表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
40/47

第39話 戻らない男と、山の湯音

 真島玲司が湯守屋に着いたのは、それから二十分ほど後だった。


 いつもの整ったスーツ姿ではあったが、首元のネクタイが少し緩んでいる。髪も乱れていた。雨でもないのに靴の側面には泥がつき、息は浅い。


 朝比奈澪は、その姿を見て、真島が本当に焦っているのだと分かった。


 営業用の笑顔はない。


 礼儀正しい挨拶も、今日は薄かった。


「申し訳ありません」


 帳場へ入るなり、真島は深く頭を下げた。


 湯守千鶴は、帳場の奥から彼を見た。


「謝る前に、説明を」


「はい」


 真島は顔を上げる。


 その目は充血していた。


「木原部長と、午後から連絡が取れません」


「木原さんというのは?」


 澪が聞くと、真島は少しだけこちらを見る。


「東都開発企画の地域再生事業部長です。私の直属の上司にあたります」


 直属の上司。


 白狐社に残っていた紙片。


 革靴で山へ入った人物。

 煙草。

 整髪料。

 東都開発の資料片。


 それらが、一人の人物へ少しずつ集まっていく。


 湯守透真が静かに言った。


「木原さんは、本当の湯口を知っていたんですか」


 真島は、答える前に一度だけ唇を噛んだ。


「可能性があります」


「あなたは?」


「私は……白狐社の話は知りませんでした」


 透真の目が細くなる。


 澪にも分かった。


 今の言い方は、少し引っかかる。


 白狐社は知らなかった。


 では、山の湯口については?


