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温泉の匂いを『卵が腐った匂い』と言う君へ――偏屈すぎる嗅覚高校生、湯けむり町の謎を嗅ぎ分ける  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第21話 死んだ湯が、息を吹き返す

奥乃湯へ向かう道は、朝よりもずっと白かった。


 雨が降っている。


 けれど、白くしているのは雨ではない。


 湯気だ。


 温泉街の奥、普段なら人の足が遠のく古い路地の向こうから、濃い湯気が流れてきていた。共同浴場の朝湯のような穏やかなものではない。地面の下から無理やり押し出されたような、生々しい白さだった。


 朝比奈澪は、息を吸いかけて、途中で止めた。


 匂いが違う。


 いつもの湯の匂いではない。


 雨に濡れた土。焦げた木。古い湯垢。金属。


 そして、その奥に、鼻の奥をひっかくような苦い匂い。


「湯守くん」


 澪が呼ぶと、隣を歩く湯守透真は短く答えた。


「分かってる」


「何の匂い?」


「金気が強い。鉄だけじゃない。古い配管の錆、泥、たぶん硫黄系のガスも少し混じってる」


「危ない?」


「近づきすぎなければ、すぐには。ただ、長く吸うものじゃない」


「じゃあ湯守くんが一番駄目じゃん」


 思わず言うと、透真は少しだけこちらを見た。


「今それを言う?」


「今言わないと聞かなさそうだから」


「聞いてる」


「本当に?」


「半分くらい」


「半分じゃ足りない」


 澪が言い返すと、前を歩く古賀真理が振り返った。


 顔色は悪い。


 それでも足取りは止まらなかった。


「ごめんなさい。私のせいで」


「まだ古賀さんのせいとは決まってません」


 澪は即座に言った。


 自分でも少し驚くくらい、はっきりした声だった。


 真理は目を見開く。


 澪は続けた。


「同意したことと、勝手に作業を進められたことは別です。そこを一緒にしたら、また誰かが勝手に責任を押しつけます」


 言いながら、澪は古賀源一郎の記事を思い出していた。


 湯はまだ戻せる。

 だが乱暴な調査を続ければ取り返しがつかない。


 その言葉を言った人は、町を出ていった。


 その娘まで、同じように追い詰められていいはずがない。


 真理は少しだけ唇を噛み、それから小さく頷いた。


「ありがとう」


 透真が横で言う。


「朝比奈さん、今のは正確」


「褒めてる?」


「かなり」


「分かりにくいけど、今は受け取っておく」


 澪はそう言って、傘を握り直した。


 観光案内所の職員は役場へ連絡に戻り、千鶴にはすでに電話が入っている。千鶴は湯守屋から直接奥乃湯へ向かうと言っていた。


 三人が路地を曲がると、旧共同浴場《奥乃湯》の建物が見えた。


 昨日より、明らかに様子が違っていた。


 板で塞がれた入口の下から、白い湯気が漏れている。建物の裏手のほうでは、作業灯が数台、雨の中で光っていた。黄色い光が湯気に乱反射し、古い黒ずんだ壁を不気味に浮かび上がらせている。


