第24話 石灯籠の下に眠る湯帳
翌朝、白峰高校の教室は、いつも通り騒がしかった。
窓の外には、雨上がりの山が見える。
温泉街のほうからは湯けむりが上がり、校庭の端には水たまりが残っていた。
朝比奈澪は席に着くなり、鞄から教科書を出した。
出しただけで、中身はあまり頭に入っていない。
今日は放課後、奥乃湯へ行く。
役場、消防、温泉設備業者、湯守千鶴、古賀真理、そして透真。
正式な立ち会いのもとで、女湯側の石灯籠の下を確認する。
古賀源一郎が手紙に残した場所。
調査前の湯の状態を記した帳面が隠されているかもしれない場所。
そう考えるだけで、胸の奥が落ち着かなかった。
「朝比奈さん」
隣から声がした。
湯守透真だった。
「何?」
「教科書、逆」
澪は手元を見た。
現代文の教科書が上下逆になっている。
「……これは、あれだよ」
「あれ?」
「文字を別角度から見る訓練」
「必要ない」
「即答しないで」
「必要ないと思う」
「ちょっと柔らかくなったけど、結論は同じ」
澪は教科書を直した。
透真はいつも通りの顔をしている。
けれど、目の下にうっすら疲れが見えた。
「湯守くん、昨日ちゃんと寝た?」
「寝た」
「何時間?」
「また具体的」
「対策してるから」
「五時間」
「短い」
「昨日より長い」
「そういう問題じゃない」
澪が睨むと、透真は少しだけ目を逸らした。
「資料を読み返していた」
「でしょうね」
「古賀源一郎さんの手紙にあった『逃がし湯』が気になって」
「逃がし湯?」
「湯の圧や流れを逃がすための経路。今でいう排水やバイパスに近いものかもしれない」
「朝から難しい」
「簡単に言うと、湯にも逃げ道が必要」
澪は少し黙った。
「人間みたいだね」
透真がこちらを見る。
「人間?」
「追い詰められたら、変なところから噴き出すでしょ」
「……それは、かなり正確かもしれない」
「褒めてる?」
「かなり」
「最近、少し分かってきた」
「助かる」
そこで、前の席の黒瀬蓮が振り返った。
「朝から何の話? 湯にも逃げ道? 人生相談?」
「温泉配管」
透真が答える。
「やっぱ人生相談のほうが分かりやすかったわ」
蓮はあくびをした。
小坂杏と仁科芽衣も近づいてくる。
「朝比奈さん、今日も奥乃湯?」
杏が小声で聞いた。
澪は少し迷い、頷いた。
「うん。でも今日は正式に。役場とか消防の人も一緒」
「それでも危ない場所なんでしょ?」
芽衣の声には心配が滲んでいた。
「中に勝手に入るわけじゃないから」
「その言い方、前も聞いた気がする」
「今回は本当に正式」
透真が補足した。
「立ち入りの許可と安全確認がある。無許可の確認ではない」
蓮が眉をひそめる。
「無許可の確認って何だよ。言い方だけ丁寧な不法侵入みたいじゃん」
「入ってはいない」
「そういう問題じゃねえ」
杏が真面目な顔で言う。
「湯守、朝比奈さんを危ないところに立たせないでよ」
「分かってる」
「即答した」
杏が少し驚く。
「成長してる?」
蓮が言うと、透真は少しだけ不本意そうにした。
「朝比奈さんと祖母に何度も言われたから」
「教育の成果だ」
「黒瀬に言われるのは不本意」
「俺も言いながらちょっと思った」
教室に小さな笑いが生まれた。
普通の朝。
普通の教室。
それなのに放課後には、町の古傷を掘り返しに行く。
その落差が、澪には少し不思議だった。
でも、たぶん高校生活というものは、本来そういうものなのかもしれない。
テストもある。
クレープもある。
友達との会話もある。
そして、誰かが隠した古い手紙や、死んだはずの湯もある。
少なくとも、この町では。
放課後。
奥乃湯の周辺には、黄色い立入禁止テープが張られていた。
昨日の陥没穴の周囲には簡易柵が置かれ、役場職員と消防団員が数人立っている。温泉設備業者らしい作業服の男性たちが、測定器を準備していた。
昨日より天気は落ち着いている。
