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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第31話 湯を盗んだ宿では終わらせない

 三枝荘の湯が止まった翌朝、温泉街は妙に静かだった。


 静かというより、声を潜めていた。


 饅頭屋の蒸し器はいつも通り白い湯気を上げている。共同浴場へ向かう老人たちの足音もある。旅館の前には打ち水がされ、観光客は地図を片手に坂を上っていく。


 それでも、どこか違った。


 人の視線が、三枝荘の方角へ吸い寄せられている。


 通りすがりの客が小声で話す。


「三枝荘のお湯、止まったんだって」


「奥乃湯の件と関係あるらしいよ」


「昔、湯を勝手に引いてたとか……」


「え、盗んでたってこと?」


 その言葉が聞こえた瞬間、朝比奈澪は足を止めた。


 湯守透真も、隣で止まった。


 湯けむり坂の途中だった。


 朝の空気には、饅頭の甘い匂いと、濡れた石畳の匂いが混じっている。けれど今、澪の鼻の奥に残ったのは、匂いではなく言葉だった。


 盗んでた。


 たった一言。


 けれど、その一言はあまりにも強い。


 澪は、昨日の三枝健三の顔を思い出した。


 濁った湯船の前で崩れ落ちた姿。

 「湯を盗んだ宿と言いたいんだろう」と叫んだ声。

 古い竹管を見つめて震えていた背中。


 悪いことがあった。


 それはたぶん間違いない。


 でも、盗んだ宿。


 その言葉だけで片づけてしまったら、見えなくなるものが多すぎる。


「雑だね」


 透真が言った。


 声は低かった。


「うん」


 澪は頷いた。


「すごく雑」


「湯の流れを見ていない。歴史も見ていない。匂いも嗅いでいない」


「湯守くん、怒ってる?」


「少し」


「少しじゃない顔してる」


「かなり」


 珍しく訂正した。


 澪は透真を見る。


 いつもの無表情に近い顔だが、目元が硬い。


「湯を盗んだ宿」


 透真は、その言葉を一度だけ口にした。


「そう呼べば簡単になる。でも、簡単にした瞬間、誰も流れを見なくなる」


「流れ?」


「湯の流れ。町の流れ。人の判断の流れ」


 澪は黙った。


 透真の言い方は、相変わらず少し面倒くさい。


 でも、今は分かる。


 三枝荘だけを悪者にすれば、話は分かりやすい。


 奥乃湯は被害者。

 三枝荘は加害者。

 古賀源一郎は正しかった。

 三枝勝蔵は悪かった。


 そう言えば、すっきりする。


 でも、すっきりする物語ほど、現実から何かを削っている。


「今日の会合、大変そうだね」


 澪が言うと、透真は頷いた。


「うん」


「湯守くん、前に出すぎないでね」


「今日は、僕が話す場面もあると思う」


「それは分かる。でも、斬りすぎないで」


「斬る?」


「言葉で」


 透真は少し考えた。


「努力する」


「そこは約束して」


「……約束する」


 澪は少し安心した。


 その時、坂の下から黒瀬蓮の声がした。


「おーい、二人とも。朝から温泉町の闇みたいな顔してんな」


 蓮が鞄を肩に引っかけ、走ってくる。


 その後ろから杏と芽衣も来ていた。


「おはよう」


 澪が言うと、蓮はすぐに声を落とした。


「三枝荘の話、もう学校でも噂になってるぞ」


