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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第36話 白狐沢に落ちていた札

放課後までの時間は、妙に長かった。


 時計の針が進んでいるのは分かる。


 先生の声も聞こえている。


 黒板に文字が増えていくのも見えている。


 それなのに、朝比奈澪の意識は何度も窓の外へ引っ張られた。


 白峰温泉街のほう。


 湯けむりの立つ町。


 そのさらに奥、山側にあるという白狐沢。


 そこに、湯守宗吾の名が書かれた古い管理札が落ちていた。


 湯守宗吾。


 千鶴の兄。

 透真の大伯父。

 三枝側分湯を「記録外扱い」にし、外部資料へ残すなと書いた人。


 すでに亡くなっているはずの人間の名が、今朝こじ開けられた大逃がしのそばにあった。


 そんなものを聞かされて、普通に授業を受けられるはずがない。


 隣の席の透真も、見た目は普段通りだった。


 背筋は伸びているし、ノートも取っている。


 けれど、澪には分かった。


 字が少し硬い。


 ペン先が止まる時間が長い。


 そして、何より窓の外を見ないようにしている。


 見たら、行きたくなるからだ。


 昼休みの終わりに、澪は透真の机に肘を置いて言った。


「放課後まで待つ」


「分かってる」


「本当に?」


「本当に」


「鞄持って走らない?」


「走らない」


「白狐沢へ先回りしない?」


「しない」


「湯守屋へ寄るふりして山へ行かない?」


「しない」


 前の席から黒瀬蓮が振り返った。


「完全に逃走防止の確認じゃん」


「逃走ではない」


 透真が言う。


「現場確認」


「それを世間では逃走っていう場合もある」


「言わない」


「いや、お前の場合は言う」


 蓮は妙に真剣な顔で頷いた。


 杏も苦笑する。


「湯守、今日は本当に一人で行かないでよ。さすがに山の沢は危ないから」


「分かってる」


 芽衣が小さく言った。


「朝比奈さんが一緒なら、大丈夫そう」


 澪は思わず首を振る。


「いや、私はそんな安全装置じゃないよ」


 蓮がにやりと笑う。


「安全装置って言い方、湯守語じゃん」


「……最近、自分でも分かってきた」


「侵食されてるな」


「やめて」


 透真が静かに言った。


「安全装置は大事」


「そこ拾わなくていい」


 澪はそう言ってから、少しだけ笑った。


 笑っていないと、気持ちが重さに引きずられそうだった。


 放課後。


 校門を出ると、千鶴が待っていた。


 いつもの着物ではなく、動きやすい羽織に、足元はしっかりした靴だった。


 その横には、役場の田辺と、温泉設備業者の男性が二人。


 そして、少し離れて古賀真理も立っていた。


 真理はグレーのコートではなく、今日は黒に近い紺色の上着を着ている。山道を歩くためだろう。表情は緊張していたが、視線はまっすぐだった。


「お待たせしました」


 澪が頭を下げると、千鶴は軽く頷いた。


「学校はちゃんと終わったかい」


「はい」


「透真は途中で抜け出さなかったね」


「抜け出していません」


 透真が少し不満そうに答える。


「澪さんのおかげかね」


「友達として見張りました」


「見張りではなく、安全確認です」


 透真が小さく訂正する。


 澪は横目で見る。


「それ、私の言い方」


「使いやすかった」


「湯守くんに言葉を取られた」


「不本意?」


「ちょっと」


 千鶴がふっと笑った。


「さて、行こうか。白狐沢まではここから歩いて二十分ほどだ。途中までは車道、そこから山道に入る。足元に気をつけるんだよ」


 白狐沢へ向かう道は、温泉街の中心から山側へ伸びていた。


 最初は舗装された細い道だった。


 旅館の裏手や、古い倉庫、使われていない物置の横を抜ける。観光客の通る道ではない。町の人が仕事で使うような裏道だった。


 そこを過ぎると、道は急に山の匂いを強めた。


 湿った土。

 杉の葉。

 苔。

 沢の水。

 そして、ほんのかすかな湯の匂い。


 澪にも、今は少し分かる。


