第37話 宗吾の娘は、湯守屋を許さない
相馬悠介の言葉が、帳場の空気を止めた。
「湯守宗吾さんの娘さんです」
その名を聞いた瞬間、湯守千鶴の顔から表情が消えた。
怒りではない。
驚きでもない。
もっと古い、しまい込んでいた箱を急に開けられた人の顔だった。
「……美佐江が来ていたのかい」
千鶴の声は低かった。
相馬は、申し訳なさそうにうなずいた。
「はい。先週の夕方です。女将さんが旅館組合の打ち合わせに出ていた日で……」
「なぜすぐ言わなかった」
透真が言った。
責める声ではなかった。
けれど、相馬は肩を震わせた。
「すみません。親族の方だと聞いていたので。昔の札を探しているだけだと……それに、美佐江さんは『千鶴叔母さんにはあとで話す』って」
千鶴は目を閉じた。
「美佐江らしいね」
「知っているんですか」
朝比奈澪が聞くと、千鶴はゆっくり頷いた。
「私の兄、宗吾の一人娘だよ。湯守美佐江。今は結婚して名字は変わっているけれど、私にとっては姪だ」
「この町に住んでいるんですか」
「長く町を離れていた。水戸のほうで暮らしていたはずだ」
水戸。
距離としては遠すぎるわけではない。
だが、温泉街で急に名前が出てくるには十分に外の場所だった。
透真は黙っていた。
宗吾の娘。
つまり、透真にとっては親戚だ。
しかも、記録外扱いの覚書を書いた宗吾の娘。
白狐沢に落ちていた木札。
『宗吾』
そして現代の紙片。
『湯守が隠したものを、湯守が戻せ』
その言葉の重さが、急に家族の形を持ち始めた。
「相馬さん」
透真が静かに言った。
「美佐江さんは、蔵に入りましたか」
「いえ、中には入っていません。鍵がありませんでしたし。ただ、昔の管理札がどの箱にあるかを聞かれて……」
「答えたんですか」
「湯務関係の古い札なら、蔵の奥の棚かもしれない、とだけ」
「それで十分だね」
千鶴が言った。
声は厳しかったが、相馬を責めるだけのものではなかった。
「美佐江は、場所さえ分かればどうにかする子だ」
「そんな人なんですか」
澪が聞くと、千鶴は少しだけ苦く笑った。
「昔から、思い込んだら真っ直ぐだった。透真とは別の意味で面倒な子だったよ」
「ばあちゃん」
透真が眉をひそめる。
「僕と比べる必要は」
「あるよ。面倒な血筋だからね」
こんな時なのに、澪は少しだけ笑いそうになった。
しかし、すぐに胸が重くなる。
美佐江は、何のために管理札を探したのか。
大逃がしを開けたのは本当に彼女なのか。
そして、彼女はなぜ今になって動いたのか。
千鶴は相馬に言った。
「美佐江の連絡先は?」
「僕は知りません。ただ、湯守家の分家筋の空き家に寄っていたと聞きました。駅裏の坂を上がったところの……」
「ああ。宗吾兄さんの家だね」
千鶴はすぐに帳場の電話に手を伸ばした。
昔の連絡先を覚えているのだろう。
番号を押す指は迷わなかった。
澪は、透真の横顔を見た。
彼はずっと黙っている。
表情は硬い。
「湯守くん」
「何」
「大丈夫?」
透真は少し考えた。
「大丈夫ではない」
最近、彼はその言葉を覚えた。
それだけでも、澪は少し安心する。
「うん」
「家のことが、知らない方向から出てくるのは……気持ち悪い」
「うん」
「湯の匂いなら、流れを追えばいい。でも、家の匂いは近すぎる」
澪は、そっと言った。
「近すぎるものは、一人じゃ見えないことあるよ」
透真がこちらを見る。
「君は、時々かなり正確なことを言う」
「褒めてる?」
「かなり」
「なら受け取る」
そのやり取りを聞いていた相馬が、少しだけ目を丸くした。
たぶん、透真が誰かとこんな会話をするのが珍しいのだろう。
千鶴が電話を置いた。
「出ないね」
「留守ですか」
「呼び出しは鳴った。けれど出なかった」
「行くんですか」
透真がすぐに聞いた。
千鶴は彼を見た。
「今夜は行かない」
「でも」
「夜だ。相手がいるかも分からない。こちらも白狐沢から戻ったばかりで疲れている。こういう時に動くと、ろくなことにならない」