 そして、地面がえぐれていた。


 建物の裏手、雑草の生えていたあたりに、直径二メートルほどの陥没ができている。穴の縁から湯気が立ちのぼり、濡れた土が崩れ落ちる音が時折聞こえた。


 真島玲司がそこにいた。


 レインコート姿の作業員に何か指示を出している。スーツの上に黒いコートを羽織り、雨に濡れてもなお、姿勢は崩れていない。


 けれど、顔には余裕がなかった。


「真島さん!」


 真理の声が雨の中に響いた。


 真島が振り返る。


 一瞬、驚きが走った。


 それからすぐに、あの整った笑顔が戻る。


「古賀さん。来てしまわれたんですね」


「来てしまわれた、じゃありません。何をしているんですか」


「安全確認です。想定外の地盤沈下がありまして」


「想定外?」


 真理の声が震えた。


「湯気が出ています。湯が動いているんでしょう? あなた、私に連絡を何度も入れていましたよね。湯が動いたからデータを取るって」


 真島は、ほんの少しだけ目を細めた。


「言葉の受け取り方に誤解があります。湯が一時的に動いている可能性があったので、専門的な確認が必要だと判断しました」


「私は、湯を刺激する作業に同意していません」


「刺激ではありません。非破壊の探査です」


 透真が一歩前へ出た。


「非破壊なら、どうして陥没したんですか」


 真島の目が透真へ向く。


「湯守くん。現場では想定外のことが起きるものです」


「想定外を言い訳にするには、匂いが強すぎます」


「匂い?」


 真島の声に、わずかな苛立ちが混じった。


 透真は陥没した地面を見ていた。


「古い配管の錆。泥。熱い湯に急に触れた木材。あと、機械油」


「このような現場では当然ある匂いでしょう」


「さっきから機械油の匂いが穴の縁ではなく、奥乃湯の入口側からもしています。誰かが建物側の板を開けましたか」


 作業員の一人が、思わず真島を見た。


 真島はその視線を無視した。


「建物には入っていません」


「入口の板の下から湯気が出ています」


「古い建物ですから、隙間はあります」


「隙間から湯気が出るほど内部が動いているなら、入口側にも危険があります」


 透真の声は淡々としていた。


 だからこそ、怖かった。


「作業員を下げてください」


 真島の表情が少し硬くなる。


「君に現場指示の権限はありません」


「権限の話をしているんじゃない。危険の話をしています」


「専門家はこちらです」


「専門家なら、匂いを無視しないほうがいい」


 雨音が強くなった。


 作業灯の下で、湯気がさらに濃くなる。


 澪は喉の奥がひりつくような感覚を覚えた。


「湯守くん」


「少し下がって」


 透真が言った。


「君も」


「僕はまだ」


「下がって」


 澪は、透真の袖を掴んだ。


 前にも一度、奥乃湯でそうした。


 今度は、もっと強く。


「約束したでしょ。一人で前に出ないって」


 透真は、穴のほうを見ていた。


 数秒、迷った。


 それから、小さく息を吐く。


「分かった」


 二人が数歩下がった時、後ろから低い声がした。


「真島さん」


 千鶴だった。


 雨羽織をまとい、傘も差さずに歩いてくる。その姿を見た瞬間、真島の顔から少しだけ余裕が消えた。


「湯守女将」


「作業を止めなさい」


「現在、安全確認中です」


「安全確認なら、なおさら人を下げる」


「現場判断はこちらで」


「ここは、あなたの現場ではない」


 千鶴の声は、雨に負けなかった。


「この町の湯です」


 真島は口を開きかけた。


 しかし、その時、陥没穴の中から音がした。


 こぽり。


 昨日聞いたものより大きい。


 続いて、ぐらり、と地面が揺れた。


 穴の縁にいた作業員が悲鳴を上げ、後ろへ飛び退く。


 土が崩れた。


 白い湯気が、一気に吹き上がる。


「下がれ!」


 透真が叫んだ。


 普段の彼からは想像できない声だった。


 澪は反射的に真理の腕を引いた。


 真理も足をもつれさせながら下がる。


 作業員たちが慌てて機材を放り出し、距離を取る。


 穴の中から、熱い湯が少しだけ噴き上がった。


 大量ではない。


 だが、泥を巻き込みながら、地面の割れ目を伝って流れ出した。


 その湯は透明ではなかった。


 茶色く濁り、鉄のような匂いを強く放っている。


 澪は思わず口元を押さえた。


「これ……」


 透真が低く言う。


「湯じゃない」


「え?」


「少なくとも、そのまま人が入れる湯じゃない。金気が強すぎる。泥と錆と、古い配管の中に溜まっていたものが混じってる」