雨は降っていない。
だが、地面はまだ湿っていて、湯気は細く立ちのぼっていた。
旧共同浴場《奥乃湯》は、昼間でも暗く見える。
黒ずんだ壁。
塞がれた入口。
斜めになった古い看板。
雑草の間に埋もれるような石灯籠。
澪は、石灯籠を見た瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
あれだ。
古賀源一郎が手紙に記した場所。
女湯側の石灯籠の下。
そこに帳面が眠っているかもしれない。
湯守千鶴は、今日も雨羽織ではなく、落ち着いた色の着物姿だった。けれど足元は草履ではなく、動きやすい靴に替えている。
女将としてではなく、湯守として来たのだと分かる。
古賀真理は、グレーのコートを着ていた。
昨日より顔色は少し戻っているが、唇は固く結ばれている。
真島玲司も来ていた。
役場職員に少し離れた場所で待つよう言われている。今日は一人だ。作業員も会社の機材もない。
笑顔はある。
しかし、昨日までのような滑らかさは消えていた。
「来たね」
千鶴が透真と澪を見て言った。
「学校帰りにすみません」
澪が頭を下げると、千鶴は軽く手を振った。
「澪さんはもう関係者だからね」
「まだ少し慣れません、その呼び方」
「慣れるよ」
「慣れるんですか」
「温泉町は、気づいたら巻き込まれているものだ」
透真が小さく言う。
「それを一般化するのはどうかと思います」
「うちの孫が言うかね」
「僕は一般化していません」
「自覚がないだけだよ」
澪は少し笑った。
その笑いで、張りつめていた胸が少しだけ緩んだ。
だが、すぐに現場の空気が戻ってくる。
役場職員が説明した。
「本日は、古賀源一郎氏の手紙に記載のあった石灯籠付近を確認します。建物内部には入りません。陥没箇所には近づかず、地盤を確認しながら作業します」
消防団員が続ける。
「湯気の成分と温度も見ます。異常があれば即中止です」
千鶴は頷いた。
「それでいい」
真理が静かに言う。
「お願いします」
真島は口を挟まなかった。
ただ、石灯籠を見る目が鋭かった。
澪はそれに気づき、少しだけ嫌な気持ちになった。
真島は、あの帳面をまだ欲しがっている。
そんな気がした。
「湯守くん」
澪が小声で言う。
「真島さん、見てる」
「うん」
「何かしそう?」
「今はしない。人が多い」
「今は、なんだ」
「うん」
透真の返事は短かった。
それがかえって不安を強めた。
作業は慎重に進められた。
まず、石灯籠の周囲の地面が確認される。
古い苔が生えていて、土は湿っている。だが、昨日の陥没穴ほど危険ではなさそうだった。
設備業者が棒状の器具で軽く地面を確かめる。
消防団員が湯気の流れを見ている。
透真は少し離れた場所で立ち、空気を確かめていた。
「近づきすぎない」
澪が言うと、透真は頷いた。
「分かってる」
「本当に?」
「今日は分かってる」
「昨日は?」
「半分くらい」
「やっぱり」
千鶴が横から言った。
「今日は澪さんの監視があるから安心だね」
「僕は監視対象ですか」
「主にね」
「不本意です」
「自業自得だよ」
透真は反論しなかった。
石灯籠は、思ったより重そうだった。
古い石でできていて、表面には苔がついている。女湯側の庭に置かれていたものらしいが、今は浴場自体が閉じられているため、ただ雑草の中に残されていた。
設備業者が、石灯籠の基礎部分を見て言う。
「これ、少し動かされた跡がありますね」
その言葉に、全員が反応した。
真理の顔がこわばる。
千鶴が低く聞く。
「最近ですか」
「苔の切れ目が新しいです。完全に持ち上げたわけではないけど、ずらそうとした形跡があります」
澪は真島を見た。
真島は表情を変えなかった。
だが、目だけが少し細くなった。
透真が言った。
「機械油と革手袋の匂いがします」
全員の視線が透真へ向いた。
透真は石灯籠のほうを見ている。
