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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第46話 町は、湯口をどう守るのか

白狐の口を見た翌日、白峰温泉街は少しだけ息をひそめていた。


 湯けむりは戻っている。


 共同浴場の屋根からも、湯守屋の湯場からも、椿屋の裏手からも、白い湯気が朝の空へ細く伸びている。三枝荘の浴場はまだ止まったままだが、町全体の湯は、あの薄く頼りない朝よりはずっと力を取り戻していた。


 けれど、空気は元通りではない。


 通りを歩く人たちの声が、どこか慎重だった。


「白狐の口って、本当にあるらしいぞ」


「新しい温泉になるのか?」


「いや、触っちゃいけない場所だって聞いた」


「でもさ、観光客は絶対来るよな。白狐伝説の秘湯とか、名前だけで強いじゃん」


 饅頭屋の前でそんな会話が聞こえ、朝比奈澪は思わず足を止めた。


 強い。


 その言葉が、少し怖かった。


 アクセスが取れそう。

 観光客が呼べそう。

 名前だけで売れそう。


 たぶん、そういう感覚は間違いではない。


 白狐の口。


 響きは確かに強い。

 秘密の湯口。

 封じられた警告文。

 昔の湯守たちの因縁。

 山奥で救助された開発会社の部長。


 どれも、人の興味を引く。


 でも、興味を引くものほど、雑に扱われやすい。


 湯守透真は、隣でその会話を聞いていた。


 眉間に、いつもの皺が寄っている。


「湯守くん」


「何」


「今、怒ってる?」


「少し」


「少し?」


「かなり」


「やっぱり」


 透真は、饅頭屋の湯気を見る。


「白狐の口は、売り文句ではない」


「うん」


「でも、売り文句にしやすい」


「うん」


「それが厄介」


 澪は頷いた。


「今日の説明会、大変そうだね」


「大変だと思う」


「湯守くん、成分表みたいな説明にならないようにね」


「まだ言う前から注意される」


「予防」


「安全確認?」


「そう、それ」


 透真は少しだけ不本意そうにした。


「その言い方、完全に共有されている」


「便利だから」


「雑には使ってない?」


「使ってない」


 そう答えると、透真は小さく頷いた。


「なら、いい」


 二人は湯守屋へ向かった。


 今日は町内向けの説明会が開かれる。


 白狐の口で確認された警告文。


『湯を欲で開く者、町を枯らす』

『塞ぎすぎる者もまた、町を病ませる』


 その二行を、町としてどう受け止めるか。


 そして白狐の口をどう守るか。


 奥乃湯をどう再生するか。


 三枝荘の湯をどう支えるか。


 それらを一度、町民へ向けて説明する日だった。


 湯守屋の大広間には、前回よりさらに多くの人が集まっていた。


 旅館組合、商店会、共同浴場の管理人、町内会、役場、消防、温泉設備業者。


 それに、普段はこういう場に出てこない若い店主たちの姿もある。


 白狐の口という名前が、それだけ人を動かしたのだろう。


 古賀真理は湯帳の写しを持って座っていた。

 三枝健三は芳江に支えられながらも出席している。

 湯守美佐江は少し後ろの席で、静かに前を見ている。

 相馬静雄と悠介もいた。

 真島玲司は壁際に立ち、今日はほとんど口を挟まない姿勢に見えた。


 千鶴が前に立つ。


 それだけで、広間のざわめきが少し引いた。


「まず、町の湯は急激な低下を脱しつつあります」


 千鶴の声は、よく通った。


「白狐沢の大逃がしに仮処置を行い、湯分け升の湯温と湯量も回復傾向です。ただし、完全に安定したわけではありません」


 田辺が資料を配る。


 そこには、湯温の変化や湯量の記録が表になっていた。


 澪はその紙を見て、正直に思った。


 分かりにくい。


 数字は大切だ。


 でも、これだけを渡されたら、大半の人は「つまりどういうこと?」となる。


 案の定、後ろの商店主が小声で言った。


「結局、もう大丈夫ってことか?」


「いや、まだ危ないんじゃないのか?」


 透真が反応しかけた。


 澪は小声で言う。


「待って」


「でも」


「たぶん、今の資料だけだと分からない人が多い」


「数字がある」


「数字があるから分かる人ばかりじゃない」


 透真は少しだけ黙った。


「……正確」


「褒めてる?」


「かなり」


「なら、私が少し言う?」


「うん」


 澪は自分で言っておきながら、少し緊張した。


 千鶴がこちらを見た。


 まるで最初から分かっていたような顔だった。


「澪さん、何かあるかい」


 広間の視線が澪へ集まる。


 心臓が跳ねた。


 でも、逃げるほどではなかった。


 澪は立ち上がった。


「えっと……私は専門家じゃないので、間違っていたら直してください」


 まず逃げ道を作ってから、続ける。


「今の町の湯は、熱が完全に戻ったというより、倒れかけた人が少し呼吸を整えた状態に近いんだと思います」


 広間の人たちが静かになった。


「昨日、白狐の口で分かったのは、湯は開ければいいわけでも、塞げばいいわけでもないってことでした。呼吸できるようにしなきゃいけない。でも、急に走らせたらまた倒れるかもしれない。だから今は、白狐の口を観光に使うとか、新しい湯として引くとか、そういう話の前に、まず安静にしながらちゃんと診る段階なんだと思います」


