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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第41話 スマホの中の白い狐

待つ時間には、匂いがある。


 湯守屋の帳場奥で、朝比奈澪はそんなことを考えていた。


 古い畳の匂い。

 番茶の湯気。

 湿った上着。

 人が黙り込んだ時にだけ強くなる、息の詰まった空気。


 湯守透真なら、もっと細かく言うのだろう。


 緊張した人間の汗。

 真島玲司の薄くなった整髪料。

 田辺の雨に濡れた書類鞄。

 千鶴の着物に染みた湯場の匂い。

 古賀真理が握りしめているハンカチの香水。


 けれど、澪にも分かることが一つあった。


 今夜の湯守屋は、温泉宿の匂いよりも、待っている人間の匂いが濃い。


 木原はまだ見つかっていない。


 白狐社の奥で鞄が見つかり、さらに奥の熱い湯枡のそばでスマホが見つかった。


 だが、本人はいない。


 警察と消防は、夜間の無理な捜索を避けながら、可能な範囲で確認を続けている。山の中は暗い。湯が絡んでいる場所なら、地面の温度も足場も読みにくい。


 待つしかない。


 その判断が正しいことは分かっている。


 でも、正しい待機は、楽な待機とは違った。


 真島は帳場の端に座ったまま、膝の上で組んだ手を何度も握り直していた。


 古賀真理は、その斜め向かいにいる。


 彼女は真島を責めていない。


 しかし、慰めてもいない。


 ただ同じ空間にいる。


 それが今の二人の距離なのだと思った。


 千鶴は電話の前に座り、役場や消防からの連絡に備えていた。


 透真は座卓に広げた地図を見ている。


 見ているだけだ。


 嗅いでいない。


 紙に顔を近づけてもいない。


 けれど、その目は山の線の奥へ入り込んでいた。


 澪はそっと声をかけた。


「湯守くん」


「何」


「地図に潜ってる」


「潜ってはいない」


「顔は潜ってる」


「顔だけ?」


「心も半分」


 透真は数秒黙った。


「半分なら、まだ戻れる」


「戻ってきて」


「うん」


 彼は地図から少し体を離した。


 それだけのことなのに、澪は少し安心した。


 千鶴が横目で二人を見て、小さく笑った。


「澪さん、すっかり扱いが上手くなったね」


「扱いって言うと、湯守くんが不本意そうな顔をします」


「もうしているよ」


 透真は本当に不本意そうだった。


「僕は物ではありません」


「分かってる。だから友達として戻しただけ」


 澪が言うと、透真はまた黙った。


 最近、彼は「友達」という言葉に反論しなくなった。


 その代わり、少しだけ考える顔をする。


 慣れている途中なのだろう。


 帳場の電話が鳴ったのは、その時だった。


 誰も動かなかった。


 一瞬、音だけが空気を切った。


 次の瞬間、千鶴が受話器を取る。


「はい、湯守屋です」


 全員が息を止めた。


 澪は、無意識に透真の袖を掴んでいた。


 透真は何も言わない。


 ただ、袖を掴まれたままにしている。


「……はい。スマホの件ですね」


 千鶴の声が少し低くなる。


「ええ。はい。分かりました。こちらに田辺さんもおります」


 田辺が立ち上がる。


 千鶴は受話器を彼に渡した。


「警察から。スマホのことで確認したいそうだ」


 田辺は緊張した顔で受話器を受け取った。


「はい、田辺です。……はい。ええ。ロック画面に表示されていた通知、ですね」


 澪は、真島を見た。


 真島の顔が強張っている。


 スマホの中身を警察がすぐ全部見られるわけではない。けれど、ロック画面に残った通知や着信履歴の一部なら確認できることがあるらしい。


 田辺はメモを取り始めた。


「着信多数。真島玲司さんから……はい。ほかに、非通知が一件。メッセージアプリの通知……」


 そこで田辺の手が止まった。


 顔が少し変わる。


「差出人名、白狐?」


 帳場の空気が凍った。


 白狐。


 白狐社。

 白狐沢。

 白狐の口。


 澪は背筋が冷たくなるのを感じた。


 田辺は復唱する。


「通知文面は……『案内料は要らない。約束の場所へ戻れ。湯守が来る前に』」


 真島が立ち上がった。


「何ですか、それは」


 田辺は電話の向こうの説明を聞きながら、さらにメモを取る。


「送信時刻、十七時十二分。木原さんのスマホが湯枡付近で見つかる前ですね。……はい。こちらで関係者に確認します」


 電話を切る。


 田辺は、メモを座卓に置いた。


『差出人:白狐

 十七時十二分

 案内料は要らない。約束の場所へ戻れ。湯守が来る前に』


 誰もすぐには話さなかった。


 澪は、その短い文章を何度も読んだ。


 案内料は要らない。


 つまり、木原は誰かに案内料を払うつもりだった。


 あるいは、すでに払っていた。


 白狐という名の差出人。


 約束の場所。


 湯守が来る前に。


 透真が静かに言った。


「案内人Sは、白狐のSではないかもしれない」


「どういうこと?」


 澪が聞く。


「木原さんの資料には『案内人S』とあった。僕たちはSを人名や地名の頭文字として考えていた。でも、スマホの差出人が白狐なら、案内人は自分を白狐と名乗っていた可能性がある」


