第20話 香水は、嘘を上手に隠す
香水というものは、だいたい何かを隠すために使われる。
汗。
煙草。
古い部屋。
緊張。
あるいは、会いたくない過去。
湯守透真がそう言ったのは、放課後の昇降口だった。
朝比奈澪は、靴を履き替えながら顔を上げた。
「……急に何?」
「昨日の車の女の人」
「ああ」
「紙と香水と、薬品に近い匂いがした」
「それは聞いたけど」
「香水の匂いは強かった。でも、強すぎる匂いは、逆に下にあるものを隠そうとしている場合がある」
澪は片足だけローファーを履いた状態で、少し固まった。
「湯守くんって、香水にも厳しいの?」
「香水そのものには厳しくない」
「じゃあ何に厳しいの」
「香水で全部をなかったことにする態度」
「それ、温泉の匂いを卵で片づける人にも怒ってたよね」
「分類としては近い」
「私、香水と同じ棚に入れられた?」
「雑な表現の棚」
「嫌な棚」
透真は真顔だった。
澪はため息をつきながら、もう片方の靴を履いた。
郷土資料室で見つけた古い学校新聞の記事が、まだ頭の中に残っている。
古賀真理。
奥乃湯の元管理人・古賀源一郎の娘。
父が守ろうとした湯を、別の形で残したい。
その言葉は、単純な恨みとも、単純な再開発とも違っていた。
けれど昨夜、真島たちの資料にはこうあった。
『古賀真理 同意確認済』
その同意が何を意味するのか。
それが分からない。
分からないままにしておくには、奥乃湯の匂いは濃すぎた。
「で、どうするの?」
澪が聞くと、透真は少しだけ考えた。
「まず、霧島設計室を調べる」
「古賀真理さんが昔勤めてたところ?」
「うん」
「スマホで?」
「それもする。でも、古い小さな設計事務所なら、今は名前が変わっているかもしれない」
「じゃあどうやって」
「町役場の近くに建築関係の掲示板がある。過去の景観整備事業の資料が貼られている」
澪はじっと透真を見た。
「湯守くん」
「何」
「高校生だよね?」
「そう」
「本当に?」
「戸籍上は」
「返事が怖い」
そこへ、黒瀬蓮が鞄を肩に引っかけてやって来た。
「また何か匂いの会議してる?」
「してない」
透真が即答する。
澪は少し考えて言った。
「してるかも」
「朝比奈さんが認めた!」
蓮は大げさに驚いてみせた。
「ついに湯守語に侵食されてきたな」
「やめて。本気でちょっと怖い」
「大丈夫。まだ戻れる。クレープ食べれば治る」
「クレープ万能説」
「女子高生と男子高校生が放課後に行くべき場所は、郷土資料室でも廃共同浴場でもなくクレープ屋なんだよ」
蓮は妙に力を込めて言った。
その横から杏と芽衣も来る。
「そうそう。今日こそ駅前のクレープ行こうよ」
「昨日行けなかったし」
芽衣が控えめに笑う。
澪は一瞬、透真を見た。
透真は少しだけ目を伏せた。
「クレープの移動販売車は、駅前広場に出ている」
「知ってるの?」
杏が驚く。
「昨日、黒瀬が言っていた」
「覚えてるんだ」
「情報は記録する」
蓮が肩をすくめた。
「こいつ、クレープ情報まで地質調査みたいに扱うからな」
澪は笑った。
奥乃湯のことは気になる。
古賀真理のことも、真島のことも。
でも、蓮の言うことも少し分かった。
自分たちは高校生だ。
毎日、温泉街の古傷ばかり嗅ぎ回っているわけではない。
クレープを食べる放課後があってもいい。
むしろ、そういう普通の時間がないと、奥乃湯の闇に飲まれてしまいそうだった。
「じゃあ、駅前行こう」
澪が言うと、杏がぱっと笑った。
「決まり!」
「湯守も来るよね?」
蓮が言う。
透真は少し迷ってから答えた。
「駅前なら、役場にも近い」
「そういう理由で来るな」
「でも来るんだ」
「行く」
「よし。湯守、人生初クレープ?」
「食べたことはある」
「どんな顔で食べたのか想像できない」
「普通に食べた」
「絶対普通じゃない」
五人で校門を出ると、雨上がりの空に薄く日が差していた。
温泉街へ下る坂とは反対側、駅へ向かう道は、少しだけ空気が違う。
旅館の匂いが薄くなり、代わりに車の排気、コンビニの揚げ物、濡れたアスファルトの匂いが混じる。
澪はその変化に気づき、自分で少し驚いた。
たしかに鼻がよくなったわけではないのだろう。
でも、意識して嗅ぐようにはなった。
