第22話 錆びた筒は、嘘より重い
錆びた金属筒は、濁った湯の中で半分だけ顔を出していた。
雨が降っている。
湯気が上がっている。
作業灯の光が、白い湯気に滲んでいる。
旧共同浴場《奥乃湯》の裏手にできた陥没穴は、まるで地面そのものが古い秘密を吐き出した傷口のようだった。
茶色く濁った湯が、穴の縁を伝って少しずつ流れている。水というより、泥と錆を溶かしたような色だった。湯気は濃く、鼻の奥に金属の匂いが残る。
朝比奈澪は、思わず一歩下がった。
熱い。
湯に直接触れたわけではない。
けれど、雨に冷えた空気の中で、その穴の周りだけが生き物のように熱を持っていた。
「誰も触らないでください」
湯守透真の声が、雨音の中で妙にはっきり響いた。
いつもの淡々とした声ではある。
でも、少しだけ張り詰めている。
作業員の一人が、伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「いや、でも、これ……」
「熱い可能性があります。中に何が入っているかも分からない。錆びた金属は見た目より脆い。無理に引くと壊れます」
透真は早口ではない。
ただ、言葉を置く場所に迷いがなかった。
「それと、湯気を吸いすぎないほうがいい」
作業員が顔をしかめる。
「湯気って、温泉の湯気だろ?」
「温泉の湯気を、全部ありがたいものだと思うのは観光パンフレットの読みすぎです」
澪は、こんな時なのに思わず透真を見た。
出た。
偏屈な言い方。
でも、今はそれが妙に頼もしい。
「硫黄の匂いを『卵の腐った匂い』で片づける人もいますけど、卵を腐らせた経験のない人間が雑に名づけた匂いを信用しすぎるのも危ない。匂いには成分があります。気分が悪くなる前に離れてください」
作業員はぽかんとした。
真島玲司も黙った。
古賀真理だけが、小さく息を呑んだ。
「父も……似たようなことを言っていました」
雨の音に紛れそうな声だった。
透真が彼女を見る。
「源一郎さんが?」
「はい。温泉はありがたいだけじゃない。扱い方を間違えれば、人を拒むって」
真理は陥没穴の中の金属筒を見つめた。
その顔は青ざめている。
けれど、目だけは逸らしていなかった。
湯守千鶴が一歩前に出た。
「まず、現場を止めるよ」
その声には、誰も逆らえない力があった。
真島が何か言いかける。
「しかし、これは貴重な資料で――」
「だから止めるんだよ」
千鶴は低く言った。
「貴重なものなら、なおさら素人が雨の中で引っ張るものじゃない。役場と消防、それから温泉設備の専門業者を呼ぶ。湯気と地盤を確認してからだ」
「消防まで呼ぶ必要は」
「ある」
千鶴は即答した。
「湯が動いた。地面が落ちた。金属筒が出た。これで必要ないと言うなら、あなたはこの町の湯を甘く見すぎている」
真島の顔が強張った。
今まで整っていた笑顔が、雨に濡れた紙のように少しずつ崩れている。
澪は、その顔を見て思った。
この人は、完全な悪人ではないのかもしれない。
でも、自分の計画に都合のいいものだけを見ようとしていた。
湯が動いた。
幻の湯が復活する。
古い湯守の記録が見つかる。
その言葉がどれだけ人を惹きつけるか、きっと真島は知っている。
だから、危うい。
「真島さん」
真理が言った。
声は震えていたが、弱くはなかった。
「あなたは、湯が動いたことを私に報告しました。でも、危険だとは言わなかった」
「古賀さん、まだ危険と決まったわけでは」
「では、なぜ私の同意を待たずに作業を進めたんですか」
真島は答えなかった。
真理はさらに続ける。
「私は、父の記録を展示物にすることに同意した覚えはありません。奥乃湯の湯を観光の目玉にすることにも、まだ同意していません」
「古賀さん、落ち着いてください。私たちは、あなたのお父様の意志も含めて――」
「父の意志を、あなたが勝手に語らないでください」
その一言は、雨の中で鋭かった。
真島が口を閉じる。
真理の目には涙が浮かんでいた。
けれど、泣いている人の目ではなかった。
怒っている人の目だった。
「父は、奥乃湯を守ろうとした人です。町から追われても、湯を恨んではいなかった。私も、奥乃湯を壊したいわけじゃない。でも、父の記録も、父の苦しみも、町の過ちも、きれいなパネルにして壁に貼るために残したいわけじゃありません」
