枝家。

 相馬家。

 木原家。


 それぞれが、白狐の口を中心に絡んでいる。


 澪は紙を覗き込んだ。


「……多いね」


「多い」


「でも、少し見えた」


「うん」


「湯守くん、こういう図を書くと分かりやすいんだね」


「言葉だけだと複雑だから」


「いつもこれくらい読者に優しく」


「読者?」


「あ、また」


 澪は口を押さえた。


 透真が少しだけ首を傾げる。


「君は時々、外から見ているような言い方をする」


「気のせい」


「そう?」


「そう」


 千鶴が横で笑った。


「物語みたいな町だからね。無理もない」


「物語にしては、登場人物が全員面倒です」


 澪が言うと、千鶴は肩を揺らして笑った。


「そこが現実だよ」


 翌朝。


 病院へ向かうことになったのは、千鶴、真島、田辺、そして古賀真理だった。


 澪と透真は学校へ行く予定だった。


 当然のように透真は不服そうだった。


 湯けむり坂で合流した時、彼はいつもより少し早口だった。


「僕も話を聞くべきだと思う」


「学校」


 澪は即答した。


「木原重蔵の話は白狐の口に関わる」


「学校」


「僕は匂いで」


「病院で匂いを嗅ぐのはやめよう」


「……それはそう」


「でしょう」


 透真は少し不満そうに黙った。


 澪は続ける。


「千鶴さんたちが聞いてきてくれる。放課後に聞けばいい」


「でも」


「待つのも湯守の仕事なんでしょ」


 昨日、千鶴が言った言葉だった。


 透真は痛いところを突かれたように顔をしかめた。


「それを言われると反論しにくい」


「言った本人が強いからね」


「君も強くなっている」


「褒めてる?」


「かなり」


「なら受け取る」


 二人は学校へ向かった。


 朝の温泉街は、少しずつ普段を取り戻していた。


 共同浴場の湯気は昨日より濃い。


 饅頭屋の蒸し器も元気だ。


 それでも、どこか町全体が慎重に呼吸しているように見える。


 昼休み。


 蓮が澪たちの席へ来るなり、言った。


「今日の新情報は?」


「学校を情報交換所にしないで」


 澪が言うと、蓮は真面目な顔で手を合わせた。


「いや、もう地元の噂より朝比奈さん経由のほうが正確なんだよ」


「それは困る」


 杏が頷く。


「でも本当に、変な噂は少し減ったよね。三枝荘のことも、最初よりみんな慎重になってる」


 芽衣が言う。


「湯を盗んだ宿、って言う人は減った気がする」


 透真が静かに答えた。


「雑な言葉が減るのはいいこと」


 蓮がにやりとする。


「雑湯守効果だな」


「その呼び方は定着させない」


「偏屈湯守探偵とどっちがいい?」


「どちらも嫌」


 澪は笑った。


 笑いながら、昨日作った関係図を思い出す。


 名前が多い。


 過去が重い。


 でも、こうして学校で笑える時間がある。


 それがなければ、たぶん飲み込まれてしまう。


 放課後、湯守屋へ戻ると、すでに千鶴たちは帰っていた。


 帳場奥の座敷に、千鶴、真理、真島、田辺が座っている。


 全員、表情が重かった。


「木原さん、話したんですか」


 透真が聞く。


 千鶴は頷いた。


「話したよ」


「木原重蔵さんのことは?」


「木原さんの祖父で間違いないそうだ」


 澪は息を呑んだ。


 やはり。


 真島が、資料を一枚出した。


「木原部長が病院で話した内容を、警察と役場立ち会いのもとで整理したものです。もちろん、正式な記録は別になりますが」


 透真が紙を見る。


 澪も隣から覗き込む。


 そこには、木原隆文の証言として、いくつかの項目が書かれていた。


『祖父・木原重蔵は、白峰温泉の旧湯脈調査に参加』

『白狐の口を発見したが、当時の関係者により非公開扱い』

『重蔵は後年、白狐の口は奥乃湯の本来の湯源であり、町が誤った分湯で傷つけたと家族に語った』

『木原隆文は、祖父の記録を基に白狐の口を確認しようとした』

『東都開発の事業化も視野にあったが、個人的動機も大きかった』


 澪は最後の項目で止まった。


「個人的動機……」


 千鶴が言った。


「木原さんは、自分の祖父が白狐の口を見つけたのに、湯守家と旅館組合に記録を消されたと思っていたそうだ」


