第30話 三枝荘の湯は嘘を溶かす
三枝荘へ向かう道は、夕方の湿気を含んでいた。
雨は降っていない。
けれど、石畳の隙間にはまだ水が残っている。山から下りてくる風は冷たく、温泉街の湯けむりを低く押し流していた。
朝比奈澪は、湯守透真の隣を歩きながら、何度も彼の顔色を確認していた。
「見すぎ」
透真が言った。
「だって、さっきから顔色悪い」
「三枝荘の湯の匂いが、ここまで来てる」
「え、もう?」
「少し」
「どんな匂い?」
透真は一度だけ息を吸い、すぐに眉を寄せた。
「金気。泥。古い竹。あと、湯垢が剥がれた時の匂い」
「湯垢が剥がれた時の匂いって、普通の高校生は知らないよ」
「普通の高校生は、温泉の匂いを卵が腐った匂いと言う」
「またそこへ戻す」
「基本だから」
「じゃあ聞くけど、湯垢が剥がれたことあるの?」
透真は少しだけ黙った。
「見たことはある」
「強い」
「旅館の息子だから」
澪は思わず笑いそうになったが、すぐに表情を戻した。
今は笑っている場合ではない。
三枝荘の湯が濁り始めた。
それは、三枝健三が一番恐れていたことだったはずだ。
逃がし湯を戻す前に、三枝荘側の湯が異変を起こした。
奥乃湯と三枝荘。
地面の下で絡まっていた二つの湯が、ついに同時に動き出したのかもしれない。
前を歩く千鶴は、いつもより速い。
その横には古賀真理がいる。
真理の顔には、迷いがあった。
三枝荘の湯が濁った。
それは、父・源一郎の記録が正しかったことを示すかもしれない。
同時に、誰かの宿を傷つける現実でもある。
真理が嬉しいはずはなかった。
「古賀さん」
澪が声をかけると、真理が振り返った。
「大丈夫ですか」
聞いてから、澪は少しだけ後悔した。
大丈夫ではないに決まっている。
だが真理は、少し考えてから答えた。
「大丈夫ではないわ」
「……ですよね」
「でも、行かないわけにはいかない」
真理は、三枝荘のほうを見た。
「父の記録が正しかったと分かることと、誰かの宿が苦しむことは、同じ場面で起きるのね」
澪は何も言えなかった。
その言葉は、あまりにも正直だった。
三枝荘の玄関には、すでに数人の客が集まっていた。
浴衣姿の中年夫婦、年配の男性、若い女性二人組。
みな不安そうに話している。
「お湯が茶色くなったって」
「入って大丈夫なのかしら」
「何か工事してたんじゃないの?」
「奥乃湯の騒ぎと関係あるのか?」
噂は早い。
そして、噂はだいたい正確ではない。
けれど、不安だけは本物だ。
三枝荘の女将、芳江が玄関で何度も頭を下げていた。
「申し訳ございません。ただいま確認しておりますので、本日のご入浴は一時中止とさせていただいております」
その声は、今にも崩れそうだった。
千鶴がすぐに前へ出た。
「芳江さん」
「千鶴さん……」
芳江は、すがるような顔をした。
「お湯が、急に。夕方の掃除の時までは普通だったんです。でも、お客様が入る前に確認したら、底が見えないくらい濁っていて」
「健三さんは?」
「奥で休んでいます。起き上がろうとしたんですけど、止めました」
「それでいい」
千鶴は客のほうへ向き直った。
「皆さま、ご不安かと思います。湯守屋の湯守千鶴です。温泉の状態を確認するため、今はご入浴を止めております。原因が分かるまで、安全を優先します」
その声には、不思議な説得力があった。
客たちのざわめきが少しだけ落ち着く。
温泉街で長く女将をしてきた人の声だ。
言葉に派手さはない。
でも、嘘が少ない。
澪はそう感じた。
「補償や代替入浴については、三枝荘さんと旅館組合で相談します。まずは湯を見させてください」
年配の男性が不満そうに言った。
「せっかく温泉に来たのに入れないんじゃ困るよ」
その声に、芳江がまた頭を下げる。
澪は胸が痛くなった。
宿にとって、湯を止めることは心臓を止めることに近いのかもしれない。
でも、止めなければならない時もある。
透真が小さく言った。
「湯は、都合よく客商売に合わせてくれない」
「今それ言ったら怒られるよ」
澪が小声で返す。
「言わない」
「えらい」
「子ども扱いが常態化してる」
「安全確認です」