澪は胸の奥が熱くなった。
椿屋の時、宗一の手紙はようやく沙織へ届いた。
あれは、誰かの未練を売り物にするためのものではなかった。
奥乃湯の金属筒も、同じなのかもしれない。
誰かが残したもの。
まだ届いていなかったもの。
真島の手元に渡せば、きっと「湯守の物語」として利用される。
でも、真理の手に渡れば、父の声として読まれるかもしれない。
その差は大きい。
「真島さん」
千鶴が言った。
「今この場で作業を止めなさい。業者さんも下げる。機材も、湯気の範囲から出す」
真島は、奥乃湯の穴を見た。
金属筒を見た。
真理を見た。
そして、ようやく小さく頷いた。
「……分かりました。一時中断します」
「一時ではない」
千鶴はすぐに言った。
「安全確認と、地元説明が済むまで中止です」
「それは、私一人では判断できません」
「なら、判断できる人を呼びなさい」
真島は唇を結んだ。
それ以上、何も言わなかった。
作業員たちが機材を下げ始める。
地中音響探査の箱、ケーブル、作業灯。
雨に濡れた機材が、車のほうへ運ばれていく。
その間も、陥没穴からは湯気が立ちのぼっていた。
金属筒は、湯の中に半分沈んだままだ。
透真は穴を見つめていた。
顔色が悪い。
澪は彼の隣に立ち、低く言った。
「湯守くん、下がろう」
「まだ見ていたほうが」
「下がろう」
澪はもう一度言った。
透真がこちらを見る。
澪は彼の目をまっすぐ見返した。
「約束」
透真は、数秒だけ黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「分かった」
その素直さに、澪は少し驚いた。
「今、すぐ聞いたね」
「君が正しいから」
「……そういうの、急に言うのやめて」
「何が?」
「分かってないならいい」
透真は首を傾げた。
こんな場面でも、この人はこういうところがある。
澪は少しだけ笑いそうになったが、すぐに表情を戻した。
役場の職員が数人、雨の中を走ってきた。
その後ろから消防団らしき人たちも来る。町の人たちが遠巻きに集まり始めていた。
噂が広がるのは早い。
椿屋の幽霊騒ぎの時もそうだった。
今度は、もっと大きくなる。
死んだはずの奥乃湯から湯が出た。
昔の湯守の記録らしきものが出た。
再開発業者が作業していた。
これだけ材料があれば、町はすぐに騒ぎ出す。
澪は、それが少し怖かった。
「澪ちゃん!」
振り返ると、椿屋の女将ふみが傘を差して立っていた。
その横に、沙織もいた。
「お母さん!?」
澪は思わず声を上げた。
「何で来たの!?」
沙織は雨の中、薄い羽織を重ねている。顔色は悪くないが、無理をしているのは明らかだった。
「ふみさんに車で近くまで乗せてもらったの」
「そういう問題じゃないよ」
「あなたが怖い時は怖いと言う約束をしたでしょう」
「したけど」
「私も、心配な時は心配と言うことにしたの」
沙織は少しだけ笑った。
澪は言葉を失った。
怒りたいのに、怒れない。
確かに母は、約束を守っている。
ふみが申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさい。止めたんだけれど、沙織さんがどうしてもって」
「椿屋の車を出してくださったのは女将さんだから、女将さんも共犯です」
沙織が言うと、ふみは苦笑した。
「そうね。共犯ね」
澪はため息をついた。
「もう……」
でも、母の顔を見た瞬間、少しだけ安心した。
沙織が来てくれたことが、嬉しくないわけではなかった。
沙織は奥乃湯のほうを見た。
陥没穴から上がる湯気。
濁った湯。
作業員。
消防団。
そして、金属筒。
「ここが、奥乃湯……」
沙織が静かに呟く。
「来たことあるの?」
澪が聞くと、沙織は首を横に振った。
「入ったことはないわ。でも、椿屋にいた頃、名前だけは聞いたことがある。いい湯だけれど、気難しい湯だって」
「湯が気難しい?」
澪が聞き返すと、透真が言った。
「湯量や温度が安定しにくい湯を、昔の人はそう言うことがあります」
「湯守くんが言いそうな表現」
「僕が考えたわけじゃない」
「でも似合う」
