第33話 湯守家の蔵は、家族の匂いがした
翌日の放課後、湯守屋の蔵を開けることになった。
朝ではない。
昼でもない。
ちゃんと学校へ行き、授業を受け、昼休みに黒瀬蓮から「今日は蔵? 遺跡発掘?」と雑に聞かれ、湯守透真が「遺跡ではない。家の資料整理」と訂正し、杏に「それを放課後にやる高校生、やっぱり珍しいよ」と言われてからの話だった。
朝比奈澪は、湯守屋の裏手に立っていた。
夕方の空は薄く曇っている。雨は降っていないが、山からの風に少し湿り気があった。温泉街の湯けむりは、低く屋根の間を流れている。
湯守屋の蔵は、宿の奥、庭を抜けた先にあった。
白い漆喰の壁。
黒い瓦屋根。
重そうな木の扉。
古びてはいるが、手入れはされている。
昨日の役場資料室とは、匂いが違った。
役場は紙と蛍光灯とコピー機の匂いだった。
この蔵は、もっと生き物に近い。
古い木。
土壁。
乾いた藁。
墨。
防虫香。
そして、湯守屋の奥に染みついた、かすかな温泉の匂い。
「家の匂いだね」
澪が言うと、隣の透真が少しだけこちらを見た。
「そう?」
「うん。役場の資料室とは違う」
「それはそう」
「湯守くんには、どう匂うの?」
透真は蔵の扉を見たまま、少し黙った。
すぐに答えないのは珍しかった。
「……分けにくい」
「分けにくい?」
「古い紙、木、土壁、防虫香、鉄の鍵。それは分かる。でも、その下に家の匂いがある。慣れすぎていて、逆に分けにくい」
澪は、その言葉に少しだけ胸を突かれた。
家の匂い。
近すぎるものほど、分からない。
それは人間関係にも似ているのかもしれない。
千鶴が鍵束を持ってやって来た。
「二人とも、神妙な顔をしているね」
「蔵が重そうなので」
澪が答えると、千鶴は小さく笑った。
「重いよ。中身も、気分もね」
「開ける前から怖いこと言わないでください」
「怖いものは怖いと言う約束だろう?」
「それはそうですけど」
千鶴は、鍵を差し込んだ。
ぎい、と重い音がして、扉が開く。
中から冷たい空気が流れてきた。
澪は思わず一歩引いた。
埃っぽい。
けれど、ただ汚れている匂いではない。
長い間、誰かが開けるのを待っていたものの匂いだった。
「マスク」
透真が言う前に、千鶴が二人へ布マスクを渡した。
「今日は長くなるかもしれない。無理だと思ったらすぐ出ること」
「はい」
澪は素直に受け取った。
透真も受け取ったが、千鶴は彼をじっと見た。
「透真」
「はい」
「今日は、嗅ぎすぎない」
「分かっています」
「怪しいね」
「本当に分かっています」
澪は横から言った。
「見張ります」
「頼むよ」
「朝比奈さんまで」
「友達として」
透真は、もう反論しなかった。
少しだけ諦めたような顔をする。
蔵の中には、古い木箱がいくつも積まれていた。
旅館の帳簿。古い宿泊名簿。使わなくなった看板。湯治客からの礼状。壊れた行灯。昔の温泉成分表。
千鶴は迷わず奥へ進んだ。
「湯務関係の箱は、このあたりだ」
澪は思わず言う。
「やっぱり場所、分かってたんですね」
「分かっていたよ」
「昨日は探すって言ってたのに」
「探したくなかった、が正しいね」
千鶴の声は静かだった。
冗談にしなかった。
「役場の台帳に湯守家の印があった。なら、ここに何か残っている。そう思っていた。でも、見るのが少し怖かった」
透真が千鶴を見る。
「ばあちゃんでも?」
「私でも怖いものはある」
千鶴は、古い木箱の前にしゃがんだ。
箱の蓋には墨でこう書かれていた。
『湯務控 昭和末期以前』
