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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第34話 湯気が消えた夜に、町は息を止める

 奥乃湯の湯気が止まった。


 その一言は、帳場の空気を一瞬で冷やした。


 湯守屋の帳場奥には、古い紙の匂いがまだ残っていた。


 湯守宗一郎の手紙。

 湯守宗吾の覚書。

 古賀源一郎の湯帳。

 役場台帳の写し。

 北逃がしと三枝側分湯の図面。


 何十年も地面の下や蔵の奥や台帳の隙間に隠されていたものが、ようやく座卓の上に並んだばかりだった。


 その直後に、奥乃湯の湯気が止まった。


 朝比奈澪は、意味をすぐには理解できなかった。


 湯気が止まる。


 それは、一見すると落ち着いたようにも聞こえる。


 危ない湯気が消えた。

 鉄臭い匂いが弱まった。

 奥乃湯が静かになった。


 でも、千鶴の顔はそうではなかった。


 電話の受話器を握ったまま、湯守千鶴はまるで遠い昔の火事をもう一度見た人のような顔をしていた。


「……今、誰が確認していますか」


 千鶴の声は低い。


 電話の向こうの相手は、おそらく役場か消防団だろう。


「はい。建物には近づかないで。陥没穴にも。湯気が止まった時ほど、中で圧が変わっていることがある」


 その言葉に、透真の目が鋭くなった。


 澪は思わず彼を見る。


 透真は立ち上がっていた。


 何も言わない。


 けれど、もう体が奥乃湯の方角へ向いている。


 澪は反射的に、彼の袖を掴んだ。


「湯守くん」


「まだ何も言ってない」


「顔が行くって言ってる」


「……行く必要があるかもしれない」


「一人では行かない約束」


「分かってる」


「今の『分かってる』は半分くらい?」


 透真は口を閉じた。


 澪は袖を離さなかった。


 千鶴が電話を切り、こちらを向いた。


「透真」


「はい」


「行かないよ」


「でも」


「今行っても、できることはない。役場と消防が立入禁止線の外から確認している。設備業者も呼んでいる。夜に高校生を連れて、湯気の止まった奥乃湯へ行くほど、私は耄碌していない」


 透真は言葉を飲み込んだ。


 けれど、納得はしていない顔だった。


「湯気が止まるのは、危険なんですか」


 澪が聞くと、千鶴は少しだけ目を伏せた。


「安全になる時もある」


「でも、そうじゃない時もある?」


「ああ」


 千鶴は座卓の上の図面を指で押さえた。


「湯が出ていた場所から湯気が消える時、単純に流れが落ち着いた場合もある。でも、どこかが詰まって、逃げ場を失った場合もある。人間で言えば、泣きやんだんじゃなく、息を止めたようなものだ」