 千鶴が問う。


「白狐社の話は、知らなかった。では、奥乃湯の本当の湯口が山にある可能性は?」


 真島は沈黙した。


 それが、答えに近かった。


 古賀真理が低い声で言う。


「真島さん」


「……私は、断片的な資料を見ていました」


「何の資料ですか」


「東都開発が以前、別件で入手した古い地質調査資料です。そこに、白峰温泉街北側山腹に未利用の湧出点らしき記述がありました」


「未利用の湧出点」


 透真が繰り返す。


「木原さんは、それを奥乃湯の元湯だと考えた?」


「おそらく」


「おそらく、ではなく」


 千鶴の声が硬くなる。


「あなたの会社は、何を狙っていたんです」


 真島は、今度こそ逃げなかった。


「奥乃湯の再整備計画を、会社の新規地方再生事業の目玉にするつもりでした。古い共同浴場の復活だけではなく、山の湯口を活かした高付加価値の温泉施設計画として」


 帳場の空気が冷えた。


 高付加価値。


 温泉施設。


 その言葉は、今までこの町で出てきたどんな言葉よりも乾いて聞こえた。


 真理の表情が強張る。


「父の湯を、そんなふうに」


「私は、古賀さんの意向も含めて慎重に進めるつもりでした」


「でも、上司は違った」


 透真が言った。


 真島は頷く。


「木原部長は、先に権利と資源を押さえるべきだと考えていました。古い温泉街では、話し合いを重ねている間に話が潰れる。だから、使える資源を先に確認しろ、と」


「使える資源」


 澪は思わず呟いた。


 その言葉が嫌だった。


 湯。


 源一郎が守ろうとしたもの。


 千鶴が見逃したことを悔いているもの。


 三枝荘が生活を乗せてきたもの。


 透真が匂いで追い続けているもの。


 それを「使える資源」と呼ぶと、急に別のものになってしまう。


「朝比奈さん」


 真島が言った。


「あなたが不快に思うのは当然です」


「当然なら、言わないでください」


 澪は自分でも驚くほど早く返していた。


 真島は言葉を止める。


 澪は続けた。


「そう呼んだ瞬間に、見えなくなるものがあります」


 少し前までなら、こんなことは言えなかった。


 でも今は言える。


 湯を盗んだ宿。


 使える資源。


 地方再生。


 どれも、言葉だけなら分かりやすい。


 でも、その分かりやすさで消える痛みがある。


 透真が隣で小さく言った。


「今のは正確」


「褒めてる?」


「かなり」


「ありがとう」


 真島は、静かに頭を下げた。


「失礼しました」


 千鶴が話を戻す。


「木原さんは、いつ山へ入ったのです」


「正確には分かりません。午後二時頃までは電話がつながっていました。その時、彼は『白狐社の場所が分かった』と言っていました」


「誰から聞いた」


「分かりません。ただ、社内に残っていた古い調査資料と、私が送った奥乃湯周辺の情報を照合したのだと思います」


「あなたが送った?」


 真理の声が震えた。


「古賀さん、私は」


「私の同意を使って、上司に資料を渡したんですか」


 真島は目を伏せた。


「はい」


 真理は、ゆっくり息を吸った。


「あなたは、また先に進めたんですね」


「申し訳ありません」


「謝罪は聞きました。でも、今は木原さんを探すほうが先です」


 その言葉に、澪は真理を見た。


 怒っている。


 傷ついている。


 それでも今、行方の分からない人間を後回しにしなかった。


 真理は強い。


 その強さは、たぶん簡単な許しとは違う。


 千鶴はすぐに役場の田辺へ電話した。


 続いて消防団、警察相談窓口、設備業者。


 夜の山へ無計画に入ることはできない。


 しかし、人が戻っていない可能性がある以上、放置もできない。


 白狐社の場所。

 そこから奥へ入る獣道。

 木原が向かった可能性のある範囲。

 沢の温度。

 湯気の有無。

 足元の危険。


 千鶴は、電話のたびに短く正確に伝えていく。


 その姿を見ながら、澪は思った。


 これが湯守なのだ。


 匂いを嗅ぎ、湯を読むだけではない。


 人を止める。


 役場を動かす。


 消防を呼ぶ。


 隠さず、しかし騒がせすぎず、必要な場所へ話を流す。


 詰まりを取るのは、湯道だけではないのかもしれない。


 透真は帳場の端に立っていた。


 もう何度も白狐社の方角へ目を向けている。


 澪は隣に立つ。


「行きたい?」


「行きたい」


 即答だった。


「でも行かない」


「行かない」


「本当に?」


「本当に」


「えらい」


「子ども扱い」


「友達扱い」


「……少し慣れた」


 澪は、少しだけ笑った。


「それはよかった」


「よくはない」


「不本意?」


「少し」


 そんな会話をしている間にも、帳場の空気は張り詰めていた。


 田辺が湯守屋に到着したのは、さらに十五分ほど後だった。


 その頃には、消防団の有志数名と、山道に詳しい地元の猟友会の人が集まっていた。警察にも相談済みで、まずは白狐社までの確認と、そこから奥へ入った痕跡の有無を安全範囲で確認することになった。


 高校生は同行しない。


 千鶴がそう決めた。


 透真は反論しなかった。


 ただ、地図を広げ、白狐社の位置と昼間見た足跡、紙片が落ちていた場所を正確に説明した。


「ここから奥へ行くと、斜面が急になります」


 透真は鉛筆で線を引く。


「昼間、足音はこの方向へ逃げました。ただ、人が一人で歩き慣れている道ではないです。革靴なら滑る可能性があります」


 猟友会の男が頷いた。


「ここは昔の炭焼き道が残ってる。知らない人間が入ると迷うな」


「湯の匂いが強くなる場所があるはずです」


「匂いで?」


 男は少し驚いた顔をした。


 透真は真面目に頷く。


「はい。ただし、湯気が見えるとは限りません。地面が温かい場所、苔が変色している場所、硫黄や鉄の匂いが急に強くなる場所に注意してください」


 猟友会の男は、透真をじっと見た後、少し笑った。


「湯守屋の孫は、面白いな」


「よくは言われません」


「褒めてるよ」


「ありがとうございます」


 澪は小声で言う。


「今のは分かりやすい褒め言葉だったね」


「それは分かる」


「ならよかった」


 捜索隊が出発する。


 千鶴も行くつもりだったが、田辺と消防団に止められた。


「女将さんは湯守屋で連絡を受けてください。町側の判断役が必要です」


 千鶴は不満そうだったが、最終的には頷いた。


「分かりました。無理はしないで。白狐社より奥は、暗くなったら入らないこと」


 その言葉は、透真にも向けられているように聞こえた。


 捜索隊が出ていくと、帳場に重い沈黙が残った。


 外はもう夜だった。


 温泉街の灯りが、窓越しに滲んでいる。


 澪は、湯守屋の時計を見た。


 午後七時を少し回っている。


 木原が午後二時頃に白狐社の話をしていたなら、もう五時間以上戻っていないことになる。


 ただの寄り道では済まない。


 真島は帳場の端に座っていた。


 膝の上で両手を握っている。


 営業マンらしい余裕は完全に消えていた。


 澪は、少し迷ってから声をかけた。


「真島さん」


「はい」


「木原さんは、どういう人なんですか」


 真島は顔を上げた。


「強い人です」


「強い?」


「仕事ができる。判断が早い。結果を出すためなら、多少の反発は押し切る。そういう人です」


「それ、いい意味ですか」


「以前は、いい意味だと思っていました」


 真島は苦く笑った。


「地方の町は、話し合いばかりで進まない。外から強く動かす人間が必要だと、私も思っていました」


「今は?」


「今は、分かりません」


 澪は黙って聞いた。


 真島は続ける。


「この町へ来てから、私は何度も急ぎました。古賀さんの同意を広く解釈し、奥乃湯の湯が動いた時にデータを取ろうとした。木原部長の考え方に、私自身もかなり近かったのだと思います」


