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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第28話 遅刻理由に温泉配管は使えない

 学校に着いた時には、二時間目が始まる直前だった。


 廊下は静かで、教室の中から教師の声だけが聞こえてくる。雨上がりの湿った空気に、ワックスの匂いと、誰かの濡れた靴下の匂いが混じっていた。


 朝比奈澪は、下駄箱の前で息を整えた。


 隣では湯守透真が、何事もなかったように上履きを出している。


「ねえ」


「何」


「遅刻理由、何て言うの?」


「家の用事」


「雑」


「祖母がそう連絡した」


「千鶴さんの圧で成立してるやつだ」


「たぶん」


 透真は平然としている。


 けれど澪は落ち着かなかった。


 朝から三枝荘へ行き、三枝健三の告白を聞いた。


 父親が逃がし湯を塞いだかもしれない。


 三枝荘の湯は、その影響で安定したかもしれない。


 そして、逃がし湯の奥にはまだ分岐があるかもしれない。


 そんな話を聞いた直後に、教室へ戻って現代文の授業を受ける。


 温度差がひどい。


 湯温差なら入浴注意だ。


 澪がそんなことを考えていると、透真がちらりと見た。


「変な顔をしてる」


「してない」


「してる」


「今、温度差がひどいなって思ってただけ」


「温泉で急な温度差は危険」


「会話に温泉注意事項を入れないで」


「君が温度差と言った」


「言ったけど」


 澪は小さく息を吐いた。


「普通の高校生に戻れる気がしない」


「戻る必要はない」


「え?」


「普通の高校生でも、家の用事で遅刻することはある」


「そういう意味じゃなくて」


「分かってる」


 透真は、教室の扉の前で足を止めた。


「でも、普通の高校生として授業は受ける。奥乃湯のことは放課後」


 澪は少し驚いた。


 透真がそんなふうに線を引くとは思わなかった。


「湯守くん、成長した?」


「君に言われるのは不本意」


「褒めてるのに」


「褒められた気がしない」


「いつも私が思ってることだよ」


 澪が言うと、透真は一瞬考えた。


「認識を更新する」


「よろしい」


 二人が教室へ入ると、視線が一斉に集まった。


 教師は板書の手を止め、クラスメイトたちは遠慮なくこちらを見る。


 黒瀬蓮などは、待ってましたと言わんばかりに顔を輝かせていた。


「朝比奈、湯守。遅刻だな」


 教師が言った。


 澪は素直に頭を下げる。


「すみません。家の用事で遅れました」


 透真も頭を下げた。


「すみません」


 教師は出席簿を確認し、軽く頷いた。


「連絡は受けている。席に着きなさい」


「はい」


 二人が席に着くと、前の席の蓮がさっそく振り返った。


 もちろん授業中なので、声は小さい。


「家の用事って何。温泉が爆発した?」


「してない」


 澪は即答した。


 透真が横から小声で言う。


「爆発ではない」


「そこ補足しないで」


「じゃあ何だよ、湯守」


「家の用事」


「絶対違うだろ」


「家も関係ある」


「ほら怪しい!」


 教師が咳払いをした。


 蓮は慌てて前を向く。


 澪はノートを開いた。


 今日の授業は、詩の読解だった。


 黒板には「沈黙」「余白」「言葉にならない感情」と書かれている。


 澪はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。


 今の自分たちに合いすぎている。


 町が沈黙してきたもの。


 記録から消えた余白。


 言葉にならなかった感情。


 奥乃湯の逃がし湯は、現代文の授業よりずっと生々しく、それらを突きつけてきていた。


 昼休みになると、澪の席はすぐに囲まれた。


 蓮、杏、芽衣。


 三人とも、弁当より先に事情を聞く気満々だった。


「で、何があったの?」


 杏が言う。


「言える範囲でいいから」


 芽衣が付け足す。