この町に来てから、匂いはただの背景ではなくなった。
「どうしたの?」
芽衣が隣で聞いてくる。
「ううん。駅前って温泉街と匂い違うなって」
言ってから、澪はしまったと思った。
だが杏が笑う。
「朝比奈さんまで湯守みたいなこと言い出した」
「やめて、本当に」
「でも分かるよ。駅前はちょっと油っぽい」
蓮が言う。
「俺はフライドポテトの匂いがする場所をだいたい信用してる」
「信用基準が雑」
透真が言う。
「湯守、そこは雑でいいんだよ」
「食べ物の匂いは大事だ」
「じゃあお前も信用しろ」
「油の酸化具合による」
「面倒くせぇ!」
蓮の声に、みんなが笑った。
駅前広場には、白い移動販売車が停まっていた。
ピンク色の小さな旗が風に揺れている。甘い生地の焼ける匂いと、ホイップクリームの甘さ、バナナ、チョコレートソース、いちごジャム。
澪の胃が素直に反応した。
「うわ、甘い匂い」
「これに文句言うやつは人間じゃない」
杏が言う。
透真は真面目に移動販売車を見ていた。
「生地は焼きたて。油は古くない。クリームは既製品だけど悪くない」
「食べる前から監査しないで」
澪が言うと、店員のお姉さんが吹き出した。
「面白いお友達ですね」
「すみません」
「謝らなくていいよ。真剣に見られると緊張するけど」
透真は少しだけ気まずそうにした。
「すみません」
「湯守が謝った」
蓮が小声で言う。
「記念日?」
「何でも記念日にしないで」
澪はチョコバナナクレープを選んだ。
杏はいちごホイップ、芽衣は抹茶あずき、蓮はツナマヨとチョコを迷って結局両方買った。
透真は少し考えて、カスタードだけのシンプルなクレープを選んだ。
「らしい」
澪が言うと、透真が首を傾げる。
「何が」
「湯守くんっぽい」
「クレープにも僕らしさがあるの?」
「ある」
「不本意だ」
駅前広場のベンチに座って、五人でクレープを食べた。
久しぶりに、何も事件がないような時間だった。
蓮がクリームを鼻につけ、杏に笑われる。
芽衣が抹茶あずきを一口食べて、目を細める。
透真はカスタードクレープをやけに慎重に食べている。
「湯守くん、もっと普通に食べなよ」
澪が言うと、透真は少し眉を寄せた。
「普通とは」
「ほら来た」
蓮が笑う。
「普通を定義しだしたぞ」
「クレープは構造上、下部にクリームが溜まりやすい。雑に食べると最後に崩壊する」
「クレープに崩壊って言葉使うな」
「でも分かる」
芽衣が小さく笑う。
澪も笑った。
笑いながら、ふと視線を感じた。
駅前広場の向こう。
観光案内所のガラス窓の近くに、一人の女性が立っていた。
年齢は三十代後半か、四十代前半くらい。
落ち着いたグレーのコートを着て、髪を低い位置でまとめている。派手ではないが、どこか都会的な雰囲気があった。
その女性が、こちらを見ていた。
いや、正確には、透真を見ているように見えた。
澪はクレープを持つ手を止めた。
「湯守くん」
「うん」
「見られてる」
透真は顔を上げた。
視線の先をたどる。
女性は、すぐに目を逸らさなかった。
むしろ、二人と目が合ったのを確認してから、ゆっくり観光案内所の中へ入っていった。
「知り合い?」
蓮が聞く。
透真は首を横に振った。
「知らない」
「でも、あっち明らかに見てたよね」
杏が少し声を落とす。
透真は、残ったクレープを紙で包み直した。
「行く」
「今?」
澪が聞く。
「うん」
蓮がクレープを飲み込みかけてむせた。
「待て待て、何か事件の匂い?」
「香水」
透真が言った。
「昨日の車と同じ」
澪の背筋が伸びた。
紙と香水と薬品に近い匂い。
昨日、椿屋の前を通った黒い車に乗っていた女の人。
その匂い。
「私も行く」
澪はすぐに立ち上がった。
透真は一瞬だけ何か言いかけたが、飲み込んだ。
「うん」
「止めないんだ」
「止めると時間がかかる」
「学習したね」
「更新した」
蓮も立ち上がりかけたが、透真が振り返った。
「黒瀬たちはここにいて」
「何で」
「人数が増えると逃げられる」
「俺、さっきから足音と匂いで邪魔扱いされすぎじゃない?」
「今回は視線も増える」
「全部じゃん!」
杏が蓮の袖を引いた。
「黒瀬、ここは待とう。芽衣も心配だし」
「え、私?」
芽衣が驚く。
