第42話 湯音に呑まれた男
声が聞こえた。
白狐社の奥、熱い湯枡のさらに先。
崩れた穴の中から、人の声らしきものが聞こえた。
その知らせが湯守屋へ届いた瞬間、帳場の空気は変わった。
誰かが息を呑む音がした。
誰かの膝が畳を擦った。
真島玲司は立ち上がったまま、しばらく動けなかった。
「木原部長……」
名前を呼ぶ声は、掠れていた。
朝比奈澪は、湯守透真の袖を握っていた。
自分で気づいて、少しだけ力を緩める。
透真は何も言わなかった。
ただ、白狐社の方向を見ているような目をしていた。
湯守千鶴は、警察官の無線を聞きながら静かに言った。
「救助は?」
「消防が対応中です。穴の中は熱気があります。足場も不安定なので、すぐには下りられないとのことです」
「無理はしないでください」
千鶴の声は低かった。
「助けるために、二人目を落としたら意味がない」
警察官は頷き、無線で確認を続けた。
真島が、たまらず一歩前へ出る。
「私も現場へ行きます」
「行って何をするんです」
千鶴が即座に返した。
真島は言葉に詰まる。
「ですが、部長が」
「あなたが行けば、現場の人間はあなたにも気を配らなければならない。待つのも仕事です」
その言葉は、透真にも刺さったようだった。
彼がわずかに目を伏せる。
澪は小声で言った。
「湯守くんも、待つ側」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
「袖、離していい?」
「……少しだけ、まだ」
澪は瞬きをした。
透真は自分の袖を見て、気まずそうに目を逸らす。
「いや、離してもいい」
「じゃあ、少しだけ持ってる」
澪は、袖を掴む力をほんの少しだけ戻した。
こういう時、強がらなくてもいい。
怖い時は怖いと言う。
大丈夫ではない時は、大丈夫ではないと言う。
そして、誰かに少し掴まってもいい。
そのことを最初に覚えたのは澪だったが、今は透真にも少しだけ伝わっている気がした。
帳場では、誰も大きな声を出さなかった。
外では温泉街の夜が続いている。
旅館の灯りがつき、湯上がりの客が小声で歩き、どこかの宿の厨房から出汁の匂いが流れてくる。
でも、湯守屋の中だけ時間が止まっているようだった。
待つ。
また、待つ。
この町はずっと、見ないふりをして待ってきた。
けれど今夜の待つは違う。
隠すためではない。
助けるために、焦らないで待つ。
それでも、苦しいものは苦しい。
真理は座卓の前で、白之助の手帳を見つめていた。
『山口の先、空洞あり。足場抜ける。落ちれば湯音に呑まれる』
その一文が、今になって生々しく響く。
「湯音に呑まれるって、どういう意味だったんでしょう」
真理が小さく言った。
透真が答える。
「たぶん、穴の中で湯の流れる音が反響するんです」
「反響?」
「地下の空洞に水や湯が流れていると、音が複雑に響くことがあります。上にいる人にはただの沢音に聞こえても、中では方向感覚を失うかもしれない」
「木原さんは、それに……」
「分かりません」
透真は言った。
「でも、湯の音を頼りに進むなら、音に騙されることもあります」
澪は、ぞくりとした。
湯音に導かれる。
湯音に騙される。
温泉は、癒やしだけではない。
扱い方を間違えると、人を迷わせる。
まるでこの町の過去そのものだった。
無線が鳴った。
警察官が短く返事をする。
全員の視線が集まった。
「救助隊が声の主と会話できたそうです」
真島が息を止めた。
「木原さんですか」
「名前を確認中……」
警察官は無線に耳を澄ませる。
数秒。
それが、とてつもなく長く感じた。
「……木原隆文さん本人と確認。意識あり。左足を負傷している可能性。熱気はあるが、現在のところ会話は可能」