その文字は、薄くかすれている。
千鶴は、しばらく手を置いたまま動かなかった。
それから、ゆっくり蓋を開けた。
中には、紐で束ねられた書類が入っていた。
古い紙の匂いが一気に立つ。
透真がわずかに顔をしかめた。
澪はすぐに言った。
「一回下がる?」
「まだ大丈夫」
「半分の大丈夫?」
「七割」
「微妙」
「でも言い換えた」
「進歩ではある」
千鶴が小さく笑った。
「二人の会話は、埃っぽい蔵でも湿度が上がるね」
「湿度?」
透真が反応する。
「温泉成分の話じゃないよ」
「分かっています」
「本当に?」
「半分くらい」
澪は吹き出しそうになったが、資料の前でなんとか堪えた。
千鶴は書類の束を一つ取り出した。
そこには『奥乃湯北側湯路関係』と書かれていた。
澪の胸が跳ねる。
「ありますね」
「あったね」
千鶴の声は低かった。
紐をほどく。
中から出てきたのは、古い図面と数枚の覚書だった。
役場台帳で見たものとは違う。
湯守屋側で控えとして残したものらしい。
透真が図面を見た瞬間、静かに息を吸った。
「北逃がし。三枝側臨時分湯。奥乃湯湯口。全部載っています」
澪も覗き込んだ。
正直、線だけではよく分からない。
けれど、透真の指が示すと少し見えてくる。
奥乃湯から北へ伸びる逃がし湯。
そこから斜めに三枝荘方面へ引かれた細い線。
その横に、小さく書かれた文字。
『臨時。調査終了後、復旧要』
澪は息を呑んだ。
「復旧要」
「戻す必要がある、という意味」
透真が言った。
「つまり、湯守家も一時的なものだと認識していた」
千鶴は図面を見つめていた。
顔色が少し悪い。
「この字は……父の字だね」
「お父さん」
「ああ。湯守宗一郎。私の父だ」
真理の父が古賀源一郎。
千鶴の父が湯守宗一郎。
名前の響きが少し似ていることに、澪は今さら気づいた。
源一郎と宗一郎。
同じ時代に、同じ湯を見ていた二人。
けれど、立場は違ったのだろう。
「この図面を見る限り、湯守家は三枝側分湯を正式に把握していた」
透真が言った。
声は落ち着いている。
だが、澪には分かった。
彼はかなり無理をしている。
「でも、復旧要と書いてあります。つまり、戻す前提だった」
千鶴は、次の紙を開いた。
覚書だった。
日付は奥乃湯の小火より前。
『旅館組合要請により、三枝荘側へ臨時導水を確認。奥乃湯北逃がしの流れ弱まる。長期化不可。古賀氏、強く反対。三枝勝蔵氏、旅館組合決定を主張』
澪は、文章を目で追いながら、少しずつ状況を想像した。
町が焦っていた。
三枝荘の湯を支えるため、臨時の分湯を認めた。
奥乃湯の逃がし湯は弱まった。
源一郎は反対した。
三枝勝蔵は、組合で決まったことだと押し切った。
湯守宗一郎は、それを確認した。
けれど、止めきれなかった。
「湯守家は、見逃したんですか」
澪は、言ってから少し後悔した。
言葉が強かった。
でも、千鶴は怒らなかった。
「そうかもしれない」
千鶴は言った。
「少なくとも父は、危険だと分かっていながら、組合決定を止めきれなかった」
透真は、黙っていた。
澪は彼の横顔を見る。
湯守家。
湯を守る家。
その家が、守れなかった。
その事実は、透真にとってどれほど重いのだろう。
千鶴がさらに紙をめくった。
そこに別の筆跡があった。
宗一郎の字より少し荒い。
強く、角ばった字。
『組合決定につき記録外扱い。外部資料へ残すべからず。奥乃湯休業の場合、三枝荘湯路を独立扱いへ移行』
透真の顔が変わった。
千鶴が息を止める。