「いや、私も心配だけど」
杏は澪を見る。
「何かあったらすぐ連絡して」
「うん」
「本当に」
「本当に」
澪と透真は観光案内所へ向かった。
中は小さなスペースだった。
壁には温泉街の地図、旅館のパンフレット、ハイキングコースの案内、古い写真パネルが並んでいる。カウンターには年配の案内係が一人座っていた。
さっきの女性は、奥の資料コーナーにいた。
棚の前で、温泉街の古い地図を見ている。
澪たちが入ると、女性は振り返った。
近くで見ると、肌は少し青白い。
目元には疲れがある。
けれど、立ち方はまっすぐだった。
そして、香り。
澪にも分かった。
強くはないが、上品な香水の匂い。
その下に、紙のような、薬品のような匂いがある。
透真が静かに言った。
「古賀真理さんですか」
女性の表情が、ほんの少しだけ変わった。
それで十分だった。
澪の心臓が強く打つ。
やはり、この人が古賀真理。
奥乃湯の過去と現在をつなぐ人。
女性は、ゆっくり口を開いた。
「湯守屋の方ね」
「はい」
「千鶴さんのお孫さん?」
「湯守透真です」
「そう」
古賀真理は、透真をしばらく見つめた。
「似ているわね」
「誰にですか」
「千鶴さんに」
透真は少しだけ不本意そうな顔をした。
澪は思わず口を挟みそうになったが、今は我慢した。
真理の視線が澪に移る。
「あなたは?」
「朝比奈澪です。椿屋に滞在しています」
「椿屋……」
真理の目が少し揺れた。
「そう。椿屋は、まだ続いているのね」
その言い方が、澪には気になった。
懐かしさと、痛みが混ざっている。
澪は静かに頷いた。
「はい。続いています」
「そう」
真理は小さく笑った。
その笑いは、寂しそうだった。
透真が聞く。
「昨日、椿屋の前を車で通りましたか」
澪は内心で頭を抱えた。
また直球だ。
もう少し前置きというものがあるのではないか。
真理は驚いたように透真を見た。
「……どうして?」
「香水の匂いが同じです」
案内所の空気が一瞬止まった。
澪は慌てて言う。
「すみません。湯守くん、こういう人なんです」
「こういう人?」
透真がこちらを見る。
「今は黙ってて」
「はい」
真理は、少しだけ笑った。
初めて、ほんの少し自然な笑みだった。
「本当に、千鶴さんのお孫さんね」
「よく言われます」
「褒めています」
「ありがとうございます」
そのやり取りで、少しだけ緊張が緩んだ。
しかし透真の目は真剣だった。
「奥乃湯の再開発に同意したんですか」
また直球だった。
澪はもう止めなかった。
真理の表情が硬くなる。
「その言葉を、どこで?」
「資料片にありました。『古賀真理 同意確認済』」
「……見たのね」
「はい」
真理は地図棚に手を置いた。
指先が少し白くなる。
「あれは、真島さんの会社が作った確認資料です」
「同意したんですか」
「一部には」
「一部?」
「奥乃湯周辺の現地確認。古い配管の外部調査。土地関係の資料照会」
「湯を動かすことには?」
真理は即座に首を横に振った。
「同意していません」
澪は、少しだけ息を吐いた。
でも、透真の表情は緩まなかった。
「昨夜、奥乃湯から湯気が出ていました」
真理の顔から血の気が引いた。
「……湯気?」
「入口の下から。水音もしました」
「そんなはずない」
声が震えていた。
「そんなこと、許可していない」
「では、真島さんたちが勝手に?」
「分からない」
真理は、初めて動揺を隠しきれない顔になった。
それを見て、澪は思った。
この人は、少なくとも奥乃湯を雑に扱いたい人ではない。
でも、何かを始めてしまった人だ。
自分でも制御できないものを。
「古賀さん」
澪が声をかけると、真理は顔を上げた。
「どうして、戻ってきたんですか」
その質問に、真理は黙った。
透真は何も言わなかった。
澪は続けた。
「学校新聞で見ました。父が守ろうとした湯を、別の形で残したいって」
真理の目が、はっきり揺れた。
「そんなものまで残っていたの」
「はい」
「恥ずかしいわね」
「恥ずかしい言葉じゃないと思います」
澪は言った。
真理は驚いたように澪を見た。
澪は、少しだけ緊張しながら続ける。
「私、まだこの町に来たばかりです。でも、椿屋のことで少し分かったんです。残したいものがある人ほど、変な形で動いてしまうことがあるんだって」