「古い苔の匂いの上に、新しい油の匂いが乗っている。昨日の機材にも似ています」
真島が静かに言った。
「私どもは、石灯籠には触れていません」
「まだ名指ししていません」
透真は淡々と返す。
「けれど、作業用の手袋を使った誰かが触った可能性があります」
真島は黙った。
澪は心の中で思った。
この言い方はずるい。
相手を決めつけず、逃げ道を残しながら、逃がしすぎない。
湯守透真は探偵ではないと言い張るけれど、やっていることはかなり探偵に近い。
本人に言うと絶対否定されるので、言わない。
「とにかく、急ぎましょう」
役場職員が言った。
「ただし慎重に」
石灯籠は、数人がかりで少しずつ動かされた。
ごり、と石が土を擦る音がする。
真理が両手を握りしめる。
千鶴はその横に立ち、じっと見ていた。
澪も息を詰める。
石灯籠の下に、何があるのか。
何もない可能性だってある。
古賀源一郎の手紙は古い。
その後、誰かが掘り返したかもしれない。
湿気で朽ちているかもしれない。
真島たちがすでに見つけているかもしれない。
不安ばかりが頭に浮かぶ。
石灯籠がようやく少し横へずれた。
その下に、平たい石板があった。
「何かあります」
作業員が言った。
石板の中央には、小さな取っ手のような金具がついていた。
錆びている。
だが、形は残っていた。
真理が息を呑む。
「父……」
千鶴が小さく言った。
「本当に隠していたんだね」
石板は、慎重に持ち上げられた。
中は小さな空洞になっていた。
そこに、油紙で包まれた箱が収められている。
木箱ではない。
漆を塗ったような、黒い小箱だった。
防湿のためか、さらに布で巻かれている。
澪は鳥肌が立った。
宗一の手紙。
古賀源一郎の金属筒。
そして今度は、石灯籠の下の小箱。
この町は、いったいどれだけの言葉を地面の下に隠してきたのだろう。
小箱は、役場職員と設備業者の立ち会いで取り出された。
その瞬間、透真が少しだけ眉をひそめた。
「どうしたの?」
澪が聞く。
「匂いが違う」
「何の?」
「古い紙と油紙。それは分かる。でも、その上に最近の香水が少しある」
澪の背中が冷えた。
「香水……」
真理のものか。
昨日の車の女性の香水。
古賀真理自身が触ったのか。
それとも。
透真は続けた。
「真理さんの香水とは少し違う」
真理が驚いたように顔を上げる。
真島の表情がわずかに動いた。
澪はそれを見た。
絶対に、何か知っている。
「つまり、誰かが先に触ってる?」
澪が聞くと、透真は頷いた。
「完全に開けたかは分からない。でも、小箱の外側には最近の匂いがある」
「じゃあ、中身が」
「無事かどうか、確認する必要がある」
千鶴の声が低くなった。
「ここで開ける」
役場職員が頷く。
「記録を取りながら開封します」
真島が口を開いた。
「その前に、当社も確認を」
「離れていてください」
役場職員が遮った。
真島の眉がわずかに動く。
だが、今はそれ以上言えなかった。
小箱の布がほどかれた。
油紙が剥がされる。
中から現れた黒い箱は、驚くほどきれいだった。
蓋には、小さく文字が彫られている。
『湯帳』
真理の目から涙がこぼれた。
「父の字です」
千鶴も、唇を引き結んでいた。
箱の蓋が開けられる。
中には、薄い帳面が一冊入っていた。
表紙は濃い紺色。
端は少し傷んでいるが、油紙に守られていたため、まだ読めそうだった。
表に、墨で書かれている。
『奥乃湯 湯帳 調査前控』
澪は、その文字を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
あった。
本当にあった。
古賀源一郎が残した、奥乃湯の本当の記録。
それは、大きな宝箱でも、派手な伝説でもない。
一冊の帳面だった。
でも、たぶんこの町にとっては、何より重い。
「ここでは全部読まない」
千鶴が言った。
