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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第23話 湯守千鶴殿

封筒は、古い。


 だが、不思議なほど形を保っていた。


 油紙に包まれ、金属筒の中に入れられていたせいだろう。端は少し黄ばんでいるが、破れてはいない。表に書かれた文字も、かすれてはいるものの、読める。


『湯守千鶴殿』


 その五文字を見た瞬間、湯守千鶴は動かなくなった。


 朝比奈澪は、息をするのも忘れそうになった。


 椿屋で宗一の手紙を見た時と似ている。


 けれど、あの時とは違う。


 あの手紙は、やさしい未練だった。


 これは違う。


 紙から滲む空気が、もっと硬い。


 悔しさ。

 警告。

 言い残した責任。


 そんなものが、古い紙の中に閉じ込められている気がした。


 湯守屋の帳場奥の座敷には、誰もすぐには声を出せなかった。


 千鶴。

 透真。

 古賀真理。

 澪。

 沙織。

 椿屋のふみ。

 役場職員と消防団員。

 そして、少し離れた廊下の向こうに、真島玲司。


 全員が、一通の封筒を見ていた。


 古賀源一郎が残したかもしれない手紙。


 奥乃湯が死んだ日の真実を握っているかもしれないもの。


 千鶴は、封筒を手に取ったまま、しばらく開けなかった。


 透真が静かに呼ぶ。


「ばあちゃん」


「……分かっているよ」


 千鶴の声は、いつもの張りを失っていた。


 それでも、弱い声ではなかった。


 怖がっているのではない。


 覚悟を決める前の声だった。


 古賀真理が、膝の上で手を握りしめている。


 顔色は悪い。


 けれど、彼女もまた逃げなかった。


「千鶴さん」


 真理が言った。


「読んでください」


 千鶴は、真理を見る。


「いいのかい」


「父が、千鶴さん宛てに残したものです。でも、父の言葉なら、私も知りたい」


 その言い方に、澪は胸を突かれた。


 自分も母の過去を知りたいと思った。


 怖くても、知らないままではもっと怖かった。


 真理も同じなのだ。


 父の過去。


 父が町を出た理由。


 父が何を守ろうとしていたのか。


 それを知るのは怖い。


 でも、もう知らないふりはできない。


 千鶴はゆっくり頷いた。


「分かった」


 封筒の口に指をかける。


 古い糊はもう乾いていて、少し力を入れるだけで開いた。


 中から出てきたのは、便箋三枚。


 紙は薄く、ところどころに茶色い染みがある。だが、文字は残っていた。


 千鶴は一枚目を開いた。


 その手が、わずかに震えている。


 透真が気づいたように、そっと視線を落とした。


 何も言わない。


 こういう時に余計なことを言わないところは、本当にこの人らしい。


 千鶴は、最初の一行を目で追った。


 そして、息を止めた。


「……源一郎さん」


 呟きは、座敷の空気に沈んだ。


 しばらくして、千鶴は声に出して読み始めた。


 声は低く、最初は少しかすれていた。


『湯守千鶴殿。


 この手紙を読んでいるということは、私はもう、この町に残っていないのだと思います。あなたにだけは、直接話すべきでした。しかし、話せばあなたは止めるでしょう。私は、あなたにこれ以上、町と争わせたくありません。』


 千鶴の声が、そこで一度止まった。


 彼女は便箋を見つめたまま、目を閉じる。


「馬鹿だね……」


 小さな声だった。


「止めるに決まっているじゃないか」


 真理が涙を浮かべる。


「父は、そんなことを」


「あなたのお父さんはね」


 千鶴は便箋から目を離さずに言った。


「人に迷惑をかけるくらいなら、自分が黙る人だった」


 透真が低く言う。


「それは、よくない」


「そうだよ」


 千鶴は苦笑した。


「よくない人だった。でも、そういう人だった」


 千鶴は再び読み始める。


『奥乃湯の湯口に異常があります。鉄臭、焦げ臭、湯温の不安定化。すべて、調査開始後に強くなりました。私は何度も止めるよう伝えましたが、町は進めることを選びました。湯が戻るかもしれない、新しい客を呼べるかもしれない。その言葉に、皆、耳を貸してしまった。』