お静のこと。
美奈のこと。
母のこと。
それらを思い出しながら、澪は言葉を選んだ。
「古賀さんは、奥乃湯を壊したいんですか」
真理は、即座に首を振った。
「違う」
「じゃあ、戻したい?」
「……分からない」
その声は、とても小さかった。
「戻せるなら戻したい。でも、父が守ろうとした湯を、観光用の見世物にしたいわけじゃない。あの場所がこのまま腐っていくのを見るのも嫌だった。だから、専門家に見てもらおうと思ったの」
「それが真島さん?」
「ええ」
真理は苦しそうに言った。
「私の勤務先のつながりで紹介されたの。東都開発企画は、地方温泉地の再整備実績があると聞いた。だから、最初は信じた」
「今は?」
透真が聞く。
真理は答えなかった。
それが答えだった。
「真島さんは、何をしようとしているんですか」
澪が聞くと、真理は唇を噛んだ。
「奥乃湯を、宿泊施設と日帰り温浴の複合施設にしたいと言っていたわ。古い建物を一部保存して、周辺を整備する。父の記録も展示して、湯守の物語として残す、と」
「湯守の物語」
透真の声が低くなった。
「僕の父を、物語にするつもりだったのよ」
真理は、静かに言った。
「でも、父は物語じゃない。町を追われた人間よ」
観光案内所の中が静まり返った。
澪は何も言えなかった。
湯守の物語。
それは綺麗な言葉だ。
でも、本人や遺族の痛みを置き去りにすれば、それはただの消費になる。
真理は深く息を吸った。
「私も、分かっていたはずなのに。父のことを残したいと思うあまり、真島さんの言葉に乗ってしまったのかもしれない」
「まだ止められます」
透真が言った。
真理は彼を見る。
「本当に?」
「少なくとも、昨夜の作業について確認すべきです。古い配管に何かしたなら、危険です」
「真島さんに連絡します」
真理はスマホを取り出した。
しかし、画面を見て表情を変えた。
「……圏外?」
澪が聞く。
「いえ。着信が何件も」
真理は青ざめた顔で画面を見ていた。
「真島さんから。昨夜から今朝にかけて、十五件」
「何かあったんですか」
透真が聞く。
真理は留守電を再生した。
小さな音量でも、真島の声が聞こえた。
『古賀さん、奥乃湯の湯が動きました。これは大きな材料になります。至急、今後の方針について確認を――』
次のメッセージ。
『古賀さん、予定より早く調査を進める必要があります。湯が止まる前にデータを取らなければ意味がありません』
さらに次。
『同意書の範囲内で進めます。後ほど説明します』
真理の手が震えた。
「同意書の範囲内……?」
透真の顔が硬くなる。
「やはり、今日も奥乃湯に行く可能性があります」
その瞬間、観光案内所のドアが開いた。
雨ではなく、湿った風が入ってくる。
そこに立っていたのは、役場の職員らしき男性だった。
息を切らしている。
「湯守屋の方、いらっしゃいますか」
透真が振り返る。
「僕です」
「奥乃湯で、また作業が始まったと連絡が入りました」
澪の心臓が跳ねた。
真理が立ち上がる。
「真島さんが?」
「はい。ですが……」
男性は言いにくそうに言葉を詰まらせた。
「建物の裏手で、地面が少し陥没したそうです」
空気が止まった。
透真の表情が、一瞬で変わる。
「人は?」
「けが人はいないようですが、湯気がかなり出ていると」
真理は、顔を白くした。
「そんな……」
澪は、無意識に透真を見た。
透真はもう、観光案内所の外へ向かっていた。
「湯守くん!」
「行く」
「一人じゃ行かない約束!」
その言葉で、透真は足を止めた。
振り返る。
澪は、まっすぐ彼を見た。
「私も行く。古賀さんも。千鶴さんにも連絡する」
透真は数秒黙った。
それから頷いた。
「分かった」
真理はスマホを握りしめ、震える声で言った。
「私も行きます。私が同意したせいなら、私が止めなきゃいけない」
澪は真理を見た。
この人は、逃げようとしていない。
それだけは分かった。
観光案内所の外では、また雨が降り始めていた。
温泉街の奥から、白い湯気がいつもより濃く立ちのぼっている。
奥乃湯が、また動いている。
それが再生なのか、崩壊なのか。
もう、誰も分からなかった。




