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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第27話 親父が塞いだ逃げ道

 三枝荘は、温泉街の端にある小さな宿だった。


 古い木造二階建て。

 派手な看板はなく、玄関脇に「三枝荘」と墨で書かれた木札が掛かっている。庭には手入れの行き届いた松と、少し傾いた石灯籠があり、宿全体にどこか昭和で時間が止まったような匂いがあった。


 だが、その朝の三枝荘には、静けさとは別の重さがあった。


 朝比奈澪は、湯守千鶴と湯守透真の後ろを歩きながら、玄関先で少し足を止めた。


 湿布薬の匂いがした。


 それから、古い畳。

 煙草。

 乾いた木。

 雨に濡れた庭石。


 昨日、北側逃がし湯の掘り跡で透真が言っていた匂いに近い。


 澪にも、ほんの少しだけ分かる気がした。


「……同じ匂い?」


 小声で聞くと、透真は頷いた。


「近い」


「三枝さんの?」


「宿全体に染みてる。だから、まだ人を特定するには弱い」


「慎重」


「慎重じゃないと間違える」


 透真はいつも通りの言い方だった。


 けれど、顔色は少し悪い。


 昨日、逃がし湯の周辺で匂いを拾いすぎたせいだろう。


 澪は横からじっと見る。


「湯守くん」


「何」


「今日は無理しない」


「まだ何もしてない」


「する前に言ってる」


「予防?」


「予防」


 透真は少しだけ考えた。


「分かった」


「素直」


「昨日、止まれることもあると分かったので」


 澪は返事に詰まった。


 昨日、透真は言った。


 君がいると、止まれることがある。


 思い出すと、今でも少し変な感じがする。


 こういうことを何でもない顔で言うのは、本当にやめてほしい。


 本人には全く自覚がないのが、さらに厄介だった。


「二人とも」


 前を歩く千鶴が振り返った。


「玄関先で青春をしている場合じゃないよ」


「してません」


 澪と透真の声が重なった。


 千鶴は少しだけ笑った。


「息は合っているね」


「合ってません」


 また重なった。


 千鶴は、今度は声を出して笑った。


 三枝荘の女将が、玄関で待っていた。


 三枝健三の妻、三枝芳江。


 六十代半ばくらいだろうか。小柄で、髪をきちんとまとめ、薄い化粧をしている。目元には疲れが深く刻まれていた。


「千鶴さん……朝からすみません」


「こちらこそ、押しかけて悪いね。健三さんは?」


「奥の部屋で休んでいます。医者には診てもらいました。血圧が上がって倒れたようで、命に別状はないそうです」


 芳江はそう言ったが、声は沈んでいた。


「ただ、昨夜からずっと……変なことを言っていて」


「逃がし湯のことかい」


 千鶴が聞くと、芳江は顔をこわばらせた。


「はい」


 澪は、玄関の空気が少し変わるのを感じた。


 逃がし湯。


 その言葉は、もうただの古い水路を指すものではなくなっている。


 この町が塞いできたもの。

 誰かが掘り返したもの。

 三枝健三が倒れるほど恐れたもの。


 芳江は三人を奥へ案内した。


 三枝荘の廊下は、湯守屋よりも少し低い天井だった。床板は丁寧に磨かれているが、ところどころ沈む。壁には古い温泉街の写真が飾られていた。


 奥乃湯の写真もあった。


 まだ暖簾がかかっていた頃の、明るい写真。


 そこに写る人々の顔は笑っている。


 澪は、その写真を見るたびに胸が少し痛くなった。


 今の奥乃湯は、笑っている場所ではない。


 閉じられ、焦げ、湯気を苦しそうに漏らしている。


 だが、昔は確かに町の人が通う湯だった。


 奥の部屋に、三枝健三は寝ていた。


 布団の上に上体を少し起こし、額に冷たいタオルを乗せている。昨日の強い態度は消え、顔色は悪く、目の下に濃い影があった。


 それでも、千鶴の姿を見ると、すぐに顔を背けた。


「……帰ってくれ」


 声はかすれていた。


 千鶴は布団の横に座った。


「そうはいかないよ」


「俺は知らん」


「まだ何も聞いてない」


「知らんものは知らん」


 子どものような拒絶だった。


 澪は少し驚いた。