真島が、その場に崩れるように座った。
両手で顔を覆う。
「よかった……」
その声は、あまりにも人間らしかった。
澪は真島を見て、胸の奥が少しだけ緩んだ。
木原のしたことは許されるわけではない。
勝手に山へ入り、町の湯を危険に晒した可能性がある。
でも、生きていてよかった。
それは別の話だ。
真理も、小さく息を吐いた。
「生きていてよかった」
真島は顔を上げ、真理を見た。
何か言いたそうにしたが、言葉にならなかった。
真理はそれ以上何も言わなかった。
救助には、さらに時間がかかった。
空洞の縁が脆く、熱気もある。ロープと担架を使い、慎重に引き上げる必要があった。
湯守屋にいる者たちは、連絡を聞きながら待った。
相馬悠介は、祖父・白之助の手帳を握りしめるように見ている。
自分の祖父の言葉が、人を救う手がかりになったかもしれない。
同時に、その手帳が木原を山へ向かわせた可能性もある。
相馬の表情には、安堵と罪悪感が混じっていた。
千鶴が静かに言った。
「悠介」
「はい」
「白之助さんの手帳は、責めるためのものじゃない。使い方を間違えれば危ない。けれど、今夜はあの手帳があったから穴の危険が分かった」
相馬は、涙を堪えるように唇を結んだ。
「はい」
「隠していたら、それも分からなかった」
「……はい」
その言葉は、帳場全体に向けられているようだった。
隠すと、危ない。
出すと、痛い。
それでも出さなければ、もっと危ない。
この町は、それを何度も学び直している。
夜十時近くになって、木原が救助されたという連絡が入った。
意識あり。
足に怪我。
軽い脱水。
熱気と不安定な足場のため、念のため病院へ搬送。
命に関わる状態ではなさそうだという。
帳場に、ゆるい安堵が広がった。
誰かが大きく息を吐いた。
真島は立ち上がり、千鶴に頭を下げた。
「病院へ向かいます」
「行きなさい」
千鶴は短く言った。
「ただし、木原さんが話せる状態になったら、必ず連絡を。今回のことは、会社内の問題では済まない」
「分かっています」
「分かっている、だけでは足りないよ」
真島は、深く頷いた。
「約束します。今度は守ります」
その言葉を聞いても、誰もすぐには許した顔をしなかった。
だが、誰も否定もしなかった。
真島は湯守屋を出ていった。
その背中は、初めてこの町に来た時より小さく見えた。
日付が変わる少し前。
真島から連絡が入った。
木原は病院で処置を受け、短い会話なら可能になったという。
警察立ち会いの聞き取りは翌日になるが、真島が本人から聞いた最初の言葉だけ、千鶴へ伝えられた。
千鶴は受話器を持ったまま、眉を寄せる。
「……案内人?」
透真が顔を上げる。
澪も身を乗り出した。
千鶴は受話器の向こうの声を聞き、ゆっくり繰り返した。
「木原さんは、案内人の顔を見ていない」
帳場の空気がまた変わった。
「どういうことですか」
田辺が聞く。
千鶴は電話を切り、メモを見た。
「白狐社で合流した時、案内人は帽子を深くかぶり、マスクをしていたそうだ。声も低く、ほとんど喋らなかった」
「そんな人について行ったんですか」
澪は思わず言った。
千鶴は苦い顔をした。
「木原さんは、案内人が白狐沢に詳しい地元の職人だと聞かされていたらしい」
「誰から?」
「メッセージだけだそうだ。最初の連絡は、匿名のメール。差出人は白狐」
透真が低く言う。
「白狐は、かなり用心している」
「それと」
千鶴はメモの最後を見る。
「木原さんは、落ちる直前、案内人と揉めたそうだ」
「揉めた?」
「湯枡の先へ行くなと言われた。だが木原さんは、湯口を確認するために先へ進もうとした。そこで足場が崩れた」