 澪は弁当箱を開けながら、少し考えた。


 すべては話せない。


 でも、何も話さないのも違う。


 最近の澪は、その中間を少しずつ覚え始めていた。


「奥乃湯のことで、町の人と話をしてた」


「朝から?」


 蓮が目を丸くする。


「うん」


「高校生の朝じゃないな」


「それは本当にそう」


 澪が苦笑すると、杏が心配そうに眉を寄せた。


「危ないことじゃないよね?」


「今日は危ない場所には行ってない。人の家で話を聞いただけ」


「それはそれで重そう」


 芽衣が静かに言う。


 澪は頷いた。


「重かった」


 そう言えるようになった自分に、少しだけ驚いた。


 前なら「大丈夫」と言っていただろう。


 でも、大丈夫ではないものを大丈夫と言い続けると、自分でも何が苦しいのか分からなくなる。


 沙織との約束が、ここでも生きていた。


「奥乃湯って、昔何かあったの?」


 蓮が聞いた。


 透真が箸を置く。


「古い湯脈調査と火事」


「それ、言っていいやつ?」


 澪が小声で聞くと、透真は少し考えた。


「新聞に載っていた範囲」


「あ、そういう線引き」


「必要だから」


 蓮は眉を寄せた。


「火事って、あの廃浴場が黒いの、そのせい?」


「うん」


 透真が答える。


「けが人は出なかったことになっている」


「ことになっている?」


 杏が反応した。


「湯守、それ不穏な言い方」


「不穏だから」


 透真は淡々と言った。


 芽衣が少し身を乗り出す。


「でも、今それを調べてるのは何で?」


 澪は、答えを探した。


 アクセス数狙いのライトノベルなら、ここで「町を救うため!」と言い切れば分かりやすい。


 でも、今の澪にはそれは少し違った。


「たぶん、また同じことになりそうだから」


 澪は言った。


「昔、町が隠したことがあって、それが今になって出てきてる。誰かがまた雑に進めたら、同じことが起きるかもしれない」


 蓮は真面目な顔になった。


「……思ったよりガチだった」


「うん」


「俺、クレープ食ってる場合じゃなかった?」


「クレープは大事」


 透真が言った。


 全員が透真を見る。


 蓮が半笑いで言う。


「湯守が言うと、何か深い意味があるみたいになるな」


「甘いものは緊張を緩める」


「わりと普通だった」


「普通も大事」


 澪は少し笑った。


 普通の会話。


 普通の昼休み。


 重い話の途中にこういう時間があることが、ありがたかった。


 放課後、澪と透真はまっすぐ湯守屋へ向かった。


 今日はクレープではない。


 湯帳を読む。


 北側逃がし湯の分岐を探る。


 三枝荘の湯との関係を確認する。


 やることは多かった。


 湯守屋の帳場奥には、すでに千鶴と古賀真理がいた。


 座卓の上には湯帳、古い図面、三枝荘周辺の簡易地図が広げられている。


 真理は昨日より少し疲れて見えたが、目ははっきりしていた。


「来たね」


 千鶴が言った。


「学校はどうだった」


「遅刻理由に温泉配管は使えませんでした」


 澪が言うと、千鶴は笑った。


「それは残念だ」


「残念なんですか」


「いつか使える日が来るかもしれない」


「来ないほうがいいです」


 透真は湯帳の前に座る。


 澪も隣に座った。


 真理が、小さく会釈する。


「朝、三枝さんのところへ行ったと聞きました」


「はい」


 澪が答える。


「三枝さんは……」


「お父様のことを話してくれました」


 千鶴が言った。


「三枝勝蔵さんが逃がし湯を塞いだ可能性が高い」


 真理は目を閉じた。


「そうですか」


「責めたいかい」


 千鶴の問いは、静かだった。


 真理はすぐには答えなかった。


「分かりません」


 正直な声だった。


「父が町を出ることになった理由の一つかもしれない。そう思うと、責めたい気持ちはあります。でも、三枝荘がその湯で今まで続いてきたのだとしたら……そこに泊まった人も、働いた人も、救われた人もいたはずです」