透真は口を閉じた。
澪は小さく言う。
「止まる練習」
「練習ではない」
「実践?」
「……実践」
千鶴が少し笑った。
「明日の朝、私が連絡を入れる。それでも出なければ、昼前に訪ねる。透真、あんたは学校」
「またですか」
「まただよ」
「僕の親戚の話です」
「だからこそ、いきなりぶつけない」
千鶴の声が少し強くなった。
「美佐江は宗吾兄さんの娘だ。兄のしたことを、たぶん誰より重く背負っている。そこへ透真が真っ直ぐ行けば、正しさで刺し合いになる」
透真は何も言えなかった。
澪にも、千鶴の言いたいことが分かった。
透真は嘘を嫌う。
ごまかしも嫌う。
だが、嘘やごまかしを抱えて生きてきた人にとって、その正しさは時々刃物になる。
「私がまず話す」
千鶴は言った。
「その後で、必要なら透真にも会わせる」
「分かりました」
透真は、今度は素直に頷いた。
相馬が深く頭を下げる。
「本当にすみませんでした」
「相馬さん」
澪は思わず声をかけた。
相馬が顔を上げる。
「その、美佐江さんって、どんな様子でしたか」
「様子?」
「怒ってました? 焦ってました? それとも、普通でした?」
相馬は少し考えた。
「普通に見えました。でも……」
「でも?」
「すごく丁寧でした。丁寧すぎて、少し怖いくらい」
澪は、その言葉を胸に留めた。
丁寧すぎる人。
真島も、最初はそうだった。
丁寧さは、時々、隠しているものを守る壁になる。
相馬は続けた。
「あと、コーヒーの匂いがしました。車で来ていたみたいで、紙コップを持っていて」
澪は透真を見た。
透真の目が少し動いた。
「消毒液は?」
透真が聞く。
「消毒液?」
「車の中に除菌剤のような匂いがありませんでしたか」
相馬は驚いた顔をした。
「あ……ありました。最近、車の中をすごくきれいにしている感じの匂いが」
白狐沢で見つかった紙包み。
煙草、安いコーヒー、車のシート、消毒液。
その一部が、美佐江につながる。
確定ではない。
でも、近づいた。
千鶴は目を閉じた。
「美佐江……何をしているんだい」
その夜、澪は椿屋に戻った。
沙織は部屋で待っていた。
今日は、澪が座る前に温かいお茶を出してくれた。
「顔に出ているわね」
「そんなに?」
「かなり」
「湯守くんみたい」
「それは困ったわね」
沙織は少し笑ったが、すぐに真面目な顔になった。
「何があったの?」
澪は迷った末、話せる範囲で話した。
白狐沢の大逃がしが開いていたこと。
湯守宗吾の管理札が落ちていたこと。
宗吾の娘、美佐江が湯守屋の蔵の札を探していたこと。
沙織は黙って聞いていた。
最後まで口を挟まなかった。
「家族の過去が出てくるのは、重いわね」
話し終えると、沙織はそう言った。
「うん」
「湯守くん、大丈夫?」
「大丈夫じゃないって言ってた」
「言えたなら、少しよかった」
「うん。私もそう思う」
澪は湯呑みを両手で包んだ。
温かい。
湯気が上がる。
この町では、湯気を見るだけで少し緊張するようになってしまった。
「お母さん」
「何?」
「もし、お母さんの家族が昔、何か隠してたって分かったら、どうする?」
沙織は少し考えた。
「怒ると思う」
「うん」
「悲しくもなると思う」
「うん」
「でも、それでその人を全部嫌いになれるかは、分からないわね」
澪は黙った。
宗吾。
宗一郎。
千鶴。
透真。
湯守家の名前が、頭の中で繋がったり、ほどけたりする。
「家族って、近いから厄介だね」
「そうね」
「匂いも分けにくいって、湯守くんが言ってた」
「それは、うまい表現ね」
「本人はたぶん、普通に言ってる」
「でしょうね」
二人で少し笑った。
翌朝、湯けむり坂で透真と会った時、彼はいつもより早く来ていた。
けれど、白狐沢へ行こうとしていたわけではないらしい。
制服をきちんと着て、鞄を持っている。
「おはよう」
「おはよう」
「寝た?」
「五時間半」
「微妙」
「でも寝た」
「まあ、昨日よりは」
透真は、坂の下を見ていた。
