第43話 湯口は、誰のものでもない
その日の学校は、妙に普通だった。
普通すぎて、朝比奈澪は少し困った。
白狐社の奥で木原が救助された。
案内人が相馬静雄だった。
奥乃湯の本当の湯口が山にあるかもしれない。
町の湯は、少しずつ戻りつつある。
そんな話を抱えたまま、英単語の小テストを受ける。
人間の脳は、もう少し空気を読んでほしい。
「朝比奈さん」
隣から湯守透真が小声で言った。
「何?」
「三問目、スペルが違う」
「えっ」
「先生が見てる」
「今言わないで」
「今しか言えない」
「そうだけど」
澪は慌てて消しゴムを動かした。
小テストが終わると、前の席の黒瀬蓮が振り返った。
「お前ら、事件の最中でも小テストの訂正してんの、なんか強いな」
「強くないよ。普通に間違えた」
「湯守は?」
「満点だと思う」
「腹立つな」
「なぜ」
「なぜでも」
蓮が言うと、杏が横から笑った。
「湯守くんって、温泉以外もちゃんとしてるよね」
「温泉以外も人間なので」
透真が答える。
「それ、返事として合ってる?」
芽衣が小さく首を傾げた。
澪はため息をついた。
「湯守くんの返事は、ときどき温泉成分表みたいだから」
「どういう意味?」
透真が聞く。
「正確だけど、読者に優しくない」
「読者?」
「あ、いや、聞く人に」
澪は慌てて言い直した。
蓮がにやにやする。
「朝比奈さん、たまに自分が物語の中にいるみたいな言い方するよな」
「してない」
「してるしてる。まあ実際、温泉街で湯口を巡る陰謀とか、普通に小説だし」
「陰謀って言うと雑になる」
透真が即座に言った。
蓮は両手を上げる。
「出た。雑警察」
「警察ではない」
「じゃあ雑湯守」
「それも違う」
杏が机に肘をついて聞いた。
「でもさ、結局その山の湯口? 見つかったらどうなるの?」
澪は答えに詰まった。
それは、今まさに町が答えを出せずにいる問題だった。
透真も少し黙る。
「まだ分からない」
「湯守くんでも分からないの?」
「うん」
その素直な答えに、杏は少し驚いたようだった。
透真は続ける。
「見つけたから使える、ではない。触れば町の湯が乱れる可能性がある。奥乃湯の復活に必要かもしれない。でも、三枝荘や他の宿にも影響が出るかもしれない」
蓮が眉を寄せた。
「つまり、宝の山を見つけたけど、掘ったら町が壊れるかもってこと?」
「比喩としては近い」
「お、俺にしては珍しく合ってた」
「ただ、宝という言い方は少し違う」
「また訂正された」
澪はふと口を開いた。
「湯口って、誰のものなんだろうね」
四人の視線が澪に向いた。
自分でも、思ったより大きな問いを口にしてしまった気がした。
「奥乃湯のものなのか、湯守屋のものなのか、町のものなのか、山のものなのか」
透真が、静かに言った。
「たぶん、誰のものでもない」
「誰のものでもない?」
「うん。湯は人間の都合で湧いているわけじゃない。権利上は管理者や所有者が必要になる。でも、感覚としては、人間が勝手に借りているだけだと思う」
蓮が目を丸くした。
「湯守が急に哲学を始めた」
「始めていない」
芽衣が少しだけ笑った。
「でも、いい言い方だと思う。借りてるだけなら、乱暴に使っちゃいけない感じがする」
杏も頷いた。
「それ、町の人にも伝わるといいね」
澪は透真を見た。
「放課後、その話する?」
「するかもしれない」
「じゃあ、温泉成分表じゃなくて、今みたいに言って」
「僕の説明はそんなに成分表?」
「かなり」
「……認識を更新する」
蓮が身を乗り出した。
「よし、今日の湯守語録。『湯は人間が勝手に借りてるだけ』」
「語録にしないで」
「でも分かりやすいぞ。ポスターにできる」
「ポスター?」
透真が本気で嫌そうな顔をした。
澪は笑ってしまった。
笑いながら、少しだけ救われていた。
重い話の中に、こういうくだらない会話がある。
それだけで、人は息ができる。
放課後、湯守屋の大広間には、また人が集まっていた。
ただ、前回ほど殺気立ってはいない。
三枝健三はまだ体調が万全ではないため、芳江と一緒に端の席に座っている。
古賀真理は、湯帳の写しを膝の上に置いていた。
真島玲司は、病院から戻ったばかりなのか、目元に疲れが濃い。
相馬静雄と悠介も並んで座っている。