「その言い方、僕の影響が強い」
「知ってる」
そんなやり取りをしながらも、二人は浴場へ向かった。
三枝荘の浴場は、奥乃湯よりずっと小さい。
木の扉を開けると、むっとした湯気が廊下に流れ出した。
その瞬間、透真が目を細めた。
澪も分かった。
匂いが濃い。
いつもの温泉の匂いではない。
鉄のような、錆のような匂い。
濡れた竹を古い倉庫から引っ張り出したような匂い。
そして、少し焦げたような、鼻の奥に残る苦さ。
「……奥乃湯に似てる」
澪が呟くと、透真が頷いた。
「似ている。でも同じではない」
「違いは?」
「三枝荘のほうが竹と古い木の匂いが強い。湯そのものより、配管や湯道の中に溜まっていたものが出ている感じ」
浴場の中は、薄暗かった。
湯船は石造りで、五、六人入ればいっぱいになりそうな広さだ。
その湯が、茶色く濁っていた。
透明感はほとんどない。
表面には細かな泡が浮き、縁には赤茶色の筋がついている。
温泉設備業者がすでに到着しており、湯温と湯量を測っていた。
「急に濁りましたね」
業者が言った。
「湯温は少し下がっています。湯量も安定していません」
千鶴が問う。
「危険かい」
「入浴はやめたほうがいいです。成分の詳しい確認が必要ですし、配管内の沈殿物が出ている可能性があります」
芳江が浴場の入口で顔を覆った。
「そんな……」
真理は黙って湯船を見ていた。
父が守ろうとした湯の問題が、別の宿の湯を濁らせている。
その事実を、彼女はどう受け止めているのだろう。
三枝健三が、廊下の奥から現れた。
芳江が慌てる。
「あなた、寝ていないと」
「寝ていられるか」
三枝は壁に手をつきながら浴場へ近づいた。
顔色は悪く、足元も頼りない。
それでも、湯船を見た瞬間、目に怒りと恐怖が浮かんだ。
「……何だ、これは」
「入らないでください」
業者が止める。
三枝は湯船の縁に手をかけそうになり、千鶴がその腕を掴んだ。
「触るんじゃない」
「うちの湯だ!」
「だから触るなと言っている」
千鶴の声が鋭くなる。
「宿の湯なら、なおさら今は守りなさい」
三枝の顔が歪んだ。
「守る? このざまだぞ」
「湯が濁ったからといって、終わりと決まったわけじゃない」
「客は帰る。噂になる。三枝荘の湯は駄目になったと」
彼の声が震えていた。
「何十年も守ってきたんだ。親父から継いで、俺がここまで……」
そこで言葉が詰まった。
親父。
勝蔵。
逃がし湯を塞いだかもしれない人。
三枝は、自分でその言葉に刺されたように顔を伏せた。
「健三さん」
真理が静かに声をかけた。
三枝は彼女を見た。
表情が険しくなる。
「古賀さん。あんたは、満足か」
芳江が悲鳴のように言う。
「あなた!」
三枝は止まらなかった。
「あんたの父親の言った通りだった。三枝荘の湯は奥乃湯の逃げ道を塞いだ上にあった。そう言いたいんだろう」
真理の顔が白くなる。
「そんなこと」
「うちを、湯を盗んだ宿と言いたいんだろう!」
浴場の空気が凍った。
澪は、胸がきゅっと痛くなった。
湯を盗んだ宿。
それは誰もまだ口にしていない言葉だった。
けれど、三枝はずっとその言葉に怯えていたのだ。
自分の宿が、そう呼ばれることを。
真理は、震える声で言った。
「私は、そんなふうに言いたいわけではありません」
「なら、何だ!」
「知りたいんです」
真理の声が少し強くなった。
「父が何を見て、何を守ろうとして、何を諦めたのか。三枝荘がどうして残ったのか。奥乃湯がどうして傷ついたのか。私は、それを知りたいだけです」
「知ってどうする」
三枝の声は低かった。
「知ったところで、うちの湯は戻らん」
「まだ戻らないと決まったわけじゃない」
透真が言った。
三枝が彼を睨む。
「また鼻か」
「今は湯の状態の話です」
「同じだ」
「違います」
透真は湯船を見た。
「この濁りは、湯が完全に死んだ匂いではありません」
その言葉に、三枝が黙った。
芳江も、真理も、千鶴も透真を見る。
「どういう意味?」
澪が聞く。
「湯が止まって腐った匂いじゃない。沈んでいたものが一気に動いた匂いです。古い竹、錆、泥、湯垢。流れが変わって、溜まっていたものが出てきている」
