第26話 逃がし湯を掘った手
夕方の湯けむりは、昼のそれより少し重い。
山の端に沈みかけた光が、温泉街の屋根を赤く染めている。濡れた石畳には薄い夕焼けが映り、共同浴場の湯気は白というより、ほんの少し灰色に見えた。
湯守屋の座敷で会合が終わったばかりだった。
だというのに、誰も帰ろうとはしなかった。
北側逃がし湯。
そこが誰かに掘り返されていた。
その報せは、会合でようやく形になりかけていた空気を、一瞬で冷やした。
「行くよ」
湯守千鶴が言った。
その声には、迷いがなかった。
旅館組合の者たちがざわつく。
「今からですか」
「もう日が落ちますよ」
「危ないんじゃないですか」
そう言ったのは、会合中に何度か渋い顔をしていた年配の旅館主人だった。
三枝健三。
三枝荘という小さな宿の主人で、この町では昔から顔が利くらしい。白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけ、声は低い。澪には、少し苦手なタイプに見えた。
千鶴は、その三枝を静かに見た。
「危ないから見るんです」
「なら、役場と業者に任せればいいでしょう。女将が出ることじゃない」
「女将だから出るんですよ」
千鶴は短く答えた。
「湯の逃げ道を誰かが勝手に掘った。これは宿の商売以前の問題です」
三枝は口を結んだ。
真島玲司は、少し離れたところでそれを見ていた。
先ほど「当社ではありません」と言った時の声は本気に聞こえた。少なくとも、あの瞬間の動揺は芝居には見えなかった。
だからこそ厄介だった。
真島ではないなら、誰なのか。
澪は座敷の端で、無意識に手を握っていた。
その手に、そっと触れるものがあった。
振り向くと、母の沙織だった。
「澪」
「お母さん」
「行くのね」
問いではなかった。
確認だった。
澪は少しだけ迷って、頷いた。
「うん」
沙織は心配そうだった。
けれど、止めなかった。
「怖かったら、怖いと言うこと」
「うん」
「無理はしないこと」
「分かってる」
「湯守くんを止めること」
「それは任せて」
思わず即答すると、沙織は少しだけ笑った。
「ずいぶん頼もしくなったわね」
「頼もしいっていうか、止めないと行くから」
その会話を、すぐ近くで透真が聞いていた。
「僕はそこまで無茶ではない」
澪はすぐに振り返る。
「昨日、湯気の穴に寄ろうとしてた」
「寄ってはいない」
「寄ろうとしてた」
「未遂」
「未遂だからいいって話じゃない」
千鶴が横から言った。
「澪さんのほうが正しいね」
「ばあちゃんまで」
「日頃の行いだよ」
透真は不本意そうに黙った。
そのやり取りで、張りつめていた空気がほんの少し緩む。
けれど、すぐにまた現実が戻ってきた。
役場職員、設備業者、消防団員、千鶴、真理、真島、それから澪と透真。
人数を絞り、北側逃がし湯へ向かうことになった。
三枝も同行を申し出た。
「旅館組合として、確認する必要があります」
そう言った時の声は、もっともらしかった。
だが、澪には少し引っかかった。
さっきまで危ないと言っていた人が、急に同行したがる。
おかしい、と言えるほどではない。
でも、何かがずれている。
澪は透真を見た。
透真も三枝を見ていた。
たぶん、同じものを感じている。
いや、透真の場合は見ているのではなく、嗅いでいるのだろう。
奥乃湯の北側は、昼間見た入口とはまた別の顔をしていた。
建物の裏へ回り、さらに雑木の間の細い道を進む。
昔は整備された通路だったのかもしれないが、今は草が伸び、地面は湿っている。足元には苔むした石が点々と残っていた。
湯気は少ない。
しかし、土の匂いが濃かった。
湿った土。
古い落ち葉。
錆。
それから、かすかに鉄臭い湯の匂い。
澪にも分かる。
奥乃湯の裏手とは少し違う匂いだ。
もっと低い。
地面の下から来る匂い。
「ここだ」
役場職員が立ち止まった。
そこは、小さな石組みのような場所だった。
山側から細い溝が伸び、半ば土に埋もれている。昔は水路だったのだろう。今は落ち葉と泥が詰まり、ところどころ石が崩れていた。