役場の田辺、消防団、旅館組合の人々もいる。
美佐江は千鶴の少し後ろに座っていた。
木原本人はまだ病院だ。
足の怪我は命に関わらないが、しばらく入院が必要らしい。警察の聞き取りも始まっているという。
千鶴が口を開いた。
「まず、木原さんは無事です。足に怪我はありますが、命に別状はない」
広間に小さな安堵が広がった。
真島は深く頭を下げた。
「ご心配とご迷惑をおかけしました」
誰もすぐには何も言わなかった。
謝罪は必要だ。
だが、謝罪だけで終わる段階ではない。
千鶴は続ける。
「白狐社の奥に、熱を持つ湯枡が見つかった。これが、古い記録にある『白狐の口』、つまり奥乃湯の本当の湯口に関わる場所である可能性があります」
ざわめきが起きた。
旅館組合の男が言う。
「それが本当なら、奥乃湯は戻せるのか」
別の者が続ける。
「町の新しい目玉になるんじゃないか」
その言葉に、澪は少しだけ眉をひそめた。
早い。
人はすぐに、見つけたものを使う話に進みたがる。
透真も同じことを感じたのか、背筋を伸ばした。
しかし、先に口を開いたのは千鶴だった。
「今の発言は早すぎます」
広間が静まる。
「湯口らしきものが見つかった。だからすぐ使おう。すぐ観光にしよう。そういう考え方が、奥乃湯を傷つけたんです」
言葉は静かだったが、強かった。
三枝健三が、低く言った。
「耳が痛いな」
千鶴は彼を見る。
「私も痛いよ」
その会話に、広間の空気が少し変わる。
責める側と責められる側ではなく、同じ痛みを持つ人間同士の会話だった。
真島が口を開いた。
「東都開発としては、白狐社奥の湯口について、一切の権利主張を行わない方針です」
旅館組合の数人が驚いた顔をした。
田辺も眉を上げる。
「会社として、ですか」
「はい。木原部長の行動は、会社としても重大な問題になります。現時点で白峰温泉街の湯に関わる事業からは全面的に手を引きます」
真島は言葉を切り、真理へ頭を下げた。
「古賀さん。あなたのお父様の記録を、当社の企画の材料として見てしまったことを、改めてお詫びします」
真理は、しばらく真島を見ていた。
「謝罪は受け取ります」
真島が顔を上げる。
真理は続けた。
「でも、許すかどうかは、まだ分かりません」
「はい」
「木原さんにも伝えてください。父の湯は、会社の未利用資源ではありません」
「必ず伝えます」
真理の声は震えていなかった。
澪は、その姿を見て胸が熱くなった。
出会った頃の真理は、過去に追われている人に見えた。
今は違う。
過去を抱えたまま、前を向いている。
相馬静雄が、ゆっくりと立ち上がった。
「私からも話させてください」
広間の視線が集まる。
静雄は深く頭を下げた。
「木原さんを白狐社まで案内したのは私です。湯口を壊されたくなかった。危険だと分からせるつもりでした。でも、木原さんが落ちた後、私は怖くなって逃げました」
ざわめきが起きる。
相馬悠介は隣で拳を握りしめている。
静雄は頭を上げない。
「申し訳ありませんでした」
千鶴は、静雄を見つめた。
「静雄さん。あなたがしたことは、許されることじゃない」
「はい」
「けれど、あなたが知っている白狐社奥の情報は、町に必要です」
「全部話します」
「隠さずに?」
「隠さずに」
千鶴は頷いた。
「なら、そこからだね」
広間はしばらく静かだった。
その沈黙の中で、三枝健三がぽつりと言った。
「みんな、怖かったんだな」
誰も笑わなかった。
三枝は続ける。
「俺も怖かった。静雄さんも怖かった。千鶴さんも、たぶん怖かった。真島さんも怖かったんだろう。怖いなら怖いと言えばよかったんだが、それができなかった」
芳江が、夫の手をそっと握った。
三枝は自嘲するように笑う。
「いい歳した大人が、今さら高校生たちに教えられるとはな」
広間の視線が、透真と澪へ集まった。
澪は慌てて背筋を伸ばす。
「いや、私たちは別に」
透真が隣で言った。
「僕も、怖いと言うのは得意ではありません」
その言葉に、千鶴が少しだけ目を細めた。
透真は続ける。
「でも、言わないと判断を間違えることがあります。匂いを隠すと、原因が分からなくなる。怖さも同じだと思います」
広間が静まり返る。
澪は、透真の横顔を見た。