共同浴場の湯気は、昨日より少し戻っている。
完全ではないが、薄すぎる感じは減っていた。
「大逃がしの仮処置、効いてる?」
澪が聞くと、透真は頷いた。
「少し。湯の匂いが戻ってきている」
「よかった」
「ただ、根本はまだ」
「分かってる」
二人は歩き出した。
今日は千鶴から「学校へ行け」と念押しされている。
美佐江には千鶴が連絡する。
そう決めた。
それでも、透真の足取りは少し重かった。
「気になる?」
澪が聞く。
「気になる」
「だよね」
「美佐江さんが何を考えているのか。木札をどうやって持ち出したのか。大逃がしを本当に開けたのか」
「うん」
「それと、宗吾大伯父さんをどう思えばいいのか」
澪は、少しだけ黙った。
「無理に今決めなくていいんじゃないかな」
「決めない?」
「うん。悪いことをしたかもしれない。でも、何か理由があったかもしれない。両方置いたままでもいいと思う」
「それは、気持ちが悪い」
「分かる。でも、急いで決めると雑になる」
透真が少しだけこちらを見た。
「君に、雑と言われる日が来るとは思わなかった」
「私も言う日が来るとは思わなかった」
「成長?」
「侵食かも」
「不本意」
「私も」
小さく笑って、二人は学校へ向かった。
その日は、午前中いっぱい、何も起きなかった。
何も起きないということが、逆に落ち着かなかった。
蓮が昼休みに言った。
「今日は平和?」
「今のところ」
澪が答えると、杏が眉を上げた。
「今のところって言い方が、もう不穏」
芽衣が小さく笑う。
「でも、昨日より町の湯気戻ってない?」
「うん。少し」
透真が答えた。
「仮処置が効いてる」
「湯守、顔が少し普通に戻った」
蓮が言う。
「普段の顔を知っているような言い方」
「知ってるよ。こう、温泉成分表みたいな顔」
「不正確」
「でも近いだろ」
「近くない」
澪は笑った。
普通の昼休み。
そのありがたさが、以前より分かるようになっていた。
放課後。
校門を出ると、千鶴が待っていた。
澪は少し驚いた。
今日は迎えに来る予定ではなかったはずだ。
千鶴の表情は静かだった。
だが、目が少し疲れている。
「ばあちゃん」
透真がすぐに近づく。
「美佐江さんと話せたんですか」
「ああ」
千鶴は短く答えた。
「会ってきた」
「何と」
「美佐江は、札を持ち出したことを認めた」
澪は息を呑んだ。
「じゃあ、白狐沢の紙片も?」
「それも認めた」
透真の顔が硬くなる。
「大逃がしを開けたことも?」
千鶴は首を横に振った。
「そこは否定した」
「否定」
「自分は札と紙片を置いた。湯守家が隠してきたものを、町に見せたかった。けれど、大逃がしをこじ開けたのは自分ではない、と」
「信じますか」
透真が聞く。
千鶴はすぐには答えなかった。
「分からない」
「ばあちゃんでも?」
「美佐江は、昔から嘘が下手だった。でも、大人になってから長く会っていない。今のあの子のことを、私は知らない」
その言葉は重かった。
家族でも、知らない時間がある。
澪はそれを感じた。
「美佐江さんは今どこに?」
澪が聞くと、千鶴は振り返った。
駅前通りの向こうに、一台の白い軽自動車が停まっていた。
その横に、一人の女性が立っている。
五十代くらいだろうか。
髪は短く、薄いベージュの上着を着ている。表情は硬い。遠目でも、緊張しているのが分かった。
「あれが美佐江だよ」
千鶴が言った。
透真は、動かなかった。
澪はその横顔を見る。
「会う?」
小さく聞くと、透真は少しだけ息を吸った。
「会う」
「斬りすぎない」
「分かってる」
「約束」
「約束」
三人は、美佐江のもとへ歩いた。
近づくと、コーヒーの匂いが少しした。
紙コップではなく、車内に残った匂いだろう。
それから、除菌剤の匂い。
白狐沢の紙片に透真が言っていた匂いに似ている。
美佐江は、透真を見ると、一瞬だけ目を細めた。
「あなたが、透真くん」
「はい。湯守透真です」
「宗吾の孫ではないのに、よく似ているわね」
「誰にですか」
「湯守家の男たちに」