 真理が静かに続ける。


「だから、自分が見つけ直す、と」


「祖父の手柄を取り戻すつもりだった」


 真島の声には苦さがあった。


「部長はそう話したそうです」


 透真が低く言った。


「湯口は、手柄ではありません」


 その一言に、座敷が静まった。


 澪は、昨日の言葉を思い出す。


 湯口は誰のものでもない。


 人間が勝手に借りているだけ。


 真島は頷いた。


「はい。木原部長も、今はそれを理解したと言っています」


「今は?」


 透真の声は少し鋭い。


 澪は袖に触れようとして、止めた。


 今は、言わせたほうがいいと思った。


「落ちて、湯音の中で一晩過ごしたからでしょうか」


 真島は言った。


「あの人は、初めて怖かったと話しました。湯が怖かった、と」


 千鶴が静かに目を閉じた。


「遅いけれど、知らないよりはいい」


 真理が口を開いた。


「木原さんは、私の父のことを何か」


「古賀源一郎さんの名前も知っていました」


 真島が答えた。


「祖父の記録に、奥乃湯を守ろうとした男として残っていたそうです」


 真理の目が揺れた。


「そうですか」


「ただ、木原部長は、古賀さんの記録よりも祖父の記録を信じていた。白狐の口を見つければ、奥乃湯の真実を自分の手で証明できると思っていた」


「自分の手で」


 真理は静かに繰り返した。


「父も、木原さんのお祖父さんも、それぞれ真実を見ていたのかもしれませんね。でも、それを自分のものにしようとすると、また湯が傷つく」


 その言葉に、誰もすぐには返せなかった。


 透真が証言メモを見ながら言う。


「木原重蔵さんの資料は残っていますか」


 真島は頷く。


「木原部長の家にあるそうです。家族の許可と警察の確認が必要ですが、写しを町に提供する意向はあると」


「町に?」


「はい」


 千鶴が答えた。


「白狐の口の正式な保護調査に使わせてもらう。もちろん、役場管理で」


 澪は、少しだけ安堵した。


 木原家の記録も、ついに町へ戻る。


 消されたものが、少しずつ戻ってくる。


 その時、田辺が一枚の紙を出した。


「ただ、問題がもう一つあります」


「まだあるんですか」


 澪は思わず言ってしまった。


 田辺は苦笑した。


「残念ながら」


 紙には、白狐社周辺の簡易地図があった。


 そこに、赤い印が三つ。


 白狐社。

 熱い湯枡。

 そして、さらに奥。


「木原さんが落ちた空洞の奥に、人工的な石積みが見えるそうです」


 透真の目が変わる。


「人工的?」


「はい。自然の湯穴ではなく、昔の人が何かを封じた跡かもしれないと」


 千鶴が低く言った。


「白狐の口を、誰かが封じていた?」


 田辺は頷いた。


「専門調査前なので断定はできません。ただ、木原さんは落ちる直前、石積みに文字のようなものを見たと言っています」


「文字?」


「はい」


 田辺はメモを読み上げた。


「『湯を欲で開く者、町を枯らす』」


 座敷に、重い沈黙が落ちた。


 古い警告。


 白狐の口の奥に、人の手で積まれた石。


 そこに刻まれた言葉。


 澪は、背筋が冷たくなるのを感じた。


 この町の過去は、まだ底が見えない。


 白狐の口は、ただの湯口ではない。


 誰かが、昔からそこを封じ、警告を残していた。


 そして今、欲でそこを開こうとする人間たちが、また現れた。


 透真は、静かに言った。


「次は、その警告を読みに行く必要があります」


 澪は横を見る。


「もちろん、大人と一緒に、明るい時間に、正式にね」


 透真は少しだけ目を伏せた。


「分かってる」


「本当に?」


「本当に」


「よろしい」


 千鶴が少し笑った。


「白狐の口へ行く前に、今度こそ準備だね」


 湯けむりの町は、ようやく自分たちの湯と向き合い始めた。


 しかし山の奥では、まだ古い警告が眠っている。


 湯を欲で開く者、町を枯らす。


 その言葉が本当なら。


 奥乃湯を戻すことは、町を救うことにも、町を壊すことにもなり得る。


 湯は、まだ答えを出していなかった。

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