今日は、成分表ではなかった。
ちゃんと、人に届く言葉だった。
「湯口は、誰のものでもないと思います」
透真は言った。
「権利や管理は必要です。でも、湯そのものは誰かの欲のために湧いているわけではありません。町が借りているものです。奥乃湯も、三枝荘も、湯守屋も、東都開発も、誰か一人が勝手に触っていいものではない」
旅館組合の人々が黙る。
千鶴も口を挟まなかった。
「だから、白狐社奥の湯口は、まず保護するべきです。使うかどうかではなく、触らないために調べる。町の湯の流れを戻すために、触っていい場所と、触ってはいけない場所を分ける」
田辺が静かに頷いた。
「役場としても、保護区域の設定を検討します。専門機関の調査も必要です」
真島が言った。
「調査費用について、東都開発からの負担は難しいかもしれませんが、私個人として協力します」
千鶴が彼を見る。
「金で責任を買うことはできませんよ」
「分かっています」
「でも、協力は受けます。町を守るためなら」
真島は深く頭を下げた。
澪は、そのやり取りを聞きながら、少しだけ息を吐いた。
ようやく、話が使う方向ではなく、守る方向へ向かい始めている。
その時、美佐江が口を開いた。
「守るなら、名前も戻してください」
全員が彼女を見る。
美佐江は膝の上で手を握っていた。
「白狐の口。父は、そう呼んでいました。白狐社の奥の湯口は、未利用湧出点でも、候補Aでもありません」
真島が目を伏せる。
美佐江は続けた。
「名前を戻してください。そうしないと、また誰かが便利な名前で利用します」
澪は、胸の奥が熱くなった。
名前。
それもまた、雑にしてはいけないものだ。
温泉の匂いを卵が腐った匂いで終わらせないように。
湯を盗んだ宿で終わらせないように。
未利用湧出点で終わらせないように。
千鶴が頷いた。
「白狐の口。町の記録に、その名で戻しましょう」
広間の空気が、少しだけ変わった。
決まったのは、大きな解決ではない。
けれど、確かな一歩だった。
会合が終わった後、澪と透真は湯守屋の庭に出た。
夕方の光が、湯けむりを薄い金色にしている。
町の湯気は、朝よりずっと戻っていた。
完全ではない。
でも、確かに息をしている。
「湯守くん」
「何」
「今日の話、よかったよ」
「どの話?」
「湯口は誰のものでもないって話」
「学校で君が言ったことが元だから」
「私?」
「うん」
「それは、ちょっと嬉しい」
「そう」
透真は庭の石を見つめていた。
「僕は、湯守家のことをまだ整理できていない」
「うん」
「宗吾大伯父さんのことも、宗一郎曾祖父さんのことも、湯守家が隠したことも」
「うん」
「でも、全部嫌いになる必要はないのかもしれない」
澪は少しだけ笑った。
「それ、かなり大事な更新だね」
「認識を更新した」
「湯守くんっぽい」
「不本意?」
「ううん。今のは、湯守くんっぽくていい」
透真は少しだけ困った顔をした。
褒められ慣れていない顔だった。
そこへ千鶴が庭に出てきた。
「二人とも、少しいいかい」
「何ですか」
透真が振り返る。
千鶴は、一枚の古い写真を持っていた。
「美佐江が持っていた宗吾兄さんの遺品の中に、写真があった」
写真は白黒だった。
若い男たちが、山の祠の前に立っている。
湯守宗吾らしき男。
相馬白之助らしき職人。
そして、もう一人。
千鶴はその人物を指さした。
「この男が、誰か分からない」
透真が写真を受け取る。
澪も覗き込んだ。
若い男は、どこか見覚えがある顔立ちだった。
だが、はっきりとは分からない。
写真の裏には、かすれた文字があった。
『白狐の口にて
宗吾 白之助 木原――』
澪は息を止めた。
「木原?」
千鶴の顔は険しかった。
「今の木原さんの父か、祖父かもしれない」
透真の目が鋭くなる。
「東都開発は、最近になって白狐の口を知ったわけではない」
澪の背筋に、冷たいものが走った。
木原家は、昔からこの湯口に関わっていたのかもしれない。
もしそうなら。
今の木原が山へ入った理由は、ただの会社の利益だけではない。
湯けむりの向こうで、また過去が顔を出した。
白狐の口は、まだ本当の名前だけを取り戻したにすぎない。
その奥には、もう一つ古い人間関係が眠っていた。