 澪は、真島の言葉を思い出した。


 新しい観光拠点。

 歴史を活かす。

 湯守の物語。

 再活性化。


 言葉は違う。


 けれど、どこか似ている。


 きれいな言葉は、時々、危ないものを包み隠す。


『火事の原因は、漏電ではないかもしれません。私は断定できません。ただ、火が出る前、旧配管の一部に熱がこもっていました。湯の圧が変わり、使われなくなった横配管へ熱い湯とガスが流れ込んだ可能性があります。調査用に開けた穴を、誰かが正しく戻さなかった。そこから空気が入り、湯気と熱が逃げ、木材を傷めた。私はそう見ています。』


 消防団員の一人が、小さく息を呑んだ。


 役場職員も顔をこわばらせている。


 透真はじっと便箋を見ていた。


「つまり」


 澪が小声で言う。


「昔の火事は、ただの漏電じゃなかったかもしれないってこと?」


「そう書いてある」


 透真が答える。


「湯脈調査で古い配管を傷めた可能性がある」


「それって……」


 澪は言葉に詰まった。


 事故。


 でも、ただの事故ではない。


 止める声を無視して進めた結果なら、それは町の責任になる。


 千鶴は次の行を読んだ。


『私は、証拠を残します。湯口の記録、匂いの変化、配管図、調査で開けられた箇所。これを持って町に残れば、私は誰かを責めることになるでしょう。しかし、責めれば奥乃湯は戻らない。真理にも、この町で生きる場所がなくなる。』


 真理が手で口元を押さえた。


 涙が頬を伝う。


「お父さん……」


 澪は、胸が苦しくなった。


 源一郎は、町に怒っていたはずだ。


 悔しかったはずだ。


 それでも、娘の居場所を考えていた。


 その結果、町を出た。


 責任を押しつけられたのか。


 自分で背負ったのか。


 たぶん、その両方だったのだろう。


『真理には、湯を恨む人間になってほしくありません。だから私は町を出ます。これは逃げです。あなたならそう言うでしょう。ええ、逃げです。けれど、真理を守るための逃げだと思っています。』


 千鶴の手が震えた。


 今度は、はっきりと。


「本当に……馬鹿だよ」


 彼女の声は震えていた。


「そんなことを一人で決めて」


 透真が、少しだけ目を伏せる。


 澪はその横顔を見て、ふと思った。


 透真も、放っておくと一人で決める人だ。


 匂いを拾い、危険を察し、誰かのために勝手に前へ出る。


 千鶴が彼を心配する理由が、少し分かった。


 彼は、古賀源一郎に似ているのかもしれない。


 それは、本人には言わないほうがいい気もした。


 千鶴は、最後のページを開いた。


『千鶴さん。もし、いつか奥乃湯が再び掘り返される日が来たら、この記録を見てください。湯は死んだのではありません。傷ついたのです。傷ついた湯は、時間をかければ戻ることもある。しかし、焦って触ればまた壊れる。』


 透真の顔が変わった。


 千鶴も息を止める。


『奥乃湯を戻したいなら、地下の本流ではなく、北側の古い逃がし湯を見てください。そこに、調査前の湯の状態を記した小さな帳面を隠しました。場所は、女湯側の石灯籠の下。私は取りに戻れません。戻れば、この町に未練が残る。』