 昨日の三枝は、もっと威圧的だった。


 大人の男が、町の古株として上から押さえつけるような話し方をしていた。


 今は違う。


 追い詰められている。


 透真は部屋の入口近くに立っていた。


 中へ入りすぎない。


 匂いを拾いすぎないようにしているのだと分かった。


 けれど、三枝は透真を見ると、目を吊り上げた。


「また鼻で嗅ぎ回りに来たのか」


「今日は、あまり嗅ぎません」


 透真が淡々と答える。


「何だ、それは」


「体調管理です」


 澪は思わず口元を押さえた。


 場違いなのに、少し笑いそうになった。


 三枝は一瞬ぽかんとし、それから忌々しそうに顔を背ける。


「ふざけおって」


「ふざけてはいません」


「それが余計に腹が立つんだよ」


 千鶴が低く笑った。


「健三さん、そこは同感だね」


「千鶴さんまで……」


 透真が少し不満そうに言う。


 澪は小声で言った。


「否定はできない」


「朝比奈さんも?」


「少しだけ」


 その小さなやり取りで、芳江の表情がわずかに緩んだ。


 けれど三枝は笑わなかった。


 千鶴は、ゆっくりと本題に入った。


「昨夜、あなたは言ったそうだね。逃がし湯を塞いだのは俺じゃない。親父だ、と」


 三枝の肩がびくりと動いた。


「……寝言だ」


「うわ言だとしても、言葉には出た」


「熱に浮かされただけだ」


「では、聞くよ。あなたのお父上、三枝勝蔵さんは、奥乃湯の湯脈調査に関わっていたね」


 その名前が出た瞬間、三枝の顔色がさらに悪くなった。


 芳江が不安そうに夫を見る。


「あなた……」


「黙ってろ」


 三枝が低く言った。


 だが、その声には力がなかった。


 千鶴は続ける。


「勝蔵さんは、当時の旅館組合で強い発言力を持っていた。町を変えなければ潰れる、と言っていた人だ」


「事実だろう」


 三枝がようやく口を開いた。


「何もしなければ、この町は終わっていた」


「それは分かる」


「分かるなら、今さら掘り返すな」


「掘り返したのは、あなたじゃないのかい」


 三枝は黙った。


 沈黙が答えのように重く落ちた。


 透真が静かに言う。


「昨日の掘り跡から、湿布薬、古い煙草、畳の防虫剤の匂いがしました。この宿の玄関と廊下にも、かなり近い匂いがあります」


「だから何だ」


「三枝さんが行った可能性は高いです」


「証拠になるか」


「証拠には弱いです」


 透真は認めた。


「でも、布の切れ端もありました。三枝荘の手拭いかもしれない」


「かもしれない、ばかりだな」


「はい」


 三枝は鼻で笑った。


 だが、透真は続けた。


「だから、聞きに来ました」


 その言い方が、妙にまっすぐだった。


 決めつけるためではない。


 聞くために来た。


 そのことが、澪には分かった。


 三枝は、しばらく透真を睨んでいた。


 やがて、疲れたように目を閉じた。


「……あそこへ行ったのは俺だ」


 芳江が息を呑む。


 千鶴は動かなかった。


 澪は、思わず透真を見る。


 透真も表情を変えない。


 でも、目だけが少しだけ細くなっていた。


「何のために」


 千鶴が聞いた。


「確認しに行った」


「何を」


「親父が塞いだ場所が、まだ塞がっているかどうか」


 部屋の空気が重くなる。


 三枝は、目を閉じたまま続けた。


「親父は、死ぬ前に言った。奥乃湯の逃がし湯は、俺が塞いだ。あれを開ければ、三枝荘の湯が弱るかもしれない。だから、絶対に開けるな、と」


 澪は言葉を失った。


 三枝荘の湯。


 つまり、逃がし湯を塞いだ理由は、町全体のためではなかったのか。


 自分の宿の湯を守るため。


 いや、守るというより、奪ったのかもしれない。


 透真が低く言う。


「三枝荘の湯は、奥乃湯の調査後に湯量が増えましたか」


 三枝は答えなかった。


 芳江が夫を見る。


「あなた……?」


 三枝は布団を握りしめる。


「俺は知らん。俺が子どもの頃の話だ」


「でも、お父さんから聞いた」


「死ぬ前にな!」


 三枝が叫んだ。


 声はひどくかすれていた。


「親父は、死ぬ間際になって急に言ったんだ。奥乃湯の逃がし湯は、俺が塞いだ。あれを開けられたら、三枝荘は終わるかもしれん。だから絶対に黙っていろ、と」


