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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第25話 逃げ道を塞いだ町

 湯守屋の座敷に、人が集まっていた。


 旅館の座敷というものは、本来ならもう少し穏やかな場所のはずだ。


 湯上がりの客が座布団に沈み、番茶をすすり、障子越しの庭を眺める。足の悪い老人が「ここの湯は腰にくるねえ」と笑い、若い客が畳の匂いに少し緊張する。


 けれど、その日の座敷には湯上がりの柔らかさはなかった。


 低い座卓を囲んでいるのは、湯守千鶴、古賀真理、真島玲司、役場観光課の職員、消防団、温泉設備業者、椿屋の女将ふみ、土産物屋のお静、それから何人かの旅館組合の人たちだった。


 座敷の隅には、朝比奈澪と湯守透真も座っている。


 高校生が同席するには、少し場違いな空気だった。


 だが、誰もはっきり追い出そうとはしなかった。


 追い出すには、二人はもう見すぎていた。


 嗅ぎすぎていた。


 そして、気づきすぎていた。


 座卓の中央には、三つのものが置かれていた。


 古賀源一郎の手紙。


 奥乃湯の湯帳。


 そして、北側逃がし湯の位置が記された古い図面。


 どれも派手なものではない。


 けれど、座敷に集まった大人たちは、それらをまるで熱いもののように見ていた。


 千鶴が口を開いた。


「始めましょうか」


 その一言で、座敷のざわめきが止まった。


 千鶴は、いつもの女将の顔をしていなかった。


 もっと古い顔だ。


 この町の湯を、長く見てきた人間の顔。


「今日集まってもらったのは、奥乃湯についてです。昨日、奥乃湯裏手で地面が陥没し、古い配管から濁った湯が出ました。そこで見つかった金属筒の中から、古賀源一郎さんの手紙と記録が出た」


 古賀真理の肩が、わずかに動いた。


 澪はそれに気づいた。


 真理は落ち着いて見える。


 けれど、落ち着いているわけがない。


 父の言葉が、何十年も経って町の前に出てきたのだ。


 それを見られる側に立つのは、どれほど怖いだろう。


 澪は、少しだけ母のことを思い出した。


 沙織も、宗一の手紙を読む時、あんな顔をしていた。


 千鶴は続ける。


「源一郎さんの手紙には、奥乃湯は死んだのではなく、傷ついたのだとありました。そして湯帳には、北側逃がし湯を塞ぐな、と記されている」


 設備業者の男性が、図面を指さした。


「この逃がし湯ですが、現在の役場管理図面には記載がありません」


 役場職員が気まずそうに眉を寄せる。


「古い資料の中には、類似の線があるものもありました。ただ、正式な配管として扱われていたかどうかは……」


「扱われていなかったから、問題なのでは?」


 そう言ったのは、透真だった。


 声は静かだった。


 座敷の大人たちの視線が、一斉に透真へ向く。


 澪は横で少し身構えた。


 透真は大人の視線に怯む様子もなく、続ける。


「湯帳を見る限り、源一郎さんは逃がし湯を奥乃湯の一部として見ていました。湯口だけではなく、逃げ道も含めて奥乃湯だった。けれど正式な図面からは消えている。つまり、町は重要な逃げ道を記録上なかったものにした可能性があります」


 役場職員が言葉に詰まった。


 旅館組合の一人が、渋い顔をする。


「高校生がずいぶんはっきり言うな」


 年配の男だった。


 たぶん、近くの小さな旅館の主人だろう。


 透真はそちらを見る。


「はっきり残っているからです。湯帳に」


「昔の一人の記録だろう」


「一人が毎日見続けた記録です」


 透真は即答した。


「毎日見る人間の記録は、会議で作った資料より正確なことがあります」


 座敷が静まった。


 澪は思わず心の中で、出た、と思った。


 偏屈。


 でも、今回はかなり効いている。


 年配の男は不機嫌そうに口を閉じた。


 千鶴が、透真に視線を向ける。


「続けなさい」


「はい」


 透真は湯帳を開いた。


「調査前の奥乃湯は、湯温も湯量も大きく乱れていません。鉄臭は弱い。焦げ臭はなし。北側逃がし湯には微弱ながら流れあり、と記録されています。ところが湯脈調査が始まってから、鉄臭、焦げ臭、湯温の不安定化が出ている」