「でも、木原さんは山へ入った」


「はい」


「真島さんは入らなかった」


「怖かったんです」


 その答えは意外だった。


 真島は目を伏せる。


「奥乃湯の陥没を見てから、湯を甘く見ることが怖くなった。だから、木原部長に止めるよう言いました。でも彼は聞かなかった」


「真島さんも、止められなかったんですね」


 言った瞬間、澪は少し強すぎたかと思った。


 でも、真島は怒らなかった。


「そうです」


 ただ、認めた。


「私は止められなかった」


 その言葉は、千鶴や三枝の言葉と少し重なった。


 止められなかった。


 見逃した。


 言えなかった。


 この町の問題は、いつもそこに戻ってくる。


 透真が静かに言った。


「止められなかったなら、今止めるしかありません」


 真島は透真を見る。


「はい」


「次に木原さんが同じことをしようとしたら、止めてください」


「……分かりました」


「それは約束です」


 真島は、まっすぐ頷いた。


「約束します」


 澪は、少しだけ意外だった。


 透真が真島に約束を求めた。


 ただ責めるのではなく、次の行動を求めた。


 これもまた、少し変わったところなのかもしれない。


 夜八時前。


 最初の連絡が入った。


 田辺からだった。


 千鶴が受話器を取り、すぐに表情を変えた。


「見つかったのかい」


 帳場の全員が立ち上がりそうになった。


 しかし千鶴は、手で制した。


「……本人ではない?」


 澪の胸が嫌な音を立てる。


「何が見つかったんですか」


 透真が低く聞く。


 千鶴は受話器を押さえ、こちらを向いた。


「木原さんの鞄が見つかった」


 真島が立ち上がった。


「鞄?」


「白狐社の奥、炭焼き道の分岐付近だそうだ」


 千鶴は電話へ戻る。


「中身は? ……資料、懐中電灯、ペットボトル。本人の姿はなし。分かりました。暗くなる前に、無理をせず一度戻ってください。警察にはそのまま引き継ぎを」


 受話器を置く。


 帳場は静まり返っていた。


 鞄だけ。


 本人はいない。


 真島の顔が白くなっている。


「木原部長……」


 透真が言った。


「鞄を置いて奥へ行ったのか、落としたのか」


「どちらにしても、山の奥へ進んだ可能性が高い」


 千鶴が答える。


「夜間捜索は危険だ。警察と消防が判断する」


「鞄の中に資料があるなら」


 透真が言う。


「木原さんが何を見て山へ入ったか分かるかもしれない」


 千鶴は頷いた。


「戻ってきたら確認する。ただし、役場と警察立ち会いだ」


「はい」


 今回は透真も反論しなかった。


 待つ。


 それしかできない時間が、また始まった。


 澪は、帳場の窓の外を見た。


 夜の温泉街は、いつもより静かだ。


 湯けむりは、仮処置のおかげか少し戻っている。


 それでも、どこか不安定に見えた。


 湯が迷っているような。


 町が息を整えられずにいるような。


 しばらくして、捜索隊が戻ってきた。


 田辺、消防団、猟友会の男。


 みな疲れた顔をしている。


 田辺は透明袋に入れた鞄と、濡れた資料の束を抱えていた。


 警察が到着するまで中身には触らないことになっていたが、外から見える範囲で、資料の表紙に文字があった。


『白峰北山 未利用湧出点調査メモ』


 真島が顔を強張らせた。


「会社の内部資料です」


 千鶴が低く言う。


「木原さんは、やはり湯口を探していた」


 田辺が疲れた声で言った。


「もう一つ、現場で気になるものがありました」


「何です」


「鞄の近くの沢水が、かなり温かい。白狐沢より上流なのに、三十五度近くありました」


 透真の目が変わる。


「三十五度」


「湯気はほとんど出ていません。ただ、水に触れると温かい」


「本当の湯口が近い」


 誰かが小さく息を呑んだ。


 澪は、胸が重くなるのを感じた。


 木原は、そこまで行った。


 そして、戻っていない。


 田辺はさらに続けた。


「それから、足跡が二種類ありました」


 帳場の空気が止まる。


「二種類?」


 千鶴が聞く。


「はい。一つは革靴。おそらく木原さんのもの。もう一つは、滑りにくい作業靴のような跡です」


 真島が顔を上げる。


「木原部長は、一人ではなかった?」


「断定はできません」


 田辺は言った。


「ですが、誰かが先に、あるいは一緒に山へ入っていた可能性があります」


 透真が低く呟いた。


「木原さんだけではない」


 澪は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 白狐社の奥。


 本当の湯口。


 未利用湧出点。


 戻らない木原。


 そして、もう一人の足跡。


 湯けむりの町の謎は、ついに山の中で人の気配を持ち始めた。


 それはもう、古い過去だけの話ではない。


 今、誰かが動いている。


 そしてその誰かは、木原より先に本当の湯口へ辿り着いているのかもしれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