 言い終えて、澪は少し不安になった。


 言いすぎただろうか。


 けれど、共同浴場の管理人がぽつりと言った。


「なるほどな。病み上がりの湯、ってことか」


 別の旅館女将も頷く。


「それなら分かるわ。いきなり客を入れる話じゃないわね」


 澪はほっとした。


 透真が小声で言う。


「かなり正確」


「ありがとう」


「一つだけ」


「何?」


「湯は人ではない」


「そこは今言わなくていい」


「……分かった」


 千鶴が口元を押さえて笑いを堪えた。


 そして、表情を戻す。


「澪さんの説明で合っています。今は湯を売る段階ではありません。湯の呼吸を診る段階です」


 その言葉で、広間の空気が少し落ち着いた。


 だが、全員が納得したわけではない。


 旅館組合の一人、若い旅館経営者の村井が手を上げた。


「女将さん、言いたいことは分かります。でも、町の経営も待ったなしです」


 村井は三十代後半くらいの男で、最近父親から宿を継いだらしい。澪は顔だけ知っていた。


「白狐の口という名前は、正直、強いです。今のうちに情報を整理して、将来的な観光導線を考えるべきではないですか。保護するにしても、完全に隠す必要はないでしょう」


 広間がざわつく。


 村井は続けた。


「もちろん、乱開発しろと言っているわけではありません。ただ、守る守ると言って何もしなかったら、また町は衰えます。若い客を呼ぶには物語性が必要です。白狐の口は、その核になり得る」


 言っていることは、完全に間違いではなかった。


 だからこそ、空気が揺れる。


 商店会の若い女性が頷く。


「実際、SNSで話題になったら大きいですよね。隠すより、ちゃんと管理して見せる方法もあるんじゃないですか」


 別の者も言う。


「この町は古い話ばかりで、外へ発信するのが下手だった。今度こそチャンスじゃないか」


 チャンス。


 その言葉もまた、怖かった。


 千鶴は、すぐには否定しなかった。


 透真も黙っている。


 澪は、少し意外に思った。


 以前なら、透真はすぐ「白狐の口は見世物ではありません」と言ったかもしれない。


 でも今は、言葉を選んでいる。


 千鶴が村井を見た。


「村井さん。あなたの言うことも分かる」


 村井は少し驚いた顔をした。


 怒られると思っていたのだろう。


「町は食べていかなければならない。湯を守ると言って、宿が潰れ、商店が閉じ、人がいなくなれば、それも町を病ませる」


 三枝健三が、静かに目を伏せた。


 千鶴は続ける。


「ただし、順番を間違えてはいけない。物語にする前に、事実に戻す。見せる前に、守る。売る前に、名前を戻す。それをやらずに発信すれば、白狐の口はまた誰かの欲で開かれる」


 村井は口を閉じた。


 透真がそこで立ち上がった。


「白狐の口を完全に隠すことは、僕も違うと思います」


 その言葉に、澪は少し驚いた。


 広間の何人かも同じ顔をした。


「でも、今すぐ観光に使うことも違います」


 透真は資料を一枚持ち上げた。


「白狐の口は、町の湯の呼吸口です。採湯口ではありません。見せるとしても、湯を取る場所としてではなく、湯を守るための場所として説明する必要があります」


 村井が聞く。


「つまり、見学できる保護区みたいにするということか?」


「将来的には、そういう可能性もあります。ただし、専門調査、地盤確認、湯温・湯量監視、立入制限が前提です」


「また難しいな」


 村井が苦笑する。


 透真は一瞬だけ澪を見る。


 澪は小さく頷いた。


 噛み砕け、という意味で。


 透真は少し考えてから言い直した。


「今の白狐の口は、熱のある患者です。病室に観光客を入れるのは早い。でも、病気が治ったあとに、どうやって大切にしてきたかを伝える資料館を作ることはできるかもしれない」