その一角が、新しく掘り返されていた。
土の色が違う。
草の根がむき出しになり、濡れた泥が脇に積まれている。作業用の小さなスコップで掘ったような跡だった。
澪は息を呑んだ。
「本当に掘ってる……」
設備業者がしゃがみ込み、懐中電灯を当てた。
「これは昨日今日の跡ですね。雨の後に掘っています」
消防団員が周囲を見る。
「足跡が複数あります。二人以上かもしれません」
真島が眉をひそめた。
「当社の者ではありません」
千鶴は真島を見ずに言った。
「それはあとで確認します」
真島はそれ以上何も言わなかった。
古賀真理は、掘り返された溝を見つめていた。
顔色が悪い。
「ここが、父の言っていた逃がし湯……」
透真は、少し離れた場所から空気を確かめていた。
澪はすぐに言う。
「近づきすぎない」
「近づいていない」
「心は?」
「……少し」
「そこは正直なんだ」
「嘘をつくと君に怒られる」
「怒るよ」
澪はそう言ってから、少しだけ笑いそうになった。
だが、すぐに透真の表情を見て笑いを引っ込める。
彼は真剣だった。
いや、真剣というより、何かを拾っている顔だった。
「何か分かる?」
澪が聞く。
「掘った人間は、少なくとも作業員ではないと思う」
真島が反応する。
「なぜです」
「土の掘り方が浅い。道具の扱いが慣れていない。あと、匂い」
「匂い」
三枝が低く呟いた。
少し馬鹿にしたような声だった。
透真は気にしない。
「新しい機械油はない。代わりに、古い灯油、湿布薬、煙草、あと畳の防虫剤に近い匂い」
澪は、三枝を見た。
三枝の表情は変わらない。
けれど、ほんの一瞬、まぶたが動いた。
透真は続ける。
「若い作業員の匂いではないと思います」
「人間を匂いで年齢判定するのか」
三枝が言った。
「正確な年齢は分かりません」
透真は淡々と答える。
「ただ、身につけているものや生活の匂いで傾向はあります」
「ずいぶん失礼な話だ」
「失礼だとは思います」
「なら言うな」
「必要なら言います」
座敷の時とは違う、ぴりついた空気が流れた。
千鶴が静かに透真を見る。
止めるかと思ったが、止めなかった。
三枝は鼻を鳴らした。
「高校生の鼻を根拠に、人を疑うとはね」
「まだ誰も名指ししていません」
澪が言った。
自分でも驚いた。
三枝が、じろりと澪を見る。
「お嬢さんは黙っていなさい。これは町の問題だ」
その一言で、澪の中の何かが少し冷えた。
お嬢さん。
黙っていなさい。
町の問題。
何度も聞いた種類の言葉だった。
関係ない。
子どもは知らなくていい。
大人の話だ。
澪は、ゆっくり息を吸った。
「町の問題なら、隠さないほうがいいんじゃないですか」
三枝の眉が寄る。
「何?」
「私、この町の人じゃありません。でも、椿屋に泊まってます。奥乃湯の匂いも嗅ぎました。怖いと思いました。だったら、もう全然関係ないとは言えません」
澪は、自分の声が少し震えているのを感じた。
でも、止まらなかった。
「町の問題って言って、町の中だけで隠すから、手紙が地面の下から出てくるんじゃないですか」
その場が静まった。
透真が、ほんの少しだけ澪を見る。
今のは言いすぎだったかもしれない。
だが、三枝はすぐには言い返せなかった。
千鶴が、低く言った。
「澪さんの言う通りだよ」
三枝の顔が険しくなる。
「千鶴さんまで」
「町の問題だからこそ、町だけで隠してはいけない時がある」
千鶴は逃がし湯の掘り跡を見た。
「昔、それを間違えた」
設備業者が、掘り返された溝の中を確認している。
「ここ、石で塞がれています」
「石?」
真理が近づきかけ、消防団員に止められた。
業者はライトを当てながら言う。
「古い水路の奥に、平たい石が詰められています。ただ、完全に自然に入ったものじゃないですね。人の手で押し込まれたように見えます」
千鶴の顔が硬くなる。
「いつのものですか」
「古い石もあります。でも、手前の土は新しい。誰かが最近、ここを掘って、奥の石を確認したか、動かそうとした」
「塞がれているのは昔から?」
