第38話 白狐社の裏に、湯口は眠る
「奥乃湯の本当の湯口は、まだ山にある」
美佐江のノートに書かれていたその一文は、夕方の駅前通りの空気を変えた。
車の音も、帰宅する生徒たちの声も、遠くなった気がした。
朝比奈澪は、ノートの文字を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
奥乃湯は死んだのではなく、傷ついた。
逃がし湯を戻せ。
大逃がし。
三枝荘の無届分湯。
湯守家の消された記録。
そこまででも十分すぎるほど複雑だったのに、今度は山に「本当の湯口」があるという。
まるで、地面の下に隠れていた話が、今度は山の奥へ逃げていくようだった。
湯守透真は、美佐江のノートから目を離さない。
「本当の湯口というのは、元湯のことですか」
美佐江は首を横に振った。
「私にも正確には分からないわ。父は、そこを『白狐の口』と呼んでいた」
「白狐の口」
千鶴が低く繰り返した。
「懐かしい名だね」
「知ってるんですか」
澪が聞くと、千鶴は駅前通りの向こうに見える山を見た。
「白狐社という小さな祠が、白狐沢の少し上にある。昔は、奥乃湯の守り神みたいに言われていた。湯の元を守る狐を祀った場所だ、と」
「観光地ですか」
「いいや。今はほとんど誰も行かない。道も荒れている」
「そこに、本当の湯口が?」
透真が聞く。
千鶴はすぐには答えなかった。
「昔話としては、聞いたことがある。奥乃湯の湯は白狐社の裏山から来ている、と。でも実際の湯口は奥乃湯の敷地内にあるとされていたし、私もそう教わってきた」
美佐江が、ノートのページをめくった。
そこには、宗吾の聞き書きらしい短い文がいくつも並んでいる。
『白狐社の裏、狐面石。そこから奥へ三十歩。音を聞け。湯は見えずとも息をしている』
『奥乃湯の湯口は人が作った口。本当の口は山にある』
『触るな。触れば町の湯が軽くなる』
澪は最後の一文で息を呑んだ。
「町の湯が軽くなる……」
「今朝の湯と同じ表現だ」
透真が言った。
湯が薄い。
湯が軽い。
匂いが弱い。
町の人が今朝言っていたことと、美佐江のノートに残された宗吾の言葉が繋がる。
「大逃がしを開けた人は、白狐社の奥へ行った可能性がありますね」
透真が言うと、千鶴の顔が険しくなった。
「そう考えるのが自然だね」
「今から行けますか」
透真の言葉に、澪は即座に横を見た。
「湯守くん」
「山奥までは行かない。白狐社までなら、まだ明るい」
「そういう問題?」
「場所だけ確認する」
「その言い方、前にも聞いた」
透真は口を閉じた。
澪は続ける。
「場所だけ、確認だけ、匂いだけ。そう言ってだいたい奥に行きたくなる」
「……否定しきれない」
「でしょう」
美佐江が少し驚いたように二人を見た。
「透真くん、止められているの?」
「安全確認です」
澪が答える。
透真が小さく訂正した。
「僕が言うべき台詞」
「使いやすいから」
「不本意」
千鶴がふっと笑った。
だが、すぐに真剣な顔へ戻る。
「白狐社までは行こう。ただし、祠までだ。裏山へは入らない。田辺さんと設備業者にも連絡する。美佐江、あんたも来るかい」
美佐江は、一瞬だけ迷った。
それから頷いた。
「行きます。父が残した言葉ですから」
澪も口を開いた。
「私も行きます」
透真がこちらを見た。
「朝比奈さんは」
「止める係が必要でしょ」
「……それは」
「否定できないよね」
「できない」
美佐江が小さく笑った。
その笑いは、緊張の中に少しだけ人間らしい温度を戻した。
白狐社へ向かう前に、四人は湯守屋へ寄った。
千鶴が役場へ電話し、白狐社まで確認に行くことを伝える。田辺は別件で少し遅れるが、追って来るという。設備業者も白狐沢付近で仮処置を見ているため、途中で合流できるらしい。
湯守屋の帳場で待つ間、美佐江は落ち着かない様子で立っていた。
千鶴が番茶を出す。
「座りなさい。立ったままだと余計に疲れる」
「……ありがとうございます」
美佐江は湯呑みを両手で包んだ。
透真はノートを見せてもらいながら、必要な箇所だけを写している。
澪はその横で見ていた。
字が細かい。
宗吾の言葉は断片的だ。
説明というより、後悔がこぼれたものを美佐江が拾い集めたようなノートだった。
「美佐江さん」
澪はそっと声をかけた。
「何?」
「宗吾さんは、どうして全部話さなかったんでしょう」
美佐江は、湯呑みの湯気を見つめた。
「父は、湯守家に戻りたかったんだと思う」
「戻りたかった?」
「ええ。でも、戻れなかった。自分が消したもの、隠したもの、見逃したものが大きすぎて。だから、私に少しずつこぼすだけだった」