透真は表情を変えなかった。
だが、澪にはその言葉が少し刺さったように見えた。
美佐江は、澪へ視線を移した。
「あなたは?」
「朝比奈澪です。椿屋に滞在しています」
「外の子ね」
その言い方は冷たくはなかった。
でも、距離があった。
「なのに、ずいぶん奥まで見ている」
「巻き込まれました」
「そう」
美佐江は少しだけ笑った。
「この町は、外の子まで巻き込むのね」
千鶴が低く言う。
「美佐江」
「分かっています。嫌味を言いに来たわけではありません」
美佐江は透真を見た。
「札を置いたのは私です。紙片も」
「なぜですか」
透真が聞く。
直球だった。
だが、今日は澪も止めなかった。
美佐江は、まっすぐ答えた。
「父だけが悪者にされるのが、許せなかったから」
風が吹いた。
駅前通りの街路樹が揺れる。
「父は確かに、記録を消す側に回った。けれど、一人で決めたわけではない。旅館組合も、役場も、湯守家も、みんな関わっていた。なのに父だけが『隠した男』として残るのは違う」
「だから、大逃がしに宗吾さんの札を?」
「ええ。父の名を出せば、湯守家は逃げられないと思った」
透真の声が少し低くなる。
「町の湯を弱らせる危険があった」
「私は札を置いただけです」
「でも、結果的に大逃がしは開いた」
「だから私は開けていないと言っているでしょう」
美佐江の声が少し震えた。
怒りだけではない。
焦りもある。
「では、誰が開けたんですか」
「知らないわ」
「信じろと?」
「信じなくていい。でも、私は開けていない」
空気が張り詰める。
澪は透真の袖をそっと掴んだ。
斬りすぎない。
その合図だった。
透真は一度だけ息を吐いた。
「分かりました。今は、そう聞きます」
「今は、ね」
「はい」
美佐江は苦く笑った。
「本当に、湯守家らしい子ね。言葉が冷たい」
「よく言われます」
「でしょうね」
千鶴が口を挟む。
「美佐江。あなたは、大逃がしの場所をどうやって知った」
美佐江は少し黙った。
それから、車の後部座席から一冊のノートを取り出した。
古いノートではない。
市販の大学ノートだ。
ただ、表紙はかなり使い込まれていた。
「父の聞き書きです」
「宗吾兄さんの?」
「父が亡くなる前、少しだけ話したことを私が書いた。あの人は最後まで、全部は言わなかった。でも、大逃がしのことは何度か口にした」
千鶴の顔が険しくなる。
「見せてくれるかい」
「そのために来ました」
美佐江はノートを開いた。
そこには、細かな字で聞き書きが並んでいた。
日付。
宗吾の言葉。
美佐江自身のメモ。
その一部に、こう書かれていた。
『大逃がしは最後の逃げ道。町の湯を守るために閉じてはならない。ただし、開ければ隠したものも流れ出る。』
澪は、その一文を見てぞくりとした。
隠したものも流れ出る。
それは比喩なのか。
それとも、実際に何かが流れ出るのか。
透真が低く言った。
「美佐江さん。父上は、大逃がしの奥に何かあると言っていましたか」
美佐江は、ゆっくり頷いた。
「言っていたわ」
「何ですか」
「私は、それを確かめたくて札を置いた。でも、大逃がしを開ける勇気はなかった」
美佐江はノートの次のページを開いた。
そこには、震えた字で短く書かれていた。
『奥乃湯の本当の湯口は、まだ山にある』
澪は息を呑んだ。
千鶴も、真理も、透真も黙った。
奥乃湯の本当の湯口。
それは、今まで誰も口にしなかった言葉だった。
奥乃湯は死んだのではなく、傷ついた。
逃がし湯を戻せ。
大逃がし。
町全体の湯の薄まり。
そして、山にある本当の湯口。
透真は、ゆっくり顔を上げた。
「大逃がしを開けた人間は、それを探している」
美佐江は、無言で頷いた。
澪の胸が冷える。
大逃がしをこじ開けた誰かは、湯守家を責めるためだけではない。
奥乃湯の本当の湯口を探している。
もしそれが見つかれば、何が起きるのか。
湯が戻るのか。
それとも、町の湯がさらに乱れるのか。
もう誰にも分からなかった。




