第35話 町の湯が薄い朝
湯けむり坂の朝は、いつも白い。
旅館の屋根の向こうから湯気が上がり、共同浴場の換気口から湯の匂いが流れ、饅頭屋の蒸し器の甘い湯気が坂の途中まで届く。
それが、この町の朝だった。
けれどその朝、白さが足りなかった。
朝比奈澪にも分かった。
温泉街の空気が、いつもより薄い。
湯気の量だけではない。匂いそのものが、どこか遠い。湯の匂いが消えたわけではないのに、鼻の奥へ届く前にほどけてしまうような、頼りない匂いだった。
坂の下の共同浴場から出てきた老人たちが、不満そうに話している。
「今朝の湯、ぬるかったな」
「匂いも弱い。昨日までと違うぞ」
「三枝荘だけじゃなかったのか?」
その言葉に、澪の胸が冷えた。
三枝荘だけではない。
奥乃湯だけでもない。
町全体の湯が、何かおかしい。
隣の湯守透真は、すでに顔つきが変わっていた。
いつもの無表情ではない。
匂いの違和感を拾い、頭の中で地面の下の流れを追っている顔だった。
「湯守くん」
「湯守屋へ寄る」
「うん。行こう」
今回は止めなかった。
学校へ行く朝だ。
でも、これはただの寄り道ではない。
町の湯が異変を起こしている。
そう思うと、澪も足を止められなかった。
二人は坂を少し下り、湯守屋へ向かった。
途中、旅館の前で掃き掃除をしていた女性が、透真に気づいて声をかけた。
「透真くん、ちょっといい? 今朝、うちの湯も変なのよ。湯温が少し低くて」
別の土産物屋の主人も顔を出す。
「共同浴場の番台も騒いでたぞ。湯量がいつもより弱いって」
透真は短く頷いた。
「湯守屋で確認します」
「頼むよ。お客さんに何て言えばいいか」
「まだ断定しないでください」
「え?」
「原因が分からないうちに『湯が止まる』とか『枯れた』とか言うと、噂だけ先に走ります」
主人は口をつぐんだ。
澪は横で、その言い方が少し柔らかくなっていることに気づいた。
前の透真なら、もっと刃物みたいに言ったかもしれない。
今は違う。
正確さはそのままに、人が受け取りやすい順番を少し考えている。
たぶん、少しずつ変わっている。
本人に言うと不本意そうな顔をするので、今は言わなかった。
湯守屋の玄関は、朝から慌ただしかった。
帳場では千鶴が電話を受けている。
「はい。ええ、湯温が二度ほど低い……分かりました。入浴は無理に続けないで。こちらで確認します」
受話器を置くと、またすぐに電話が鳴る。
千鶴は澪と透真に気づくと、目だけで奥へ入るよう促した。
帳場の横には、すでに数枚のメモが並んでいた。
共同浴場。
椿屋。
山吹旅館。
三枝荘。
町営足湯。
どれも湯温低下、湯量減少、匂いの弱まり。
澪はメモを見て、思わず呟いた。
「こんなに……」
「町全体だね」
千鶴が電話を終え、低く言った。
「昨日の夜から、奥乃湯の湯気が止まった。それだけなら奥乃湯周辺の話で済む。でも今朝は町の湯まで薄い」
透真がメモを見つめる。
「源泉側か、分湯側です」
「そうだろうね」
「三枝荘の湯を止めた影響だけでは、町全体には広がりにくい」
「では?」
「どこか大きい逃げ道が開いた可能性があります」
澪は眉をひそめた。
「大きい逃げ道?」
「湯が本来流れるべき町側ではなく、別の場所へ流れている。あるいは、圧が抜けている」
「それって、温泉が漏れてるってこと?」
「近い」
千鶴の顔が険しくなる。
「大逃がしか」
透真が顔を上げた。
「大逃がし?」
「昔、湯守宗一郎……私の父が話していた。町の湯が暴れた時、圧を山側へ逃がす古い水路があると」
「図面にありましたか」
「昨日の資料にはなかった」
「では、蔵の別資料か、湯守家だけの口伝」
「そうなるね」
澪は二人を見る。
また新しい言葉が出た。
北逃がし。
三枝側分湯。
今度は大逃がし。
地面の下には、まだ知らない道がある。
透真は息を吸いかけ、すぐに澪を見た。
澪も見返す。
「何?」
「嗅ぎすぎない」
「自分で言った」
「先に言っておく」
「よろしい」
千鶴が少しだけ笑った。
「二人とも、息が合ってきたね」
「合ってません」
声が重なった。
澪は一瞬だけ透真と目が合い、気まずくなって視線を逸らした。
千鶴は笑っていたが、すぐに表情を戻した。
「学校には私から連絡する。二人は一時間目には間に合わないかもしれない」
「すみません」
澪が言うと、千鶴は首を振った。
「澪さんまで巻き込んで悪いね」
「もう関係者なんですよね」
「そうだよ」
「なら、途中で放り出すほうが怖いです」
千鶴は、少し目を細めた。
「強くなったね」