 澪の背筋が冷えた。


 泣きやんだのではなく、息を止めた。


 奥乃湯が、息を止めた。


 その表現は、妙に生々しかった。


 透真が図面を見つめる。


「三枝荘の湯を止めた影響かもしれません」


「そうだね」


「竹管側の流れが止まって、逃がし湯側の圧が変わった」


「あるいは、北逃がしの奥で別の詰まりが動いた」


「奥乃湯の陥没穴の湯気が止まったなら、圧が別の場所へ移った可能性もあります」


「だから今、近づくのは危ない」


 千鶴がきっぱり言った。


 透真は、悔しそうに黙った。


 澪は、ようやく袖を離した。


「湯守くん」


「何」


「止まれたね」


 透真は少しだけこちらを見た。


「止められた」


「それでも止まれた」


「……そうかもしれない」


 千鶴が小さく息を吐いた。


「成長したねえ」


「ばあちゃんに言われると落ち着きません」


「澪さんに言われても落ち着いていないだろう」


「それは」


 透真は珍しく言葉に詰まった。


 澪は、少しだけ頬が熱くなるのを感じて目を逸らした。


 こんな時に何を意識しているのだろう、と思う。


 けれど、重い話ばかりの中で、ほんの少しだけ普通の高校生みたいな空気が挟まることが、救いでもあった。


 その夜、湯守屋には何度も電話が入った。


 役場。

 消防団。

 設備業者。

 椿屋のふみ。

 三枝荘の芳江。

 そして古賀真理。


 千鶴はそのたびに短く状況を聞き、指示を出した。


 奥乃湯の陥没穴からの湯気は、ほぼ止まった。

 鉄臭さも弱まった。

 ただし、地面の温度はまだ高い箇所がある。

 建物内部には入っていない。

 北側逃がし湯周辺も夜間確認はせず、立入禁止を継続。

 三枝荘の浴場は湯を止めたまま。

 濁った湯は排水せず、採取した分だけ検査へ回す。


 澪は、帳場の椅子に座ってそれを聞いていた。


 母の沙織には電話した。


 帰りが遅くなるかもしれないこと。


 湯守屋にいて危ない場所へは行っていないこと。


 怖いかと言われたので、少し怖いと答えた。


 沙織は、電話の向こうで静かに「分かった」と言った。


 それだけで、澪は少し落ち着いた。


 怖いと言っても、大丈夫な時がある。


 最近、ようやくそれが分かってきた。


 透真は座卓の前で、図面と湯帳を見比べていた。


 ただし、千鶴から「今日は読むだけ。嗅ぐな。考えすぎるな」と釘を刺されている。


 無茶な注文だと澪は思ったが、透真は案外守っていた。


 時々、眉間に皺が寄る。


 そのたびに澪が見つめると、彼は図面から顔を上げる。


「嗅いでない」


「まだ何も言ってない」


「言われる前に」


「よろしい」


「完全に監督されている」


「友達として」


「便利な言葉だね」


「雑には使ってない」


「知ってる」


 いつものやり取り。


 けれど、今夜はその言葉の隙間にも緊張があった。


 奥乃湯が沈黙している。


 それだけで、町全体が息を潜めているようだった。


 湯守屋の外を通る人の足音も少ない。


 普段なら夜の温泉街には、湯上がりの客の笑い声や下駄の音がある。だが今夜は、どこか遠慮がちだった。


 噂は広がっている。


 奥乃湯の湯気が止まった。

 三枝荘の湯が濁った。

 昔の記録が出てきた。

 湯守家も関わっていたらしい。


 町は、何か大きなものの前で黙っている。


 そう感じた。


「澪さん」


 千鶴が声をかけた。


「はい」


「今日はもう、椿屋へ戻りなさい。透真が送る」


「でも、奥乃湯のこと」


「今夜は動かない。動かないことも大事だよ」


 千鶴は透真を見る。


「特に、この子にはね」


「僕だけですか」


「主にね」


「反論しにくい」


「しなくていい」


 澪は立ち上がった。


 正直、疲れていた。


 頭の奥に、古い紙の文字と湯気の白さがこびりついている。


 椿屋に戻って、母の顔を見たかった。


 透真は鞄を手に取った。


「送る」


「うん」


 外へ出ると、夜の温泉街は冷えていた。


 湯けむりはいつもより薄く見える。


 奥乃湯の方角は、暗い。


 そちらへ続く路地には、遠くに立入禁止の灯りが小さく揺れていた。


 澪は、無意識に足を止める。


「湯気、本当に見えないね」


「うん」


 透真も同じ方向を見ていた。


「匂いは?」


「ここからは分からない。風向きが違う」


「よかった」


「よかった?」


「分かったら、湯守くん絶対行きたくなるから」


「否定できない」


「否定してほしかった」


「嘘になる」


 澪は少し笑った。


 そして、すぐにその笑いを飲み込んだ。


「怖いね」


「うん」


 透真は、今度はすぐに頷いた。


「湯気が出てる時より、止まった今のほうが怖い」


「どうして?」


「湯が何をしているか見えないから」


「人も同じ?」


 澪が聞くと、透真は少し考えた。


「たぶん」


「泣いてる時より、黙ってる時のほうが怖いことあるよね」


「うん」


「三枝さんも、千鶴さんも、古賀さんも、ずっと黙ってたんだね」


「町も」


 透真が言った。


 澪は頷いた。


 町が黙る。


 その沈黙が、地面の下で湯を濁らせる。