 澪は思わず声を上げた。


「帳面……?」


 透真が低く言う。


「もう一つ、記録がある」


 真理が顔を上げる。


「父が、別の記録を残していた……?」


 千鶴は便箋を握りしめた。


 女湯側の石灯籠。


 奥乃湯の中庭か、浴場脇か。


 そこに、調査前の湯の状態を記した帳面がある。


 もしそれが本当に残っていれば、奥乃湯がどう壊れたのか、どう戻せるのかが分かるかもしれない。


 同時に、真島が欲しがりそうなものでもある。


 透真が言った。


「真島さんは、これを知っていたと思いますか」


 千鶴はすぐには答えなかった。


「分からない」


「でも、古賀真理さんの同意を取って、奥乃湯を調べていた」


「そうだね」


「湯脈図を探していた。古賀家の資料も探していた。もし源一郎さんの記録があると知っていたなら」


「石灯籠の下を探すだろうね」


 澪は背筋が冷たくなった。


「でも、奥乃湯は立ち入り禁止になりましたよね」


「表向きは」


 透真が言う。


「真島さんが諦めるとは限らない」


「だよね……」


 澪は廊下の向こうを見た。


 真島は、まだ湯守屋の外にいるのだろうか。


 役場職員に止められて、座敷には入れなかった。


 だが、彼が何も知らずに帰るとは思えない。


 千鶴は手紙の最後を読んだ。


『千鶴さん。あなたにだけは、奥乃湯を恨まないでほしい。あなたは湯を守る人です。湯を守る人が湯を恨めば、この町は本当に終わります。


 真理を、もし見かけることがあれば、伝えてください。


 父は、湯に負けたのではない。

 父は、湯を信じていた。


 古賀源一郎』


 座敷に、沈黙が落ちた。


 誰もすぐには動けなかった。


 真理は、顔を覆って泣いていた。


 声を殺そうとしている。


 でも、堪えきれない。


 千鶴は便箋を畳まずに、膝の上に置いた。


 その目は赤い。


 けれど、泣いてはいなかった。


 泣く代わりに、何かを決めた顔だった。


「源一郎さん」


 千鶴は静かに言った。


「遅いよ。本当に、遅い」


 その声は責めているようで、懐かしんでいるようでもあった。


 真理が、涙の中で顔を上げる。


「千鶴さん……」


「真理さん」


 千鶴は彼女を見た。


「あなたのお父さんは、逃げただけじゃなかった。守ろうとしたんだよ」


「はい……」


「でも、全部正しかったわけでもない」


 真理の涙が止まる。


 千鶴は続けた。


「一人で決めた。私にも、あなたにも、町にも何も言わずに。だから、こんなに遅くなった」


「……はい」


「だから今度は、一人で決めてはいけない」


 その言葉は、真理に向けられていた。


 でも、澪には透真にも向けられているように聞こえた。


 透真もそれを感じたのか、少しだけ視線を落とす。


「奥乃湯をどうするかは、あなた一人で決めることでも、真島さん一人が決めることでもない。町のものだ。あなたのお父さんの記憶も、町の傷も、全部込みで話さなければいけない」


