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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第29話 湯を盗んだ宿と言わないで

 三枝側無届分湯。


 その言葉は、湯守屋の座敷に残り続けた。


 紙の上では、たった八文字ほどの記録だった。


 けれど、その八文字は人を黙らせるだけの重さを持っていた。


 三枝荘の湯は、奥乃湯の逃がし湯を塞いだことで安定した可能性がある。


 逃がし湯を戻すには、三枝荘側の分湯を止めなければならないかもしれない。


 つまり。


 三枝荘が続いてきた何十年かは、奥乃湯の傷の上にあったかもしれない。


 朝比奈澪は、座卓の上に広げられた湯帳を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 古賀源一郎の字は、几帳面だった。


 怒って書いた文字ではない。


 恨みを込めて書き殴った文字でもない。


 ただ、湯の状態を見て、考え、記録した人の字だった。


 だからこそ、逃げ道がない。


「三枝さんに、伝えるしかないね」


 湯守千鶴が言った。


 座敷の空気が、また少し重くなる。


 古賀真理は膝の上で手を握っていた。


 真島玲司は、さっきから一度も軽い言葉を挟まない。

 役場職員は資料の写しを取る準備をしながら、困り果てた顔をしている。


 湯守透真は、湯帳の該当箇所を見つめていた。


 表情は変わらない。


 けれど澪には、彼がいつもよりずっと深いところまで考えているのが分かった。


「今日、行くんですか」


 澪が聞くと、千鶴は首を横に振った。


「健三さんは倒れたばかりだ。今すぐ押しかければ、ただ追い詰めるだけになる」


「でも、先延ばしにもできないですよね」


「そうだね」


 千鶴は短く答えた。


「だから、明日の朝。私と役場で行く」


 透真が顔を上げた。


「僕も行きます」


「駄目だよ」


 千鶴は即答した。


 透真の眉がわずかに動く。


「なぜですか」


「今回は匂いで暴く話じゃない。人に伝える話だ」


「でも」


「透真」


 千鶴の声が少し低くなった。


「正しいことを、正しい順番で言わないと、人は壊れる」


 透真は黙った。


 澪は、その言葉に胸を突かれた。


 正しいことを言えばいいわけではない。


 椿屋の時もそうだった。


 母の過去も、美奈の謝罪も、お静の手紙も、正しいだけでは受け止めきれなかった。


 三枝健三にとって、この記録はたぶん刃物だ。


 彼の父の罪かもしれないもの。

 彼の宿の土台を揺るがすもの。

 彼が一生黙っていたかったもの。


 それを、どう渡すか。


 大人でも難しい。


 高校生が鼻先で突きつけるには、あまりに重い。


「……分かりました」


 透真は、珍しく素直に引いた。


 澪は少し驚いて彼を見る。


「何」


 透真が聞く。


「今、すぐ引いたなって」


「ばあちゃんが正しい」


「自分で分かるようになったんだ」


「僕は前から分かっている」


「本当に?」


「半分くらい」


「半分かあ」


 千鶴が少し笑った。


「半分なら上出来だよ」


 透真は不本意そうにしたが、反論はしなかった。


 その日の夕方、澪は椿屋へ戻った。


 玄関を入ると、古い木の匂いと、夕食の支度の匂いがした。


 出汁。

 焼き魚。

 湯気。

 少しだけ椿。


 奥乃湯の鉄臭い匂いばかり嗅いでいたせいか、その匂いがやけに温かく感じた。


 母の沙織は、部屋で手紙を整理していた。


 宗一の手紙だ。


 もう何度も読み返したのだろう。けれど、その扱い方は以前より穏やかになっている。


 過去に引きずられるためではなく、ちゃんとしまうために読んでいるように見えた。


「おかえり」


「ただいま」


「今日は顔が難しいわね」


「うん。ちょっと難しい話だった」