「早いね」


「早すぎる。しかも変な方向に膨らんでる。『湯を盗んだ旅館』とか言ってるやつもいた」


 澪は眉をひそめた。


 杏が困った顔をする。


「私も聞いた。でも、まだそんなふうに言える段階じゃないんでしょ?」


「うん」


 澪は頷いた。


「まだ、ちゃんと分かってないことが多い」


 芽衣が小さく言った。


「言葉だけ先に走るの、怖いね」


「うん」


 透真が口を開いた。


「温泉の匂いを、卵が腐った匂いで済ませるのと同じ」


 全員が透真を見た。


 蓮がため息をつく。


「お前、その持ちネタ絶対に最後まで使う気だろ」


「持ちネタではない」


「いや、もう持ちネタだよ。偏屈温泉男子の代表台詞だよ」


「不本意だ」


 澪は少し笑った。


 けれど、透真の言いたいことは分かった。


 知らないものを、聞きかじった言葉で呼ぶ。


 そうすると、分かった気になる。


 でも、本当は分かっていない。


 三枝荘のことも同じだ。


 午前中の授業は、澪にとって半分くらいしか頭に入らなかった。


 教室の空気もいつもと違う。


 白峰温泉街にある高校だから、地元の噂はすぐに届く。三枝荘に泊まったことのある生徒もいるし、親戚が旅館で働いている生徒もいる。


 休み時間になるたび、教室のあちこちで名前が出た。


「三枝荘、やばいらしいよ」


「湯を勝手に引いてたんだって?」


「それって犯罪じゃないの?」


「奥乃湯が潰れたのって、そのせい?」


 そのたびに、澪は胸がざわついた。


 すべてが間違っているわけではない。


 でも、すべてが正しいわけでもない。


 その曖昧さが、一番人を傷つける。


 昼休み、澪は弁当を食べながら、少しだけ疲れていた。


 蓮が前の席から振り返る。


「朝比奈さん、大丈夫か?」


「うん。ちょっと、噂が多くて」


「止めようとしても止まんないよな。こういうの」


 杏が言う。


「でも、違うことは違うって言ったほうがいいよ。言える範囲で」


「うん」


 芽衣が静かに続ける。


「悪く言うのって簡単だからね。言ってるほうは、そんなに重く思ってないんだと思う」


「それが怖いよね」


 澪は箸を置いた。


「三枝さんが悪くないって言いたいわけじゃないんだ。でも、湯を盗んだ宿、で終わらせるのは違う気がして」


 透真が隣で頷いた。


「違う」


 即答だった。


 蓮が少し驚く。


「湯守、今日ははっきり言うな」


「雑な言葉は、訂正したほうがいい」


「お前の人生方針みたいだな」


「近い」


「認めるのかよ」


 教室の隅で誰かがまた「三枝荘って湯泥棒だったんだろ」と言った。


 透真が立ち上がりかけた。


 澪は反射的に袖を掴んだ。


「斬りすぎない約束」


 透真は止まった。


 それから、小さく頷いた。


「分かった」


 澪は席を立った。


 透真ではなく、自分が行くことにした。


 その生徒たちは、澪が近づくと少し驚いた顔をした。


「あの」


 澪は言った。


「三枝荘のこと、まだ町で確認してる途中だから、『湯泥棒』とか言わないほうがいいと思う」


 相手の男子が気まずそうに笑った。


「いや、別に本気で言ったわけじゃ」


「本気じゃなくても、広がるから」


 澪は、なるべく落ち着いて言った。