 芳江は青ざめていた。


「そんなこと、私は聞いていない」


「言えるか」


 三枝は顔を歪めた。


「言えるわけがないだろう。うちは、三枝荘は、そのおかげで残ったかもしれないんだ」


 千鶴が静かに言った。


「奥乃湯が死んだ後、三枝荘の湯は安定した」


 三枝は目を伏せた。


「偶然だ」


「そう言い続けてきたんだね」


「偶然だと思いたかったんだよ!」


 その声は、怒鳴り声ではなかった。


 悲鳴に近かった。


 澪は、胸が苦しくなった。


 三枝は、ずっと黙っていた。


 父の罪かもしれないものを抱えて。


 自分の宿が、その上に成り立っているかもしれないという恐怖を抱えて。


 だから、逃がし湯が掘り返されることを恐れた。


 真島でもない。

 古賀真理でもない。

 町の内側にいた人間が、逃がし湯を確認しに行った。


 自分の宿を守るために。


「昨日、なぜ掘ったんですか」


 透真が聞いた。


 三枝は疲れた顔で答える。


「会合で、逃がし湯だの湯帳だの、そんな話になった。怖くなった。もし本当に開けることになったら、うちの湯がどうなるか……」


「それで確認に」


「ああ」


「塞ぎ直そうとした?」


「違う。俺は……俺は、ただ見たかっただけだ。親父が言っていた場所が本当にあるのか。まだ塞がっているのか」


「触りましたか」


「石を少し動かそうとした。だが重くて無理だった」


「布が引っかかった」


「たぶん、その時だ」


 三枝は顔を覆った。


「俺は、奥乃湯を壊したいわけじゃない。ただ、三枝荘まで終わるのが怖かった」


 誰もすぐには責めなかった。


 責めるべきなのかもしれない。


 だが、澪には簡単に言葉が出なかった。


 椿屋の美奈もそうだった。


 お静もそうだった。


 悪いことをした人の中に、弱さがある。


 弱さがあるからといって、悪いことが消えるわけではない。


 でも、弱さを見てしまうと、単純に憎むこともできない。


 千鶴が、静かに息を吐いた。


「健三さん。あなたの恐れは分かる」


 三枝が顔を上げる。


「でも、黙っていたら同じことになる」


「同じ?」


「昔の勝蔵さんと同じだよ。自分の宿を守るために、逃げ道を塞ぐ。結果、別の湯が傷つく」


 三枝は何も言えなかった。


 千鶴は続けた。


「三枝荘の湯が弱るかどうかは、調べなければ分からない。弱るなら、その対策も町で考える。あなた一人で抱える話じゃない」


「町が、うちを守ると思うか」


 三枝の声には、長年の不信が滲んでいた。


「奥乃湯を守れなかった町が?」


 千鶴は答えに詰まった。


 痛いところを突かれたのだと、澪にも分かった。


 三枝は笑った。


 乾いた笑いだった。


「だから親父は、自分で塞いだんだ。町なんて信用できなかったから」


 その瞬間、透真が口を開いた。


「信用できなかったとしても、湯を塞いでいい理由にはなりません」


 三枝の目が透真へ向く。


 透真は、静かに続ける。


「湯には流れがあります。自分のところだけを守ろうとして逃げ道を塞げば、別の場所に負荷がかかる。人も同じです。自分だけで抱えて塞ぐと、別のところから壊れる」


 澪は、朝の会話を思い出した。


 湯にも逃げ道が必要。


 人間みたいだね。


 透真は今、それを三枝に言っている。


 三枝は黙っていた。


 透真の言葉は、責めているようでいて、どこか自分にも向けているようだった。


「三枝さん」


 澪は、気づけば声を出していた。


 三枝がこちらを見る。


 怖い。


 でも、言わなければと思った。


「三枝荘の湯が弱くなるかもしれないって、怖いですよね」


 三枝は驚いたように澪を見た。


 澪は続ける。


「私は旅館をやってるわけじゃないから、本当の大変さは分かりません。でも、椿屋で少し見ました。宿を守るって、気持ちだけじゃどうにもならないんだって」


 ふみの顔。


 美奈の涙。


 給料が遅れていた椿屋。


 守りたいものがあっても、現実が追いつかないこと。


 澪は、それを思い出した。


「だから怖いのは、分かる気がします。でも、怖いから隠すと、もっと怖いことになるんだと思います」


 三枝は何も言わなかった。