「不本意だ」
沙織が少し笑った。
こんな場所で笑える自分たちに、澪は少しだけ驚いた。
その時、消防団の一人が声を上げた。
「筒、引き上げます!」
現場が一気に動いた。
耐熱手袋をつけた消防団員と、温泉設備の業者が慎重に穴へ近づく。直接湯に手を入れず、長い器具を使って金属筒を動かした。
湯気が濃い。
透真が小さく咳をした。
澪はすぐに彼の腕を引く。
「下がる」
「大丈夫」
「半分の大丈夫は却下」
透真は反論しなかった。
二人は少し距離を取る。
金属筒は、ゆっくりと引き上げられた。
錆びている。
泥にまみれている。
だが、筒の蓋はかろうじて閉じていた。
業者がそれを耐熱シートの上に置く。
雨が当たらないように、すぐ上に簡易テントが張られた。
真理が近づこうとする。
千鶴がその肩にそっと手を置いた。
「まだだよ」
「でも」
「熱い。焦らない」
真理は足を止めた。
その顔は、泣きそうだった。
「父のものかもしれないんです」
「だからこそ、焦らない」
千鶴の声は優しかった。
「大事なものは、急いで壊すものじゃない」
真理は、唇を噛んで頷いた。
澪はその姿を見て、宗一の手紙を思い出した。
何十年も届かなかった手紙。
今、目の前にある金属筒も、同じように長い時間を越えて出てきたものなのかもしれない。
役場の職員が、金属筒の扱いについて確認を始めた。
所有者は誰か。
発見場所はどこか。
中身を開ける前に記録を取るべきか。
真島は少し離れた場所で電話をしている。
声は低く、内容までは聞こえない。
けれど、表情には焦りがあった。
澪はそれを見て、胸の奥がざわついた。
「湯守くん」
「何」
「真島さん、まだ諦めてない顔してる」
「うん」
「どうするの?」
「今は、筒を守る」
「筒を?」
「中身が何であれ、勝手に利用されないように」
澪は頷いた。
すると、真島が電話を終えてこちらへ歩いてきた。
「湯守女将。古賀さん」
彼は声を整えていた。
だが、先ほどまでの余裕は戻っていない。
「この筒については、現地調査中に発見されたものです。今後の調査資料として、こちらでも確認する必要があります」
真理の顔が強張る。
千鶴は静かに言った。
「発見された場所は奥乃湯。中身は古賀源一郎さんの記録の可能性がある。あなたの会社が持ち帰る理由はありません」
「しかし、再整備計画の調査過程で」
「その調査そのものが、今止められたところです」
真島は言葉を詰まらせた。
澪は黙っていられなかった。
「真島さん」
彼がこちらを見る。
「あなた、さっき『父の意志も含めて』って言いましたよね」
「言いました」
「だったら、まず娘さんが読むべきじゃないんですか」
真島は黙った。
澪は続けた。
「それを読んで、古賀さんがどうしたいか決める前に、会社の資料にするのは違うと思います」
「感情論ですね」
真島の声が少し冷えた。
澪は怯みかけた。
けれど、透真が隣で言った。
「感情を無視して温泉街を扱うほうが危険です」
真島が透真を見る。
「君は、随分と口を挟みますね」
「匂いが悪いので」
「また匂いですか」
「はい」
透真は静かに言った。
「あなたの言葉からは、焦りの匂いがします」
真島は目を細めた。
「比喩ですか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「雨で濡れたスーツ。機械油。奥乃湯の土。電話の後に強くなった整髪料の匂い。緊張すると、人は自分の匂いを隠そうとすることがあります」
澪は思わず心の中でつぶやいた。
出た。
香水と同じ棚。
けれど、今度は誰も笑わなかった。
真島の顔から、完全に笑みが消えた。
「失礼な少年ですね」
「よく言われます」
「褒めていません」
「知っています」
場違いなほどいつものやり取りだった。
だが、そのせいで真島の冷たさが少し浮いた。
千鶴が、ゆっくり前に出る。
「真島さん。筒は、役場立ち会いのもとで保管します。古賀さん、私、役場、必要なら消防も立ち会って開封する。それが筋です」
「当社も立ち会います」
「それは役場が判断することです」
真島は、何かを飲み込むように黙った。
その時、真理が口を開いた。
「私も、今ここでは開けません」
声は震えていた。