「白狐はSじゃないよね?」


「ローマ字なら Shirakitsune か Shirogitsune。あるいは白狐社のS」


「なるほど……」


 澪は少し唸った。


 こういう時、透真の頭の動きは速い。


 速すぎて、ついていくのが大変だ。


 千鶴が低く言う。


「白狐を名乗る人間が、木原さんを案内した」


 真理が顔をこわばらせた。


「この町の人でしょうか」


「外の人間が白狐社の名を使うとは考えにくい」


 千鶴は答えた。


「少なくとも、町の古い話を知っている人間だろうね」


 真島がメモを見つめたまま言った。


「木原部長は、案内人に金を払うつもりだったのでしょうか」


「あなたは知らなかったんですか」


 真理の問いは鋭かった。


 真島は首を横に振る。


「知りません。木原部長が外部協力者を使っていたことも、このメッセージで初めて知りました」


「信じろと?」


 透真が言った。


 真島は、彼を見る。


「信じてほしいとは言いません。ただ、私は知らなかった」


 その声には疲労があった。


 嘘かどうか、澪には分からない。


 透真も、すぐには何も言わなかった。


 千鶴が言う。


「案内料は要らない、ということは、金が目的ではない」


「または、金以外の目的が強い」


 透真が続ける。


「湯守が来る前に、とある。湯守家を意識している」


「美佐江さん?」


 澪が小さく言った。


 言ってから、すぐに胸が痛んだ。


 疑いたくはない。


 でも、白狐社の場所を知り、宗吾の札を置き、湯守家を引きずり出そうとした人だ。


 候補からは外せない。


 千鶴は首を横に振らなかった。


「美佐江にも確認する」


「でも、美佐江さんは大逃がしを開けていないって」


「本人はそう言った」


「嘘かもしれない?」


 澪が聞くと、千鶴は静かに答えた。


「嘘かもしれない。言えないことがあるのかもしれない。あるいは、本当に知らないのかもしれない」


 透真が頷く。


「決めつけない」


「そうだね」


 その時、相馬悠介が帳場の入り口に顔を出した。


 先ほどから少し離れた場所で待機していたらしい。


 彼はメモを見るなり、顔をこわばらせた。


「白狐……」


 透真が反応した。


「相馬さん。何か心当たりがありますか」


 相馬は、迷った。


 明らかに迷っていた。


 千鶴が静かに言う。


「悠介。今は小さなことでも言いなさい」


「……白狐って呼ばれていた人が、昔いました」


 帳場の空気が変わる。


「誰だい」


「僕の祖父です」


 相馬の声は小さかった。


「相馬白之助。湯守屋に出入りしていた、昔の湯道職人です」


 千鶴が目を見開いた。


「白之助さん……」


「ご存じなんですか」


 澪が聞くと、千鶴は頷いた。


「知っている。白之助さんは、湯守宗吾兄さんの時代に湯道を見ていた職人だ。腕はよかった。ただ、口が悪くてね。白狐沢の湯道に詳しかったから、白狐と呼ばれていた」


 澪は相馬を見る。


「でも、お祖父さんは……」


「もう亡くなっています」


 相馬はすぐに言った。


「僕が小さい頃に」


「じゃあ、誰かがその呼び名を使っている?」


「分かりません。でも、祖父の道具箱が、うちに残っています。白狐沢の古い手帳も」


 透真の表情が硬くなる。