「これは……兄の字だ」
「お兄さん?」
澪が聞く。
「湯守宗吾。私の兄だ」
千鶴の声が硬くなった。
「父が倒れてから、一時期、湯務の実務を任されていた」
「宗吾さんは?」
「もう亡くなっている」
蔵の空気が、さらに冷たく感じた。
湯守宗吾。
今まで出てこなかった名前。
湯守家の中で、記録を外す側にいたかもしれない人。
透真が低く言う。
「記録外扱い」
「そう書いてある」
「外部資料へ残すべからず」
「そうだね」
「つまり、兄さん……大伯父さんは、消す意思を持っていた」
千鶴は黙った。
その沈黙が、肯定のようだった。
澪は胸が重くなった。
役場の台帳で消された記録。
三枝荘が独自源泉扱いになった経緯。
その裏に、湯守家の人間が関わっていた。
しかも、ただ見逃しただけではない。
消す側に回った可能性がある。
「ばあちゃんは、知らなかったんですか」
透真が聞いた。
声は静かだった。
けれど、少しだけ刃があった。
千鶴は、孫の目をまっすぐ見た。
「知らなかった」
短い答えだった。
「本当に?」
澪は思わず息を止めた。
透真が、千鶴にそんな聞き方をするのを初めて見た気がした。
千鶴は、怒らなかった。
むしろ、受け止めるように目を伏せた。
「本当に、全部は知らなかった。でも、何かがおかしいとは思っていた」
「それは、知っていたのと違いますか」
「違わないかもしれない」
千鶴の声は、少しだけ掠れた。
「私は、源一郎さんが町を出た後も、何か言えたはずだった。奥乃湯の記録をもっと探すこともできた。父や兄に問いただすこともできた。けれど、しなかった」
透真は何も言わない。
千鶴は続けた。
「私は女将になった。湯守屋を守ることに必死だった。奥乃湯はもう閉じられた場所で、三枝荘は営業を続けていた。町は、それで回っていた」
その言葉は、昨日の三枝の言葉と少し似ていた。
宿を守るため。
町を回すため。
そうして、誰かが黙る。
黙った分だけ、地面の下に何かが溜まる。
透真が静かに言った。
「ばあちゃんも、聞こえないふりをしたんですね」
千鶴は、ゆっくり頷いた。
「ああ」
蔵の中が、静まり返った。
澪は、思わず透真の袖を掴んだ。
止めるためではない。
ただ、彼がその場で壊れないように。
透真は少しだけ澪を見た。
「大丈夫ではない」
彼は先に言った。
澪は頷く。
「うん」
「でも、聞く」
「うん。でも、斬りすぎないで」
「……分かった」
千鶴は、そのやり取りを見て、少しだけ目を細めた。
泣きそうにも、笑いそうにも見えた。
「澪さんがいてくれてよかったよ」
「私は、何も」
「いや。透真は一人だと、正しさで自分まで切る」
透真が少しだけ顔を伏せる。
否定しなかった。
千鶴は、書類の中から一通の封筒を見つけた。
表には、何も書かれていない。
ただ、封は開いている。
中から出てきたのは、短い手紙だった。
筆跡は、宗一郎のものらしい。
『千鶴へ。
もし私の死後、奥乃湯の件で何か問われる日が来たら、宗吾を責めるな。あれは町の弱さであり、私の弱さだ。
私は、源一郎君を守れなかった。
湯守を名乗りながら、湯を守れなかった。
北逃がしは必ず戻せ。だが、三枝荘を潰す形で戻してはならない。湯は流れであり、人の暮らしもまた流れである。片方だけを正せば、別の場所が裂ける。
父、宗一郎』
千鶴の手が震えた。
澪も、言葉を失った。
湯守宗一郎は、分かっていた。
自分が守れなかったことを。
兄・宗吾を責めるな、と書いている。
町の弱さ。
