第32話 消された台帳は、湯気より白い
湯守屋の帳場に、夜の湯気が流れ込んでいた。
玄関の引き戸は閉まっている。
けれど古い宿というものは、どこかしらに隙間がある。
山から下りてくる夜気。
湯場から漂う湿り気。
番茶の残り香。
磨かれた柱の匂い。
その全部が、帳場の明かりの下で静かに混ざっていた。
朝比奈澪は、座卓に置かれた一枚のメモを見ていた。
三枝荘への臨時分湯を、当時の旅館組合が一時的に認めた記録が古い台帳に残っているかもしれない。
湯守千鶴が役場から受けた電話の内容は、それだけだった。
けれど、それだけで十分だった。
話の形が変わる。
三枝勝蔵が勝手に逃がし湯を塞いだ。
三枝荘が奥乃湯の湯を奪った。
そういう単純な話ではなくなる。
町が認めたのかもしれない。
旅館組合が関わっていたのかもしれない。
そして、その記録が消されていたのかもしれない。
透真は、メモをじっと見ていた。
読むというより、そこに書かれていないものを見ようとしているようだった。
「湯守くん」
「何」
「紙に穴が空くよ」
「空かない」
「比喩」
「分かってる」
透真はメモから目を離した。
顔色は昼間より戻っている。
けれど、目だけは少し暗かった。
「明日、役場で確認する」
千鶴が言った。
「今夜行かないんですか」
澪が聞くと、千鶴は軽く眉を上げた。
「役場はもう閉まっているよ」
「あ、そうでした」
「澪さんまで透真みたいに、気になったらすぐ動くようになったら困るね」
「それは困ります」
「僕を何だと思っているんですか」
透真が言うと、千鶴は即答した。
「気になる匂いがしたら障子も壁も忘れる孫」
「そこまでではない」
澪は、思わず透真を見た。
「いや、わりと」
「朝比奈さんまで」
「友達として正直に」
その言葉を使うと、透真は少しだけ黙った。
友達。
まだ彼は、その単語に慣れていないらしい。
澪も、口に出すたび少しだけ照れくさい。
けれど、今さら引っ込めるのも違う気がした。
千鶴はメモを畳み、文鎮で押さえた。
「明日の放課後、役場へ行く。私は昼間のうちに連絡を入れておくよ。透真は学校。澪さんも学校」
「はい」
澪は素直に頷いた。
透真も少し遅れて頷く。
「分かりました」
「分かった顔をしているだけじゃないだろうね」
「分かっています」
「朝、役場へ寄ったりしないね?」
「しません」
「奥乃湯にも?」
「行きません」
「三枝荘にも?」
「行きません」
「逃がし湯にも?」
「行きません」
澪は隣で聞きながら、少し笑ってしまった。
完全に子どもの外出確認だった。
透真は不本意そうだが、反論しない。
最近、少しだけ止まれるようになっている。
それが澪には、何だか嬉しかった。
「澪さん」
千鶴が言う。
「はい」
「明日、見張りを頼むよ」
「見張り」
「透真が朝から役場のほうへ曲がらないように」
「任されました」
「朝比奈さん」
透真が少し困った顔をする。
「何?」
「本当に見張るの?」
「友達として」
「それは便利な言葉になっていない?」
「便利だけど、雑には使ってない」
透真はしばらく考えた。
「なら、いい」
「いいんだ」
澪は笑った。
その夜、椿屋へ戻る道は静かだった。
母の沙織は、玄関で澪を待っていた。
以前なら「遅い」と言ったかもしれない。
でも今は、まず顔を見る。
「おかえり」
「ただいま」
「何か分かった?」
「分かったというか、分からなくなった」
澪が正直に言うと、沙織は少しだけ苦笑した。
「そういう日もあるわね」
「三枝荘が勝手に湯を引いた話だと思ってた。でも、町が一度認めてたかもしれないって」
「町が?」
「うん。旅館組合の古い台帳に記録があるかもって」
沙織は、すぐには言わなかった。
少し考えてから、静かに口を開く。
「一人の悪い人がいた、という話のほうが楽なのよね」
「うん」