 設備業者が頷いた。


「この記録はかなり細かいです。今の基準で測ったものではないですが、日々の変化を見るには十分です」


「逃がし湯を塞いだら、どうなるんですか」


 澪は思わず聞いた。


 自分が口を挟んでいいのか迷ったが、もう聞いてしまっていた。


 設備業者は、澪のほうを見て、少し考えてから分かりやすく説明してくれた。


「単純に言えば、圧の逃げ場がなくなります。古い配管や湯道に負担がかかる。詰まりがあれば、別の弱い場所から湯やガスが出ることもある。今回の陥没は、その可能性があります」


「つまり、湯が怒った?」


 蓮ならそう言いそうだ、と澪は一瞬思った。


 だが、口にしたのは自分だった。


 設備業者は少し驚いた顔をし、それから苦笑した。


「科学的には怒るとは言いませんが……まあ、乱暴に扱えば反応はします」


「湯は人間じゃない」


 旅館組合の年配の男が言った。


「怒るも何もないだろう」


「でも」


 澪は、その男を見た。


 自分でも、なぜ言い返したのか分からなかった。


 けれど止まれなかった。


「人間じゃないからって、何してもいいわけじゃないですよね」


 座敷の空気が、また少し変わった。


 澪は膝の上で手を握る。


「私、この町に来たばかりです。温泉のことなんて全然分かりませんでした。最初は、温泉の匂いを卵が腐った匂いとか言いました」


 隣で透真が少しだけこちらを見た。


 澪は続ける。


「でも、湯守くんに『卵を腐らせたことあるのか』って言われて、面倒くさいなと思ったんですけど」


 座敷の数人が、思わず透真を見た。


 透真は真顔で目を逸らした。


 千鶴が小さく笑いをこらえている。


「でも今は、少し分かります。知らないものを、雑な言葉で片づけると、見えなくなるものがあるんだと思います。奥乃湯も、古いから、使ってないから、再開発できるからって雑に扱ったら、また何か見えなくなる気がします」


 言い終えてから、澪は急に恥ずかしくなった。


 座敷の大人たちの前で、何を熱く語っているのだろう。


 頬が熱い。


 けれど、真理が澪を見て、小さく頭を下げた。


「ありがとう」


 その一言で、澪は少しだけ救われた。


 真島玲司が静かに口を開いた。


「朝比奈さんの言葉は、よく分かりました」


 声は穏やかだった。


 だが、澪には少しだけ身構える気持ちがあった。


 この人は言葉がうまい。


 うまい言葉は、時々、匂いを隠す。


「ですが、再整備そのものを悪と決めつけるのは違います。奥乃湯をこのまま朽ちさせるのが、本当に正しいのでしょうか」


 真島は座敷の全員を見渡した。


「古賀さんのお父様は、湯を信じていた。湯は戻ることもあると記していた。ならば、専門的な調査を行い、現代の技術で安全に再生する道を探ることも、選択肢の一つではありませんか」


 その言葉に、何人かの大人がわずかに反応した。


 悪い言葉ではない。


 むしろ、とても正しいように聞こえる。


 朽ちさせるより、再生。


 忘れるより、活用。


 過去を残すために、新しくする。


 アクセス数を狙う物語なら、ここで真島を完全な悪役にしてしまえば簡単なのかもしれない。


 けれど、澪の目の前にいる真島は、そう簡単な人ではなかった。


 危うい。


 焦っている。


 嘘もついた。


 でも、再生という言葉そのものは、完全な嘘ではない。


 だから厄介なのだ。


「再生は否定しません」


 真理が言った。


 全員が彼女を見る。


 真理は、湯帳に手を置いていた。


「私も、奥乃湯をこのまま腐らせたいわけではありません。父が守ろうとした湯を、何かの形で残したい。そう思って戻ってきました」


 真島の表情が少し緩む。


 だが、真理は続けた。


「でも、真島さん。あなたは急ぎすぎました」


 真島の表情が止まる。


「私は、現地確認と資料照会には同意しました。でも、湯が動いたからといって、私への説明を後回しにして作業を進めることには同意していません。父の記録を、観光資源にするための物語として扱うことにも同意していません」