その声には、怒りと寂しさが混じっていた。
「私は子どもの頃、父が湯守屋の話をするのが嫌いだった。いつも懐かしそうで、でも苦しそうで。そんなに苦しいなら忘れればいいのにって思っていた」
千鶴が黙って聞いている。
美佐江は少しだけ笑った。
「忘れられなかったんでしょうね。湯の匂いって、服にも髪にも、記憶にも残るから」
透真が顔を上げた。
「それは正確です」
美佐江は少し驚いた後、苦笑した。
「褒められたのかしら」
「かなり」
澪は思わず言った。
「それ、湯守くん的にはかなり褒めてます」
「通訳がいるのね」
「最近、慣れました」
「不本意」
透真が小さく言う。
美佐江は、少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
白狐社への道は、白狐沢の手前から分かれていた。
途中までは昼間に通った白狐沢の道と同じだが、石組みのある場所より少し手前で、さらに山側へ細い階段が伸びている。
階段といっても、きちんと整備されたものではない。
苔むした石段が、木の根に押されて曲がっている。片側には古い手すりがあるが、触ると頼りない。
千鶴が先頭に立ち、次に透真、澪、美佐江の順で進んだ。
空はまだ明るい。
しかし、山の中へ入ると一気に薄暗くなる。
杉の枝が頭上を覆い、足元には湿った落ち葉が積もっていた。
澪は慎重に足を運んだ。
前を歩く透真が振り返る。
「滑る」
「知ってる」
「右の石、苔が多い」
「ありがとう」
「左は木の根」
「情報が多い」
「必要だから」
美佐江が後ろで少し笑った。
「透真くん、昔の千鶴叔母さんみたい」
千鶴が振り返る。
「私、そんなに細かかったかい」
「細かかったです。子どもの私に『そこは滑る』『その石は浮いている』『湯場で走るな』って」
「正しいことしか言ってないね」
「そういうところです」
澪は少し笑った。
家族の会話だ。
距離はある。
傷もある。
でも、完全に切れてはいない。
白狐社は、思ったより小さかった。
山の斜面に寄り添うように建つ、小さな木の祠。
赤い鳥居は色が剥げ、賽銭箱も古い。祠の横には、狐の顔のように見える白っぽい石が置かれていた。
狐面石。
宗吾のノートにあった言葉だ。
澪は、思わず息を止めた。
「これが……」
千鶴は祠の前で手を合わせた。
美佐江も少し遅れて手を合わせる。
透真は、祠ではなく周囲の空気を見ていた。
いや、嗅いでいた。
澪はすぐに言う。
「一回だけ」
「分かってる」
「深く吸わない」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
透真は、慎重に息を吸った。
表情が少し変わる。
「湯の匂いがある」
「ここまで?」
「薄い。でも白狐沢より古い匂い。沢水に混じったものじゃなく、地面の奥から来ている」
千鶴の顔が硬くなる。
「昔話ではなかったか」
「それと、最近人が来ています」
空気が止まった。
澪は足元を見る。
落ち葉の上に、確かに踏み跡があった。
新しい。
自分たちのものではない。
複数ではなく、一人分のように見える。
「美佐江さん?」
透真が聞く。
美佐江は首を振った。
「私はここへ来ていません。白狐沢に札を置いただけ。祠の場所は知っていたけれど、怖くて来られなかった」
その声は嘘には聞こえなかった。
少なくとも澪には。
透真も、美佐江をじっと見た後、何も言わなかった。
「足跡の靴は?」
澪が聞く。
「運動靴ではない。登山靴でもない。革靴に近い」
「革靴で山道?」
「無理ではないけど、普通は避ける」
真島の顔が澪の頭に浮かんだ。
だが、透真はまだ名前を出さなかった。
狐面石の裏手には、細い獣道のようなものがあった。
草が倒れている。
誰かが入った跡だ。
千鶴が低く言った。
「ここから奥へは行かない」
「でも」
透真が言いかける。
澪は即座に袖を掴んだ。
「約束」
透真は口を閉じた。
千鶴は頷く。
「明るい時間に、役場と業者と一緒に入る。今は入口だけ確認する」
美佐江が狐面石を見つめていた。
「父は、この先に何を見ていたんでしょう」
千鶴は静かに答えた。
「後悔だろうね」
「湯口じゃなくて?」
「湯口も。けれど、湯守家の人間は湯を見に来て、自分の後悔を見ることがある」
透真が少しだけ目を伏せた。
澪は、その横顔を見た。
彼も今、自分の家の後悔を見ているのだろう。
その時、祠の裏から微かな音がした。
こつん。
石を踏んだような音。
全員が動きを止めた。
千鶴が小さく言う。
「誰かいるのかい」