「でも、本当は大勢で少しずつ目を逸らした結果だったりする」
澪は頷いた。
「それ、怖いね」
「怖いわ」
「お母さんなら、どうする?」
「私?」
沙織は驚いたように瞬きをした。
「うん」
「そうね……まず、記録を見るわ。記憶だけで誰かを責めると、たぶん間違えるから」
澪は少し笑った。
「湯守くんみたい」
「あら、そう?」
「うん。かなり」
「それは光栄なのかしら」
「ちょっと面倒くさいかも」
沙織は声を立てて笑った。
その笑いに、澪は安心した。
翌朝、澪は本当に透真を見張った。
湯けむり坂で合流した瞬間から、彼の歩く方向を確認する。
透真は、いつもの通学路を歩いている。
奥乃湯へ続く路地にも、役場へ向かう駅前通りにも、視線を向けなかった。
正確には、一度だけ役場の方角を見た。
澪はすぐに言った。
「湯守くん」
「行かない」
「まだ何も言ってない」
「言われる前に答えた」
「よろしい」
「子ども扱いが進んでいる」
「でも今のは素直でよかった」
「友達として?」
「友達として」
透真は少しだけ黙り、それから小さく頷いた。
「なら、受け取る」
坂の途中で、饅頭屋の蒸し器から甘い湯気が上がっていた。
澪はそれを吸い込み、少しだけ肩の力を抜いた。
「この匂い、昨日より甘い気がする」
「湿度が低いから、甘さが軽く感じる」
「夢がない」
「でも好きな匂いなんでしょう」
澪は驚いて透真を見た。
「覚えてたんだ」
「記録している」
「それ、ちょっと嬉しいけど、やっぱり言い方が湯守くん」
「僕だから」
「それはそう」
学校では、三枝荘の噂がまだ残っていた。
ただ、昨日より少しだけ空気が変わっていた。
蓮や杏、芽衣が、聞こえる範囲で雑な言い方を止めてくれたらしい。
蓮などは、誰かが「湯泥棒」と言いかけると、すかさず「まだ調査中だってよ。雑に言うと湯守が来るぞ」と脅していた。
効果はあった。
湯守が来るぞ、という脅しが正しいのかは分からないが。
昼休み、蓮は購買の焼きそばパンを食べながら言った。
「なあ、湯守」
「何」
「お前、都市伝説になりかけてるぞ」
「なぜ」
「温泉街で変な匂いがすると現れる偏屈高校生」
「現れない」
「いや、現れるだろ」
「必要があれば」
「ほら」
杏が笑う。
「でも、ちょっとかっこいいじゃん。湯けむりの偏屈探偵」
「探偵ではない」
透真が即答する。
芽衣が小さく言った。
「でも、探偵より湯守って感じがする」
澪はその言葉に、少しだけ頷いた。
「分かる。事件を解いてるというより、湯の具合を見てる感じ」
「人間の具合も見てるよね」
杏が言う。
透真は少し困った顔をした。
「人間は、湯より難しい」
「名言っぽい」
蓮が言う。
「書いとけ、朝比奈さん」
「何で私が」
「湯守語録係」
「嫌だな、その係」
澪は笑った。
けれど、透真の言葉は少し残った。
人間は、湯より難しい。
本当にそうだと思った。
湯帳には、湯温や湯量や匂いが書かれている。
でも、人の恐れや後悔や嘘は、数字にできない。
だから厄介で、だから向き合うのが難しい。
放課後、澪と透真は校門で千鶴と合流した。
役場は学校から歩いて十分ほどの場所にある。
温泉街の中心から少し離れた、駅前通り沿いの古い建物だった。二階建てで、白い外壁は少し古びている。入口の横に町の案内板があり、花壇には季節外れのパンジーが咲いていた。
役場の中は、紙とインクと、古い蛍光灯の匂いがした。
温泉街の湯気とは違う、事務的な匂い。
透真が小さく眉を寄せる。
「どうしたの?」
澪が聞くと、透真は低く答えた。
「コピー機の熱の匂い」
「そこまで拾うんだ」
「苦手」
「温泉より?」
「温泉のほうがいい」
「それは湯守くんらしい」
資料室へ案内してくれたのは、昨日から関わっている役場職員の田辺だった。
三十代後半くらいの男性で、眼鏡をかけている。いつも少し困った顔をしているが、仕事は丁寧そうだった。