でも、はっきりしていた。
「父のものなら、ちゃんとした場所で開けたい。真島さん、あなたの会社の会議室ではなく、この町の人が見ている場所で」
千鶴が頷いた。
「湯守屋を使いなさい」
全員が千鶴を見た。
千鶴は淡々と言う。
「帳場奥の座敷なら、人も入れる。古い資料もある。奥乃湯に関わる話なら、うちにも責任がある」
「千鶴さん……」
真理の声が揺れた。
千鶴は彼女を見た。
「真理さん。あなたのお父さんに、私は返せていないものがある。今度は逃げない」
雨の音が、少し弱くなった。
真理は、深く頭を下げた。
「お願いします」
こうして、錆びた金属筒は、役場職員と消防団の立ち会いで湯守屋へ運ばれることになった。
真島は最後まで何か言いたげだったが、反対はできなかった。
奥乃湯周辺は立ち入り禁止になり、作業は中止。
陥没穴には簡易柵が置かれ、湯気の出方を見守ることになった。
町の人々は遠巻きに見ていた。
誰かが小声で「奥乃湯が戻った」と言った。
別の誰かが「古賀さんのものが出たらしい」と囁いた。
噂はもう走り出している。
でも、澪は思った。
今度は、ただの噂にしてはいけない。
湯守屋へ戻る途中、真理はずっと黙っていた。
澪は隣を歩きながら、何と声をかければいいのか分からなかった。
結局、正直に言った。
「怖いですね」
真理がこちらを見る。
澪は続ける。
「ごめんなさい。変な言い方かもしれないけど。私だったら怖いです。お父さんが残したものかもしれないものが急に出てきて、みんなが見てて、会社の人も欲しがってて」
真理は少しだけ目を伏せた。
「怖いわ」
「はい」
「でも、怖いって言ったら、父に申し訳ない気がしていた」
「たぶん、怖いものは怖いって言っていいんだと思います」
澪は、自分で言いながら沙織の顔を思い出した。
怖い時は怖いと言う。
大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないと言う。
それは簡単そうで、案外難しい。
真理は、ほんの少しだけ笑った。
「あなた、若いのに不思議ね」
「よくは言われません」
澪がそう言うと、前を歩く透真が振り返った。
「それは僕の言い方」
「移った」
「認識を修正して」
「もう遅いかも」
真理が、小さく笑った。
それは初めて見る、少しだけ柔らかい笑みだった。
湯守屋に着く頃には、雨は霧雨になっていた。
帳場奥の座敷に、金属筒が慎重に置かれる。
役場職員、消防団員、千鶴、真理、透真、澪。
それから、椿屋のふみと沙織も座敷の隅に座った。
真島は役場職員に制止され、少し離れた場所で待つことになった。
金属筒は、泥を拭き取られてもまだ錆びていた。
蓋は固く閉じている。
業者が道具を使い、慎重に開ける。
金属が擦れる音がした。
ぎり、と低く。
澪は息を止めた。
蓋が開いた瞬間、古い空気が漏れた。
紙の匂い。
錆の匂い。
湿気。
それから、ほんのわずかに、煙のような匂い。
透真が眉をひそめた。
「古い紙。焦げ。油。あと……」
「あと?」
澪が聞く。
「塩」
「塩?」
「汗かもしれない」
誰も笑わなかった。
筒の中には、油紙に包まれた書類が入っていた。
驚くほどきれいに残っている。
油紙を開くと、中から数枚の紙が出てきた。
図面。
手書きの記録。
そして、一通の封筒。
表には、かすれた字でこう書かれていた。
『湯守千鶴殿』
千鶴の顔が、はっきりと変わった。
真理が震える声で言う。
「父の字です」
座敷の空気が止まった。
古賀源一郎は、湯守千鶴へ手紙を残していた。
町を出る前に。
あるいは、出ることを決めた後に。
それが今、死んだはずの湯の底から出てきた。
千鶴は、封筒を見つめたまま動かなかった。
いつもの強い女将の顔ではない。
過去から名前を呼ばれた人の顔だった。
「千鶴さん」
真理が小さく呼ぶ。
千鶴は、震える手で封筒を受け取った。
「源一郎さん……」
その声は、ひどく小さかった。
澪は、また思った。
手紙は、時々、遅すぎる。
でも、届かないよりはいいのかもしれない。
湯けむりの町は、また一通の手紙を差し出してきた。
今度は、千鶴に。
そして、その封筒の奥には、奥乃湯が死んだ日の真実が眠っている。