「宿で働いてる人も、お客さんもいるし。まだ分かってないことも多いから」


 男子は少しむっとした顔をしたが、周りの視線に気づいて口を閉じた。


「……分かったよ」


「ありがとう」


 澪は席に戻った。


 心臓が、少し速かった。


 蓮が小声で言う。


「朝比奈さん、強くなったな」


「強くないよ。手、冷たい」


「でも言ったじゃん」


 杏が笑う。


「よかったと思う」


 芽衣も頷く。


 透真は、澪を見ていた。


「何?」


 澪が聞くと、透真は少しだけ考えた。


「斬りすぎていない」


「褒めてる?」


「かなり」


「それはどうも」


 澪は少し照れくさくなり、弁当の卵焼きを口に入れた。


 卵。


 腐っていない卵。


 それだけで少し笑いそうになった。


 放課後、湯守屋の大広間で町の会合が開かれた。


 前回よりも人が多い。


 旅館組合、土産物屋、役場、消防、温泉設備業者、三枝荘の関係者、古賀真理、真島玲司。さらに、町内会の代表らしい人たちも数人加わっていた。


 澪と透真は、入口近くの端に座った。


 高校生が中心に座る場ではない。


 けれど、今回は誰も二人を外へ出さなかった。


 それどころか、何人かが透真のほうをちらちら見ていた。


 匂いで何かを見つける湯守屋の孫。


 そんな噂も、きっと広がり始めている。


 透真は、その視線を面倒そうに受け流していた。


「見られてるね」


 澪が小声で言う。


「匂いが増えて困る」


「人の視線に匂いはないでしょ」


「緊張した人の匂いは増える」


「本当に面倒くさい能力だね」


「僕もそう思う」


 澪は少しだけ笑った。


 そこへ、三枝健三が入ってきた。


 芳江に支えられている。


 顔色はまだ悪い。


 それでも、背筋を伸ばそうとしていた。


 広間にいる人たちの視線が一斉に集まる。


 その視線の重さに、芳江の手が震えた。


 三枝は、その手をそっと押さえた。


「大丈夫だ」


 声は小さかった。


 でも、聞こえた。


 千鶴が会合を始めた。


 最初に、昨日三枝荘の浴場裏から古い竹管が見つかったことが説明された。


 続いて、湯帳の記述。


 三枝側無届分湯の疑い。


 北側逃がし湯を開ける前に、三枝側の流れを確認しなければならないこと。


 広間は、何度もざわめいた。


 当然だ。


 町の人にとって、これはただの昔話ではない。


 現在も営業している宿の話であり、温泉街全体の信用にも関わる話だ。


 千鶴は、三枝へ視線を向けた。


「健三さん。話してもらえるかい」


 三枝は、ゆっくり立ち上がった。


 芳江も立とうとしたが、三枝が手で制した。


「俺が話す」


 広間が静まる。


 三枝は、喉を一度鳴らした。


「……三枝荘の先代、三枝勝蔵は、私の父です」


 声はかすれていた。


 けれど、逃げてはいなかった。


「父は死ぬ前に、私に言いました。奥乃湯の北逃がしを塞いだのは自分だ、と。三枝荘の湯を守るためだった、と」


 ざわめきが起きた。


 誰かが息を呑む。


 誰かが「やっぱり」と小声で言う。


 三枝は、目を閉じた。


「私は、その話を長い間、誰にも言いませんでした。信じたくなかった。三枝荘の湯が、奥乃湯の逃げ道を塞いだことで安定したのだとしたら、私は何を守ってきたのか分からなくなるからです」