「こちらです。台帳はかなり古いので、扱いには気をつけてください」
資料室は狭かった。
金属棚が並び、古いファイルや箱が積まれている。窓は小さく、空気は乾いていた。
田辺は白い手袋をつけ、机の上に厚い台帳を置いた。
表紙には、かすれた字で書かれている。
『白峰温泉旅館組合 湯務関係控』
湯務。
湯に関する事務。
何だか硬い言葉だ。
けれど、その硬さの中に、町が何をどう扱ってきたのかが眠っている。
千鶴は、台帳を見るなり少しだけ息を止めた。
「これ、まだ残っていたんだね」
「ご存じですか」
田辺が聞くと、千鶴は首を横に振った。
「名前だけは。私は直接見たことはない」
透真は台帳に顔を近づけすぎない距離で、静かに空気を確かめた。
「古い紙。糊。カビ。あと、消しゴム」
「消しゴム?」
澪が聞く。
「後から何かを消した紙の匂いが少しある」
田辺が驚いた顔をした。
「それは……実際、該当箇所に削られた跡があります」
「削られた?」
「昔の台帳なので、鉛筆ではなく墨やインクです。上から削って薄くし、別の紙を貼ったような跡が」
澪は背筋が冷えた。
ただ消したのではない。
削って、貼った。
つまり、消す意思があった。
田辺がページを開く。
日付は、奥乃湯の火事より少し前。
そこに、薄くなった箇所があった。
貼られていた紙は剥がれかけ、下に元の文字がうっすら見えている。
田辺が用意した拡大コピーを机に置いた。
「赤外線まではできませんが、角度を変えて撮影すると一部読めました」
千鶴が身を乗り出す。
澪も覗き込んだ。
そこには、かろうじて読める文字が並んでいた。
『三枝荘への臨時分湯を承認。奥乃湯北逃がしより一時導水。期間、湯脈調査終了まで』
澪は息を止めた。
一時導水。
期間、湯脈調査終了まで。
「一時的に、町が認めてた……」
真理の声がした。
振り返ると、古賀真理が資料室に入ってきていた。
役場から連絡を受け、少し遅れて来たらしい。
顔色は悪くない。
けれど、その目は強く台帳に向けられている。
「真理さん」
千鶴が声をかける。
「来たのかい」
「はい。知りたいので」
真理はまっすぐ言った。
その言葉に、澪は少し胸を打たれた。
逃げない人の声だった。
透真が台帳を見つめる。
「湯脈調査終了まで、ということは、本来は戻す予定だった」
「ええ」
田辺が頷く。
「ですが、戻した記録が見当たりません」
「なぜ」
澪が聞くと、田辺は困った顔をした。
「それが分からないのです。数ページ後に、奥乃湯小火、施設老朽化により休業、という記録があります。その後、三枝荘への分湯記録は消えています」
「消えている?」
「以後の台帳では、三枝荘は独自源泉扱いになっています」
その言葉に、資料室の空気が重くなった。
独自源泉扱い。
それはつまり、三枝荘の湯が奥乃湯の逃がし湯に関係している事実が、記録上消されたということだ。
千鶴が低く言う。
「一時導水が、いつの間にか独自源泉になった」
「はい」
「誰が承認した」
田辺は、さらにコピーを出した。
「該当箇所に押印があります。ただ、こちらも一部削られています」
澪は紙を見た。
薄く残る印影。
旅館組合印。
役場の湯務係印。
そして、もう一つ。
個人名らしき署名。
かすれている。
だが、部分的に読める。
『湯守――』
澪は、思わず千鶴を見た。
千鶴の顔が、はっきりと変わっていた。
透真も動かない。
資料室の空気が止まる。
「湯守……?」
真理が呟いた。
田辺が言いにくそうに続ける。
「当時の湯務確認者として、湯守家の名前があるようです。下の名はまだ判読できませんが」
千鶴は、台帳に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
その手がわずかに震えている。
「……私ではない」
声は静かだった。