自分の弱さ。
北逃がしは戻せ。
でも三枝荘を潰す形で戻してはならない。
その言葉は、今まさに町が抱えている問題そのものだった。
「父は……」
千鶴は手紙を見つめた。
「私に残していたのか」
「読まなかったんですか」
透真が聞く。
千鶴は首を横に振った。
「この封筒は初めて見た。兄がしまったのかもしれない。あるいは、父が渡す前に亡くなったのかもしれない」
真相は分からない。
けれど、言葉は残っていた。
届くのが遅すぎる手紙が、この町には多すぎる。
澪は、そう思った。
透真は手紙を見つめたまま、低く言った。
「湯は流れ。人の暮らしも流れ」
「うん」
澪は頷いた。
「今の湯守くんに必要な言葉っぽい」
「僕に?」
「うん。一つだけ正しい場所に流せばいいって話じゃないんだよね、たぶん」
透真は、しばらく黙った。
「君は、時々かなり正確だね」
「褒めてる?」
「かなり」
「じゃあ、受け取る」
千鶴は手紙を丁寧に畳んだ。
そして、深く息を吐いた。
「明日の会合で、これも出す」
「湯守家の責任も?」
透真が聞く。
「もちろんだよ」
千鶴は、まっすぐ孫を見た。
「湯守家だけが綺麗な顔をして、他の宿に責任を語れるものか」
その声に、澪は胸が少し熱くなった。
千鶴は強い。
けれど、その強さは間違えなかった人の強さではない。
間違えた家の人間として、それでも前に出る強さだった。
蔵の外へ出ると、夕方の空は紫がかっていた。
温泉街の湯けむりが、屋根の向こうで白く揺れている。
透真は蔵の扉の前で立ち止まった。
「湯守家も、匂いを隠していた」
小さな声だった。
澪は隣に立つ。
「うん」
否定しなかった。
「でも、匂いが残ってた」
「うん」
「だから、見つけた」
透真は少しだけ目を閉じた。
「見つけてしまった、のほうが近い」
「それでも、見つけたんだよ」
澪は言った。
「隠してたものを見つけるのって、しんどいけど。見つけないと、また同じことになるんでしょ」
「うん」
「じゃあ、一人で背負わないで、町に出そう」
透真は澪を見た。
「友達として?」
「友達として」
「その言葉、便利だね」
「雑には使ってない」
「知ってる」
透真は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「ありがとう」
その一言は、小さかった。
でも、澪にはちゃんと届いた。
夜、湯守屋の帳場奥で、千鶴は古い手紙と図面を並べた。
宗一郎の手紙。
宗吾の記録外扱いの覚書。
北逃がしと三枝側分湯の図面。
役場台帳の写し。
古賀源一郎の湯帳。
それらを見て、千鶴は静かに言った。
「役者は揃ったね」
澪は思わず聞いた。
「明日、全部話すんですか」
「話す」
「大変ですね」
「大変だよ」
千鶴は笑った。
「でも、今度こそ、逃がし湯を塞がない」
透真が頷いた。
その時、帳場の電話が鳴った。
三人が同時にそちらを見る。
千鶴が受話器を取った。
「はい、湯守屋でございます」
短い沈黙。
千鶴の表情が変わった。
「……今、何と?」
澪の胸がざわつく。
透真も立ち上がった。
千鶴は受話器を握りしめたまま、低い声で言った。
「奥乃湯の湯気が、止まった?」
帳場の空気が凍った。
奥乃湯の湯気が止まった。
それは、いい知らせなのか。
悪い知らせなのか。
誰にもすぐには分からなかった。
ただ一つだけ分かる。
地面の下の流れは、また形を変えた。
そして、明日の会合を待たずに、湯はまた別の言葉で何かを訴え始めていた。