 水の匂いに、ただの川とは違うものが混じっている。


「湯の匂い、するね」


 澪が言うと、透真は頷いた。


「薄いけど、ある」


「町の湯がここへ逃げてる?」


「可能性はある」


「薄いって、怖いね」


「うん」


 透真は短く答えた。


 足元は滑りやすかった。


 昨日までの雨で土が柔らかくなっている。千鶴は慣れた足取りで進むが、澪は何度か靴の裏を滑らせた。


 そのたびに透真が、少しだけ立ち止まる。


「大丈夫?」


「大丈夫」


「その大丈夫は?」


「八割」


「なら、注意」


「湯守くんに言われると悔しい」


「なぜ」


「普段、私が言ってるから」


 真理が後ろで小さく笑った。


 その笑いは、少しだけ緊張を和らげた。


 白狐沢は、思っていたより小さな沢だった。


 山の斜面を細く流れる水路のような場所で、石がごろごろと転がっている。普段は水量が少ないという話だったが、その日は細い流れができていた。


 ただし、水が少し白く濁っている。


 沢の一部から湯気がわずかに立ちのぼっていた。


 普通の沢ではない。


 そこに、温かい水が混じっている。


 設備業者がすぐに温度計を入れた。


「周囲の沢水より高いです。二十七度。湯というほどではありませんが、地下から温かい水が混じっています」


 千鶴の顔が険しくなる。


「大逃がしが開いているね」


 田辺が記録用のカメラで写真を撮る。


「こちらが、今朝見つかった石組みです」


 沢の脇に、古い石組みがあった。


 山肌に半分埋もれるようにして作られた、小さな排水口のようなものだ。


 その一部が崩されている。


 自然に崩れたというより、誰かが棒か工具を差し込んでこじ開けたような跡があった。


 澪は、胸がざわつくのを感じた。


「これを誰かが開けたんですか」


 田辺が頷く。


「その可能性が高いです。古い石組みですが、傷が新しい」


 透真は石組みに近づきすぎない距離で立ち止まった。


 澪は隣に立つ。


「嗅ぎすぎない」


「分かってる」


「今のは?」


「九割」


「よろしい」


 透真は一度だけ、空気を確かめた。


 それだけで、眉を寄せる。


「湯の匂いは弱い。冷たい沢水に混じっているから。石の奥から、古い木、泥、鉄、あと……油」


「油?」


「機械油じゃない。古い灯明油か、防虫油に近い」


 千鶴が反応した。


「古い管理札と同じ匂いかい」


「たぶん」


 田辺が、透明袋に入れた木札を見せた。


 小さな長方形の木片。


 黒ずんでいて、紐を通す穴がある。


 表には、かすれた字で「大逃」と読める文字。


 裏には、墨で「宗吾」と書かれている。


 澪は、その札を見た瞬間、背中が冷たくなった。


 亡くなった人の名前が、現在の事件現場に落ちている。


 それだけで不気味だ。


 けれど、透真の顔は恐怖ではなく、違和感を拾った顔だった。


「見せてください」


 田辺が袋越しに近づける。


 透真は直接触らず、見て、それから匂いを確かめた。


「古い札です。でも、最近まで屋内にありました」


 千鶴の表情が変わる。


「分かるのかい」


「はい。山に長く落ちていた匂いじゃない。土や沢の匂いが浅い。代わりに、蔵の防虫香と乾いた木箱の匂いが残っています」


 澪は息を呑んだ。


「湯守屋の蔵?」


「かなり近い」


 透真は、慎重に言った。


「ただ、湯守屋の蔵そのものかどうかは断定できない。同じような防虫香を使っている蔵なら似る」


 千鶴は黙った。


 その横顔が、少しだけ硬くなっている。


「でも、少なくとも最近誰かが保管場所から持ち出して、ここへ置いた」


 透真は続けた。


「昔からここにあったものが出てきたわけではないと思います」


 澪は、少しだけ息を吐いた。


 湯守宗吾が生前に仕掛けたものではない。


 少なくとも、札そのものは最近置かれた。


 では、誰が。


 そしてなぜ。


 真理が静かに言った。


「宗吾さんの名前を使って、湯守家に責任を向けようとした?」


「可能性はある」


 透真が答える。


「あるいは、宗吾さんが関わった過去を示そうとした」


「告発みたいに?」


 澪が聞く。


