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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第40話 案内人の足跡

 木原の鞄は、湯守屋の帳場奥に置かれた。


 正確には、置かれたというより、そこだけ別の空気になっていた。


 透明な袋に入れられた黒いビジネスバッグ。

 泥のついた角。

 濡れた書類。

 折れたペットボトル。

 使いかけの懐中電灯。


 それは、ただの落とし物には見えなかった。


 人が山へ入って、戻ってこなかった。


 その事実だけが、鞄の形をして座卓の上にあるようだった。


 警察官が二人、役場の田辺、消防団、猟友会の男、湯守千鶴、真島玲司、古賀真理。


 そして、入口に近い場所に湯守透真と朝比奈澪が座っていた。


 澪は何度も手を握り直していた。


 山に人が消えたかもしれない。


 それは、奥乃湯の過去を調べていた時とは違う怖さだった。


 古い手紙や湯帳は、過去から届いたものだった。


 けれど木原は今、どこかにいるかもしれない。


 怪我をしているのか。

 迷っているのか。

 それとも、もっと悪いことになっているのか。


 想像しかできない時間は、思ったより息苦しかった。


 警察官が手袋をつけ、鞄の中身を一つずつ確認していく。


「財布、名刺入れ、会社資料、懐中電灯、飲料水、携帯電話はなし」


「携帯がない?」


 真島が顔を上げた。


「木原部長はスマホを持っていたはずです」


 警察官が頷く。


「現場周辺を引き続き確認します」


 真島は唇を噛んだ。


 彼の顔には、はっきりと焦りが出ている。


 少なくとも今この場では、芝居には見えなかった。


 警察官が濡れた書類を慎重に広げる。


 表紙には、澪にも読める文字があった。


『白峰北山 未利用湧出点調査メモ』


 その横に、赤いペンで大きく丸がつけられている。


『白狐社裏 候補A』


 透真の目が細くなった。


 千鶴も表情を硬くする。


 田辺が低く言った。


「木原さんは、白狐社の裏にある湧出点を目的地にしていたと見てよさそうですね」


「湧出点という言い方が、もう嫌だね」


 千鶴の声は静かだったが、怒りがあった。


「そこは、うちの町の湯が息をしている場所かもしれないんだよ」


 真島はうつむいた。


「申し訳ありません」


「今は謝罪より説明です」


 真理が言った。


 その声は冷静だった。


 冷静すぎて、かえって苦しさが見える。


「真島さん。この資料は、あなたも見ていたんですか」


「一部は」


「一部?」


「候補地の一覧は見ました。ただ、白狐社裏が候補Aとして絞られていたことまでは……」


 透真が静かに言った。


「知らなかった、ですか」


 真島はすぐには答えなかった。


「知ろうとしませんでした」


 その言い方に、帳場の空気が少し変わる。


 真島は続けた。


「木原部長が先行調査を進めていることは感じていました。ですが、私自身は奥乃湯の件で手一杯だと考え、確認を後回しにした」


「止められなかった、ではなく、見に行かなかった」


 透真の言葉は鋭かった。


 澪は思わず透真の袖を見た。


 掴むべきか少し迷う。


 だが、真島は怒らなかった。


「その通りです」


 ただ、認めた。


「私はまた、見ないほうを選びました」


 千鶴が低く息を吐いた。


「この町は、その言葉に何度も出会うね」


 見ないほうを選ぶ。


 聞こえないふりをする。


 止められなかった。


 それは、奥乃湯を傷つけてきた人たちが口にした言葉と同じ流れにあった。


 警察官が次の紙を広げる。


 それは地図だった。


 白峰温泉街の北側。

 湯守屋。

 奥乃湯。

 三枝荘。

 白狐沢。

 白狐社。


 そこに、赤い線が引かれていた。


 白狐社からさらに山側へ伸びる細い線。


 その先に、手書きでこうある。


『湯音あり。案内人S確認』


 澪は息を止めた。


「案内人S……?」


 田辺が紙を覗き込む。


「案内人がいた、ということでしょうか」


 真島の顔色が変わった。


「私は知りません」


「Sに心当たりは?」


 警察官が聞く。


 真島は首を振った。


「社内の人間で、白峰に同行している者にSはいません。少なくとも、私が知る限りでは」


 透真が低く言った。


「Sが名前とは限りません」


「どういう意味?」