 真理は、涙を拭いながら頷いた。


「はい」


 その時、廊下の外が少し騒がしくなった。


 役場職員が立ち上がる。


 ふみが障子のほうを見る。


「何かしら」


 透真が先に動いた。


 澪も続く。


 廊下に出ると、玄関先で真島と役場職員が何かを言い合っていた。


 真島はいつもの笑顔を消していた。


「ですから、当社にも確認する権利があります。奥乃湯再整備のための調査資料です」


「現在、内部確認中です。お待ちください」


「待てと言われても、現場で発見された資料です。会社としても――」


 真島の声が、そこで止まった。


 透真と澪が出てきたことに気づいたのだ。


 彼の視線が、透真へ向く。


「何が書かれていましたか」


 直球だった。


 取り繕う余裕もないらしい。


 透真は答えなかった。


 代わりに澪が言った。


「あなたにすぐ渡せるものじゃありません」


 真島の目が澪に移る。


「朝比奈さんでしたね。これは大人の話です」


 その言い方に、澪の中で何かがかちりと鳴った。


 大人の話。


 関係ない。


 知らなくていい。


 その言葉が、どれだけ人を遠ざけるか、澪はもう知っている。


「大人の話にして隠した結果が、奥乃湯じゃないんですか」


 自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。


 真島の表情が固まる。


 澪は続けた。


「私はこの町に来たばかりです。だから、昔のことは知りません。でも、隠したままにしたものが、今になって湯気と一緒に出てきたことは分かります」


 真島は黙った。


 透真が隣で、ほんの少しだけ澪を見る。


 その視線に気づいたが、澪は前を向いたままだった。


「古賀さんの手紙も、奥乃湯の記録も、誰かの都合で勝手に物語にするものじゃないと思います」


「感情論ですね」


 真島は再びそう言った。


 けれど、さっきより声に力がない。


 透真が静かに口を開いた。


「感情論を軽く見る人は、温泉街の再開発に向いていません」


 真島の眉が動く。


「君に何が分かる」


「少なくとも、匂いをごまかす言葉は分かります」


「また匂いですか」


「はい」


 透真は一歩だけ前に出た。


「あなたは、記録筒が出てから香水の匂いが強くなった。さっきから何度もハンカチに触れている。緊張している。焦っている。資料の中身が、あなたの計画に不都合だと考えている」


「推測にすぎません」


「そうです」


 透真は認めた。


「だから確認しています。あなたが何を隠したいのか」


 真島は、しばらく何も言わなかった。


 そこへ、千鶴が座敷から出てきた。


 手には、古賀源一郎の手紙。


 真島の目がそこに吸い寄せられる。


「真島さん」


 千鶴は静かに言った。


「奥乃湯の再整備計画は、いったん白紙です」


「あなたに決定権は」


「私一人にはない。だから、町の会合を開きます。古賀真理さん、役場、奥乃湯関係者、旅館組合、消防、設備業者。皆を呼ぶ」


「そんなことをすれば、話が大きくなる」


「大きくするんだよ」


 千鶴の声は、鋭くはなかった。


 ただ、強かった。


「小さく隠してきたから、ここまで腐った」


 真島は口を閉じた。


 その言葉には、彼だけでなく町全体への重みがあった。


「あなたが本当に町を壊しに来たわけではないと言うなら、その場に来なさい。そこで話す」


 真島は、しばらく千鶴を見ていた。


 やがて、ゆっくり頭を下げた。


「……分かりました」


 それが本心かどうかは、分からない。


 でも、少なくとも今は引いた。


 真島は湯守屋を出ていった。


 玄関の引き戸が閉まる。


 雨の音が少し遠くなった。


 澪は、ようやく息を吐いた。


「怖かった……」


 小さく呟くと、透真が横で言った。


「言えたね」


「何を?」


「怖いって」


 澪は少しだけ笑った。


「うん」


「それは、かなり大事だと思う」


「褒めてる?」


「かなり」


「分かりにくいけど、もう分かるようになってきた」


「それは助かる」


 千鶴が二人を見て、少しだけ笑った。


「さて」


 彼女は手紙を大事に抱え直した。


「次は、石灯籠の下だね」


 澪の背筋が伸びる。


 古賀源一郎がもう一つの記録を隠した場所。


 女湯側の石灯籠。


 そこに、調査前の湯の状態を記した帳面がある。


 それを見つけなければ、奥乃湯の本当の姿は分からない。


 透真が言った。


「奥乃湯は立ち入り禁止です」


「だから、正式に入る」


 千鶴は迷わず答えた。


「役場と消防立ち会いで、明日確認する。勝手に嗅ぎ回るのはなしだよ、透真」


「僕だけですか」


「主にあんただよ」


「……分かりました」


 澪は思わず笑った。


 けれど、すぐに表情を戻す。


 奥乃湯はまだ終わっていない。


 むしろ、ここからだ。


 死んだ湯は傷ついていただけかもしれない。


 でも、傷ついた湯を戻すには、まず傷を見なければならない。


 その傷の奥に、町が隠してきたものがある。


 湯けむりの向こうで、古い温泉街は静かに息をしている。


 そして、その息はもう、誰にも聞こえないふりを許してくれそうになかった。

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