 そう考えると、奥乃湯の湯気が止まったことが、ただの自然現象には思えなかった。


 椿屋に着くと、玄関の灯りがついていた。


 沙織が待っていた。


 ふみもいた。


 二人とも、澪と透真の姿を見ると、同時にほっとした顔をした。


「おかえり」


 沙織が言う。


「ただいま」


 澪が答える。


 透真は丁寧に頭を下げた。


「遅くなってすみません」


「送ってくれてありがとう」


 沙織は微笑んだ。


「湯守くんも、今日はちゃんと休んでね」


 透真は少し驚いた顔をした。


「はい」


「本当に?」


 澪がすかさず聞く。


「……努力する」


「そこは約束」


「約束する」


 ふみが小さく笑った。


「澪ちゃん、すっかり透真くんの扱いに慣れたのね」


「慣れたくて慣れたわけでは」


「僕の扱いとは」


 透真が言うと、沙織まで笑った。


 その笑いで、夜の緊張が少しだけほどけた。


 透真は湯守屋へ戻っていった。


 澪は玄関先でその背中を見送った。


 夜の湯けむりの中に、彼の姿が少しずつ小さくなる。


 ふと、彼が途中で奥乃湯の方角を見ないか心配になった。


 だが透真は振り向かなかった。


 まっすぐ湯守屋へ戻っていった。


「止まれたね」


 澪が小さく呟くと、沙織が隣で聞いた。


「誰が?」


「湯守くん」


「そう」


 沙織は穏やかに言った。


「澪もね」


「私?」


「怖い場所に引っ張られすぎず、戻ってきたでしょう」


 澪は少しだけ黙った。


「そうかな」


「そうよ」


 母にそう言われると、少し胸が温かくなった。


 その夜、澪はなかなか眠れなかった。


 布団に入っても、奥乃湯のことが頭から離れない。


 湯気が止まった奥乃湯。

 濁った三枝荘の湯。

 湯守宗一郎の手紙。

 宗吾の覚書。

 古賀源一郎の湯帳。


 全部が繋がっている。


 でも、どこか一つだけ、まだ見えていない気がした。


 奥乃湯が湯気を止めた理由。


 それは、三枝荘の湯を止めた影響だけなのか。


 それとも、北逃がしのさらに奥で、何かが動いたのか。


 澪は布団の中で、目を閉じた。


 鼻の奥に、温泉街の匂いが残っている。


 湯の匂い。


 古い木の匂い。


 夜の土の匂い。


 そして、ほんのかすかな鉄の匂い。


 気のせいかもしれない。


 でも、消えない。


 翌朝。


 温泉街は晴れていた。


 久しぶりに、山の稜線がはっきり見える朝だった。


 澪は椿屋の玄関を出て、いつものように湯けむり坂へ向かった。


 坂の下には、透真がいた。


 ちゃんと制服を着て、ちゃんと鞄を持っている。


 顔色は昨日より良かった。


「おはよう」


「おはよう」


「寝た?」


「寝た」


「何時間?」


「六時間」


「よろしい」


「完全に確認項目になっている」


「必要だから」


 澪は少し笑った。


 だが、透真は笑わなかった。


 彼は温泉街の奥を見ていた。


 奥乃湯の方角。


「湯守くん?」


「匂いが変わった」


 澪の胸が跳ねる。


「奥乃湯?」


「たぶん。風が少し回っている」


「何の匂い?」


 透真は、ゆっくり息を吸った。


 そして、眉をひそめる。


「鉄が弱い」


「いいこと?」


「分からない」


「他には?」


「硫黄も弱い。泥も弱い」


「じゃあ、落ち着いた?」


 透真は首を横に振った。


「違う」


「違う?」


「湯の匂いが、薄すぎる」


 澪は、言葉を失った。


 湯の匂いが薄すぎる。


 温泉街で、その言葉は妙に怖かった。


 透真は続ける。


「奥乃湯だけじゃない。坂の下の共同浴場の湯気も、少し薄い」


 澪は坂の下を見た。


 いつもなら朝から白く湯気を上げている共同浴場の屋根。


 今日は、たしかに湯気が少ない気がする。


 気のせいかもしれない。


 けれど、透真が言うなら気のせいではないのだろう。


「まさか、他の湯にも影響が?」


「分からない」


 透真は低く答えた。


「でも、町全体の湯が少し静かすぎる」


 その時、坂の下から老人の声が聞こえた。


「おい、今朝の湯、ぬるくねえか?」


 共同浴場から出てきた老人が、番台のほうへ声をかけている。


 別の老人も言った。


「いつもより湯が軽いな。匂いも薄い」


 澪は、透真を見る。


 透真の顔は、完全に変わっていた。


 奥乃湯だけではない。


 三枝荘だけでもない。


 町全体の湯が、何かに反応している。


 学校へ行く朝のはずだった。


 けれど、湯けむり坂の空気はもう、日常のものではなかった。


 透真は、鞄を握りしめた。


「朝比奈さん」


「何?」


「学校に行く前に、湯守屋へ寄る」


「千鶴さんに連絡?」


「うん」


「一人じゃないよ」


「分かってる」


 澪は頷いた。


 今回は止めなかった。


 これは、寄り道ではない。


 町の湯が、声を上げている。


 いや。


 声を消している。


 湯気を止め、匂いを薄め、温度を下げている。


 その沈黙は、叫びよりもずっと怖かった。

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