「怖いだけです」
「怖いと言える人は強いよ」
澪は何も言えなくなった。
透真が静かに言う。
「まず湯分け升を見ます」
「そうだね」
「湯分け升?」
澪が聞くと、透真が説明した。
「湯守屋の裏手にある古い分湯設備。源泉から来た湯を各宿や共同浴場へ分ける場所です。今は新しい配管も併用されていますが、古い流れを見るにはそこが早い」
「そこが町の心臓みたいなもの?」
「心臓というより、分岐点」
「そこは心臓でいいじゃん」
「不正確」
「こういう時でも?」
「こういう時だから」
千鶴が口を挟んだ。
「澪さんの言い方でいい。町の湯の心臓だよ」
透真は不本意そうに口を閉じた。
湯分け升は、湯守屋のさらに奥、山側へ少し上った場所にあった。
移動にかかったのは十分ほどだった。
学校とは逆方向だが、町の中心から大きく外れるわけではない。湯守屋の裏庭を抜け、苔むした石段を上がり、低い石垣に囲まれた小さな建物へ向かう。
そこは観光客が来る場所ではなかった。
木造の小屋の中に、石でできた大きな升がある。
蓋を開けると、普段なら湯気が勢いよく上がるらしい。
しかし、その朝。
蓋を少し開けても、湯気は薄かった。
澪でも分かるほどに。
千鶴の顔が硬くなる。
「ここまで弱いとはね」
透真は小屋の入口で立ち止まった。
「近づきすぎない」
澪が言う前に、彼は言った。
「分かってる」
「よろしい」
湯守屋の若い従業員が温度計を持ってきていた。
千鶴が湯温を確認する。
「いつもより三度低い」
「湯量も少ないです」
従業員が言った。
「昨夜の確認では、ここまでではありませんでした」
透真は、小屋の外から空気を確かめている。
顔を近づけない。
それでも、眉間に皺が寄っていた。
「硫黄が弱い。鉄も弱い。湯そのものが薄い」
「水で薄まった?」
澪が聞く。
「可能性はある。冷たい地下水が混じったか、湯が別ルートへ逃げているか」
千鶴が小屋の奥を見た。
「父が言っていた大逃がしは、ここの裏手から山沢へ抜けるはずだ」
「山沢?」
「白狐沢。普段は水の少ない沢だよ。大雨の後だけ流れが出る」
「そこへ湯が流れているかもしれない?」
「そうなら、町の湯が薄くなる説明にはなる」
透真が言った。
「ただ、大逃がしが自然に開いたのか、誰かが触ったのか」
その言葉に、空気が重くなる。
また誰か。
もう何度目だろう。
誰かが掘った。
誰かが塞いだ。
誰かが消した。
誰かが見逃した。
温泉街の謎は、いつも誰かの手から始まっている。
「見に行くんですか」
澪が聞くと、千鶴はすぐには答えなかった。
「白狐沢は、ここから山側へさらに十五分ほどだ。道はあるけれど、朝のうちに高校生を連れて行く場所ではない」
透真が口を開きかけた。
澪は先に言った。
「学校には?」
透真が止まる。
千鶴が頷いた。
「まず学校へ行きなさい」
「でも、町の湯が」
「だからこそ、大人が動く。役場と設備業者を白狐沢へ向かわせる。透真、あんたは学校へ行く」
「ばあちゃん」
「湯が弱っている時に、あんたまで倒れる必要はない」
その言葉には、祖母としての強さがあった。
透真は反論しようとした。
けれど、澪が横から言った。
「学校行こう」
「朝比奈さん」
「今ここで湯守くんが行っても、できることは限られてるんでしょ。匂いを嗅ぎすぎて具合悪くなる可能性のほうが高い」
「でも」
「白狐沢の結果を待とう。放課後なら、状況も分かってる」
透真は黙った。
小屋の中から、薄い湯気が上がる。
町の心臓が、弱く息をしている。
それを前にして待つのは、透真にはつらいはずだ。
でも、待つことも必要だ。
昨日、千鶴が言ったように。
「分かった」
透真は小さく答えた。
澪は、ほっと息を吐いた。
「えらい」
「また」
「友達として」
「……受け取る」
千鶴は二人を見て、少しだけ笑った。
「本当に、いい友達ができたね」
透真は何も言わなかった。
ただ、湯分け升の薄い湯気を見つめていた。
学校には、二時間目の途中で着いた。
今度の遅刻理由は、千鶴が連絡していた。
家の用事。
相変わらず雑だ。
教室に入ると、蓮がこちらを見て口だけで言った。
「また?」
澪は小さく頷いた。
透真は席に着くなり、ノートを開いた。
しかし、授業に集中しているようには見えない。
当然だ。
町の湯が薄くなっている。
湯分け升の湯温が下がっている。
白狐沢へ湯が逃げているかもしれない。
それを知った状態で、数学の二次関数を解けというほうが無理だ。
昼休み、蓮たちがすぐに集まってきた。
「今度は何?」
蓮が聞く。