 ただ、顔を歪めた。


「……子どもに説教されるとはな」


「すみません」


「謝るくらいなら言うな」


「でも、言わないと同じことになりそうだったので」


 三枝は、今度こそ小さく笑った。


 疲れた、負けたような笑いだった。


「千鶴さん。ずいぶん面倒な子を連れてきたな」


「透真の友達だからね」


「友達じゃありません」


 透真が即座に言った。


 澪も反射で言う。


「友達です」


 部屋が一瞬止まった。


 透真が澪を見る。


 澪も自分で驚いた。


「あ、いや」


「友達?」


 透真が確認する。


「そこ確認する?」


「重要なので」


「……友達でしょ」


「そう」


 透真は、少しだけ目を伏せた。


「認識を更新した」


「今さら?」


「今さら」


 三枝が、布団の上で力なく笑った。


「本当に面倒な子らだ」


 芳江が涙を拭いていた。


 千鶴も、少しだけ表情を緩めた。


 だが、話は終わっていない。


 千鶴は三枝へ向き直る。


「健三さん。逃がし湯のことは、町の会合で話してもらう」


 三枝の顔が強張った。


「俺に、親父のことを話せと?」


「話さなければ、また誰かが掘る」


「三枝荘はどうなる」


「それも一緒に話す」


「信用できるか」


「信用できないなら、信用できないと言えばいい」


 千鶴の声は静かだった。


「黙って塞ぐより、ずっといい」


 三枝は長く黙っていた。


 やがて、小さく頷いた。


「……考える」


「今日中に返事を」


「病人に厳しいな」


「倒れる前に掘りに行った人間には、このくらいでちょうどいい」


 三枝は苦い顔をした。


 けれど、もう反論はしなかった。


 三枝荘を出る頃、朝の雨雲は少しずつ切れ始めていた。


 澪は玄関先で、古い木札を振り返った。


 三枝荘。


 この宿もまた、逃がし湯の上に立っている。


 もしかすると、罪の上に。


 でも同時に、長く人を泊め、湯を守ってきた宿でもある。


 簡単に悪役にはできない。


 この町の物語は、思ったよりずっと絡まっている。


 帰り道、透真がぽつりと言った。


「友達」


 澪は足を止めた。


「そこまだ引っかかってるの?」


「確認していた」


「何を」


「友達、でいいのか」


 澪は少しだけ頬が熱くなった。


「いいでしょ」


「そう」


「嫌なの?」


「嫌ではない」


「じゃあ何?」


「少し、慣れていない」


 その言い方が、妙に素直だった。


 澪は、困ったように笑った。


「じゃあ慣れて」


「努力する」


「努力するものなんだ」


「たぶん」


 千鶴が前を歩きながら言った。


「青春だねえ」


「違います」


 今度は二人同時に言った。


 また重なった。


 千鶴は笑いながら、温泉街のほうへ歩いていった。


 昼前、湯守屋に戻ると、役場から連絡が入っていた。


 昨日の逃がし湯の掘り跡とは別に、北側斜面のさらに奥で、古い石組みが一部崩れているのが見つかったという。


 そこから、かすかに温かい水が染み出しているらしい。


 千鶴は受話器を置き、透真を見る。


「逃がし湯は、まだ奥があるね」


 透真は頷いた。


「本流ではなく、分岐があるのかもしれません」


「源一郎さんの湯帳を、もう一度読み込む必要がある」


「はい」


 澪は、思わず言った。


「今日、学校は?」


 透真が固まった。


 千鶴も固まった。


 数秒後、透真が時計を見る。


「……遅刻」


「今さら!?」


 澪は叫んだ。


 千鶴が平然と言う。


「私が学校に連絡しておいたよ。家の用事で遅れると」


「千鶴さん、いつの間に」


「大人だからね」


「便利な言い方」


 透真が言った。


 澪は思わず笑った。


 重い話ばかりの朝だった。


 でも、学校はまだある。


 授業もある。


 蓮や杏や芽衣に、遅刻の理由をどう説明するかも考えなければならない。


 温泉街の秘密と、普通の高校生活。


 その両方が、澪の日常になり始めている。


 そして、逃がし湯の奥にはまだ、誰も知らない流れが眠っている。

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