澪は眉をひそめた。
「案内人は止めたんですか」
「木原さんの話では、そうらしい」
「じゃあ、殺そうとしたわけじゃない?」
「少なくとも、落ちる前は止めていた」
透真が静かに整理した。
「でも、落ちた後に救助を呼ばなかった」
「そこだね」
千鶴が頷く。
「木原さんは、落ちた直後に案内人の声を聞いたそうだ」
「何て?」
澪が聞く。
千鶴は少し間を置いた。
「『だから触るなと言った』」
その言葉に、帳場が静まり返った。
「それだけ?」
「それだけ言って、足音が遠ざかったそうだ」
澪は鳥肌が立った。
助けなかった。
でも、突き落としたわけでもないかもしれない。
止めた。
落ちた。
そして、去った。
それは怒りなのか。
恐怖なのか。
復讐なのか。
透真が言った。
「案内人は、湯口を壊されたくなかった」
「そうだろうね」
千鶴が答える。
「木原さんを案内したのに、最後は止めた」
「つまり、木原さんを湯口まで連れていくことが目的ではなく、見せることが目的だったのかもしれない」
「見せる?」
澪が聞く。
「木原さんに危険を分からせる。あるいは、会社に手を引かせる」
「でも、結果的に木原さんは落ちた」
「うん」
「案内人は、怖くなって逃げた?」
「可能性はある」
また、怖くなって。
この町の人たちは、何度それで黙ってきたのだろう。
相馬がぽつりと言った。
「祖父の言葉に似ています」
全員が彼を見る。
「白之助の?」
千鶴が聞く。
相馬は頷く。
「手帳に何度もありました。『触るな』『湯は見ても触るな』『山口は触るな』って。祖父は、よく言っていたそうです。湯は欲で触るな、と」
透真が、手帳を見た。
「案内人は、白之助さんの言葉を知っている」
「僕の家族かもしれない」
相馬の声が震えた。
「父か、叔父か……祖父の手帳を読んだ誰か」
千鶴は静かに言った。
「まだ決めるな」
「でも」
「決めるのは、確認してからだ」
それは、透真が何度も言ってきたことだった。
今度は千鶴が、相馬へ渡している。
澪は、その流れを見ていた。
誰か一人の正しさではなく、町全体が少しずつ学び直しているようだった。
翌朝。
澪は椿屋から湯守屋へ向かった。
学校はある。
だが、千鶴から「朝だけ顔を出してから行きなさい」と言われていた。
木原の容態が安定し、警察の聞き取りが始まる前に、昨夜の情報を整理するためだった。
湯守屋の帳場には、透真がすでにいた。
寝ていない顔ではないが、よく眠れた顔でもない。
「おはよう」
「おはよう」
「寝た?」
「四時間」
「短い」
「でも寝た」
「減点」
「点数制?」
「今日から」
透真は少しだけ困った顔をした。
その顔を見て、澪は少し安心した。
少なくとも、会話ができる程度には戻っている。
千鶴が座卓に地図と手帳を並べていた。
相馬もいる。
そして、もう一人。
見慣れない中年の男性が座っていた。
作業着姿。
日に焼けた顔。
短く刈った髪。
手には古い傷がある。
相馬が立ち上がる。
「若旦那。こちら、僕の叔父です。相馬静雄。祖父・白之助の次男です」
静雄。
S。
澪の胸が跳ねた。
透真の顔も変わる。
相馬静雄は、ゆっくり頭を下げた。
「昨夜、悠介から連絡を受けました」
声は低かった。
木原の言っていた案内人の声。
澪にはまだ分からない。
でも、透真はじっと静雄を見ていた。
静雄は、逃げるような目をしていなかった。
むしろ、来るべき時が来たとでもいうような顔だった。
千鶴が低く言う。
「静雄さん。聞かせてもらうよ」
「はい」
静雄は、膝の上で両手を握った。
「木原という人を白狐社へ案内したのは、私です」
帳場の空気が止まった。