「うん」


 千鶴が低く言った。


「兄を責めたい誰かか、湯守家を引きずり出したい誰かか」


 田辺が困った顔で言う。


「ですが、この大逃がしをこじ開けた人間は危険なことをしています。町の湯に影響が出ていますし」


「ただの嫌がらせではないですね」


 澪は呟いた。


 誰かが、町全体の湯を弱らせてまで、大逃がしを開いた。


 その目的は何か。


 湯守家を責めるためだけにしては、大きすぎる。


 透真は石組みの傷を見ていた。


「工具の跡が新しい。でも、開け方が乱暴すぎる」


「慣れていない人?」


 澪が聞く。


「力任せ。湯の流れを完全に理解している人のやり方ではない」


「じゃあ、素人?」


「たぶん。ただし、大逃がしの場所は知っていた」


 千鶴が深く息を吐く。


「場所を知る人間は限られる」


「湯守家、役場の古い資料を見た人、三枝荘関係者、古い旅館組合の家」


 透真が並べる。


「それから、最近資料を見ている人」


 真理が言った。


「私たちも含まれるわね」


「はい」


 透真は否定しなかった。


 澪は、その正確さに少しだけ胸が痛んだ。


 自分たちも候補に含める。


 それが透真のやり方だ。


 でも、だからこそ信頼できる。


「僕たちは昨日の夜から今朝まで、湯守屋と椿屋にいました。証言者はいる」


「推理小説みたいになってきたね」


 澪が小さく言うと、透真はすぐに返した。


「推理小説ではない」


「分かってる」


「これは湯の管理問題」


「そこ、絶対守るんだね」


「大事だから」


 千鶴が少しだけ笑った。


「こんな場所でも二人は二人だね」


 その時、設備業者が石組みの奥をライトで照らした。


「ちょっと待ってください。奥に何か挟まっています」


 全員の視線が向く。


 石組みの隙間、湯が流れ出している少し上。


 そこに、布のようなものが引っかかっていた。


 業者が長いピンセットで慎重に引き出す。


 濡れて、泥にまみれた小さな紙包みだった。


 防水のためか、油紙で包まれている。


 田辺が袋を用意し、その上で開いた。


 中から出てきたのは、薄い紙片。


 墨ではなく、ボールペンの文字だった。


 つまり、現代のもの。


 そこには、短い文章が書かれていた。


『湯守が隠したものを、湯守が戻せ』


 澪は息を止めた。


 千鶴の顔が険しくなる。


 透真は、無言で紙片を見た。


「湯守が隠したものを、湯守が戻せ……」


 真理が小さく読み上げる。


「これは、湯守家へのメッセージですね」


 田辺が言った。


 千鶴は黙っていた。


 透真が紙片に近づこうとしたので、澪は腕を掴んだ。


「近い」


「匂いを」


「袋越しで。あと一回だけ」


 透真は少しだけ目を丸くした。


「条件付き?」


「友達として」


「……分かった」


 田辺が袋を少し近づける。


 透真は慎重に匂いを確かめた。


「インクは新しい。紙は市販のメモ用紙。油紙は古いものを再利用している。匂いは……湯守屋の蔵ではない」


 千鶴が顔を上げる。


「違うのかい」


「木札は蔵に近い。でもこの紙包みは、煙草と安いコーヒー、車のシート、あと消毒液の匂いがする」


「消毒液?」


 澪が聞く。


「病院や薬局ほど強くない。事務所か車内に置いてある除菌剤かもしれない」


 田辺がメモを取る。


 真理が眉をひそめた。


「車……」


 澪も同じことを思った。


 真島の車か。


 だが、真島は再開発計画から一時撤退したと言っていた。


 それでも疑いは消えない。


 けれど、ここでまた単純に真島へ戻すのは違う気もした。


 透真も同じなのか、断定しなかった。


「車の匂いだけでは広すぎます」


「だよね」


 澪は頷いた。


「でも、木札と紙包みで匂いが違うってことは、木札をどこかから持ち出して、別の場所で紙包みを作った?」


「可能性が高い」


「じゃあ犯人は、湯守家の古い管理札を手に入れられる人」


「はい」


 千鶴がゆっくり言った。


「湯守家の蔵から持ち出されたなら、うちの中の人間か、出入りできる人間だね」


 澪の胸がざわつく。


 湯守屋の中。