「古賀さん、私は」


「あなたが悪人だと言っているわけではありません」


 真理の声は、震えながらもまっすぐだった。


「でも、あなたは父の痛みより先に、計画の可能性を見た。私はそこが怖いんです」


 真島は何も言えなかった。


 澪は、真理の言葉を胸の中で繰り返した。


 痛みより先に、可能性を見る。


 それは、とても現代的で、とても危ないことなのかもしれない。


 千鶴が口を開いた。


「私は、奥乃湯を戻すことに反対ではない」


 その言葉に、座敷が少しざわめいた。


 透真も驚いたように千鶴を見る。


「ばあちゃん」


「最後まで聞きなさい」


「はい」


「私は、乱暴に戻すことに反対なんだよ」


 千鶴は湯帳を指で示した。


「源一郎さんは、奥乃湯は傷ついたと書いた。傷ついたものを戻すには、まず傷を見なければならない。なのに、昔の町は傷を隠した。漏電だ、老朽化だ、仕方なかったのだと片づけた」


 座敷の年配者たちが視線を落とす。


 お静が、ぽつりと言った。


「みんな、怖かったんだよ」


 その声は小さかったが、よく通った。


「町が駄目になるのが怖かった。若い人が出ていくのが怖かった。客が減るのが怖かった。だから、新しい湯が出るかもしれないって話にすがった」


 お静は、手元の湯呑みを見つめていた。


「源一郎さんが危ないって言った時も、分かってる人はいた。でも、分かっていると言えば、自分たちが止めなきゃいけなくなる。止めたら町の未来を潰したと言われる。だから、みんな聞こえないふりをした」