「おそらく」
その言葉に、真理が小さく息を呑んだ。
「父は、塞ぐなと書いていたのに」
透真が言った。
「誰かが昔、塞いだ。そして最近、誰かがそれをまた触った」
「何のために?」
澪が聞く。
「分からない」
透真は掘り返された土を見ている。
「塞ぎ直そうとしたのか、開けようとしたのか。掘り方だけでは判断できない」
真島が口を開いた。
「逃がし湯を開ければ、湯が安定する可能性があるのでは」
設備業者がすぐに首を振る。
「素人判断で開けるのは危険です。圧がどうかかっているか分かりません。昨日の陥没を見たでしょう」
「もちろん、専門家の管理下で」
「その前に、誰が触ったか確認するほうが先です」
千鶴が言った。
「逃がし湯を掘った人間が、また来る可能性がある」
澪は、周囲を見回した。
夕方の山際。
湿った草。
古い水路。
立ち入り禁止の黄色いテープ。
どこからか、誰かに見られているような気がした。
その時、透真がしゃがみ込んだ。
ただし、掘り跡には触れない。
少し横の草の根元を見ている。
「何かある?」
澪が聞くと、透真は指さした。
「これ」
草の間に、布の切れ端が引っかかっていた。
紺色。
小さく、泥で汚れている。
消防団員が手袋で拾い上げる。
布には、白い糸で何かが刺繍されていた。
文字の一部。
『三――』
その場の空気が変わった。
澪は、思わず三枝を見た。
三枝の顔から血の気が引いていた。
「三枝さん」
千鶴の声が低い。
三枝はすぐに顔を戻した。
「知らん。そんなもの、うちの手拭いか何かが風で飛んだだけだろう」
「三枝荘のものですか」
透真が聞く。
「さあな。似たような布はいくらでもある」
「湿布薬の匂い」
透真が言った。
三枝の目が鋭くなる。
「何だと」
「さっきの掘り跡からした匂いと、この布の匂いが近いです。湿布薬、古い煙草、畳の防虫剤」
「いい加減にしろ」
三枝の声が荒くなった。
「高校生が鼻先で大人を犯人扱いか!」
澪はびくりとした。
だが、透真は動じなかった。
ただ、少しだけ顔色が悪く見えた。
怒鳴られたからではない。
匂いを拾い続けているせいだ。
澪は小さく言った。
「湯守くん、少し下がって」
「でも」
「下がって」
透真は一瞬迷い、頷いた。
千鶴が三枝を見つめる。
「健三さん」
「何です」
「あなた、昔から湿布の匂いが強いね」
三枝の顔が歪む。
「年寄りだからですよ」
「それはそうだ」
千鶴は静かに言った。
「でも、あなたの宿の手拭いが、なぜ逃がし湯の掘り跡にあるんだい」
「知らんと言っている」
「なら、調べればいい」
三枝は口を閉じた。
役場職員が布を証拠として袋に入れる。
真島は黙っていた。
さっきまで何か言いたげだった彼が、今は三枝を見ている。
その目に、澪は少し違和感を覚えた。
驚きだけではない。
何かを計算している目。
真島は、この状況をどう使うか考えているのかもしれない。
澪は、少しぞっとした。
千鶴が言った。
「今日の確認はここまで。逃がし湯は専門業者が改めて調査する。掘り跡は保全。布は役場で確認」
「大げさな」
三枝が吐き捨てる。
「大げさにしなかった結果が、奥乃湯ですよ」
澪はまた口を開いていた。
三枝がこちらを見る。
今度は怖かった。
だが、澪は目を逸らさなかった。
「小さく片づけるの、もうやめたほうがいいと思います」
三枝は、何か言いかけた。
だが、千鶴が先に言った。
「澪さんに言わせる前に、私たち大人が言うべきことだね」
その言葉に、三枝は黙った。
逃がし湯を離れる時、真理は何度も振り返っていた。
父が守ろうとした逃げ道。
それは、長い間塞がれ、今また誰かの手で掘り返されている。
真理は小さく言った。
「父は、この場所を知っていたんですね」
千鶴が頷く。
「誰よりもね」
「私は、何も知らなかった」
「子どもだったからね」
「でも今も、知らないことばかりです」
「それは私も同じだよ」
千鶴は苦笑した。
「知っているつもりの町ほど、知らないことが出てくる」
透真が横で言った。
「匂いも同じです」