「湯守屋に運ぶ。役場で写しを取る前に、真理さんと私でまず確認する」
真島が言った。
「それは公平性に欠けます」
千鶴は静かに真島を見た。
「あなたは昨日、同意範囲を越えて作業を進めた疑いがある。公平性を語るなら、まずそこを説明しなさい」
真島は黙った。
澪は、真島の手元を見た。
右手が、コートのポケットの中で何かを握っているようだった。
スマホか。
録音機か。
それとも別の資料か。
気になったが、今は言えなかった。
透真も気づいているのか、真島から目を離さない。
帳面は、慎重に袋へ入れられた。
その時、風が吹いた。
奥乃湯の建物のほうから、湯気が流れてくる。
澪は、思わず鼻を押さえた。
鉄の匂い。
昨日よりは薄い。
でも、まだ残っている。
透真が静かに言った。
「湯の匂いが変わってる」
千鶴が反応する。
「どう変わった」
「昨日の濁った匂いが少し薄い。かわりに、古い木の湿った匂いが強い」
「危険?」
「すぐではない。でも、内部で水の流れが変わっているかもしれない」
設備業者が頷いた。
「確かに、昨日より湯気の出方が変わっています。地下で詰まりが動いたのかもしれません」
千鶴は奥乃湯を見た。
「源一郎さんの帳面を読めば、逃がし湯の位置が分かるかもしれないね」
「はい」
透真が答える。
その声には、わずかに熱があった。
興奮ではない。
責任感に近いもの。
澪は、すぐに言った。
「湯守くん」
「何」
「前に出すぎない」
「まだ出てない」
「心が出てる」
透真は一瞬止まった。
「心?」
「顔がもう配管図に潜ってる」
千鶴が吹き出した。
真理も、涙を拭いながら少しだけ笑った。
透真は、とても不本意そうな顔をした。
「それは不正確だと思う」
「じゃあ半分くらい潜ってる」
「半分なら」
「認めるんだ」
「……認めていない」
澪は少し笑った。
笑いながらも、胸の奥には緊張が残っていた。
湯帳は見つかった。
けれど、誰かが先に触れた形跡がある。
中身は無事なのか。
真島は何を知っているのか。
そして、奥乃湯の湯は本当に戻せるのか。
まだ何も解決していない。
むしろ、ようやく本当の入り口に立ったのだ。
湯守屋へ戻る道で、真理は帳面の入った袋を両手で抱えていた。
千鶴がその隣を歩く。
透真と澪は少し後ろ。
真島は役場職員に付き添われ、別の車で移動することになった。
「古賀さん、大丈夫かな」
澪が小声で言うと、透真は少しだけ考えた。
「大丈夫ではないと思う」
「そういう時は、少しは慰めて」
「でも、逃げてはいない」
澪は前を歩く真理を見る。
確かに、その背中は震えている。
でも、逃げてはいない。
「それは、たしかに」
「だから、大丈夫ではないけど、進んでいる」
澪は透真を見た。
「今の、いいね」
「何が」
「大丈夫じゃなくても進めるってこと」
「そう言ったつもりはない」
「そう聞こえた」
「なら、それでいい」
澪は少しだけ笑った。
湯守屋に着くと、帳面はすぐに帳場奥の座敷へ運ばれた。
沙織とふみも待っていた。
沙織は澪の顔を見るなり、ほっとしたように息を吐く。
「おかえり」
「ただいま」
「怖かった?」
澪は少しだけ考えて、正直に答えた。
「怖かった。でも、行ってよかった」
沙織は頷いた。
「そう」
湯帳は、白い布の上に置かれた。
千鶴、真理、透真、澪、役場職員、設備業者、そして少し遅れて真島。
全員が見守る中、古賀真理が表紙を開いた。
最初のページには、几帳面な字で日付と湯温、湯量、匂い、色、天候が書かれていた。
毎日。
細かく。
ただの数値ではない。
湯の機嫌を見るような記録だった。
澪は、思わず呟いた。
「すごい……」
透真も静かに言った。
「これは、湯の体温表です」
「体温表?」
「毎日の変化を見ている。源一郎さんは、湯を生き物みたいに扱っていた」
真理が涙を浮かべる。
「父らしいです」
ページをめくる。