 旅館の従業員。

 古い出入り業者。

 親族。

 資料整理に関わった誰か。


 疑いが、町の中心から湯守屋の内側へ向かっている。


 透真は何も言わなかった。


 だが、澪には分かった。


 彼はまた、自分の家を嗅がなければならない。


 それがどれほどしんどいか。


 少しだけ分かるようになってしまった。


 千鶴は石組みを見た。


「大逃がしは、応急で閉じられるかい」


 設備業者が首を振る。


「完全には危険です。圧がどこへ戻るか分からない。まずは流量を抑える仮処置なら可能です」


「それで頼む。町の湯がこれ以上薄くなると困る」


「はい」


 作業が始まった。


 沢の流れに仮の板と土嚢を使い、温かい水の流れを少しずつ抑える。


 その間、透真は少し離れて立っていた。


 澪も隣にいた。


 山の空気は冷たい。


 沢の音が耳に残る。


「湯守くん」


「何」


「今、かなり大丈夫じゃなさそう」


「……うん」


 今回はすぐ認めた。


 澪は少しだけ安心した。


「木札、湯守屋の蔵に近い匂いだったんだよね」


「うん」


「つらい?」


「つらいというより、気持ち悪い」


「匂い?」


「それもある。でも、自分の家の中に知らない流れがある感じがする」


 その言い方が、澪には痛かった。


 湯の流れだけではない。


 家の中の流れ。


 誰が何を知っていて、何を持ち出し、何を隠しているのか。


 それが分からない気持ち悪さ。


「一人で考えないでね」


 澪が言うと、透真は少しだけこちらを見た。


「うん」


「約束」


「約束」


「よろしい」


「子ども扱い?」


「友達扱い」


「最近、その違いが少し分かってきた」


 澪は、少し笑った。


「それは成長」


「やっぱり子ども扱い」


「半分」


「半分なら受け取る」


 白狐沢の仮処置が終わる頃には、空が少し暗くなり始めていた。


 設備業者の話では、町の湯量がすぐ戻るかどうかは分からないが、これ以上一気に流れ出すのは抑えられるという。


 ただし、本格的な調査と修復が必要だった。


 湯守屋へ戻る道で、千鶴はずっと黙っていた。


 真理も口数が少ない。


 田辺は役場への連絡で電話をかけ続けている。


 温泉街へ戻ると、夕方の湯けむりは朝より少し濃くなっていた。


 ただし、まだ完全ではない。


 町は、弱く息を吹き返している途中だった。


 湯守屋に着くと、帳場に若い従業員がいた。


 澪も何度か顔を見たことがある青年だ。


 名前は確か、相馬悠介。


 二十代半ばくらいで、湯守屋の雑務や風呂場の管理補助をしている。いつも明るく、客への対応も柔らかい。


 しかし、その日は顔色が悪かった。


「女将さん」


 相馬は、千鶴を見るなり頭を下げた。


「お話があります」


 千鶴の目が細くなる。


「何だい」


 相馬は、透真を見た。


 そして、すぐに目を逸らした。


 その仕草に、澪の胸が嫌な音を立てた。


 透真も気づいた。


 相馬の手が震えている。


「実は……」


 相馬は、絞り出すように言った。


「蔵の古い管理札を、先週、探していた人がいます」


 千鶴の表情が変わる。


「誰だい」


 相馬は唇を噛んだ。


「僕は、渡していません。でも、場所を聞かれました」


「誰に」


 相馬は、苦しそうに答えた。


「湯守宗吾さんの娘さんです」


 帳場の空気が凍った。


 透真が、ゆっくり顔を上げる。


「大伯父さんの……娘?」


 千鶴が低く呟いた。


「宗吾兄さんの娘……美佐江」


 また、新しい名前が出てきた。


 湯守宗吾の娘。


 消された記録を書いた男の娘。


 湯守家の外へ出ていったはずの親族。


 その人が、先週、湯守屋の蔵の管理札を探していた。


 白狐沢に落ちていた宗吾の札。


 湯守が隠したものを、湯守が戻せ。


 澪は、透真の横顔を見た。


 彼は何も言わない。


 けれど、その顔は今までで一番硬かった。


 奥乃湯の謎は、ついに湯守家のさらに奥――血のつながった親族へ伸びていた。

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