 座敷に沈黙が広がる。


 お静は顔を上げなかった。


「私も、その一人だよ」


 千鶴は静かに目を閉じた。


「私もだ」


 澪は何も言えなかった。


 大人たちが、自分の弱さを口にしている。


 それは、責任逃れではなかった。


 むしろ、逃げていたことをようやく認める言葉だった。


 透真が低く言った。


「聞こえないふりをした結果、逃がし湯が消えた」


 その言葉は厳しかった。


 千鶴は頷いた。


「ああ」


「なら、今回は聞こえているうちに止めるべきです」


「そうだね」


 透真は湯帳へ視線を落とす。


「まず北側逃がし湯を確認する。塞がれているなら開ける。ただし、設備業者と消防立ち会いで、安全に。奥乃湯の再整備は、その後です」


 設備業者が頷いた。


「それが妥当です。現在の状態では、再開発どころか周辺の安全確認が先です」


 役場職員も同意した。


「役場としても、奥乃湯周辺の立ち入り制限を継続します。湯帳と手紙の写しを取り、専門家に確認を依頼します」


 真島は黙っていた。


 だが、反論はしなかった。


 千鶴が彼を見る。


「真島さん。あなたの会社には、いったん手を引いてもらいます」


「完全に、ですか」


「少なくとも、町が奥乃湯をどう扱うか決めるまで」


 真島は、ゆっくり息を吐いた。


「分かりました」


 その声には、悔しさが滲んでいた。


 けれど同時に、少しだけ力が抜けたようにも聞こえた。


「ただ、私は……」


 真島は言葉を探した。


 初めて、彼の言葉に淀みが見えた。


「私は、地方の温泉街が何もしないまま衰えていくのを何度も見ました。古いものを大切にすると言いながら、実際には何もできず、朽ちさせる。そういう場所を、何度も」


 千鶴は黙って聞いていた。


「だから、急いだのかもしれません」


 真島は、そう言った。


「言い訳にはなりませんが」


「なりませんね」


 千鶴は即座に言った。


 真島は苦く笑った。


「はい」


 そのやり取りで、座敷の空気が少しだけ変わった。


 真島は完全な敵ではない。


 でも、信じきれる相手でもない。


 それでいいのだと思う。


 人間は、そんなに簡単に分類できない。


 澪は、そういうこともこの町で少しずつ知っていた。


 会合は、ひとまず結論にたどり着いた。


 奥乃湯周辺は立ち入り禁止を継続。


 北側逃がし湯の位置を設備業者が正式に確認。


 湯帳と手紙は、古賀真理と湯守屋、役場立ち会いで保管し、写しを取る。


 再整備計画は凍結。


 町として、奥乃湯の過去をきちんと記録し直す。


 簡単な道ではない。


 でも、少なくとも、もう誰かが勝手に進めることはできなくなった。


 会合が終わる頃、座敷の外は夕方になっていた。


 障子の向こうに、薄い橙色の光が差している。


 真理は湯帳を前にして、深く息を吐いた。


「父は、こんなに毎日、湯を見ていたんですね」


 千鶴が言う。


「源一郎さんにとって、奥乃湯は仕事場じゃなかったんだよ」


「何だったんでしょう」


「たぶん、家族みたいなものだった」


 真理は泣きそうに笑った。


「私は、少し嫉妬していたかもしれません」


「湯に?」


「はい。父はいつも奥乃湯を見ていました。子どもの私は、父を取られたように思っていた」


 その言葉に、澪は胸が少し痛くなった。


 母の過去に嫉妬した自分と、少し似ている。


「でも、父は湯に負けたわけじゃないんですね」


 真理は手紙の最後の一文を思い出すように言った。


「父は、湯を信じていた」


 千鶴が頷く。


「そうだよ」


 その時、透真がぽつりと言った。


「湯を信じるって、難しいですね」


 千鶴が少し驚いたように孫を見る。


「そうだね」


「湯は裏切らないけど、応えてくれるとも限らない」


「ずいぶん年寄りみたいなことを言う」


「ばあちゃんのせいです」


「失礼だね」


 澪は思わず笑った。


 それから、透真に言った。


「でも、湯守くんも信じてるんでしょ」


「何を?」


「匂い」


 透真は少し考えた。


「信じているというより、無視できない」


「それ、信じてるのと似てない?」


「似ているかもしれない」


「珍しく認めた」


「認識が更新された」


 澪は笑った。


 座敷に、少しだけ柔らかい空気が戻った。


 しかし、その日の終わりは、それだけでは済まなかった。


 会合の片づけが終わる頃、役場職員が慌てた顔で戻ってきた。


「すみません、湯守女将」


「何です」


「奥乃湯の北側、逃がし湯と思われる水路付近ですが……」


 職員は言いにくそうに言葉を切った。


 透真の顔が硬くなる。


「何かありましたか」


「誰かが掘り返した跡があります」


 座敷の空気が凍った。


「いつ?」


 千鶴が聞く。


「おそらく昨夜から今朝にかけて。新しい足跡が複数あります」


 真島が立ち上がる。


「当社ではありません」


 その声は、今度は本気に聞こえた。


 透真が低く言った。


「では、別の誰かが逃がし湯を探している」


 澪の背筋に、冷たいものが走った。


 真島ではない。


 では誰が。


 古賀真理でもない。


 町の誰かか。


 それとも、再開発とは別に奥乃湯を狙っている人間がいるのか。


 千鶴は、静かに立ち上がった。


「まだ、終わらないね」


 その声は疲れていた。


 けれど、折れてはいなかった。


 透真は窓の外を見た。


 夕方の湯けむりが、温泉街を白く包んでいる。


 そのどこかで、誰かが逃がし湯を掘り返した。


 逃げ道を塞いだ町。


 そして、今度は逃げ道を奪おうとする誰か。


 澪は、自分の手が冷たくなるのを感じた。


 奥乃湯の本当の問題は、まだ地面の下に残っている。


 そして、その匂いは、静かに濃くなり始めていた。

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