 真理は湯帳を見た。


「何を責めればいいのか、分からないんです」


 澪は、その言葉に深く頷きたくなった。


 本当にそうだ。


 悪いことは悪い。


 でも、悪いことの上にも人の暮らしが積もってしまう。


 それが時間の怖さなのかもしれない。


 透真が湯帳を開いた。


「三枝荘の湯に関する記述を探します」


「そんなことまで書いてあるんですか」


 澪が聞くと、透真はページをめくりながら答えた。


「源一郎さんなら、周辺の湯も見ていた可能性がある」


 真理が少しだけ笑った。


「父なら、たぶん見ています」


 ページには、細かな字で湯温、湯量、色、匂い、天候が書かれている。


 時折、余白に短い感想のようなものもあった。


『朝、金気わずかに強い。雨の影響か』


『南側湯口、湯温安定』


『北逃がし、落ち葉詰まり。夕方取り除く』


 透真は、その一文で指を止めた。


「落ち葉詰まり」


「何?」


 澪が覗き込む。


「逃がし湯は、普段から詰まりやすかった。でも源一郎さんは取り除いていた」


「逃げ道を守ってたんだ」


「うん」


 その言葉は、思ったより胸に響いた。


 湯の逃げ道を守る。


 人の逃げ道を守る。


 それは、目立たない仕事だ。


 誰かが気づかないところで詰まりを取り除き、流れを保つ。


 源一郎という人が、少しだけ見えた気がした。


 さらにページを進めると、透真の指が止まった。


『三枝側、湯温上昇。北逃がしの流れ弱し。要確認』


 千鶴が身を乗り出した。


「いつの日付だい」


「湯脈調査の二週間前です」


「調査前から?」


「はい」


 透真は別のページをめくる。


『三枝荘主人より、湯勢戻るとの話。北逃がし、泥多し』


「三枝荘主人……」


 澪は呟いた。


「三枝勝蔵さん?」


「時期的には」


 透真が答える。


 千鶴の表情が険しくなる。


「つまり、調査前から三枝側への湯の流れに変化があった」


「可能性があります」


「逃がし湯を塞いだのは、調査後じゃない?」


 澪が聞くと、透真は少し考えた。


「段階的かもしれない」


「段階的?」


「最初は自然な詰まり、または軽い人為的な塞ぎ。三枝側の湯勢が良くなる。勝蔵さんがそれに気づく。調査が始まり、奥乃湯の湯が不安定になる。そこで完全に塞ぐ」


 澪は背筋が冷えた。


「それって、偶然を利用したってこと?」


「可能性」


 千鶴が低く言った。


「勝蔵さんなら、やりかねない」


 真理が千鶴を見る。


「どんな方だったんですか」


「よくも悪くも、宿を残すためなら何でもする人だった」


「何でも……」


「町のため、という言葉をよく使っていた。でも、本音は三枝荘を守ることだったのかもしれない」


 千鶴は苦い顔をした。


「私も若かった。勝蔵さんの言葉の強さに押されていたところがあった」


 透真は黙ってページを追っている。


 また数枚めくったところで、彼の手が止まった。


「これ」


 その声が、少し変わっていた。


 全員が湯帳を覗き込む。


 そこには、赤ではなく、黒い墨で強く書かれていた。


『三枝側分湯、無届の疑い。北逃がし、石で半閉塞。勝蔵氏に問うも否認』


 座敷の空気が凍った。


 澪は、その一文を何度も読んだ。


 三枝側分湯。

 無届の疑い。


「無届って……勝手に湯を引いたってことですか」


 澪が聞くと、千鶴は険しい顔で頷いた。


「そう読めるね」


 真理は唇を震わせた。


「父は、それを知っていた……?」


「知っていた可能性が高い」


 透真が言った。


「でも、手紙には三枝勝蔵さんの名前はなかった」


「どうして?」


 澪が聞く。


 透真は湯帳から目を離さない。


「証拠が足りなかった。あるいは、真理さんを守るために、個人名を出すことを避けた」


 真理は、涙を浮かべながら首を横に振った。


「父らしいです。怒っていても、最後のところで人を責めきれない」


 千鶴が静かに言う。


「源一郎さんは、そういう人だった」


 澪は湯帳を見つめた。


 湯を盗んだ。


 そう言ってしまえば簡単だ。


 だが、三枝荘はその湯で残ったのかもしれない。


 宿を守りたかった勝蔵。


 湯を守りたかった源一郎。


 町を守りたかった千鶴。


 それぞれの守りたいものがぶつかり、逃げ道が塞がれた。


 そして今、傷ついた湯がまた噴き出した。


「湯守くん」


 澪が言う。


「これ、町の会合で話すんだよね」


「話す必要がある」