「私はこの頃、まだ正式な確認者ではなかった」
「では」
透真が聞く。
千鶴は目を閉じた。
「私の父か、兄だ」
澪は息を呑んだ。
湯守家。
湯を守ってきた家。
透真の家。
千鶴の家。
そこにも、消された台帳の印が残っていた。
透真は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、澪には怖かった。
「湯守くん」
小さく呼ぶと、透真はゆっくり顔を上げた。
「うん」
「大丈夫?」
透真は少し考えた。
「大丈夫ではない」
正直な答えだった。
澪は頷いた。
「うん」
「でも、見ないといけない」
「それは分かる。でも、近づきすぎないで」
「紙に?」
「過去に」
透真は黙った。
千鶴が、澪を見た。
少しだけ驚いた顔だった。
それから、深く息を吐く。
「澪さんの言う通りだよ」
透真は台帳を見つめたまま、小さく頷いた。
「分かりました」
真理は、千鶴に向き直った。
「千鶴さん」
「ああ」
「私は、湯守家を責めたいわけではありません」
千鶴は、苦く笑った。
「責めていいんだよ」
「まだ分からないことがあります」
「そうだね」
「でも、父は千鶴さんに手紙を残しました。もし湯守家全体を恨んでいたなら、あの手紙は残さなかったと思います」
千鶴の目が揺れた。
澪も、その言葉に少しだけ救われた気がした。
源一郎は、千鶴を信じていた。
少なくとも、最後に手紙を残す相手として選んだ。
なら、湯守家の印があるからといって、すべてを悪と決めつけるのは早い。
早すぎる。
透真が静かに言った。
「この記録を、三枝さんにも見せる必要があります」
「そうだね」
千鶴が答える。
「それから、湯守家の古い資料も探す」
「蔵ですか」
「蔵だね」
「今から?」
透真が聞く。
澪はすぐに言った。
「今日は駄目」
透真がこちらを見る。
「まだ何も」
「顔が今からって言ってる」
「……少し」
「少しじゃなくて、かなり言ってる」
千鶴が頷く。
「今日はここまでだよ。台帳の写しをもらって、戻る。蔵は明日。私も一緒に探す」
透真は、今回は反論しなかった。
「分かりました」
田辺が、ほっとしたように息を吐いた。
「写しはこちらで準備します。ただ、原本は役場保管になります」
「それでいい」
千鶴は台帳を見た。
「消されたものは、もう一度記録に戻しましょう」
その声は、とても静かだった。
けれど、強かった。
役場を出る頃には、外は薄暗くなっていた。
駅前通りの街灯がつき始め、温泉街のほうから白い湯けむりが流れている。
澪は、透真の隣を歩いた。
彼はいつもより口数が少ない。
「湯守くん」
「何」
「大丈夫じゃないって言えてえらい」
「また子ども扱い」
「友達扱い」
「便利な言葉だね」
「雑には使ってない」
「知ってる」
透真は少しだけ立ち止まり、温泉街のほうを見た。
「湯守家も、逃がし湯を塞いだ側だったのかもしれない」
声は低かった。
澪は、すぐには否定しなかった。
安易に「そんなことないよ」と言うのは、違う気がした。
「かもしれないね」
だから、そう答えた。
透真が少し驚いたようにこちらを見る。
澪は続ける。
「でも、まだ全部は分からない。だから見るんでしょ」
「うん」
「一人で背負わないでね」
「それも友達として?」
「うん」
透真は、少しだけ目を伏せた。
「分かった」
湯けむりの向こうに、湯守屋の灯りが見えてきた。
そこには、蔵がある。
千鶴がまだ開けたくなかった古い資料が眠っている。
消された台帳に残った湯守家の印。
その意味を知るには、今度は湯守屋自身の過去を掘らなければならない。
澪は思った。
奥乃湯の謎は、外から来た再開発業者でも、三枝荘でも、古賀家だけでも終わらない。
ついに、湯守家へ戻ってきた。
湯を守る家が、何を守り、何を見逃したのか。
その匂いを、次に嗅がなければならない。