 広間が静まった。


 澪は思わず透真を見た。


 今のは、分かりやすい。


 しかも、ちゃんと人に届く。


 村井も少し目を丸くしている。


「湯守くん、今の説明、いいじゃないか」


 村井が言った。


 透真は微妙に困った顔をした。


「ありがとうございます」


 澪は小声で言う。


「成分表じゃなかった」


「そこ?」


「そこ」


 透真は少しだけ視線を逸らした。


 千鶴が満足そうに頷く。


「では、今日決めたいことを確認します」


 田辺が前に出た。


「役場として、白狐の口周辺を暫定保護区域に指定する案を出します。内容は、無許可立入禁止、採湯禁止、掘削禁止、専門機関による地質・湯脈調査、湯量監視の開始です」


 商店会から声が出る。


「保護区域って、観光客は完全に入れない?」


「当面は入れません」


 田辺が答える。


「ただし、将来的な見学ルートや資料公開は、調査結果と安全性を踏まえて検討します」


 村井が腕を組む。


「つまり、今は守る。将来は見せ方を考える」


「はい」


「それなら、反対はしません」


 広間の空気が少しだけ緩んだ。


 だが、三枝健三が口を開いた。


「白狐の口だけ守っても、三枝荘の湯は戻らん」


 その一言で、空気がまた変わる。


 芳江が夫を見る。


 三枝は、続けた。


「すまん。嫌味じゃない。ただ、現実として言っておきたい。白狐の口を守るのは大事だ。奥乃湯も大事だ。だが、うちは今、湯を止めている。客も減っている。これを町の問題として考えてもらわなければ困る」


 千鶴は頷いた。


「その通りです」


 真理が三枝を見る。


「三枝さん。私も、三枝荘を置き去りにして父の湯を戻したいわけではありません」


「古賀さん……」


「父の湯帳にも、三枝荘を潰す形で戻してはならない、という考えが残っていました。湯守宗一郎さんの手紙にも」


 真理は静かに続ける。


「だから、三枝荘の湯路も同時に調べるべきです。父の記録だけを正義にして、三枝荘を悪者にしたら、また同じことになります」


 三枝は顔を歪めた。


「……ありがとう」


「まだ許したわけではありません」


「分かっている」


「でも、一緒に調べるべきだと思っています」


「ああ」


 二人の会話は、完全な和解ではなかった。


 でも、以前よりずっと前へ進んでいた。


 千鶴がまとめる。


「白狐の口の保護。奥乃湯の逃がし湯調査。三枝荘の湯路確認。この三つは同時に進めます。どれか一つだけを先にすれば、また湯が乱れる」


 田辺がメモに書き込む。


「役場として、三枝荘の営業支援についても旅館組合と協議します」


 村井が言った。


「代替入浴の連携は、うちも協力します」


 ほかの旅館の者たちも、少しずつ頷いた。


 芳江の目に涙が浮かぶ。


 三枝はうつむいたまま、何度も頭を下げた。


 説明会は、長く続いた。


 完全な合意ではない。


 不満も残っている。


 観光活用したい者もいる。


 過去を掘り返されることを嫌がる者もいる。


 それでも、白狐の口をすぐに売り物にする流れは止まった。


 暫定保護区域。


 採湯禁止。


 専門調査。


 奥乃湯・三枝荘との同時調査。


 大きな方針が、ようやく形になった。


 会が終わった後、澪は広間の外で深く息を吐いた。


「疲れた……」


 透真が隣で頷く。


「かなり」


「湯守くんの説明、今日は分かりやすかったよ」


「朝比奈さんの患者の比喩を借りた」


「借りたなら使用料を」


「何がいい?」


 澪は冗談のつもりだったのに、透真が真面目に聞くので困った。


「え、じゃあ……饅頭?」


「分かった」


「本気にした?」


「使用料でしょう」


「湯守くん、そういうところだよ」


 透真は不思議そうに首を傾げた。


 その顔を見て、澪は笑った。


 笑えるくらいには、今日の会議は前へ進んだのだと思う。


 その時、真島が二人へ近づいてきた。


「少し、いいですか」


 透真はすぐに表情を戻す。


「何ですか」


「木原部長から、追加で伝言がありました」


 澪と透真は顔を見合わせた。


 真島は声を低くした。


「木原重蔵の測量ノートに、奥乃湯だけではなく、もう一つ別の湯脈の記録があるそうです」


「別の湯脈?」


 澪が聞く。


「はい。白狐の口から東側へ伸びる、細い流れ。重蔵はそれを『朝霧筋』と呼んでいたらしい」


 透真の目が変わる。


「朝霧筋」


「木原部長は、それが今の町の湯とは別に生きている可能性があると言っています」


「それを使えば、新しい湯が出る?」


 澪が聞くと、透真は首を横に振った。


「まだ分からない。でも、もし本当なら、奥乃湯の再生に関わるかもしれない」


 真島は苦い顔をした。


「ただし、木原部長はこうも言っていました。朝霧筋には、重蔵が赤字で警告を書いていたと」


「何て?」


 透真が問う。


 真島は、ゆっくり答えた。


「『朝霧筋を開けば、白狐の口は眠る』」


 澪は、意味をすぐには理解できなかった。


 朝霧筋を開けば、白狐の口は眠る。


 別の湯脈を動かすと、白狐の口が止まるということなのか。


 それとも、白狐の口を守る鍵が朝霧筋にあるということなのか。


 透真は黙り込んだ。


 千鶴が遠くからこちらを見る。


 湯けむりの町は、ようやく白狐の口を守る方針を決めたばかりだった。


 だが、地面の下にはまだ別の流れがある。


 朝霧筋。


 その名が、次の物語の入口になった。

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