 澪は鞄を置き、母の向かいに座った。


 沙織は急かさなかった。


 これも最近変わったことだ。


 以前の母なら、心配を隠しながら「大丈夫?」と聞いたかもしれない。


 今は、澪が言葉を選ぶのを待ってくれる。


「奥乃湯の逃がし湯を戻すには、別の宿の湯を止めなきゃいけないかもしれないんだって」


 沙織は目を伏せた。


「そう」


「その宿の人は、自分のお父さんが昔、逃がし湯を塞いだかもしれないって知ってて。でもそれを言えなくて。自分の宿が、そのおかげで残ったかもしれないから」


 言葉にすると、余計に重かった。


 沙織はしばらく黙っていた。


「責められないわね」


「うん」


「でも、そのままにもできない」


「うん」


「それが一番苦しいわね」


 澪は頷いた。


 母は、少し考えてから言った。


「澪は、その宿の人を悪い人だと思った?」


「最初は、ちょっと思った」


「今は?」


「悪いことはしてると思う。でも、悪い人って言い切るのは違う気がする」


 沙織は、静かに微笑んだ。


「それは、とても難しいところを見ているのね」


「難しすぎる」


「そうね」


「ライトノベルなら、ざまぁって言って成敗できたら楽なのに」


 澪が思わず言うと、沙織は少し驚き、それから笑った。


「それはそうかもしれないわね」


「でも、この町だと無理。誰かを倒して終わりじゃなくて、その人の宿に泊まったお客さんとか、働いてる人とか、家族とか、そういうのが全部ついてくる」


「現実は、物語より面倒ね」


「うん。でも、物語も本当は面倒なほうが面白いのかも」


 澪はそう言ってから、ふと自分で苦笑した。


「何か、湯守くんみたいなこと言った気がする」


「それは重症ね」


「お母さんまで」


 沙織は楽しそうに笑った。


 その笑いを聞いて、澪は少しだけ気持ちが軽くなった。


 翌朝。


 学校へ行く前、澪は湯けむり坂で透真と会った。


 透真はいつも通りに見えたが、鞄の中に湯帳の写しが入っているのではないかと思うくらい、どこか思考が重そうだった。


「おはよう」


「おはよう」


「今日、千鶴さんが三枝荘へ行くんだよね」


「うん」


「湯守くんは?」


「学校」


「えらい」


「ばあちゃんに命令された」


「それでもえらい」


「子ども扱いが続いている」


「高校生だからね」


「君も高校生」


「私は無理に現場へ行こうとしてない」


「それはそう」


 透真は少しだけ視線を落とした。


「気になる?」


 澪が聞くと、彼はすぐに頷いた。


「気になる」


「だよね」


「三枝さんが何を言うか。三枝荘の湯がどうなるか。逃がし湯を戻せるか。全部」


「でも、今日は待つ」


「うん」


「偉い」


「その評価はやっぱり慣れない」


 澪は少し笑った。


 坂の下から、饅頭屋の蒸し器の匂いが流れてきた。


 甘い。


 湿った朝の空気に混じると、少しだけ重く感じる。


 澪はそれを吸い込みながら言った。


「この匂いは、好き」


 透真が横を見る。


「饅頭?」


「うん。朝の温泉街って感じ」


「蒸し器の水、餡、古い木の蒸籠、少しだけガス」


「最後に現実を足さないで」


「構成要素だから」


「でも、好きな匂いは好きでいいでしょ」


 透真は少し考えた。


「いいと思う」


「お、認めた」


「匂いは成分だけじゃない」


 澪は意外で、透真を見た。


「今の、かなりいいこと言った」


「そう?」


「うん。メモしたほうがいい」


「自分の発言を?」


「湯守くん、たまに自分のいい発言を雑に流すよね」


「自覚はない」


「でしょうね」


 二人で坂を上る。


 朝の湯けむりは、いつもより少し柔らかかった。


 学校では、珍しく透真が授業中にぼんやりしていた。


 ぼんやりと言っても、普通の人から見れば分からない程度だ。


 ただ、澪には分かった。


 板書の写し方が少し遅い。