返事はない。
山の風が杉の葉を揺らす。
透真が低く言った。
「人の匂いがする」
澪の心臓が跳ねた。
「近い?」
「少し前までいた。今も……分からない。風が回ってる」
その瞬間、獣道の奥で枝が揺れた。
誰かが動いた。
澪にも分かった。
千鶴が鋭く言う。
「追うな!」
透真は一歩出かけて止まった。
澪が袖を掴んでいたからだ。
美佐江も息を呑んでいる。
獣道の奥から、足音が遠ざかる。
葉を踏む音。
石を蹴る音。
そして、すぐに消えた。
千鶴は悔しそうに息を吐いた。
「今追って怪我をしたら、それこそ相手の思うつぼだよ」
透真は黙って頷いた。
しかし、その目は獣道の奥を見ていた。
地面に、何かが落ちていた。
澪が指さす。
「あれ」
獣道の入口、落ち葉の上。
小さな黒いもの。
千鶴が近づき、手袋越しに拾う。
それは、細長いプラスチック片だった。
黒い結束バンドの切れ端。
そして、その近くにもう一つ。
泥に半分埋もれた紙片。
澪は、胸が冷たくなるのを感じた。
田辺がまだ来ていないので、千鶴は自分の手ぬぐいに紙片をそっと載せる。
透真は近づきすぎず、見るだけにした。
そこには、印刷された文字の一部が残っていた。
『東都――』
澪は息を止めた。
東都。
東都開発企画。
真島の会社。
「真島さん……?」
美佐江が呟く。
千鶴の顔が険しくなる。
「まだ決めつけるな」
透真も低く言った。
「紙片だけでは足りない」
「でも」
澪は言いかけて、口を閉じた。
雑に決めつけるな。
何度も学んできたことだ。
それでも、胸の中に疑いは生まれる。
東都開発は撤退したはずだった。
真島は協力すると言った。
だが、会社の誰かが別に動いている可能性はある。
あるいは、真島自身が何かを隠している可能性も。
透真は、さらに足元を見た。
「煙草の匂い。革靴。整髪料。あと、金属」
「真島さんの匂いですか」
澪が聞く。
透真は首を横に振った。
「似ているけど、違う。真島さんより年上の男性かもしれない。整髪料が強い。煙草も強い」
「東都開発の別の人?」
「可能性はある」
千鶴が携帯電話を取り出した。
「田辺さんに連絡する。ここから先は役場と警察にも相談だ」
「警察?」
美佐江が驚く。
「山道に誰かが入り、大逃がしを開けた疑いがある。町の湯に影響が出ている。もう温泉街の内輪だけでは済まない」
千鶴の声は重かった。
だが、澪はその判断が正しいと思った。
隠さない。
小さく片づけない。
町の内側だけで握りつぶさない。
それを何度も言ってきたのだから。
白狐社から戻る頃には、空がさらに暗くなっていた。
山道を下りながら、澪は何度も後ろを振り返った。
祠はすぐに木々に隠れた。
あの奥に、本当の湯口があるかもしれない。
そして、誰かがそこへ向かった。
東都開発の紙片。
真島ではないかもしれない男の匂い。
革靴で山へ入った人物。
謎は、また外へ広がった。
湯守屋へ戻ると、田辺がすでに来ていた。
千鶴が紙片と結束バンドを渡す。
田辺は険しい顔で確認した。
「東都開発企画の社名入り資料の一部に見えますね」
「真島さんに連絡を」
千鶴が言う。
田辺が頷いた。
「すぐ確認します」
その時、帳場の電話が鳴った。
全員の視線が向く。
千鶴が受話器を取る。
「はい、湯守屋でございます」
短い沈黙。
千鶴の顔が変わった。
「真島さん?」
澪の胸が跳ねる。
千鶴は黙って聞いている。
やがて、ゆっくりと言った。
「……あなたの会社の上司が、白狐社へ?」
帳場の空気が止まった。
透真が顔を上げる。
美佐江が息を呑む。
千鶴は受話器を握りしめたまま、低く続けた。
「今、どこにいるんですか」
電話の向こうの声は聞こえない。
けれど、千鶴の表情で分かった。
事態は、さらに悪い方向へ動いている。
「分かりました。すぐ役場に伝えます。真島さん、あなたも湯守屋へ来なさい」
受話器を置く。
千鶴は、全員を見た。
「真島さんの上司、東都開発の木原という男が、今日の午後から連絡が取れないそうだ」
「白狐社へ行ったんですか」
澪が聞く。
「真島さんは、その可能性が高いと言っている」
透真が低く言った。
「本当の湯口を探しに行った」
千鶴は頷いた。
「そして、まだ戻っていない」
山の奥。
白狐社の裏。
本当の湯口。
そこへ向かったかもしれない男が、戻っていない。
澪は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
もう、ただの湯の謎ではない。
人が山で消えたかもしれない。
湯けむりの町の奥で、何かが動いている。