 千鶴の顔が険しくなる。


「昔と同じだね」


「同じ?」


 真理が震える声で聞く。


 千鶴は穴を見つめたまま言った。


「奥乃湯が死にかけた時と同じ匂いだよ」


 その言葉に、真理の顔が白くなった。


 真島はすぐに言う。


「一時的な濁りです。古い配管が動けば、最初はこうなることも」


「知ったような口をきくんじゃないよ」


 千鶴の声が鋭くなった。


 真島が黙る。


「この匂いを、私は知っている。源一郎さんも知っていた。だから止めろと言ったんだ」


 真理が千鶴を見る。


「父も……」


「ああ。あなたのお父さんは、この匂いを誰より先に嗅いで、危ないと言った」


 真理の目に涙が浮かんだ。


「それなのに、私は……」


「今は後悔する前に、人を下げる」


 千鶴は真島を見た。


「全員、奥乃湯から離しなさい。役場と消防に連絡。湯気が増えるならガスも見る必要がある」


 真島は一瞬迷った。


 その迷いが、澪には信じられなかった。


 まだデータを取りたいのか。


 まだ作業を止めたくないのか。


 そう思った瞬間、澪は口を開いていた。


「真島さん」


 真島がこちらを見る。


「あなた、これを観光に使うつもりだったんですか」


「今はそういう話では」


「そういう話です」


 声が震えていた。


 でも、止まらなかった。


「椿屋の時もそうでした。幽霊って言えば面白い。でも、そこには怖がってる人も、苦しんでる人もいた。奥乃湯も同じです。死んだ湯が戻ったとか、湯守の物語とか、そういう綺麗な言葉にする前に、ここで何が起きてるか見てください」


 真島は何も言わなかった。


 澪は続けた。


「匂い、分かりますか」


「……何を」


「鉄臭いんです。焦げ臭いんです。湯守くんみたいには分からなくても、私にも少し分かる。これを復活って呼ぶの、雑すぎませんか」


 透真がこちらを見た。


 少し驚いた顔をしていた。


 澪は、自分でも自分の言葉に驚いていた。


 最初にこの町へ来た日、自分は温泉の匂いを「卵が腐った匂い」と雑に呼んだ。


 あの時の透真の偏屈な問いが、今になって胸の中で形を変えている。


 ちゃんと嗅ぐこと。


 ちゃんと見ること。


 分からないものを、雑な言葉で片づけないこと。


 真島は、ほんの少しだけ目を伏せた。


 だが、答える前に、穴の中からまた音がした。


 今度は、水音ではなかった。


 何か硬いものが、湯に押されて動く音。


 ごとり。


 作業員の一人が叫ぶ。


「何か出てきた!」


 全員の視線が穴へ向かった。


 茶色く濁った湯の中から、細長い金属の筒のようなものが半分だけ見えていた。


 錆びている。


 だが、形は残っている。


 透真が目を細めた。


「触らないで」


 作業員が手を伸ばしかけて止まる。


「熱い可能性があります。それに、何が入っているか分からない」


 真理が震えた声で言った。


「あれ……」


「知っているんですか」


 澪が聞く。


 真理は目を見開き、湯に濡れた金属筒を見つめていた。


「父が、同じような筒を持っていました」


「源一郎さんが?」


「古い図面や記録を、湿気から守るために使っていたって……子どもの頃、見たことがあります」


 千鶴の顔が変わった。


「源一郎さんの記録筒……」


 雨が降り続く。


 奥乃湯の穴から、湯気が上がる。


 死んだはずの湯が押し出したもの。


 それは、ただの錆びた金属ではなかった。


 古賀源一郎が残したかもしれない記録。


 奥乃湯が死んだ日の、本当の理由。


 真島も、それを理解したようだった。


 表情から、作られた笑顔が消えている。


 千鶴は低く言った。


「これ以上、誰も手を出すんじゃない」


 真島が何か言おうとした。


 しかし、真理が先に言った。


「これは、父のものかもしれません」


 彼女の声は震えていた。


 でも、強かった。


「なら、私が確認します。あなたたちの資料にはしません」


 真島は黙った。


 透真は金属筒を見つめていた。


 顔色は悪い。


 それでも目は逸らさない。


「湯が、隠していたものを押し出した」


 透真が小さく言った。


 澪は、その言葉に背筋が冷えた。


 温泉は、癒やすだけではない。


 時に、隠されたものを地上へ押し戻す。


 雨の奥乃湯で、古い湯が息を吹き返した。


 それが町を救うのか。


 壊すのか。


 まだ、誰にも分からなかった。

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