「つまり?」
「流れはある」
透真は言った。
「悪い変化だけど、完全に止まったわけではない」
三枝の表情が、ほんの少し動いた。
希望と疑いが同時に出たような顔だった。
「本当か」
「断定はできません」
「そこで逃げるな!」
「逃げていません。嘘をつかないだけです」
透真は淡々と言った。
「今、できますと言い切るほうが無責任です。温泉は、気合いで透明になりません」
澪は、こんな時なのに少し笑いそうになった。
透真らしい。
偏屈で、正確で、少しだけ不器用な励まし。
業者が頷いた。
「湯守くんの言う通りです。濁り方を見る限り、配管内の堆積物が出ている可能性が高い。どこかの流れが変わったか、詰まりが動いたか。調べる価値はあります」
三枝は壁に手をついたまま、力が抜けたように座り込んだ。
芳江が慌てて支える。
「あなた」
「……盗んだ湯じゃない」
三枝は、湯船を見つめながら呟いた。
「うちは、盗んだ湯で客を入れてきたわけじゃない」
それは誰かへの反論というより、自分自身への言葉だった。
千鶴がしゃがみ、三枝と目線を合わせた。
「健三さん。今それを証明するためにも、全部調べるんだよ」
三枝は顔を上げる。
「証明……」
「三枝荘の湯がどう流れてきたのか。勝蔵さんが何をしたのか。今の湯がどうなっているのか。それを調べずに、盗んだも何も決めてはいけない」
三枝の目に涙が浮かんだ。
「俺は……怖かったんだ」
「知っている」
「親父が悪いことをしたなら、俺はどうすればいい。宿を閉めればいいのか。客に謝ればいいのか。古賀さんに土下座すればいいのか」
「それも、一人で決めるな」
千鶴は強く言った。
「また一人で塞ぐな」
三枝は、顔を歪めた。
澪は、言葉が出なかった。
湯は濁っている。
人も濁っている。
でも、濁ったものを見ないふりするより、今ここで見たほうがいいのかもしれない。
ふと、透真が浴場の隅へ視線を向けた。
「何?」
澪が小声で聞く。
「音」
「音?」
「湯船の下じゃない。壁の奥」
透真は耳を澄ませている。
澪も聞こうとした。
湯の流れる音。
客のざわめき。
芳江のすすり泣き。
三枝の荒い息。
その奥に。
こつ、こつ、という微かな音があった。
水滴ではない。
何か硬いものが、木か竹の内側を叩くような音。
「何の音?」
澪が聞くと、透真は眉をひそめた。
「竹管の音かもしれない」
業者が反応した。
「竹管?」
「古い簡易分湯が、まだ壁の裏に残っている可能性があります」
三枝が顔を上げる。
「そんなもの、聞いたことがない」
「隠していたなら、聞かされないと思います」
透真は壁のほうを見た。
「この浴場、改修したのはいつですか」
芳江が答える。
「二十五年ほど前です。その前の構造を一部残していると聞いています」
「壁を開けられますか」
業者が難しい顔をする。
「今すぐは無理です。ですが、点検口があれば」
三枝が突然言った。
「ある」
全員が彼を見る。
「昔、親父が絶対に触るなと言っていた点検口がある。浴場裏の物置だ」
千鶴の顔が硬くなる。
「そこへ案内してもらえるかい」
三枝は、しばらく黙った。
それから、弱々しく頷いた。
「……ああ」
物置は、浴場の裏手にあった。
古い掃除道具、使わなくなった桶、予備の椅子、畳んだすのこ。
その奥の壁に、小さな板戸があった。
長い間開けられていないようで、周囲には埃が積もっている。
三枝は、それを見つめていた。
「親父が、ここは開けるなと言っていた」
「開けたことは?」
「ない」
透真が少し離れた場所から匂いを確かめる。
「古い竹。湿った土。鉄。湯の匂いも少し」
業者が道具を用意する。
板戸は、思ったより簡単に開いた。
ぎい、と音がして、小さな空間が現れる。
中は暗い。
懐中電灯の光が差し込む。
そこにあったのは、古い竹管だった。
何本も束ねられ、石組みの隙間を通って浴場の壁の奥へ伸びている。
一部は黒く変色し、一部は割れていた。
そして、その割れ目から、茶色く濁った湯がぽたり、ぽたりと落ちている。
澪は息を呑んだ。
「本当に……」
透真が低く言った。
「無届分湯の跡」