「相馬さん。あなたは、その手帳を見ましたか」


 相馬は頷いた。


「子どもの頃に少し。でも、ちゃんと読んだことはありません。最近までは」


「最近?」


 千鶴の声が低くなる。


 相馬は顔を伏せた。


「美佐江さんが来た後、気になって見ました。祖父の手帳に、白狐社と大逃がしのことが少し書いてあったので」


「なぜ言わなかった」


 透真の声が少し鋭くなった。


 澪はそっと袖を掴む。


 相馬は目を閉じた。


「怖かったんです。祖父が何か関わっていたらと思うと」


 その言葉に、帳場が静まる。


 怖かった。


 それは、この町で何度も聞いてきた言葉だった。


 怖くて言えなかった。

 怖くて見なかった。

 怖くて塞いだ。

 怖くて隠した。


 相馬は続けた。


「でも、僕は木原さんを案内していません。今日は湯守屋にいました。記録もあります」


「それは確認済みです」


 田辺が言った。


「相馬さんは午後四時半頃、湯守屋で代替入浴の案内に出ていた記録があります。複数の客が見ています」


 透真は相馬を見ていた。


「では、白狐の名を使える人間は、相馬さん以外にもいる」


「祖父の手帳を見た人なら……」


 相馬はそこで言葉を切った。


 千鶴が聞く。


「誰かに見せたのかい」


「一人だけ」


「誰に」


 相馬は、苦しそうに答えた。


「木原さんです」


 真島が愕然とした顔をする。


「木原部長が?」


「昨日の昼、湯守屋へ来た時に、僕に話しかけてきました。白狐沢の古い湯道職人を知らないかって。祖父の話をしたら、手帳を見たいと言われて……」


「渡したんですか」


 透真が聞いた。


「見せただけです。帳場横の控室で。でも、写真を撮られたかもしれません」


 千鶴は、深く息を吐いた。


「悠介。なぜそれを言わなかった」


「すみません。大したことだと思わなくて。木原さんは東都開発の偉い人で、真島さんの上司だと聞いていたので……」


 真島は顔を伏せた。


「木原部長が、相馬さんの祖父の手帳から白狐の名を知った可能性がある」


 透真が言った。


「でも、それならメッセージの差出人『白狐』は誰ですか。木原さん自身が自分に送る意味は薄い」


「木原さんが、白狐と名乗る誰かとつながった」


 澪が言う。


「その誰かは、相馬さんのお祖父さんの手帳を知ってる?」


「あるいは、木原さんが手帳の内容を誰かに送った」


 透真が続けた。


 田辺がメモを取る。


「木原さんのスマホが解析されれば、送信相手や保存写真が分かるかもしれません」


 警察官が頷いた。


「正式な手続きの上で確認します」


 待つ。


 また、待つ。


 澪は胸が苦しくなった。


 この章に入ってから、何度待っただろう。


 湯気が止まった時。

 白狐沢の調査。

 木原の鞄。

 スマホ。

 そして今度は、スマホの中身。


 けれど、無理に進めば誰かが傷つく。


 それも、もう何度も見てきた。


 透真が座卓の地図に指を置いた。


「白狐社、熱い湯枡、木原さんのスマホ、鞄の位置。そこへ案内人の足跡」


 彼の指は、線を描く。


「木原さんは案内人と白狐社で合流し、湯音の場所まで向かった。途中で鞄を置いたか落とし、さらに奥の湯枡へ行った。スマホは湯枡付近で発見。本人はいない。案内人らしき作業靴の跡は戻っている」