「三枝さん、耐えられるかな」


「分からない」


「分からないけど、話す?」


「うん」


 透真は静かに答えた。


「隠したら、また同じになる」


 その言葉は、今回の章の答えのようでもあった。


 千鶴は、湯帳のページにそっと手を置いた。


「勝蔵さんのしたことは、もう本人に聞けない。だから、残ったものから判断するしかない」


「健三さんには酷ですね」


 真理が言った。


「そうだね」


「でも、私の父も、ずっと酷なものを背負っていたんですね」


 千鶴は真理を見た。


「そうだよ」


 真理は涙を拭った。


「なら、私だけが知らないままではいられません」


 その時、帳場のほうから声がした。


「失礼します」


 真島だった。


 彼は障子の外に立っていた。


 今日は一人ではない。


 隣に、役場職員もいる。


 真島の顔は、昨日より疲れて見えた。


「何か」


 千鶴が問う。


 真島は、少しだけ頭を下げた。


「先ほど、会社から正式に連絡がありました。奥乃湯再整備計画について、弊社は一時撤退します」


 澪は息を呑んだ。


「撤退?」


 真島は頷いた。


「現状では、地元合意と安全性の確認が不十分です。私の判断にも問題がありました」


 真理が黙って彼を見る。


 真島は続ける。


「ただし、私個人としては、奥乃湯の調査に協力したいと思っています」


 千鶴の目が細くなる。


「会社を離れて?」


「いえ、業務ではありません。責任の問題として」


「責任」


「私は、急ぎすぎました」


 真島はそう言った。


 声に飾りは少なかった。


「地方の温泉街をいくつも見てきて、朽ちる前に動かさなければと思っていた。けれど、動かす前に聞くべきものがあった。それを軽く見た」


 澪は真島の顔を見た。


 嘘かもしれない。


 自己保身かもしれない。


 でも、昨日までの滑らかな営業口調とは違った。


 少なくとも今の言葉には、少しだけ土の匂いがする気がした。


 透真が静かに言う。


「香水が薄いですね」


 真島は一瞬黙った。


 座敷の空気が、妙な方向に止まる。


「……そうですか」


「はい」


「それは、良い意味ですか」


「たぶん」


 真島は、困ったように笑った。


「君の褒め言葉は分かりにくいですね」


 澪は思わず言った。


「慣れます」


「慣れるんですか」


「私は最近、少し慣れました」


「それは頼もしい」


 透真が少し不本意そうに澪を見る。


「僕の通訳みたいになっている」


「友達だからね」


 言ってから、澪は少しだけ顔が熱くなった。


 透真は黙った。


 けれど今回は否定しなかった。


 千鶴が、にやりと笑う。


「青春はあとにしなさい」


「してません」


 また二人の声が重なった。


 真理が、小さく笑った。


 その笑いは、昨日より少しだけ柔らかかった。


 だが、湯帳のページをめくると、再び空気は変わった。


 最後のほうに、折り込まれた紙が挟まっていた。


 透真が慎重に広げる。


 そこには、古賀源一郎の字で短く書かれていた。


『もし北逃がしを開けるなら、三枝側の無届分湯を先に止めること。さもなくば、湯はさらに乱れる。』


 澪は息を止めた。


 三枝側の無届分湯を止める。


 それはつまり、三枝荘の湯を止めることかもしれない。


 千鶴の顔が厳しくなる。


 真理も、真島も、役場職員も黙った。


 透真は、低い声で言った。


「逃がし湯を戻すには、三枝荘の湯を触る必要がある」


 澪の胸が重くなる。


 三枝健三が恐れていたことは、本当だった。


 三枝荘を守るか。

 奥乃湯の逃げ道を戻すか。

 町は、また選ばなければならない。


 しかも今度は、隠さずに。


 千鶴は静かに目を閉じた。


「これは、町が一番見たくなかったページだね」


 座敷に沈黙が落ちる。


 湯けむりの町は、また一つ、塞いできた逃げ道を見せた。


 そしてその逃げ道の先には、誰かの宿がある。


 誰かの生活がある。


 だからこそ、簡単には開けられない。


 澪は湯帳を見つめた。


 紙の匂い。

 墨の匂い。

 時間の匂い。


 その向こうから、古賀源一郎の声が聞こえる気がした。


 逃がし湯を塞ぐな。


 でも、開けるなら、奪った湯にも向き合え。


 奥乃湯の問題は、まだ終わらない。


 むしろ、町の中心へ向かって、静かに流れ始めていた。

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