 先生の問いに対する反応が半拍ずれる。

 そして何より、いつもなら訂正したくなりそうな蓮の雑な言い間違いを流した。


 これは相当気になっている。


 昼休み、蓮がその異変に気づいた。


「湯守、お前今日おかしいぞ」


「そう?」


「俺がさっき『温泉ってだいたい地面の汁だろ』って言ったのに怒らなかった」


「それは怒る以前に訂正点が多すぎる」


「よし、戻ってきた」


 蓮は満足そうに頷いた。


 澪は笑ってしまった。


 杏が弁当をつつきながら言う。


「奥乃湯のこと?」


「うん」


 澪は短く答えた。


「今日、大人たちが話し合ってる」


 芽衣が静かに聞く。


「朝比奈さんたちは行かなくていいの?」


「行きたいけど、行かないほうがいい時もあるみたい」


 澪が言うと、透真が少しだけこちらを見た。


「今のは正確」


「湯守くんに言われると、ちょっと嬉しいけど、ちょっと悔しい」


「なぜ」


「分からない」


 蓮がにやにやする。


「お前ら、最近本当に会話の湿度が上がったよな」


「湿度?」


 透真が反応する。


「違う違う、温泉成分の話じゃない」


「湿度は温泉成分ではない」


「そこじゃねえ!」


 杏が笑い、芽衣もつられて笑った。


 その笑いに救われた。


 重い問題を抱えていても、教室はちゃんと教室だった。


 放課後になる少し前、澪のスマホが震えた。


 母からではない。


 湯守屋の番号からだった。


 授業中ではないが、まだ教室に生徒がいる。


 澪は慌てて廊下へ出て、電話に出た。


「もしもし」


『澪さんかい。千鶴だよ』


「千鶴さん?」


 胸が跳ねる。


「何かありましたか」


『三枝荘で話をしてきた。健三さんは、会合で話すと約束したよ』


 澪は息を吐いた。


「よかった……」


『ただし、条件がある』


「条件?」


『三枝荘の湯をいきなり止めないこと。調査結果が出るまで、宿名を出して騒がないこと。それから、町で補償や支援を考えること』


「それは……そうですよね」


『そうだね。健三さんも、やっと言えたんだろう』


 千鶴の声は疲れていた。


 でも、少しだけ安堵もあった。


『透真にも伝えておくれ。今日は奥乃湯にも三枝荘にも寄らず、まっすぐ湯守屋に戻るように、と』


「本人に言わないんですか?」


『私が言うと反論するだろう。澪さんが言うと、最近は聞く』


 澪は言葉に詰まった。


「それ、私の責任が重くないですか」


『青春の重みだね』


「違います」


『二人とも同じことを言いそうだ』


 千鶴は楽しそうに笑って電話を切った。


 澪は廊下でしばらくスマホを見つめた。


 まっすぐ湯守屋に戻るように。


 たしかに、今の透真には必要な言葉だ。


 教室へ戻ると、透真がすぐにこちらを見た。


「ばあちゃん?」


「うん」


「何て?」


「三枝さん、会合で話すって。条件付きだけど」


「条件は?」


「三枝荘の湯をいきなり止めないこと。調査結果が出るまで宿名を出して騒がないこと。町で補償や支援を考えること」


 透真は頷いた。


「妥当」


「あと、今日は奥乃湯にも三枝荘にも寄らず、まっすぐ湯守屋に戻るようにって」


「……」


「黙った」


「少しだけ、逃がし湯の奥を見に」


「駄目」


「まだ最後まで言ってない」


「言わなくても駄目」


 透真は不本意そうに黙った。


 蓮が横から言う。


「湯守、完全に管理されてるな」


「管理ではない」


 澪は言った。


「安全確認」


「言い方が湯守化してる!」


 蓮が叫んだ。


 澪は少しだけ落ち込んだ。


「今のは自分でも思った」


 杏が肩を叩く。


「大丈夫。まだ戻れる。たぶん」


「たぶんなんだ」


 放課後、澪と透真は言いつけ通り、まっすぐ湯守屋へ向かった。


 途中、奥乃湯へ続く路地が見えた。


 透真は一瞬だけそちらを見た。


 澪も気づいた。