 芳江が涙を拭いている。


 三枝は続けた。


「昨日、浴場裏から古い竹管が見つかりました。父が言っていたことは、少なくとも一部は事実だったのだと思います」


 広間の空気が重くなる。


 三枝は、古賀真理を見た。


 真理は正座したまま、まっすぐ三枝を見ていた。


 三枝は、深く頭を下げた。


「古賀さん。あなたのお父上が守ろうとした湯を、三枝の家が傷つけたのかもしれない。私は、それを知りながら黙っていた。申し訳ありません」


 真理は、すぐには答えなかった。


 広間全体が、彼女の言葉を待っていた。


 やがて真理は、静かに口を開いた。


「私は、まだ許せるとは言えません」


 三枝は頭を下げたまま動かなかった。


「父が町を出ることになった理由の一つが、それだったのかもしれないと思うと、苦しいです。三枝荘の湯を見るたびに、父が何を諦めたのか考えてしまうと思います」


 広間の空気が張り詰める。


 真理は続けた。


「でも、三枝荘を『湯を盗んだ宿』と呼びたいわけではありません」


 三枝の肩が震えた。


 澪も息を止めた。


「そんな言葉で終わらせたら、父が何を見ていたのかも、三枝さんが何を怖がっていたのかも、町が何を隠してきたのかも、全部見えなくなるからです」


 真理の声は震えていた。


 けれど、逃げなかった。


「私は、知りたい。父の湯を戻したい。でも、そのために別の宿を壊したいわけではありません」


 広間の誰もが黙った。


 澪は胸が熱くなった。


 古賀真理は、父の痛みを背負ってここにいる。


 それでも、三枝荘を一言で切り捨てなかった。


 その強さは、とても静かだった。


 その時、広間の端から声が上がった。


「でも、実際に湯を勝手に引いていたなら、責任は取るべきでしょう」


 中年の旅館主人だった。


「うちだって苦しいんだ。三枝荘だけが昔から湯が安定していた理由がそれなら、不公平じゃないか」


 別の人も続ける。


「奥乃湯が潰れたせいで、町全体が落ち込んだんだぞ」


「三枝荘だけ助かったのなら、黙って済む話じゃない」


 三枝は何も言えなかった。


 芳江が震えている。


 澪は、胸の奥がざわつくのを感じた。


 言っていることは間違いではない。


 責任はある。


 不公平もある。


 けれど、言葉がどんどん三枝荘を押し潰す方向へ流れている。


 透真が立ち上がった。


 澪は一瞬、袖を掴もうとした。


 だが、止めなかった。


 今は、彼が話すべき時だと思った。


「責任を取ることと、宿を潰すことは同じではありません」


 透真の声は、広間によく通った。


 大人たちが一斉に彼を見る。


 透真は続けた。


「三枝荘の湯が奥乃湯の逃がし湯と関係している可能性は高いです。でも、まだ湯の流れは完全には分かっていません。古い竹管があった。湯帳に無届分湯の疑いがある。三枝勝蔵さんの告白がある。そこまでは分かっています。でも、今の三枝荘の湯をどうすれば奥乃湯の逃がし湯を戻せるかは、まだ調査中です」


「だから何だ」


 誰かが言った。


 透真は視線を向ける。


「分からないことを、怒りで埋めるなということです」


 広間が静まり返った。


 澪は、思わず背筋を伸ばした。


 言葉は強い。


 でも、斬りすぎてはいない。


 透真は続ける。


「温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う人がいます」


 広間の空気が、一瞬妙な方向に揺れた。


 千鶴が口元を押さえた。


 澪は心の中で、ここでそれを出すのか、と思った。


 でも透真は真剣だった。


「でも、その人のほとんどは卵を腐らせたことがない。知らない匂いを、聞いたことのある言葉に当てはめて安心しているだけです」


 数人がぽかんとする。


 透真は構わず続ける。


「三枝荘を『湯を盗んだ宿』と呼ぶのも同じです。分かりやすい言葉に当てはめると、分かった気になる。でも実際には、湯の流れも、人の判断も、町の歴史も、もっと複雑です」