調査前の湯は、日によって変化しながらも安定していた。
鉄臭は弱い。
焦げ臭なし。
湯温は一定範囲。
さらに進むと、ある日付から記述が変わる。
『北側逃がし湯、微弱ながら流れあり。閉塞してはならず』
透真が息を呑む。
「ここだ」
設備業者が身を乗り出す。
「北側逃がし湯……現在の図面には載っていません」
千鶴が眉をひそめる。
「消されたのかい」
真島の表情が、わずかに動いた。
澪はそれを見逃さなかった。
「真島さん」
澪が思わず呼ぶ。
真島はすぐに表情を整えた。
「何でしょう」
「知ってたんですか」
「何を」
「北側逃がし湯」
座敷の空気が止まった。
真島は、少しだけ間を置いた。
「古い図面に、それらしい記載があっただけです」
透真が静かに言う。
「見ていないと言っていましたよね。地下配管図」
真島は黙った。
澪の胸が冷える。
やはり、嘘だった。
真島は古い図面を見ていた。
あるいは、誰かから見せられていた。
千鶴の声が低くなる。
「真島さん。今のは、聞き捨てならないね」
真島は、ゆっくり息を吐いた。
「……断片的な資料です。正式な図面ではありません」
「それを見て、奥乃湯を調べていた」
「再整備に必要だと判断しました」
「そして、逃がし湯を刺激した?」
「それは違います」
「なら、なぜ昨日、湯が動いた」
千鶴の問いに、真島は答えなかった。
透真は湯帳を見つめていた。
「逃がし湯を塞ぐと、圧が戻る」
設備業者が頷く。
「理屈としてはあり得ます。古い逃がし湯がまだ生きていて、そこを塞いだり崩したりすれば、湯が逆流することも」
真理が青ざめる。
「真島さん、あなた……」
「私は塞いでいません」
真島は強く言った。
「ただ、北側の古い溝を確認しただけです。そこに湯気があった。だから調査を急いだ」
「確認しただけで、なぜ陥没したんですか」
透真が聞く。
真島は答えられなかった。
座敷に重い沈黙が落ちた。
その時、湯帳の次のページをめくった真理が、小さく声を上げた。
「これ……」
全員が帳面を見る。
そこには、赤い墨で大きく書かれていた。
『北側逃がし湯を塞ぐな。奥乃湯は湯口で生きているのではない。逃げ道で生きている。』
澪は、その一文を見た瞬間、朝の会話を思い出した。
湯にも逃げ道が必要。
人間みたいだね。
あれは冗談のような会話だった。
でも、古賀源一郎は何十年も前に、同じことを記録していた。
奥乃湯は、湯口だけで生きていたのではない。
逃げ道で生きていた。
その逃げ道を塞げば、湯はまた傷つく。
千鶴は目を閉じた。
「源一郎さん……」
透真は、静かに言った。
「奥乃湯は、戻ったんじゃない」
澪が聞く。
「じゃあ何?」
「また傷口が開いた」
その言葉に、座敷の誰もが黙った。
死んだ湯が息を吹き返したのではない。
傷ついた湯が、また痛みを訴えた。
そう考えると、奥乃湯から立ち上る湯気が、喜びではなく悲鳴のように思えた。
真理が、帳面に手を添えた。
「止めなきゃ」
声は震えていた。
「父が守ろうとした逃げ道を、もう一度塞がせるわけにはいかない」
千鶴が頷いた。
「明日、町の会合を開く」
「私も出ます」
真理が言う。
「もちろんだよ」
透真が真島を見る。
「真島さんも、説明してください。断片的な資料を見ていたこと。北側の溝を確認したこと。湯が動いた後に調査を急いだこと」
真島は黙っていた。
それでも、もう逃げられない。
湯帳がある。
源一郎の手紙がある。
真理がいる。
千鶴がいる。
そして、匂いを嗅ぎ逃さない偏屈な高校生がいる。
澪は、少しだけ息を吐いた。
まだ怖い。
でも、怖いだけではない。
湯けむりの町は、隠していたものを少しずつ見せ始めている。
次は、それを町の人たちの前で語らなければならない。
逃げ道を塞がれた湯のために。
逃げ道を失った人たちのために。
そして、また同じ過ちを繰り返さないために。