 澪が聞く。


「宿名、役職、場所の頭文字かもしれない。三枝のS、相馬のS、白狐社のS、沢のS」


「範囲広すぎない?」


「広い。だから、まだ決められない」


 澪は頷いた。


 雑に決めない。


 何度も繰り返してきたことだ。


 ただ、胸の中には嫌なものが残る。


 相馬の名前が出た。


 湯守屋の従業員。


 美佐江が蔵の札を探していたと話した青年。


 疑いたくない。


 でも、可能性からは外せない。


 澪は、そう考えてしまう自分が嫌だった。


 警察官がさらに鞄のポケットを確認する。


 小さな紙片が出てきた。


 濡れているが、文字は読める。


『十六時三十分 白狐社

 案内人と合流

 湯音が聞こえる場所まで』


「湯音……」


 千鶴が小さく呟いた。


 透真も反応した。


「湯の音を聞いて場所を探した」


 真理が不安そうに聞く。


「湯って、地面の下でも音がするんですか」


「します」


 透真が答えた。


「はっきり聞こえることもあれば、石の奥でこもるように響くこともあります。湯量や圧が変われば、音も変わる」


「木原さんは、それを頼りに?」


「一人では難しいと思います」


 透真は地図を見つめた。


「湯の音を聞ける人間か、昔から場所を知っている人間が案内した可能性が高い」


 帳場が静かになった。


 湯の音を聞ける人間。


 それは、透真のような人間かもしれない。


 あるいは、湯守家に近い人間。


 湯場で働いてきた人間。


 山の水路を知る人間。


 候補は多くない。


 多くないからこそ、怖い。


 千鶴が相馬を呼んだ。


 相馬は帳場の奥からすぐに来た。


 顔色は昨日からずっと悪い。


「相馬」


「はい」


「今日の午後四時半頃、どこにいた」


 問いは静かだった。


 けれど、相馬の肩が跳ねた。


「湯守屋にいました。風呂場の点検と、三枝荘のお客様の代替入浴の案内をしていました」


「証明できるかい」


「帳場の記録と、他の従業員が見ています」


 相馬の声は震えていたが、答えははっきりしていた。


 透真は、相馬を見ていた。


 澪には、その視線が少しつらかった。


 家の中の人を疑う。


 それは、どれだけ嫌なことだろう。


 相馬は透真の視線に気づき、苦しそうに言った。


「若旦那、僕は……」


「まだ、何も決めていません」


 透真は静かに言った。


「決めないために確認しています」


 相馬は唇を噛み、頭を下げた。


「はい」


 警察官が相馬の所在確認を田辺に依頼し、記録を取る。


 会話は淡々と進む。


 だが、澪には一つひとつが重く感じた。


 疑うこと。

 確かめること。

 決めつけないこと。


 どれも必要だ。


 でも、必要だからといって痛くないわけではない。


 その時、猟友会の男が口を開いた。


「作業靴の足跡の話だが」


 全員が彼を見る。


「山で見た感じ、あれは最近の安全靴だ。底に菱形の深い溝がある。湯場の作業員や設備屋が履くようなやつだな」


 設備業者の一人が、自分の靴を見た。


「うちのものとは違います。うちは横溝のタイプです」


 猟友会の男は頷く。


「それに、歩き方が山慣れしていた。革靴の木原さんとは違う。足場の悪いところを迷わず進んでいる」


「案内人ですね」


 田辺が言った。


「たぶん」


 猟友会の男はそう答えた。


「木原さんを案内して、途中で別れたのか。一緒に奥まで行ったのかは分からん」


 透真が聞いた。


「足跡は、二人とも同じ方向へ?」


「途中まではな。その先で革靴の跡が乱れていた。滑ったのかもしれない。作業靴の跡は、その横を回り込んでいた」


「助けた?」


 澪が思わず聞く。


 猟友会の男は首を傾げた。


「助けようとしたのか、先に進んだのかは分からん。ただ、作業靴は戻ってきた形跡がある」


 帳場の空気が凍った。


「戻ってきた?」


 千鶴が聞く。


「少なくとも、白狐社の近くまでは戻っている。そこから先は落ち葉が多くて見えにくいが、町のほうへ下りた可能性が高い」


 澪は、思わず息を呑んだ。


 木原は戻っていない。


 でも、案内人らしき人物は戻ってきている。


 それは、どういうことなのか。


 置き去りにしたのか。

 助けを呼びに来たのか。

 それとも、木原に何かが起きたことを知りながら黙っているのか。


 真島が、震えた声で言った。


「木原部長は、山に残されたということですか」