「湯守くん」


「行かない」


「よろしい」


「本当に子ども扱いが進行している」


「大人しくしてたら改善される」


「努力する」


「えらい」


「だから、それ」


 澪は笑った。


 湯守屋に戻ると、千鶴と真理が座敷で待っていた。


 湯帳の写しと、古い図面が広げられている。


 そして、そこに新しい紙が一枚加わっていた。


 三枝健三の証言メモ。


 千鶴が言う。


「健三さんは、父親の勝蔵さんから聞いた話を覚えている限り書き出した」


 透真がすぐに身を乗り出す。


 澪は小さく袖を引いた。


「近い」


「紙だから大丈夫」


「心が近い」


「……少し下がる」


 真理が、そのやり取りを見て少し笑った。


 けれど、すぐに表情を戻す。


 千鶴はメモを読み上げた。


「勝蔵さんは、奥乃湯の北逃がしを塞いだ後、三枝荘裏の古い湯だまりに湯が回ったと言っていたらしい。正式な配管ではなく、石組みと竹管を使った簡易な分湯だった可能性がある」


「竹管?」


 澪が聞く。


 透真が答えた。


「昔の簡易配管。木や竹を使うことがある」


「そんなので湯を?」


「長くは保たない。でも一時的には」


 千鶴が頷く。


「問題は、その竹管の跡がまだ残っているかどうかだね」


 設備業者が同席していれば、すぐに確認計画を立てるだろう。


 しかし今日は、まだ資料段階だ。


 千鶴は図面の三枝荘側に指を置いた。


「三枝荘の湯が今もその流れに依存しているなら、逃がし湯を開けることで湯量や温度が変わる可能性がある」


「止まるかもしれない」


 真理が言う。


 声が苦しそうだった。


「私の父の湯を戻すことで、三枝荘が傷つくかもしれないんですね」


「そうなる可能性はある」


 千鶴はごまかさなかった。


 透真が静かに言う。


「だから、どちらか一方を選ぶ話にすると壊れます」


「どうするの?」


 澪が聞く。


「両方を見る」


「両方?」


「奥乃湯の逃がし湯を開けるだけじゃなく、三枝荘の湯の状態も測る。流れを全部把握する。どちらかを悪者にする前に、湯の流れを見ないといけない」


 千鶴が満足そうに頷いた。


「いい答えだ」


 透真は少しだけ目を伏せた。


「ばあちゃんに褒められると落ち着きません」


「たまには慣れな」


「努力します」


 澪は、そのやり取りを見ながら思った。


 今回の問題は、誰か一人を責めて終わる話ではない。


 逃がし湯を塞いだ勝蔵。


 黙っていた健三。


 急ぎすぎた真島。


 守れなかった千鶴。


 町を出た源一郎。


 それぞれの選択が、今の湯の流れを作っている。


 だから、戻すにも全員で向き合うしかない。


 その時、帳場から慌ただしい足音がした。


 湯守屋の若い従業員が座敷の入口に顔を出す。


「女将さん、お電話です。三枝荘の女将さんから」


 千鶴がすぐに立ち上がった。


「芳江さんから?」


「はい。三枝荘の浴場で、湯が急に濁り始めたそうです」


 座敷の空気が止まった。


 透真が立ち上がる。


 澪は、反射的にその袖を掴んだ。


 透真がこちらを見る。


「朝比奈さん」


「行くなら、一人じゃない」


 透真は数秒黙った。


 それから頷いた。


「うん」


 千鶴は受話器を取りに向かいながら、低く言った。


「動き出したね」


 三枝荘の湯が濁った。


 奥乃湯ではなく、三枝荘が。


 塞がれた逃がし湯と、無届分湯。


 地面の下で繋がっていた流れが、ついに表へ出始めたのかもしれない。


 澪は、胸の奥でまたあの鉄臭い匂いを思い出した。


 湯は、嘘をつかない。


 ただ、言葉を持たないだけだ。


 だから代わりに、匂いで訴える。


 濁りで訴える。


 湯気で訴える。


 そして今度は、三枝荘の湯が声を上げた。

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