相馬悠介が、目を見開く。
「叔父さん……」
静雄は甥を見なかった。
「ただし、湯口へ案内したつもりはありません。白狐社まで見せて、そこで止めるつもりでした」
「なぜ」
透真が聞く。
静雄は、ゆっくり答えた。
「東都開発が山の湯口を狙っていると知ったからです。あれは触ってはいけない。祖父がそう言い残していた。だから、危険だと分からせるつもりでした」
「それで案内料は要らない?」
「金など受け取る気はありませんでした。木原という男が金を払うと言っただけです」
「なぜ名乗らなかったんですか」
澪が思わず聞いた。
静雄は、初めて澪を見た。
「名乗れば、相馬家がまた湯守屋に逆らったと言われる」
「また?」
透真が反応する。
静雄は苦く笑った。
「相馬白之助は、昔、宗吾さんと衝突しました。大逃がしを閉じるなと。湯口に人を近づけるなと。だが、宗吾さんは記録を外した。白之助は湯守屋を辞めた」
千鶴が目を伏せる。
「聞いたことはある」
「その後、相馬家は湯守屋から離れました。でも悠介は、あなたのところで働いている」
静雄は相馬悠介を見た。
「だから巻き込みたくなかった」
「でも、木原さんが落ちた」
透真の声は静かだった。
静雄は唇を噛んだ。
「ああ」
「なぜ助けを呼ばなかった」
「呼ぶつもりだった」
「でも呼ばなかった」
「怖くなった」
その言葉は、また出た。
怖くなった。
帳場の空気が重くなる。
静雄は続けた。
「木原は、止めても聞かなかった。湯枡の先へ行くなと言ったのに、資料写真を撮ると言って進んだ。足場が崩れた。私は声をかけたが、下から返事はあった。生きていると分かった。でも、私は……」
彼の声が震えた。
「私が案内したと知られたら、相馬家も、悠介も終わると思った」
相馬悠介が、拳を握りしめた。
「叔父さん……」
「すまん」
静雄は頭を下げた。
「本当に、すまん」
透真は、静雄を見ていた。
その目は鋭かった。
でも、斬ってはいなかった。
「怖かったなら、最初にそう言うべきでした」
「……はい」
「でも、今言った」
「はい」
「なら、次は木原さんと警察に話してください」
静雄は顔を上げた。
透真は続ける。
「それから、白狐社の奥を知っていることを全部。湯口を守るためなら、隠すのではなく、正しく止める必要があります」
静雄は、しばらく透真を見ていた。
「君は、湯守だな」
「まだ高校生です」
「いや」
静雄は首を横に振った。
「湯守だ」
透真は少しだけ困った顔をした。
澪は、横で小さく笑った。
「今のは、かなり褒めてますよ」
「分かってる」
「お、分かった」
「それくらいは」
千鶴が静かに笑った。
だが、その目には涙が浮かんでいた。
相馬静雄は、その後すぐに警察へ話すため、田辺と一緒に役場へ向かった。
木原は生きている。
案内人も名乗り出た。
だが、これで終わりではない。
白狐社の奥にある本当の湯口。
東都開発が狙った場所。
相馬家が守ろうとした場所。
湯守家が隠してきた場所。
そこをどうするのか。
町は、まだ答えを出していない。
澪と透真は、学校へ向かうため湯守屋を出た。
朝の湯けむりは、昨日より少し戻っていた。
でも、完全ではない。
坂を上りながら、澪は言った。
「湯守くん」
「何」
「今日、学校行ける?」
「行く」
「頭の中は?」
「白狐社」
「だよね」
「でも、授業も受ける」
「えらい」
「友達扱い?」
「うん」
「なら、受け取る」
澪は笑った。
その時、坂の下の共同浴場から湯気がふわりと上がった。
少しだけ濃い。
少しだけ温かい。
町はまだ傷ついている。
でも、完全に止まってはいない。
湯も、人も。
流れは、まだ戻せる。