「まだ決められません」


 警察官が答えた。


「ただ、同行者がいた可能性は高い。戻ってきた可能性もあります。今後、関係者の所在確認を行います」


 澪は、透真を見た。


 透真は、黙って地図を見ている。


 その目は白狐社から温泉街へ戻る道を追っていた。


「湯守くん」


「何」


「考えすぎてる」


「考えないと」


「でも、今は全部一人で考えない」


 透真は少しだけ顔を上げる。


「友達として?」


「友達として」


「分かった」


 この短いやり取りを、真島が見ていた。


 何かを言いたげだったが、何も言わなかった。


 夜はさらに深くなった。


 木原本人はまだ見つからない。


 警察と消防は、安全を見ながら捜索範囲を決めることになった。


 夜間に無理をすれば、二次被害が出る。


 それは全員が分かっていた。


 けれど、待つしかないことの苦しさは消えなかった。


 真島は湯守屋に残ることになった。


 会社へも連絡し、木原の家族にも警察から連絡が入る。


 真理は、真島を責めなかった。


 ただ、彼の横に座り、低い声で言った。


「見つかるといいですね」


 真島は、顔を上げられないまま頷いた。


「はい」


「でも、見つかったら、全部話してください。木原さんが何をしようとしていたのか。会社がどこまで知っていたのか」


「約束します」


「それは、聞きました」


 真理の声は静かだった。


「今度は、守ってください」


 真島は、深く頭を下げた。


 澪はそのやり取りを見ながら、胸が詰まった。


 約束という言葉が、この章に入ってから何度も出てくる。


 透真との約束。

 真島との約束。

 三枝の約束。

 千鶴の約束。

 亡くなった人が守れなかった約束。


 約束は簡単に言える。


 でも、守るのは難しい。


 だからこそ、何度も確かめなければならないのだろう。


 その夜、澪は椿屋へ戻らず、沙織に電話して湯守屋で待機することを伝えた。


 沙織は少し心配したが、千鶴がいること、危険な場所へは行かないことを聞いて納得してくれた。


『怖い?』


 電話越しに聞かれ、澪は正直に答えた。


「怖い」


『そう』


「でも、一人じゃないから大丈夫」


『それは、信用できる大丈夫ね』


「うん」


 電話を切ると、透真が近くに立っていた。


「お母さん?」


「うん」


「心配していた?」


「してた。でも、怖いって言えたから大丈夫」


 透真は少し考えた。


「それは、かなり信用できる大丈夫」


「でしょ」


 澪は少し笑った。


 その時、帳場の電話が鳴った。


 全員が反応する。


 千鶴が受話器を取る。


「はい、湯守屋です」


 短い沈黙。


 千鶴の顔が変わった。


「……見つかった?」


 真島が立ち上がる。


 澪も息を止めた。


 しかし、千鶴の次の言葉は違った。


「木原さんではない?」


 帳場の空気が固まる。


「何が見つかったんです」


 透真が聞く。


 千鶴は受話器を押さえ、ゆっくりこちらを向いた。


「白狐社の奥で、古い湯枡が見つかったそうだ」


「湯枡?」


「石で囲まれた小さな湯溜まり。中の沢水が、かなり熱いらしい」


 透真の目が変わる。


「本当の湯口に近い」


「それと」


 千鶴は、もう一度電話の向こうの声を聞き、低く言った。


「湯枡のそばに、木原さんのスマホが落ちていた」


 真島が息を呑んだ。


「スマホが……」


「本人は、まだ見つかっていない」


 千鶴は電話を切った。


 帳場の誰もが黙っていた。


 スマホだけ。


 鞄に続いて、今度はスマホ。


 木原は、どこへ行ったのか。


 澪は、喉が乾くのを感じた。


 透真が低く言った。


「スマホに、何か残っているかもしれません」


 千鶴は頷いた。


「警察が確認する。私たちは待つ」


「また待つんですね」


 透真の声には、悔しさが滲んでいた。


 千鶴は静かに言った。


「待つのも湯守の仕事だよ」


 透真は何も言い返さなかった。


 窓の外では、夜の湯けむりが白く漂っている。


 町の湯は、仮処置で少し戻った。


 けれど山の奥では、熱い湯枡が見つかり、木原のスマホだけが落ちていた。


 地面の下の流れは、まだ誰かを隠している。


 そしてその流れの先に、案内人の足跡が続いている。

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