三枝は、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「親父……」
その声は、怒りでも悲しみでもなかった。
全部が混ざった声だった。
真理は、竹管を見つめていた。
父を苦しめたもの。
三枝荘を支えたかもしれないもの。
それが、今目の前にある。
千鶴は、静かに言った。
「これで、隠せなくなったね」
三枝は頷かなかった。
ただ、竹管を見たまま、震えていた。
その時、透真が一歩下がった。
澪はすぐに気づいた。
「湯守くん?」
「匂いが強い」
「下がろう」
「うん」
今度はすぐに頷いた。
物置の外へ出ると、透真は壁に軽く手をついた。
顔色が悪い。
「大丈夫?」
「少し気分が悪い」
「少しじゃない顔」
「……うん」
珍しく認めた。
澪は急いで水をもらい、透真に渡した。
「飲んで」
「ありがとう」
透真は素直に水を飲んだ。
それを見て、澪は少しだけほっとした。
前より、彼は止まれるようになっている。
それでも、危なっかしいことに変わりはない。
「湯守くん」
「何」
「友達として命令。今日はもう嗅がない」
透真は水のコップを持ったまま、少し固まった。
「友達として?」
「うん」
「命令?」
「うん」
「……分かった」
澪は、少しだけ笑った。
「素直でよろしい」
「やっぱり子ども扱い」
「友達扱いです」
透真は何か言い返そうとして、結局やめた。
物置の中では、業者と千鶴が竹管の状態を確認している。
三枝は、芳江に支えられながら立っていた。
真理は少し離れた場所で、静かに涙を拭っている。
そこへ、玄関のほうから足音がした。
真島だった。
どうやら連絡を受けて来たらしい。
彼は物置の中の竹管を見て、はっきりと表情を変えた。
「これは……」
千鶴が振り返る。
「真島さん。これが、あなたの再開発計画が最初に見なければならなかったものです」
真島は何も言えなかった。
古い竹管。
無届分湯。
濁った湯。
人の生活を支え、人の罪を隠し、湯の逃げ道を塞いできたもの。
派手な観光資源ではない。
綺麗な物語でもない。
でも、これこそが奥乃湯と三枝荘の本当の接点だった。
三枝健三が、かすれた声で言った。
「……町の会合で、話す」
全員が彼を見る。
三枝は竹管から目を逸らさなかった。
「親父のしたことも、俺が黙っていたことも、三枝荘の湯のことも。話す」
芳江が涙を流しながら、夫の手を握った。
真理は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
三枝は、苦しそうに顔を歪めた。
「礼を言われることじゃない」
「それでも」
真理は言った。
「ありがとうございます」
澪は、その光景を見ながら思った。
湯を盗んだ宿。
そう呼ぶのは簡単だ。
でも、その言葉だけでは、ここにいる人たちの痛みも、恐れも、生活も、何も表せない。
だから、雑な言葉で片づけてはいけない。
温泉の匂いを、卵が腐った匂いだけで終わらせないように。
人の過ちも、たった一言で終わらせてはいけない。
その夜、三枝荘の湯は止められた。
客には事情を伏せすぎない範囲で説明し、希望者は湯守屋と椿屋の湯へ案内されることになった。
旅館同士の急な連携だったが、千鶴とふみの声かけで、思ったより早く動いた。
温泉街は、小さい。
小さいから噂も早い。
けれど、小さいから助け合える時もある。
澪は、湯守屋へ戻る道でそう思った。
透真は隣を歩いている。
さっきより顔色は戻ったが、まだ少し静かだった。
「大丈夫?」
澪が聞くと、透真は少し考えて答えた。
「大丈夫ではないけど、歩ける」
「正直でよろしい」
「君の言い方が、ばあちゃんに似てきた」
「それはちょっと困る」
「僕も困る」
「何で湯守くんが困るの」
「味方が増える」
澪は笑った。
その笑いは、疲れていたけれど、ちゃんと自分のものだった。
湯けむりの向こうで、三枝荘の灯りが小さく見えた。
湯を止めた宿。
しかし、終わった宿ではない。
これから、町がどう支えるかが問われる。
そして奥乃湯の逃がし湯も、まだ戻っていない。
地面の下の流れは、ようやく見え始めただけだ。