「案内人が戻ったなら、木原さんを置いてきた可能性がある」


 澪が言うと、真島の顔が白くなった。


 透真は否定しなかった。


「可能性はある。でも、案内人が助けを呼ぶつもりだったのに何らかの理由で言えなかった可能性もある」


「また怖くて?」


「うん」


 それは、この町ではあり得すぎる理由だった。


 千鶴が相馬へ向き直る。


「悠介。白之助さんの手帳を、今から見せられるかい」


「はい。家にあります。取りに行きます」


「一人では行かない。田辺さん、誰か一緒に」


「私が同行します」


 田辺が答えた。


 相馬は頭を下げ、田辺と一緒に出ていった。


 帳場に、また沈黙が落ちる。


 澪は、ふと真理を見た。


 彼女はずっと黙っていた。


 父の湯を追ってきたはずなのに、今は木原の未帰還、湯守家、相馬家、東都開発まで絡んでいる。


 それでも真理は、逃げなかった。


「古賀さん」


 澪が声をかけると、真理は顔を上げた。


「大丈夫ですか」


「大丈夫ではないわ」


 真理は少しだけ笑った。


「でも、最近はこの答えでいいのだと覚えた」


「私もです」


「あなたたちのおかげね」


「湯守くんのせいでもあります」


「それは否定できないわね」


 透真が少し不本意そうにした。


「僕のせい?」


「かなり」


 澪と真理の声が少し重なった。


 真理は久しぶりに、自然に笑った。


 それは短い笑いだった。


 でも、帳場の空気を少しだけ柔らかくした。


 約一時間後、相馬と田辺が戻った。


 相馬の手には、古い布包みがある。


 中から出てきたのは、手のひらほどの古い手帳だった。


 表紙は黒く、端は擦り切れている。


 相馬はそれを座卓に置いた。


「祖父の手帳です」


 透真はすぐに近づこうとして、澪に見られ、自分で止まった。


「距離を取っています」


「よろしい」


 千鶴が手袋をつけ、慎重に手帳を開いた。


 古い字が並んでいる。


 職人の手帳らしく、文章は短い。


『白狐沢、大逃がし口。石組み弱し』


『宗吾様より、山口は触るなとのこと』


『湯音、狐面石より奥。三十歩ではなく四十歩』


『奥の湯枡、熱強し。人入るべからず』


 澪は最後の一文を見て、息を呑んだ。


 人入るべからず。


 そこへ木原は行った。


 案内人とともに。


 千鶴がさらにページをめくる。


 そして、手を止めた。


 そこには、他より強い筆圧でこう書かれていた。


『山口の先、空洞あり。足場抜ける。落ちれば湯音に呑まれる』


 帳場の空気が凍った。


 真島が立ち上がる。


「落ちれば……?」


 透真の顔色が変わる。


「木原さんは、湯枡の先の空洞に落ちた可能性があります」


 警察官が手帳を確認する。


「すぐ捜索隊へ共有します」


 千鶴は目を閉じた。


「だから、父たちは触るなと言ったんだ」


 澪は、喉が乾くのを感じた。


 白狐社の奥にある本当の湯口。


 熱い湯枡。


 その先の空洞。


 落ちれば、湯音に呑まれる。


 それは比喩ではないのかもしれない。


 木原は今、その空洞のどこかにいるのかもしれない。


 そして案内人は、それを知って戻ってきたのかもしれない。


 その時、警察官の無線が鳴った。


 全員が息を止める。


 警察官は短く応答し、顔を上げた。


「白狐社奥の捜索隊からです。湯枡の先に、崩落した穴を確認。中から、声が聞こえるそうです」


 真島が息を詰めた。


「木原部長ですか」


「まだ確認中です。ただ、生存者がいる可能性があります」


 帳場の全員が動きを止めた。


 澪は、思わず透真の袖を掴んだ。


 透真も、何も言わなかった。


 ただ、強く息を吸い、それからゆっくり吐いた。


 木原は生きているかもしれない。


 湯音に呑まれたのではなく、まだ声を出しているかもしれない。


 山の奥で、湯がまた一つ、隠していたものを地上へ押し戻そうとしていた。

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