 広間が静かになった。


 今度は、誰も笑わなかった。


「責任を曖昧にしろと言っているのではありません。むしろ逆です。雑な言葉で終わらせると、本当の責任まで見えなくなる」


 透真は三枝を見た。


「三枝さんは話しました。なら、次は町が調べる番です。三枝荘を責めるだけで終わったら、昔と同じです」


 その言葉は、広間の大人たちに刺さったようだった。


 千鶴が静かに頷く。


「透真の言う通りだよ」


 旅館組合の誰かが、低く唸った。


 反論したいけれど、言葉が見つからない顔だった。


 澪は、透真を見上げた。


 彼は少し顔色が悪い。


 人の匂いが多い場所で話すのは、きっとしんどいのだろう。


 でも、立っていた。


 澪は小さく言った。


「湯守くん、座って」


 透真はちらりとこちらを見る。


 そして、素直に座った。


 蓮がいたら「管理されてる」と言っただろう。


 だが今は、それでよかった。


 真島玲司が口を開いた。


「私からも、一つ提案があります」


 広間の視線が彼へ向かう。


 真島は以前より少し疲れた顔をしていた。


 しかし、声は落ち着いている。


「奥乃湯と三枝荘の湯系統を、第三者の専門機関で調査すべきです。私の会社は再整備計画から一時撤退しますが、調査費用の一部負担を申し出ます」


 ざわめきが起きる。


 千鶴が目を細めた。


「それは、会社として?」


「会社としては難しい。私個人として、また私の判断ミスへの責任としてです」


「真島さん」


 真理が言った。


「それで帳消しになるとは思わないでください」


「思っていません」


 真島は頭を下げた。


「私は、急ぎすぎた。その結果、奥乃湯の湯を刺激した可能性があります。責任はあります」


 彼の言葉に、完全な信用はまだない。


 でも、逃げようとしていないことは分かった。


 町の会合は、長く続いた。


 結論は、少しずつ形になった。


 三枝荘の湯は当面停止。


 宿泊客は、湯守屋、椿屋、ほか協力旅館の湯を利用できるようにする。


 三枝荘への補償や支援は旅館組合と役場が協議する。


 奥乃湯、北側逃がし湯、三枝荘の湯系統を第三者機関で調査する。


 古賀源一郎の湯帳と手紙は町の公式記録として保管し、写しを公開する範囲を検討する。


 そして。


 三枝荘を「湯を盗んだ宿」と呼ぶような噂を広げないよう、町として説明文を出す。


 それは完璧な解決ではない。


 むしろ、解決の入り口にすぎない。


 でも、少なくとも昔のように隠して終わらせる流れにはならなかった。


 会合が終わる頃、外は暗くなっていた。


 三枝は、広間の出口で真理にもう一度頭を下げた。


「古賀さん」


「はい」


「私は、父を完全には責められないと思います」


 真理は静かに聞いていた。


「父がしたことを許せるわけではありません。でも、父は宿を守りたかった。私も、その宿で生きてきた。だから、簡単に悪だったとは言えない」


「はい」


「それでも、話します。知っていることは、全部」


 真理は頷いた。


「私も、父の記録を出します」


 二人は、許し合ったわけではない。


 まだ遠い。


 けれど、同じ場所に立っていた。


 それだけで、昨日よりは前へ進んでいる。


 澪はそう思った。


 湯守屋の玄関を出ると、夜の温泉街が広がっていた。


 湯けむりが街灯に照らされ、白く浮かんでいる。


 透真が隣で小さく息を吐いた。


「疲れた?」


 澪が聞くと、彼は頷いた。


「かなり」


「正直でよろしい」


「今日は正直に言ったほうがいい気がした」


「うん。えらい」


「子ども扱い」


「友達扱い」


 透真は少しだけ黙った。


「友達は、便利だね」


「便利で片づけると怒るよ」


「じゃあ」


 透真は少し考えた。


「ありがたい」


 澪は、思わず顔をそらした。


「……そういうの、急に言うのやめて」


「なぜ?」


「なぜでも」


 夜の湯けむりが、二人の間を流れていく。


 甘い饅頭の匂いはもうしない。


 代わりに、夜の湯の匂いがした。


 少し湿っていて、少し鉄を含んでいて、でも決して不快ではない。


 この町の匂いだ。


 澪はもう、それを雑に呼ぼうとは思わなかった。


 その時、湯守屋の奥から千鶴の声がした。


「透真、澪さん。少し来なさい」


 二人は顔を見合わせた。


「何だろう」


 澪が言うと、透真はすでに表情を変えていた。


「たぶん、調査会社から連絡が来た」


「早くない?」


「早い時は、嫌な知らせのことが多い」


「そういうこと言わないで」


 帳場へ戻ると、千鶴が電話のメモを持っていた。


 顔は険しい。


「第三者調査の前に、役場が古い台帳を確認してくれた」


「何か分かったんですか」


 透真が聞く。


 千鶴はメモを座卓に置いた。


「三枝側の分湯、完全な無届ではなかった可能性が出てきた」


 澪は眉をひそめる。


「どういうことですか」


「古い台帳に、薄く消された記載があったらしい」


 千鶴の声は低い。


「三枝荘への臨時分湯を、当時の旅館組合が一時的に認めた記録だ」


 透真の目が鋭くなる。


「つまり、勝蔵さん個人だけの判断ではない」


「そうだよ」


 千鶴は目を閉じた。


「町ぐるみだった可能性が出てきた」


 澪の背筋に冷たいものが走った。


 また、話が変わった。


 三枝荘だけではない。


 勝蔵だけでもない。


 旅館組合。


 町。


 隠していたものは、さらに奥にあった。


 湯けむりの町は、まだすべてを吐き出してはいなかった。

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