澪が振り返る。
「どういうこと?」
「知っている匂いだと思った時ほど、別のものが混じっていることがある」
「温泉の匂いを卵で片づけるなって話?」
「それも含む」
「結局そこに戻るんだ」
「基本だから」
澪は少しだけ笑った。
けれど、すぐに透真の顔を見て笑いを止めた。
「本当に顔色悪いよ」
「少し」
「少しは禁止」
「禁止?」
「半分の大丈夫も禁止」
透真は不本意そうに言った。
「禁止事項が増えている」
「必要だから」
「分かった」
素直に頷いたことに、澪は少し驚いた。
透真も疲れているのだろう。
湯守屋へ戻ると、帳場には沙織が待っていた。
澪を見るなり、安心したように息を吐く。
「おかえり」
「ただいま」
「怖かった?」
「うん。少し」
「ちゃんと言えたわね」
「うん」
沙織は微笑んだ。
それだけで、澪の体から少し力が抜けた。
千鶴は役場職員と短く話し、布の切れ端を預けた。
真島は三枝と何かを話そうとしたが、三枝はそれを避けるように帰っていった。
その背中は、どこか怒っているようで、怯えているようにも見えた。
夜。
湯守屋の帳場奥で、透真と澪は番茶を飲んでいた。
千鶴は役場への連絡で席を外している。
沙織とふみは椿屋へ戻った。
真理は湯帳の写しを確認している。
座敷には、少し疲れた空気が残っていた。
「三枝さんが掘ったのかな」
澪が呟く。
透真は湯呑みを見たまま答えた。
「可能性は高い」
「でも、何のために?」
「塞がっていることを確認したかった。あるいは、開けられると困る理由があった」
「開けられると困る?」
「逃がし湯が昔から塞がれていたと分かれば、誰が塞いだのかという話になる」
澪は息を止めた。
「三枝さんの家が関わってる?」
「まだ分からない」
「分からない、か」
「でも」
透真は少しだけ顔を上げた。
「三枝さんの宿は、奥乃湯の湯脈調査で利益を得た側かもしれない」
「どういうこと?」
「昔の資料を見ないと断定できない。ただ、ばあちゃんが会合中に三枝さんを何度か見ていた。たぶん昔のことを知っている」
「千鶴さんに聞く?」
「聞く」
「今?」
「……明日」
澪は少し驚いた。
「珍しい。今じゃないんだ」
「今日は匂いを拾いすぎた」
透真は正直に言った。
澪は、胸の奥が少しだけ温かくなった。
彼が自分で止まった。
それは小さなことかもしれないけれど、たぶん大事なことだった。
「偉い」
澪が言うと、透真は微妙な顔をした。
「子ども扱い?」
「半分」
「残り半分は?」
「安心した」
透真は黙った。
湯呑みの湯気が、二人の間をゆっくり上っていく。
「朝比奈さん」
「何?」
「君がいると、止まれることがある」
今度は澪が黙った。
こういうことを、透真は急に言う。
しかも、本人はその威力を分かっていない。
「……それ、かなり褒めてる?」
「かなり」
「なら、受け取っておく」
「どうぞ」
澪は番茶を一口飲んだ。
少し渋い。
でも、温かかった。
その時、湯守屋の電話が鳴った。
透真と澪は同時に顔を上げる。
奥から千鶴が戻り、受話器を取った。
「はい、湯守屋でございます」
短い沈黙。
千鶴の表情が変わる。
「……誰から?」
澪の背中が冷えた。
千鶴は黙って聞いている。
やがて、低い声で言った。
「分かりました。明日の朝、伺います」
受話器を置く。
透真が立ち上がった。
「何がありましたか」
千鶴は、少しだけ眉を寄せた。
「三枝荘からだ」
「三枝さん?」
「健三さんが倒れたらしい」
澪は息を呑んだ。
「倒れた?」
「命に別状はないそうだ。でも、うわ言で何度も言っているらしい」
「何を」
千鶴は、ゆっくり答えた。
「逃がし湯を塞いだのは、俺じゃない。親父だ、と」
帳場に、重い沈黙が落ちた。
三枝健三の父。
さらに昔の世代。
奥乃湯の逃げ道を塞いだ手は、まだ過去の奥に伸びている。
澪は、湯呑みを握る手に力を入れた。
この町は、どれだけ長く逃げ道を塞いできたのだろう。
そして、その塞がれた場所から、今になって何が噴き出そうとしているのだろう。