澪は弁当箱を開けながら、言える範囲で話した。
「町全体の湯が、少し弱くなってるみたい」
杏が眉をひそめる。
「それ、大丈夫なの?」
「まだ分からない」
芽衣が不安そうに言う。
「温泉街で湯が弱いって、かなり大変だよね」
「うん」
透真が箸を置いた。
「ただ、すぐに枯れるという話ではない」
蓮が真面目な顔で頷く。
「そういう言い方、大事だな」
澪は少し驚いた。
蓮が茶化さなかった。
彼なりに、最近の噂の怖さを見ているのだろう。
「学校でも噂出てる?」
澪が聞くと、杏が頷いた。
「朝から共同浴場がぬるかったって、地元の子が言ってた。でも、昨日のことがあるから、みんなちょっと慎重になってる」
芽衣が続ける。
「朝比奈さんが昨日言ったからだと思う。雑に言わないほうがいいって」
「私だけじゃないよ。みんなが止めてくれたから」
澪が言うと、蓮が胸を張った。
「俺は『湯守が来るぞ』でだいぶ止めた」
「それ、私の評判に関わる」
透真が言う。
「もう遅い。偏屈湯守探偵として定着しつつある」
「探偵ではない」
「そこは守るんだな」
少し笑いが起きた。
けれど、その奥に不安は残っている。
昼休みの終わり頃、澪のスマホが震えた。
千鶴からだった。
廊下へ出て電話に出る。
「はい」
『澪さんかい。透真は近くにいる?』
「教室です」
『じゃあ、先に澪さんに言うよ』
千鶴の声は、いつもより低かった。
澪は背筋を伸ばす。
「何か分かりましたか」
『白狐沢で、温かい水が流れていた』
胸が跳ねる。
『湯分け升から逃げている可能性が高い。ただし、もっと妙なものが見つかった』
「妙なもの?」
『沢の石組みに、新しい傷があった。自然に開いたんじゃない。誰かが、古い大逃がしをこじ開けた可能性がある』
澪は、言葉を失った。
また、誰か。
でも三枝でも真島でもないはずだ。
彼らは今、町の視線の中にいる。
「誰が……」
『まだ分からない。ただ、現場に小さな木札が落ちていた』
「木札?」
『古い湯守家の管理札だよ』
澪の手に力が入った。
『しかも、裏に文字があった』
「何て書いてあったんですか」
電話の向こうで、千鶴が一度息を吐いた。
『宗吾』
湯守宗吾。
記録外扱いの覚書を書いた人。
千鶴の兄。
すでに亡くなっているはずの人。
『兄の名が書かれた札が、今朝こじ開けられた大逃がしのそばに落ちていた』
廊下の空気が、急に冷たくなった。
澪は教室の扉の向こうを見る。
透真が、こちらを見ていた。
何かあったと気づいている。
澪は電話を握りしめた。
「千鶴さん」
『ああ』
「湯守くんに、伝えます」
『頼むよ。でも、今すぐ走らせないでおくれ』
「分かってます」
『友達として?』
こんな時なのに、千鶴の声には少しだけ笑いが混じっていた。
澪は小さく息を吐いた。
「友達として」
電話を切る。
教室へ戻ると、透真が立ち上がっていた。
「何があった?」
澪は、まっすぐ彼を見た。
「白狐沢で、温かい水が流れてたって。大逃がしが開いてる可能性が高い」
「やはり」
「それと」
澪は、言葉を選んだ。
ここは教室だ。
でも、透真には言わなければならない。
「現場に、湯守宗吾さんの名前が書かれた古い管理札が落ちてたって」
透真の顔から、表情が消えた。
蓮たちも黙る。
教室のざわめきが遠くなる。
「大伯父さんの?」
「うん」
「亡くなっている」
「うん」
「なら、誰かが持ってきた」
「たぶん」
透真は鞄に手を伸ばしかけた。
澪は、その手首を掴んだ。
「行かない」
「でも」
「授業中に山へ行かない。千鶴さんにも言われた」
「朝比奈さん」
「行くなら放課後。大人と一緒。約束」
透真は、澪の手を見た。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……分かった」
「本当に?」
「本当に」
蓮が小声で言った。
「朝比奈さん、完全にブレーキ役だな」
澪は透真の手首を離しながら言った。
「ブレーキっていうか、安全装置」
「それ、湯守語じゃね?」
「今、自分でも思った」
透真が、少しだけ口元を緩めた。
けれど、その目は笑っていなかった。
湯守宗吾の管理札。
それは、過去が現在に投げ込んできた新しい石だった。
大逃がしを開けたのは誰なのか。
なぜ、亡くなった宗吾の名がそこにあるのか。
町の湯を薄くしたのは、事故なのか、誰かの意思なのか。
放課後まで、まだ数時間ある。
澪は窓の外を見た。
遠くに、温泉街の湯けむりが薄く揺れている。
その薄さが、今はとても怖かった。




